第十章
名前変換はこちら
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
幸せに包まれた紗己の笑顔を見ていたら、恥ずかしいなりにも腹の中の赤ん坊に声掛けをして良かったと土方は思った。
けれど、戦いの時は刻一刻と迫っている。いつまでもここで和んでいるわけにはいかない。
(穏やかな時間ってのは、あっという間に過ぎていくもんだな・・・・・・)
頭の片隅で思いながら、土方は紗己の腰に回していた手を離すと、その手で帯に差し込んでいた刀を押さえるようにしながら、すくっと立ち上がった。
少しずれてしまった刀の位置を整え、ソファの背もたれに引っ掛けていた羽織を手に取り、さっと袖を通す。
気持ちを切り替えるように、背筋を伸ばして羽織と着物の衿を正すと、羽織と一緒にソファの背もたれに引っ掛けていた襟巻きを掴み取った。
「そろそろ行く」
目の前に立ったまま、ただ黙って一連の動作を見つめていた紗己に、土方は言った。
つい先程まで彼女が浮かべていた幸福に満ちた笑みは、いつの間にか不安の色にかき消されている。
「・・・気を付けてくださいね」
それでも紗己は、すぐにいつもの柔らかな笑顔を作って言葉を掛けた。
侍の妻である限り、笑顔で見送らなければならないと理解っているからだ。
窓の外には、日暮れと共に青灰色へと変わりゆく雪の町が広がっている。
土方は手にしていた自身の襟巻きに視線を落とすと、僅かに眉を寄せて吐息した。
(こんなモンで気が和らぐとも思えねェが・・・いや、俺がそうしたいってだけだよな)
残される紗己が少しでも寂しい思いを紛らせられればと、土方は襟巻きをさっと紗己の首に掛けてやった。
「えっ、あの・・・」
突然のことに驚いた紗己が、半月型の目を見張って土方を見つめると、土方は紗己の丸い頭を優しい手付きで一撫でしてから彼女を抱き寄せた。
さらりとした紗己の軟らかな髪から、甘い花の香りが漂い鼻先をくすぐる。
愛しいそれを胸いっぱいに吸い込んだ土方は、軽く顎を引き、優しい眼差しで腕の中の紗己を見つめた。
けれど、絡み合う視線の先にいる紗己は、今にも泣き出しそうな顔で、桜色の唇をキュッと噛んでいる。
(出来ることならこのまま泣かせてやりてェが、お前はそれを望まないよな)
土方は慈しむように柔らかな笑みを浮かべると、紗己の顔を自身の肩口にそっと押し付けた。
そして、紗己の側頭部に小さく口付け――、
「必ず、お前達を迎えに来る」
果たさなければならない約束の言葉を口にした。
首に巻かれた襟巻きから、ふわりふわりと苦くて甘い匂いがする。煙草と土方のものが混じり合った匂いだ。
愛する夫の声を耳元で感じ、心安らぐ大好きな匂いに包まれながら、紗己は胸が張り裂ける思いでこくりと頷いた。
泣いちゃいけない。笑顔で見送らなきゃ。行かないでなんて思っちゃいけない――。
震える唇を僅かにすぼめて、泣き出しそうな思いを息と共にゆっくりと吐き出す。
大丈夫、大丈夫と自らに言い聞かせながら。
喉の詰まりをやり過ごそうと唾を飲み込み、何とか泣かずに見送れると判断した紗己は、土方の背中に回していた腕をそっと下ろした。
それを合図に、土方も紗己を抱き締めていた腕を解いて、大きな手を彼女の両肩に乗せる。
着物越しに感じる土方の温もりが、不安に揺れる紗己に強い想いを伝えてくれる。
必ず迎えに来ると、お腹の子と私の両方に約束してくれた――。
その気持ちに応えるべく、土方の双眸を真っ直ぐ見つめると、
「この子と一緒に、待ってますね」
自身の腹に手を添えて、紗己は精一杯の笑顔で言った。
心からのものとは言い難い笑顔の裏側に、彼女の妻としての覚悟が見える。
(ありがとうな、紗己)
土方は胸中で呟くと、大きな背中を曲げて顔を僅かに傾け、彼女の艷やかな唇に小さく口付けを落とした。
この愛しい存在を護るためなら、何だって出来る。
たとえどれだけ苦境に立たされようとも。
「じゃあな」
微かに頬を赤らめている紗己にそう告げると、彼女の頭をもう一度優しく一撫でしてから、土方はくるりと背を向けて玄関へと歩き出した。
だんだんと遠ざかっていく、刀を携えた後ろ姿。
いつもの見慣れた背中がぼやけて見えて、ハッと我に返った紗己は、自身の両目に着物の袖をぐっと押し付けた。
胸の中の熱を吐き出すために小さく深呼吸をして、唇を強く噛んで痛みで気を紛らせる。
大丈夫。小さく呟いて表情を整えると、紗己もパタパタと早足で玄関へと向かった。
――――――
「紗己のこと、頼んだぞ」
雪駄を履いて出立の準備が整った土方が、玄関の壁に寄り掛かっている銀時を一瞥して言った。
銀時は腕組みをしたまま、普段と変わらないやる気の無さ気な表情でそれに答える。
「おーおー、任せとけって。大事なお客様だからな、手厚くおもてなしいたしますよー」
茶化すように言われ、土方は眉をひそめて低く唸った。
(緊張感に欠ける野郎だ)
銀時の言動に文句を言いたくなる気持ちをぐっと堪えている土方に、後ろに立つ山崎が遠慮がちに声を掛けてきた。
「さ、副長。そろそろ行きましょう」
「ああ、そうだな」
部下の言葉に頷きながらも、土方は玄関引き戸に背を向けたまま、自分を見送るために上がり框 に立つ紗己に視線をやった。
身体の前で行儀良く揃えられた、愛しい妻の白く繊細な手。
その手に触れて、引き寄せて抱き締めたい衝動を抑え込むと、土方はいつも彼女に見送られる時と変わらない、穏やかな表情を見せた。
ガラガラと引き戸が開けられ、乾燥した冷たい風が玄関へと吹き込んでくる。
先に山崎が表へ出ると、それに続いて土方も引き戸の向こうに出てから、顔だけを玄関に向けて紗己に声を掛けた。
「それじゃ、行ってくる」
「はい。気を付けて、行ってらっしゃい」
紗己もまた、普段夫を見送る時と変わらない穏やかな笑顔を浮かべて、胸の前で小さく手を振った。
視線が絡む。それでも紗己は穏やかな表情を崩さない。
いつも通り、何も変わらない笑顔のままで土方の背中を見送る。
軽く会釈をして山崎が引き戸を閉めていき、二人の足音もだんだんと遠退き、やがて聴こえなくなった。
冷気が入り込んだためにより一層寒くなった玄関で、引き戸を見つめたまま微動だにしない紗己に、壁に寄り掛かっていた身体を起こした銀時が声を掛ける。
「さ、中に戻ろうぜー」
そう言いながら彼女の隣まで行き、ふとその顔を覗き込む。
「紗己・・・・・・」
銀時は思わず言葉を詰まらせた。
真っ直ぐに引き戸を見つめる紗己の瞳からは、止めどなく涙が溢れている。
決して涙を見せないようにと、ずっと我慢していたのだろう。
笑顔で見送らなければと、耐えていたのだろう。
銀時は吐息すると、言葉も無く涙で頬を濡らし続ける紗己の肩に、ぽんと手を乗せた。
「もう・・・聞こえねーよ。もう我慢するこたねえ、思いっきり泣けばいい」
「銀、さ・・・っ、」
優しい言葉を掛けられて、紗己が表情を崩した。
苦しみや悲しみ、不安が綯い交ぜになって心を激しく揺さぶり、その襲い来る胸の痛みに顔を歪ませる。
息をするのも苦しくて、きつく目を閉じて俯いた瞬間――紗己は愛しい夫に抱き締められているような錯覚に陥った。
温かな首元から、苦くて甘い匂いがする。
紗己は嗚咽を漏らしながら、俯かせていた顔を上げて玄関引き戸へと視線を向けた。
別れ際に土方が見せた穏やかな表情が目に浮かんで、胸がつぶれそうになる。
「い、や・・・行か、な・・・で・・・っ、おねがっ・・・」
自分を護るために戦いに行く夫には、決して言えなかった言葉が今になって溢れてきて、胸元を鷲掴みにしてもその苦しい想いを抑えきれない。
立っていることさえもままならず、ずるずると膝を折ってその場に崩れ落ちた紗己は、
「っ、行っちゃ・・・や、だああぁ・・・っ」
閉まったままの引き戸を見つめたまま、身体の深部から込み上げてくる灼けるような熱に耐えきれずに慟哭した。
けれど、戦いの時は刻一刻と迫っている。いつまでもここで和んでいるわけにはいかない。
(穏やかな時間ってのは、あっという間に過ぎていくもんだな・・・・・・)
頭の片隅で思いながら、土方は紗己の腰に回していた手を離すと、その手で帯に差し込んでいた刀を押さえるようにしながら、すくっと立ち上がった。
少しずれてしまった刀の位置を整え、ソファの背もたれに引っ掛けていた羽織を手に取り、さっと袖を通す。
気持ちを切り替えるように、背筋を伸ばして羽織と着物の衿を正すと、羽織と一緒にソファの背もたれに引っ掛けていた襟巻きを掴み取った。
「そろそろ行く」
目の前に立ったまま、ただ黙って一連の動作を見つめていた紗己に、土方は言った。
つい先程まで彼女が浮かべていた幸福に満ちた笑みは、いつの間にか不安の色にかき消されている。
「・・・気を付けてくださいね」
それでも紗己は、すぐにいつもの柔らかな笑顔を作って言葉を掛けた。
侍の妻である限り、笑顔で見送らなければならないと理解っているからだ。
窓の外には、日暮れと共に青灰色へと変わりゆく雪の町が広がっている。
土方は手にしていた自身の襟巻きに視線を落とすと、僅かに眉を寄せて吐息した。
(こんなモンで気が和らぐとも思えねェが・・・いや、俺がそうしたいってだけだよな)
残される紗己が少しでも寂しい思いを紛らせられればと、土方は襟巻きをさっと紗己の首に掛けてやった。
「えっ、あの・・・」
突然のことに驚いた紗己が、半月型の目を見張って土方を見つめると、土方は紗己の丸い頭を優しい手付きで一撫でしてから彼女を抱き寄せた。
さらりとした紗己の軟らかな髪から、甘い花の香りが漂い鼻先をくすぐる。
愛しいそれを胸いっぱいに吸い込んだ土方は、軽く顎を引き、優しい眼差しで腕の中の紗己を見つめた。
けれど、絡み合う視線の先にいる紗己は、今にも泣き出しそうな顔で、桜色の唇をキュッと噛んでいる。
(出来ることならこのまま泣かせてやりてェが、お前はそれを望まないよな)
土方は慈しむように柔らかな笑みを浮かべると、紗己の顔を自身の肩口にそっと押し付けた。
そして、紗己の側頭部に小さく口付け――、
「必ず、お前達を迎えに来る」
果たさなければならない約束の言葉を口にした。
首に巻かれた襟巻きから、ふわりふわりと苦くて甘い匂いがする。煙草と土方のものが混じり合った匂いだ。
愛する夫の声を耳元で感じ、心安らぐ大好きな匂いに包まれながら、紗己は胸が張り裂ける思いでこくりと頷いた。
泣いちゃいけない。笑顔で見送らなきゃ。行かないでなんて思っちゃいけない――。
震える唇を僅かにすぼめて、泣き出しそうな思いを息と共にゆっくりと吐き出す。
大丈夫、大丈夫と自らに言い聞かせながら。
喉の詰まりをやり過ごそうと唾を飲み込み、何とか泣かずに見送れると判断した紗己は、土方の背中に回していた腕をそっと下ろした。
それを合図に、土方も紗己を抱き締めていた腕を解いて、大きな手を彼女の両肩に乗せる。
着物越しに感じる土方の温もりが、不安に揺れる紗己に強い想いを伝えてくれる。
必ず迎えに来ると、お腹の子と私の両方に約束してくれた――。
その気持ちに応えるべく、土方の双眸を真っ直ぐ見つめると、
「この子と一緒に、待ってますね」
自身の腹に手を添えて、紗己は精一杯の笑顔で言った。
心からのものとは言い難い笑顔の裏側に、彼女の妻としての覚悟が見える。
(ありがとうな、紗己)
土方は胸中で呟くと、大きな背中を曲げて顔を僅かに傾け、彼女の艷やかな唇に小さく口付けを落とした。
この愛しい存在を護るためなら、何だって出来る。
たとえどれだけ苦境に立たされようとも。
「じゃあな」
微かに頬を赤らめている紗己にそう告げると、彼女の頭をもう一度優しく一撫でしてから、土方はくるりと背を向けて玄関へと歩き出した。
だんだんと遠ざかっていく、刀を携えた後ろ姿。
いつもの見慣れた背中がぼやけて見えて、ハッと我に返った紗己は、自身の両目に着物の袖をぐっと押し付けた。
胸の中の熱を吐き出すために小さく深呼吸をして、唇を強く噛んで痛みで気を紛らせる。
大丈夫。小さく呟いて表情を整えると、紗己もパタパタと早足で玄関へと向かった。
――――――
「紗己のこと、頼んだぞ」
雪駄を履いて出立の準備が整った土方が、玄関の壁に寄り掛かっている銀時を一瞥して言った。
銀時は腕組みをしたまま、普段と変わらないやる気の無さ気な表情でそれに答える。
「おーおー、任せとけって。大事なお客様だからな、手厚くおもてなしいたしますよー」
茶化すように言われ、土方は眉をひそめて低く唸った。
(緊張感に欠ける野郎だ)
銀時の言動に文句を言いたくなる気持ちをぐっと堪えている土方に、後ろに立つ山崎が遠慮がちに声を掛けてきた。
「さ、副長。そろそろ行きましょう」
「ああ、そうだな」
部下の言葉に頷きながらも、土方は玄関引き戸に背を向けたまま、自分を見送るために上がり
身体の前で行儀良く揃えられた、愛しい妻の白く繊細な手。
その手に触れて、引き寄せて抱き締めたい衝動を抑え込むと、土方はいつも彼女に見送られる時と変わらない、穏やかな表情を見せた。
ガラガラと引き戸が開けられ、乾燥した冷たい風が玄関へと吹き込んでくる。
先に山崎が表へ出ると、それに続いて土方も引き戸の向こうに出てから、顔だけを玄関に向けて紗己に声を掛けた。
「それじゃ、行ってくる」
「はい。気を付けて、行ってらっしゃい」
紗己もまた、普段夫を見送る時と変わらない穏やかな笑顔を浮かべて、胸の前で小さく手を振った。
視線が絡む。それでも紗己は穏やかな表情を崩さない。
いつも通り、何も変わらない笑顔のままで土方の背中を見送る。
軽く会釈をして山崎が引き戸を閉めていき、二人の足音もだんだんと遠退き、やがて聴こえなくなった。
冷気が入り込んだためにより一層寒くなった玄関で、引き戸を見つめたまま微動だにしない紗己に、壁に寄り掛かっていた身体を起こした銀時が声を掛ける。
「さ、中に戻ろうぜー」
そう言いながら彼女の隣まで行き、ふとその顔を覗き込む。
「紗己・・・・・・」
銀時は思わず言葉を詰まらせた。
真っ直ぐに引き戸を見つめる紗己の瞳からは、止めどなく涙が溢れている。
決して涙を見せないようにと、ずっと我慢していたのだろう。
笑顔で見送らなければと、耐えていたのだろう。
銀時は吐息すると、言葉も無く涙で頬を濡らし続ける紗己の肩に、ぽんと手を乗せた。
「もう・・・聞こえねーよ。もう我慢するこたねえ、思いっきり泣けばいい」
「銀、さ・・・っ、」
優しい言葉を掛けられて、紗己が表情を崩した。
苦しみや悲しみ、不安が綯い交ぜになって心を激しく揺さぶり、その襲い来る胸の痛みに顔を歪ませる。
息をするのも苦しくて、きつく目を閉じて俯いた瞬間――紗己は愛しい夫に抱き締められているような錯覚に陥った。
温かな首元から、苦くて甘い匂いがする。
紗己は嗚咽を漏らしながら、俯かせていた顔を上げて玄関引き戸へと視線を向けた。
別れ際に土方が見せた穏やかな表情が目に浮かんで、胸がつぶれそうになる。
「い、や・・・行か、な・・・で・・・っ、おねがっ・・・」
自分を護るために戦いに行く夫には、決して言えなかった言葉が今になって溢れてきて、胸元を鷲掴みにしてもその苦しい想いを抑えきれない。
立っていることさえもままならず、ずるずると膝を折ってその場に崩れ落ちた紗己は、
「っ、行っちゃ・・・や、だああぁ・・・っ」
閉まったままの引き戸を見つめたまま、身体の深部から込み上げてくる灼けるような熱に耐えきれずに慟哭した。