第五章
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「朝、か・・・・・・」
障子戸から漏れ差し込む柔らかな光と、遠くに聴こえる鳥のさえずりに、土方は掠れた声で呟きながらゆっくりと身体を起こした。布団の上に座ったまま、筋肉質な両腕をぐっと天井に向けて伸ばす。背中から肩、首と凝りを解すと、一度大きく欠伸をしてから立ち上がった。
気持ちのいい朝だ。開けた胸元やむき出しの足首を、涼しい風が撫でていく。このまま先に厠へ行くか、身支度を整えてから厠と食堂に向かうか――少し悩んでから、土方は寝間着の帯を解き始めた。今すぐ漏れそうというわけではないので、身支度を先にすることにしたのだ。
――――――
ガヤガヤと朝から賑やかな食堂に入り、隊士達と挨拶を交わしながら中をざっと見回すが、紗己の姿が見当たらない。他の用事でもしているのかと思いつつ列に並ぼうとしたところ、廊下から一人の隊士が駆け込んできた。
「副長!」
「なんだ、どうした?」
慌てた様子の隊士に土方が首を捻っていると、彼は土方の側まで来てから周囲を気にしつつ、小声で耳打ちをした。
「紗己ちゃんがちょっと・・・具合悪いみたいで・・・」
「っ、どこにいる!」
「あ、こ、こっちです!」
呼びに来た隊士と共に食堂を出て廊下を走ると、女中達が主に使う女性用の厠の前で、座り込んでいる紗己の姿が目に入った。通いで勤めている中年の女中が、紗己の背中を優しくさすっている。
「紗己! おい大丈夫かっ!?」
「あ・・・副、ちょ・・・っ」
紗己は土方に気付き顔を上げて返事をしようとしたが、途端に苦しそうな表情で口元を押さえた。すると彼女の背中をさすっていた女中が、
「ちょっとちょっと、大きい声出さないの。さ、もう一回吐いとこうか」
焦り顔の土方に注意してから、紗己に声を掛けた。紗己も頷いてよたよたと立ち上がり、女中に支えられながら覚束ない足取りで厠の中へと入っていった。
土方は自分を呼びに来てくれた隊士に「もういいぞ」と声を掛け、彼が食堂へと向かったのを確認してから、深く深く吐息した。
大丈夫なんだろうか。つわりだと分かっていても、助けてやれない自分にもどかしさを感じる。そわそわしながら片足で床板をトントンと鳴らして待っていると、女中に肩を支えられながらようやく紗己が厠から出てきた。
「大丈夫、か?」
「は、い・・・ごめんなさい、心配させちゃって・・・」
口元をハンカチで押さえながら申し訳無さそうに言う紗己の顔を、肩を支えていた女中が覗き込んで微笑んだ。
「アンタってばほんと気遣い症だねえ。さ、今日は一日ゆっくり寝てなさいな。副長さん、あとは頼みますよ」
「あ、ああ。すまねェな、助かったよ」
給仕の途中に抜け出して来たのだろう。食堂へと戻っていく女中に礼を言うと、土方は紗己のすぐ側まで行き優しく肩に触れた。
「さあ、部屋に戻るぞ」
「はい・・・って、え、あのっ・・・副長さん!?」
返事をした途端に身体がフワッと浮いて、紗己が驚きの声を上げる。そう、彼女は土方に抱き上げられていたのだ。
「いいから大人しくしてろ」
「で、でもあの・・・うっ・・・」
「ほら見ろ、具合悪ィんだから大人しく運ばれとけ」
返事の代わりに頷く紗己を顎を引いて確認し、土方は落ち着かない気持ちのまま彼女の部屋へと向かう。見ているだけで不安になる程青白い顔をした紗己の身体は、予想以上に軽かった。
――――――
昼もとっくに過ぎて、ささっと遅めの昼食を済ませた土方は、必要な荷物を手に紗己の部屋へと向かっていた。
今朝紗己を部屋に運んで休ませてからも、彼女の吐き気はなかなか治まらず、心配だった土方は会議や鍛錬の後などの合間を縫って、彼女の様子を見に何度も部屋を訪れていた。
朝から何も食べられずに寝込んでいた紗己だが、昼前にまた彼女の部屋へと足を運んだところ、今朝世話をしてくれた女中が果物とアイスクリームを持ってきてくれていた。それを少量ずつではあるが吐かずに食べられた紗己は、そのことに安心したのかすぐに眠ってしまった。
その後一時間程してまた様子を見に行けば、ちょうど紗己が目を覚ましたところで、吐き気も落ち着いているようだった。だがまだ果物とアイスクリームしか受け付けず、それを心配した土方は医者を呼んで彼女を診てもらうことにした。往診に来た医者によると、貧血の症状が出ているので、今日明日は安静にしているようにとのことだった。
「おいトシ」
「あ? ああ、近藤さんか」
紗己の様子を思い出しながら、風が吹き抜ける中庭横の縁側を通っていると、背後からよく知る声に名を呼ばれた。振り向けば、いつも通り豪快な笑顔の近藤が、片手を上げて近付いてくる。
「どうだ、紗己ちゃんの具合は?」
「あー、つわりはまあまあ落ち着いたみてェだが、貧血の症状が出てるらしい。今日明日は安静にってことだ」
「そうか、それはお前も心配だな」
「ま、まあな」
面と向かって言われると気恥ずかしいが、相手が近藤なので土方も素直に答える。これが部下であれば、素直に答えないばかりか声を荒らげているところだろう。
少し複雑な面持ちの土方に優しい笑みを向けた近藤だが、土方が抱えている物が気になったようで、首を傾げながら訊ねてきた。
「ところでトシ、何でお前文机なんて運んでるんだ?」
「え、あ、ああ・・・」
「今からまた彼女の様子を見に行くんだよな?」
言い淀む土方にさらなる確認をすると、文机を抱えた土方が、少し顔を赤くしながらポツポツと話し始めた。
「ま、まあ書類仕事ならどこでも出来るしよ。アイツ一人の時に何かあっても、すぐに気付けねーし・・・な」
恥ずかしさから目を逸らして話す土方に、近藤はまるで父親か兄かといった穏やかな表情で笑いかけた。
「そうかそうか! そうだよな、そりゃ心配だよな! 悪かったな、足止めしちまって。さ、早く彼女のところに行ってこい!」
言いながら土方の肩をガシガシと叩くと、近藤は何故か機嫌良さげに廊下の向こうへと歩いて行った。
「・・・ってーなァ、ったく」
叩かれた肩の地味な痛みに文句をこぼすも、土方もまた笑みを浮かべて、紗己の元へと歩き出した。
――――――
「入るぞ」
言いながら襖を開けると、部屋の真ん中で布団に横たわる紗己が軽く頭を上げた。
「どうぞ・・・え、どうしたんですか? その文机・・・」
片腕で文机を抱え襖を閉める土方に、紗己が戸惑いを含んだ声音で訊ねる。こうして部屋を訪ねてくるのは今日で五回目だが、まさかの大荷物の登場に紗己は驚きを隠せない。
運び込まれた文机は、敷いてある布団とは垂直に位置する壁際に置かれた。土方は文机の引き出しの中身を確認してから、紗己の枕元に腰を下ろす。
「今日は外勤もねーし、書類仕事だけなんでな。ここでやろうと思って持ってきた」
そう言って、大きな背中を折り曲げて彼女の顔を覗き込む。何とか喉を通るものが見つかったおかげで、今朝よりはだいぶ顔色も良くなっていた。そのことに土方は安堵の表情を浮かべる。
だがそんな土方とは対照的に、紗己の表情は浮かないものだ。眉を寄せて伏し目がちにぽつりと呟く。
「ごめんなさい・・・・・・」
謝りながら両手で掛布団をぎゅうっと掴むと、
「私が今朝から、ずっと・・・心配掛けちゃってるから・・・」
申し訳無さそうに土方の顔を見上げて言った。
「何も謝るようなことじゃねーだろ」
相も変わらぬ気遣い症ぶりに苦笑すると、土方は枕から敷布団に流れ落ちる紗己の髪に触れながら言った。無骨な指に絡めても、軟らかな髪はすぐにはらりと解けてしまう。そこに自分には到底持ち得ない優しい繊細さを感じ、土方は静かに吐息してから彼女の名を呼んだ。
「なあ紗己」
「はい・・・」
「心配くらいさせろよ」
そう言って紗己の潤んだ瞳を見つめながら、彼女の頬に優しく触れた。その力加減も眼差しも、鬼の副長と呼ばれる姿とは正反対の穏やかさだ。
「俺は男だから、お前がつわりでしんどくても代わってやれねェ。だから、せめて心配くらいはさせてくれ」
「っ・・・副、長さん・・・」
紗己の瞳から溢れた涙が、頬を伝い枕と髪を濡らしていく。土方は彼女の頬に触れていた手を浮かし、軽く曲げた人差し指で紗己の濡れた目元をそっと拭った。
「何で泣いてんだよ」
フッと笑いながら言えば、その優しい表情に紗己の胸は更に締め付けられ、溢れる涙はますます止まらない。自身の身体の変化を不安に思う気持ちも、土方の親身な言葉が軽くしてくれる。
「ご、ごめ・・・なさ・・・っ」
「だから、謝んなくていいっつってんだろ」
すぐに謝ってしまう紗己の気遣いぶりに呆れつつも、そうそう性格は変わらないかと嘆息する。それでもそんな彼女を愛おしく思ってしまう自分に、土方は苦笑いを浮かべた。
――――――
そろそろ終わるか・・・・・・。手にしていた筆を文机に置き、両肩を回して筋肉を解していく。柱に掛けられている時計に目をやれば、ちょうど夜の九時を過ぎたばかりだった。
昼過ぎ以降の土方は、紗己の部屋で書類仕事を進めながら、時折彼女に食べさせる果物やアイスクリームを食堂に取りに行くため部屋を出て、途中煙草休憩をしてから食堂に行き、盆を片手に彼女の部屋に戻るとまた書類仕事に取り掛かる――という半日を過ごしていた。
そんなふうに何度も食堂を出入りしていれば、当然他の隊士達も献身的な土方の姿を何度も目にすることになり、今朝方の目撃談もあって土方は隊士達に大層驚かれていた。まさか鬼の副長があんなにも過保護だったなんて、と。
「紗己、そろそろ・・・」
寝るか? と言いかけた土方だったが、振り向いた視線の先には、既に眠りに落ちている紗己の姿が。
「寝ちまったのか」
静かに呟くと、肩からずれていた掛布団をしっかりと掛け直してやった。読みながら寝てしまったのだろう、手元にあった本も枕元に置いておく。横向きに寝ている紗己の穏やかな寝顔に、土方は深く安堵の息をついた。
さて、部屋に戻るか。胸中で呟いて腰を上げたが、ふと何かを考えるような表情をしてからまた文机の前に腰を下ろした。引き出しから新たな紙を取り出し、さっと筆を走らせる。明日もまたここで書類仕事をする予定なので、筆などの道具は仕舞わず文机の端に置き、作り終えた書類だけを引き出しに仕舞った。
部屋を出る準備が整った土方だが、紗己の元を離れるのが名残惜しく、静かな所作で再び彼女の枕元に座り、穏やかな寝顔をじっと見下ろした。
今朝に比べればはるかに血色が良くなっており、思わず吸い付きたくなるような滑らかな頬は、ほんのりと薄桃色に染まっている。
「・・・いや、駄目だろ」
土方は溜め息混じりに呟くと、眉間に皺を寄せてぐっと背筋を伸ばした。顔を出し始めた口付けへの欲求を跳ね除けるため、強く両目を閉じて唇を一文字に引き締める。そうして少し気持ちが落ち着いたところで、土方は静かにゆっくりと立ち上がった。
蛍光灯の紐を引いて明かりを落とし、そのまま物音を立てないように部屋の入口まで歩くと、眠る紗己に胸中でおやすみと声を掛けてからそっと部屋を後にした。
――――――
「ん・・・」
もぞもぞと布団が動き、それまでぐっすりと眠っていた紗己が小さく声を出した。
水・・・・・・。目覚めた途端に喉の乾きを覚え、水を飲もうとゆっくり身体を起こす。
「あ・・・れ、副長さん・・・・・・?」
格子窓から月明かりが差し込んでも部屋の中は薄暗く、紗己は鏡台と枕元の間に置いている電気スタンドの明かりを付けた。薄暗かった室内がオレンジがかった明かりに照らされる中、ぐるりと部屋を見回して、今この部屋に居るのは自分だけなのだと理解する。
「水・・・」
とりあえず喉の乾きを落ち着かせたくて、電気スタンドの横に置いてある盆の上の水差しに手を伸ばした。コップに水を移し入れ、ゆっくりと中身を飲み干していく。全て飲み終え、空になったコップを盆に戻すと、紗己は柱の時計に目をやった。午前一時を過ぎている。
「こんなに寝ちゃってたんだ・・・・・・」
最後に時計を見たのは、確か夜の八時頃だった。文机に向かい仕事をしている土方の後ろ姿を、時折眺めながら本を読んでいたら、いつの間にか眠ってしまったのだろう。
土方がいつ部屋を出たのかは分からないが、彼が自室でゆっくりと休んでくれることを望んでいた紗己は、少し安心したように吐息した。
「あれ・・・・・・?」
ふと文机に目を向けた時、紗己はそこにある『何か』に気付いた。布団から文机までの僅かな距離を膝で歩き、文鎮で固定された白い紙に視線を落とす。
『紗己へ
よく眠っているので、声を掛けずに行く
朝になったらまた来る
おやすみ
土方十四郎』
「副長さん・・・」
文机に載せられていた白い紙を手に取り、紗己は嬉しそうに微笑んだ。
それは土方が彼女に宛てたものだった。夜中に目が覚めて、自分が居ない事を不安に思ったらいけないと、部屋を出る直前に書き置きを残したのだ。
紗己は自分に宛てられた手紙を丁寧に折り畳み、それを自身の胸に当てて「おやすみなさい」と呟くと、大切な手紙を鏡台の引き出しに仕舞ってから再び布団に横たわった。掛布団を胸まで引き上げ、鏡台の方に身体を向けて電気スタンドに手を伸ばし、明かりを落として静かに目を閉じる。
「おやすみなさい・・・・・・」
もう一度そう言って、幸せを噛み締めながら紗己はまた眠りについた。
障子戸から漏れ差し込む柔らかな光と、遠くに聴こえる鳥のさえずりに、土方は掠れた声で呟きながらゆっくりと身体を起こした。布団の上に座ったまま、筋肉質な両腕をぐっと天井に向けて伸ばす。背中から肩、首と凝りを解すと、一度大きく欠伸をしてから立ち上がった。
気持ちのいい朝だ。開けた胸元やむき出しの足首を、涼しい風が撫でていく。このまま先に厠へ行くか、身支度を整えてから厠と食堂に向かうか――少し悩んでから、土方は寝間着の帯を解き始めた。今すぐ漏れそうというわけではないので、身支度を先にすることにしたのだ。
――――――
ガヤガヤと朝から賑やかな食堂に入り、隊士達と挨拶を交わしながら中をざっと見回すが、紗己の姿が見当たらない。他の用事でもしているのかと思いつつ列に並ぼうとしたところ、廊下から一人の隊士が駆け込んできた。
「副長!」
「なんだ、どうした?」
慌てた様子の隊士に土方が首を捻っていると、彼は土方の側まで来てから周囲を気にしつつ、小声で耳打ちをした。
「紗己ちゃんがちょっと・・・具合悪いみたいで・・・」
「っ、どこにいる!」
「あ、こ、こっちです!」
呼びに来た隊士と共に食堂を出て廊下を走ると、女中達が主に使う女性用の厠の前で、座り込んでいる紗己の姿が目に入った。通いで勤めている中年の女中が、紗己の背中を優しくさすっている。
「紗己! おい大丈夫かっ!?」
「あ・・・副、ちょ・・・っ」
紗己は土方に気付き顔を上げて返事をしようとしたが、途端に苦しそうな表情で口元を押さえた。すると彼女の背中をさすっていた女中が、
「ちょっとちょっと、大きい声出さないの。さ、もう一回吐いとこうか」
焦り顔の土方に注意してから、紗己に声を掛けた。紗己も頷いてよたよたと立ち上がり、女中に支えられながら覚束ない足取りで厠の中へと入っていった。
土方は自分を呼びに来てくれた隊士に「もういいぞ」と声を掛け、彼が食堂へと向かったのを確認してから、深く深く吐息した。
大丈夫なんだろうか。つわりだと分かっていても、助けてやれない自分にもどかしさを感じる。そわそわしながら片足で床板をトントンと鳴らして待っていると、女中に肩を支えられながらようやく紗己が厠から出てきた。
「大丈夫、か?」
「は、い・・・ごめんなさい、心配させちゃって・・・」
口元をハンカチで押さえながら申し訳無さそうに言う紗己の顔を、肩を支えていた女中が覗き込んで微笑んだ。
「アンタってばほんと気遣い症だねえ。さ、今日は一日ゆっくり寝てなさいな。副長さん、あとは頼みますよ」
「あ、ああ。すまねェな、助かったよ」
給仕の途中に抜け出して来たのだろう。食堂へと戻っていく女中に礼を言うと、土方は紗己のすぐ側まで行き優しく肩に触れた。
「さあ、部屋に戻るぞ」
「はい・・・って、え、あのっ・・・副長さん!?」
返事をした途端に身体がフワッと浮いて、紗己が驚きの声を上げる。そう、彼女は土方に抱き上げられていたのだ。
「いいから大人しくしてろ」
「で、でもあの・・・うっ・・・」
「ほら見ろ、具合悪ィんだから大人しく運ばれとけ」
返事の代わりに頷く紗己を顎を引いて確認し、土方は落ち着かない気持ちのまま彼女の部屋へと向かう。見ているだけで不安になる程青白い顔をした紗己の身体は、予想以上に軽かった。
――――――
昼もとっくに過ぎて、ささっと遅めの昼食を済ませた土方は、必要な荷物を手に紗己の部屋へと向かっていた。
今朝紗己を部屋に運んで休ませてからも、彼女の吐き気はなかなか治まらず、心配だった土方は会議や鍛錬の後などの合間を縫って、彼女の様子を見に何度も部屋を訪れていた。
朝から何も食べられずに寝込んでいた紗己だが、昼前にまた彼女の部屋へと足を運んだところ、今朝世話をしてくれた女中が果物とアイスクリームを持ってきてくれていた。それを少量ずつではあるが吐かずに食べられた紗己は、そのことに安心したのかすぐに眠ってしまった。
その後一時間程してまた様子を見に行けば、ちょうど紗己が目を覚ましたところで、吐き気も落ち着いているようだった。だがまだ果物とアイスクリームしか受け付けず、それを心配した土方は医者を呼んで彼女を診てもらうことにした。往診に来た医者によると、貧血の症状が出ているので、今日明日は安静にしているようにとのことだった。
「おいトシ」
「あ? ああ、近藤さんか」
紗己の様子を思い出しながら、風が吹き抜ける中庭横の縁側を通っていると、背後からよく知る声に名を呼ばれた。振り向けば、いつも通り豪快な笑顔の近藤が、片手を上げて近付いてくる。
「どうだ、紗己ちゃんの具合は?」
「あー、つわりはまあまあ落ち着いたみてェだが、貧血の症状が出てるらしい。今日明日は安静にってことだ」
「そうか、それはお前も心配だな」
「ま、まあな」
面と向かって言われると気恥ずかしいが、相手が近藤なので土方も素直に答える。これが部下であれば、素直に答えないばかりか声を荒らげているところだろう。
少し複雑な面持ちの土方に優しい笑みを向けた近藤だが、土方が抱えている物が気になったようで、首を傾げながら訊ねてきた。
「ところでトシ、何でお前文机なんて運んでるんだ?」
「え、あ、ああ・・・」
「今からまた彼女の様子を見に行くんだよな?」
言い淀む土方にさらなる確認をすると、文机を抱えた土方が、少し顔を赤くしながらポツポツと話し始めた。
「ま、まあ書類仕事ならどこでも出来るしよ。アイツ一人の時に何かあっても、すぐに気付けねーし・・・な」
恥ずかしさから目を逸らして話す土方に、近藤はまるで父親か兄かといった穏やかな表情で笑いかけた。
「そうかそうか! そうだよな、そりゃ心配だよな! 悪かったな、足止めしちまって。さ、早く彼女のところに行ってこい!」
言いながら土方の肩をガシガシと叩くと、近藤は何故か機嫌良さげに廊下の向こうへと歩いて行った。
「・・・ってーなァ、ったく」
叩かれた肩の地味な痛みに文句をこぼすも、土方もまた笑みを浮かべて、紗己の元へと歩き出した。
――――――
「入るぞ」
言いながら襖を開けると、部屋の真ん中で布団に横たわる紗己が軽く頭を上げた。
「どうぞ・・・え、どうしたんですか? その文机・・・」
片腕で文机を抱え襖を閉める土方に、紗己が戸惑いを含んだ声音で訊ねる。こうして部屋を訪ねてくるのは今日で五回目だが、まさかの大荷物の登場に紗己は驚きを隠せない。
運び込まれた文机は、敷いてある布団とは垂直に位置する壁際に置かれた。土方は文机の引き出しの中身を確認してから、紗己の枕元に腰を下ろす。
「今日は外勤もねーし、書類仕事だけなんでな。ここでやろうと思って持ってきた」
そう言って、大きな背中を折り曲げて彼女の顔を覗き込む。何とか喉を通るものが見つかったおかげで、今朝よりはだいぶ顔色も良くなっていた。そのことに土方は安堵の表情を浮かべる。
だがそんな土方とは対照的に、紗己の表情は浮かないものだ。眉を寄せて伏し目がちにぽつりと呟く。
「ごめんなさい・・・・・・」
謝りながら両手で掛布団をぎゅうっと掴むと、
「私が今朝から、ずっと・・・心配掛けちゃってるから・・・」
申し訳無さそうに土方の顔を見上げて言った。
「何も謝るようなことじゃねーだろ」
相も変わらぬ気遣い症ぶりに苦笑すると、土方は枕から敷布団に流れ落ちる紗己の髪に触れながら言った。無骨な指に絡めても、軟らかな髪はすぐにはらりと解けてしまう。そこに自分には到底持ち得ない優しい繊細さを感じ、土方は静かに吐息してから彼女の名を呼んだ。
「なあ紗己」
「はい・・・」
「心配くらいさせろよ」
そう言って紗己の潤んだ瞳を見つめながら、彼女の頬に優しく触れた。その力加減も眼差しも、鬼の副長と呼ばれる姿とは正反対の穏やかさだ。
「俺は男だから、お前がつわりでしんどくても代わってやれねェ。だから、せめて心配くらいはさせてくれ」
「っ・・・副、長さん・・・」
紗己の瞳から溢れた涙が、頬を伝い枕と髪を濡らしていく。土方は彼女の頬に触れていた手を浮かし、軽く曲げた人差し指で紗己の濡れた目元をそっと拭った。
「何で泣いてんだよ」
フッと笑いながら言えば、その優しい表情に紗己の胸は更に締め付けられ、溢れる涙はますます止まらない。自身の身体の変化を不安に思う気持ちも、土方の親身な言葉が軽くしてくれる。
「ご、ごめ・・・なさ・・・っ」
「だから、謝んなくていいっつってんだろ」
すぐに謝ってしまう紗己の気遣いぶりに呆れつつも、そうそう性格は変わらないかと嘆息する。それでもそんな彼女を愛おしく思ってしまう自分に、土方は苦笑いを浮かべた。
――――――
そろそろ終わるか・・・・・・。手にしていた筆を文机に置き、両肩を回して筋肉を解していく。柱に掛けられている時計に目をやれば、ちょうど夜の九時を過ぎたばかりだった。
昼過ぎ以降の土方は、紗己の部屋で書類仕事を進めながら、時折彼女に食べさせる果物やアイスクリームを食堂に取りに行くため部屋を出て、途中煙草休憩をしてから食堂に行き、盆を片手に彼女の部屋に戻るとまた書類仕事に取り掛かる――という半日を過ごしていた。
そんなふうに何度も食堂を出入りしていれば、当然他の隊士達も献身的な土方の姿を何度も目にすることになり、今朝方の目撃談もあって土方は隊士達に大層驚かれていた。まさか鬼の副長があんなにも過保護だったなんて、と。
「紗己、そろそろ・・・」
寝るか? と言いかけた土方だったが、振り向いた視線の先には、既に眠りに落ちている紗己の姿が。
「寝ちまったのか」
静かに呟くと、肩からずれていた掛布団をしっかりと掛け直してやった。読みながら寝てしまったのだろう、手元にあった本も枕元に置いておく。横向きに寝ている紗己の穏やかな寝顔に、土方は深く安堵の息をついた。
さて、部屋に戻るか。胸中で呟いて腰を上げたが、ふと何かを考えるような表情をしてからまた文机の前に腰を下ろした。引き出しから新たな紙を取り出し、さっと筆を走らせる。明日もまたここで書類仕事をする予定なので、筆などの道具は仕舞わず文机の端に置き、作り終えた書類だけを引き出しに仕舞った。
部屋を出る準備が整った土方だが、紗己の元を離れるのが名残惜しく、静かな所作で再び彼女の枕元に座り、穏やかな寝顔をじっと見下ろした。
今朝に比べればはるかに血色が良くなっており、思わず吸い付きたくなるような滑らかな頬は、ほんのりと薄桃色に染まっている。
「・・・いや、駄目だろ」
土方は溜め息混じりに呟くと、眉間に皺を寄せてぐっと背筋を伸ばした。顔を出し始めた口付けへの欲求を跳ね除けるため、強く両目を閉じて唇を一文字に引き締める。そうして少し気持ちが落ち着いたところで、土方は静かにゆっくりと立ち上がった。
蛍光灯の紐を引いて明かりを落とし、そのまま物音を立てないように部屋の入口まで歩くと、眠る紗己に胸中でおやすみと声を掛けてからそっと部屋を後にした。
――――――
「ん・・・」
もぞもぞと布団が動き、それまでぐっすりと眠っていた紗己が小さく声を出した。
水・・・・・・。目覚めた途端に喉の乾きを覚え、水を飲もうとゆっくり身体を起こす。
「あ・・・れ、副長さん・・・・・・?」
格子窓から月明かりが差し込んでも部屋の中は薄暗く、紗己は鏡台と枕元の間に置いている電気スタンドの明かりを付けた。薄暗かった室内がオレンジがかった明かりに照らされる中、ぐるりと部屋を見回して、今この部屋に居るのは自分だけなのだと理解する。
「水・・・」
とりあえず喉の乾きを落ち着かせたくて、電気スタンドの横に置いてある盆の上の水差しに手を伸ばした。コップに水を移し入れ、ゆっくりと中身を飲み干していく。全て飲み終え、空になったコップを盆に戻すと、紗己は柱の時計に目をやった。午前一時を過ぎている。
「こんなに寝ちゃってたんだ・・・・・・」
最後に時計を見たのは、確か夜の八時頃だった。文机に向かい仕事をしている土方の後ろ姿を、時折眺めながら本を読んでいたら、いつの間にか眠ってしまったのだろう。
土方がいつ部屋を出たのかは分からないが、彼が自室でゆっくりと休んでくれることを望んでいた紗己は、少し安心したように吐息した。
「あれ・・・・・・?」
ふと文机に目を向けた時、紗己はそこにある『何か』に気付いた。布団から文机までの僅かな距離を膝で歩き、文鎮で固定された白い紙に視線を落とす。
『紗己へ
よく眠っているので、声を掛けずに行く
朝になったらまた来る
おやすみ
土方十四郎』
「副長さん・・・」
文机に載せられていた白い紙を手に取り、紗己は嬉しそうに微笑んだ。
それは土方が彼女に宛てたものだった。夜中に目が覚めて、自分が居ない事を不安に思ったらいけないと、部屋を出る直前に書き置きを残したのだ。
紗己は自分に宛てられた手紙を丁寧に折り畳み、それを自身の胸に当てて「おやすみなさい」と呟くと、大切な手紙を鏡台の引き出しに仕舞ってから再び布団に横たわった。掛布団を胸まで引き上げ、鏡台の方に身体を向けて電気スタンドに手を伸ばし、明かりを落として静かに目を閉じる。
「おやすみなさい・・・・・・」
もう一度そう言って、幸せを噛み締めながら紗己はまた眠りについた。