第十章
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――――――
食べ物屋が軒を連ねる通りを少し歩くと、一本向こう側の通りへと続く店舗間の路地裏を見付けた。
土方はちらっと周囲の様子を窺ったが、初めからこの道を通る予定だったとばかりに、立ち止まることもなくするりと路地に入った。
僅かに距離を開けて歩いていた雪乃も、間を置いてから同じように路地へと続く。
(えらく馴れたもんだな)
背中の気配に土方は妙に感心したが、すぐに気持ちを引き締め直す。この行動も何もかも、警戒するに越したことはないのだから。
路地のちょうど真ん中くらい、どちらかの店の、あるいはどちらともの所有物かも知れないごみ箱やら廃材やらが無造作に置かれている辺りで、示し合わせた訳ではないが、二人同時に立ち止まった。
土方は常より低めの声音でおい、と一言発してゆっくりと後ろを振り返る。
「何が目的だ。まどろっこしい真似しやがって」
言いながら袂から一枚の紙切れを取り出し、まるで犯罪者に証拠でも見せ付けるように、それを雪乃の眼前に突き出して見せた。
だが雪乃にたじろぐ様子などはない。むしろ落ち着いた静かな口調で、気付いて下さって良かった――そう言った。
昨晩見た妖艶な笑みとは違い、安堵の色濃い笑みを浮かべ、儚げな白い手はしなやかに舞うように紙切れに触れた。土方も紙切れ自体に執着はなかったので、細い指先が紙の端を摘まんだのを確認すると、待ち合わせと思われる場所と時刻だけが記されていた紙切れを手離した。
無事に手元に戻ってきた紙切れに視線を落とし、今度は分かりやすく安堵の息を漏らすと、雪乃は大事そうにそれを折り畳んで帯の内側にしまい込んだ。
これは、彼女にとって賭けだったのだ。
財布を紗己に預けたのは、確実に土方の元へ届けられると思ったから。
それでも紗己に財布の中身を見られる可能性はあったし、そうしたら札とは異質の紙切れに気付いたかも知れない。ただの紙切れと気にせずそのままにしておいてくれればいいけれど、もし棄てられてしまっていたら、ここで土方と逢う事はなかった。
(昨夜とはまるで別人じゃねェか。むしろ好意すら・・・いや、昨夜のあれはあれで好意を感じないでもなかったが・・・・・・)
とにもかくにも、目の前の雪乃の様子に非常に居心地悪い思いの土方は、手持ち無沙汰の右手を再び袂に突っ込み煙草を取り出した。
素早く火を点け性急に吸っては紫煙を吐き出しながら、何故彼女はそんなにも自分に会いたかったのかと思考を巡らす。
普通 に会いに来れない理由なら、それなりに分かるのだが。
ひょっとして――脳内に浮かんだ昨晩の出来事と、今朝雪乃が紗己に告げたらしい事柄が重なり、思わずいやいやそれはないと土方は胸中で即座に訂正する。
けれどこれが単なる好意で会いに来たのだとすれば・・・記憶に無いだけで、まさか本当に好意を持たれるような関係を持ってしまったのではと、背中にじとっと嫌な汗をかく。
何をどう訊き出せば良いものか、頭を悩ませているのがありありと伝わる土方の様子を目の当たりにし、雪乃は堪らずくすりと笑った。
「ねぇ、土方さん」
深紅の唇がいたずらっぽく名を呼ぶ。
「昨夜の事、どこまで覚えてます?」
「え、いや、どこまでって・・・」
つい口ごもってしまう。そんな訊き方をされたら、まさか本当に何か仕出かしたんじゃないかと不安になってきた。
「そ、そりゃあアレだろ? その、目が覚めたら布団に・・・あぁいや、でも俺は何も・・・」
「何も?」
「いやだからその・・・」
一歩詰め寄られじぃっと見つめられ、指に煙草を挟んだまま土方はその手で口元を覆った。
答えないのを煙草のせいにするみたいに、手の平の内側で吸い口を咥える。だがこのままでは口から煙が吐き出せない。ということに気付いたのは、鼻から思いきり煙を出した後だった。
冬の冷気で冷えきった鼻腔を熱いものが容赦なく通り抜け、つんとした痛みに目の奥がじんと熱くなる。
動揺しているのが明らかな土方をしばし愉しげに眺めていた雪乃だったが、ふと眉を下げて少し寂しげに微笑むと、向き合って話すには近過ぎると感じたのか、草履を滑らせ一歩後退して距離を取った。
「何も無かったんですよ」
「えっ」
「何も無かった、無かったんですよ。部屋にお運びしてからも、土方さんたら全然起きてくださらなくて。面白くないから私、土方さんにイタズラしたんです」
「え、い、いたずらっておいっ」
つい、自身の下半身に目線をやった。何となく内腿に力が入る。
何も無かった(・・・らしい)のに、何か一方的にされたのか? すごく不安になってきた。痴漢に遭った女は皆こんな気持ちになるのだろうか・・・。
大の男が耳を寝かせた犬みたいな顔をするものだから、仕掛けた雪乃もさすがに気の毒に思ったのだろう。
「鼻ですよ、鼻」
にっこりと笑って自身の鼻をきゅうっと摘む仕草をして見せた。
「こうやって鼻を摘んでイタズラしたんですけど、やっぱり土方さん起きて下さらなくて」
「なっ、は、鼻・・・」
「おまけに寝言で何度も何度も奥様のお名前呼ぶもんだから、私つまらなくって起こすのを止めたんです」
「おっ、お前な・・・」
文句を言いかけたが、土方は眉をしかめたまま口を噤んだ。
あまりにも雪乃が愉しげに笑うから。芸妓としての色気とは正反対の、少女のような笑顔を見せたからだった。
土方の困惑の混じった渋面に満足したのか、雪乃はスゥっと小さく息を吸い、背筋をしゃんと伸ばしてゆっくりと息を吐いた。
「目的、まだお答えしていませんでしたね」
そう言うと雪乃は、僅かに震えた紅い唇をきゅっと結んだ。
「私が土方さんをお助けします。だから・・・私を助けて下さい」
先程の愉しげな表情がすっかりと消えた、雪乃の真剣な眼差し。目的が何にせよ、この女の話を聞かねばならない――そんな気にさせる。
土方は指に挟んでいた煙草を携帯灰皿に仕舞うと、もう一本抜き取りたい気持ちをぐっと抑えて、腕を組み背後の壁に凭れた。
「話せよ。助けるかどうかは話を聞いてからだ。出来ねェ約束はしない主義でな」
軽く顎を引いてそう言うと、鋭さを保った横目が雪乃を一瞥した。
食べ物屋が軒を連ねる通りを少し歩くと、一本向こう側の通りへと続く店舗間の路地裏を見付けた。
土方はちらっと周囲の様子を窺ったが、初めからこの道を通る予定だったとばかりに、立ち止まることもなくするりと路地に入った。
僅かに距離を開けて歩いていた雪乃も、間を置いてから同じように路地へと続く。
(えらく馴れたもんだな)
背中の気配に土方は妙に感心したが、すぐに気持ちを引き締め直す。この行動も何もかも、警戒するに越したことはないのだから。
路地のちょうど真ん中くらい、どちらかの店の、あるいはどちらともの所有物かも知れないごみ箱やら廃材やらが無造作に置かれている辺りで、示し合わせた訳ではないが、二人同時に立ち止まった。
土方は常より低めの声音でおい、と一言発してゆっくりと後ろを振り返る。
「何が目的だ。まどろっこしい真似しやがって」
言いながら袂から一枚の紙切れを取り出し、まるで犯罪者に証拠でも見せ付けるように、それを雪乃の眼前に突き出して見せた。
だが雪乃にたじろぐ様子などはない。むしろ落ち着いた静かな口調で、気付いて下さって良かった――そう言った。
昨晩見た妖艶な笑みとは違い、安堵の色濃い笑みを浮かべ、儚げな白い手はしなやかに舞うように紙切れに触れた。土方も紙切れ自体に執着はなかったので、細い指先が紙の端を摘まんだのを確認すると、待ち合わせと思われる場所と時刻だけが記されていた紙切れを手離した。
無事に手元に戻ってきた紙切れに視線を落とし、今度は分かりやすく安堵の息を漏らすと、雪乃は大事そうにそれを折り畳んで帯の内側にしまい込んだ。
これは、彼女にとって賭けだったのだ。
財布を紗己に預けたのは、確実に土方の元へ届けられると思ったから。
それでも紗己に財布の中身を見られる可能性はあったし、そうしたら札とは異質の紙切れに気付いたかも知れない。ただの紙切れと気にせずそのままにしておいてくれればいいけれど、もし棄てられてしまっていたら、ここで土方と逢う事はなかった。
(昨夜とはまるで別人じゃねェか。むしろ好意すら・・・いや、昨夜のあれはあれで好意を感じないでもなかったが・・・・・・)
とにもかくにも、目の前の雪乃の様子に非常に居心地悪い思いの土方は、手持ち無沙汰の右手を再び袂に突っ込み煙草を取り出した。
素早く火を点け性急に吸っては紫煙を吐き出しながら、何故彼女はそんなにも自分に会いたかったのかと思考を巡らす。
ひょっとして――脳内に浮かんだ昨晩の出来事と、今朝雪乃が紗己に告げたらしい事柄が重なり、思わずいやいやそれはないと土方は胸中で即座に訂正する。
けれどこれが単なる好意で会いに来たのだとすれば・・・記憶に無いだけで、まさか本当に好意を持たれるような関係を持ってしまったのではと、背中にじとっと嫌な汗をかく。
何をどう訊き出せば良いものか、頭を悩ませているのがありありと伝わる土方の様子を目の当たりにし、雪乃は堪らずくすりと笑った。
「ねぇ、土方さん」
深紅の唇がいたずらっぽく名を呼ぶ。
「昨夜の事、どこまで覚えてます?」
「え、いや、どこまでって・・・」
つい口ごもってしまう。そんな訊き方をされたら、まさか本当に何か仕出かしたんじゃないかと不安になってきた。
「そ、そりゃあアレだろ? その、目が覚めたら布団に・・・あぁいや、でも俺は何も・・・」
「何も?」
「いやだからその・・・」
一歩詰め寄られじぃっと見つめられ、指に煙草を挟んだまま土方はその手で口元を覆った。
答えないのを煙草のせいにするみたいに、手の平の内側で吸い口を咥える。だがこのままでは口から煙が吐き出せない。ということに気付いたのは、鼻から思いきり煙を出した後だった。
冬の冷気で冷えきった鼻腔を熱いものが容赦なく通り抜け、つんとした痛みに目の奥がじんと熱くなる。
動揺しているのが明らかな土方をしばし愉しげに眺めていた雪乃だったが、ふと眉を下げて少し寂しげに微笑むと、向き合って話すには近過ぎると感じたのか、草履を滑らせ一歩後退して距離を取った。
「何も無かったんですよ」
「えっ」
「何も無かった、無かったんですよ。部屋にお運びしてからも、土方さんたら全然起きてくださらなくて。面白くないから私、土方さんにイタズラしたんです」
「え、い、いたずらっておいっ」
つい、自身の下半身に目線をやった。何となく内腿に力が入る。
何も無かった(・・・らしい)のに、何か一方的にされたのか? すごく不安になってきた。痴漢に遭った女は皆こんな気持ちになるのだろうか・・・。
大の男が耳を寝かせた犬みたいな顔をするものだから、仕掛けた雪乃もさすがに気の毒に思ったのだろう。
「鼻ですよ、鼻」
にっこりと笑って自身の鼻をきゅうっと摘む仕草をして見せた。
「こうやって鼻を摘んでイタズラしたんですけど、やっぱり土方さん起きて下さらなくて」
「なっ、は、鼻・・・」
「おまけに寝言で何度も何度も奥様のお名前呼ぶもんだから、私つまらなくって起こすのを止めたんです」
「おっ、お前な・・・」
文句を言いかけたが、土方は眉をしかめたまま口を噤んだ。
あまりにも雪乃が愉しげに笑うから。芸妓としての色気とは正反対の、少女のような笑顔を見せたからだった。
土方の困惑の混じった渋面に満足したのか、雪乃はスゥっと小さく息を吸い、背筋をしゃんと伸ばしてゆっくりと息を吐いた。
「目的、まだお答えしていませんでしたね」
そう言うと雪乃は、僅かに震えた紅い唇をきゅっと結んだ。
「私が土方さんをお助けします。だから・・・私を助けて下さい」
先程の愉しげな表情がすっかりと消えた、雪乃の真剣な眼差し。目的が何にせよ、この女の話を聞かねばならない――そんな気にさせる。
土方は指に挟んでいた煙草を携帯灰皿に仕舞うと、もう一本抜き取りたい気持ちをぐっと抑えて、腕を組み背後の壁に凭れた。
「話せよ。助けるかどうかは話を聞いてからだ。出来ねェ約束はしない主義でな」
軽く顎を引いてそう言うと、鋭さを保った横目が雪乃を一瞥した。