第九章
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廊下の向こうに見慣れた背中が消えたところで、土方はハァと息を吐き出すと、凝りを解すように首を鳴らした。そうしてまた一つ溜め息を落として視線を元の位置へと戻すと、同じように近藤を見送っていた紗己と目が合った。
近藤に対してか土方に対してなのか、彼女はちょっとだけ肩を竦めて、そこにかかる長さの髪を揺らしてくすりと笑った。昨日までに比べて格段に豊かになった表情に、心臓が軽やかに跳ねるのを感じつつ、土方もまた彼女を見つめてフッと表情を緩める。
「あー、急に静かになったな」
「ふふ、ほんとですね」
右手を口元へやり、またクスクスと笑う。その可愛らしい仕草と笑い声に、土方は不思議な安心感に見舞われた。
寂しいとは思って欲しかったけれど、いざ出発という時点では、笑顔で見送ってもらいたいとの思いがあったのだ。我ながら勝手なことを・・・と自分でも思いつつ、スッと右手を伸ばす。
「じゃあ、そろそろ行ってくる」
言いながら、小さな子供にするように彼女の頭を優しく撫でる。土間との段差のおかげで、目線の高さが同じになった紗己の顔は、前方に体重を傾ければすぐにでも口付けられる近さだ。
「はい、お気をつけて」
「・・・あ、ああ!」
自然と前方に移りかけた重心を、瞬時に後方へと移しかえた。
土方は半歩後退るような姿勢のまま、ばくばくと賑やかに鳴り出した心臓を落ち着かせようと、浅い深呼吸を数回繰り返す。
っぶねェ・・・おいおい何しようとしてんだ俺は、部屋ん中じゃねーんだぞ!
特別顔には出さないが、背中に嫌な汗をかいてしまった。
そう、土方は今、愛しい妻に口付けそうになったのだ。真正面に向き合って、艶やかな唇が言葉を紡ぐ様に見惚れているうちに、身体が素直に動きかけた。
だが、ここは自室ではない。勿論人々が行き交う往来というわけではないが、生活空間ではあっても今居るこの場所はれっきとした職場だ。
平常心を取り戻すため、土方は明後日の方を見て一時停止する。あと少し、ここは自室ではないんだと自らに言い聞かせれば、何とか持ち堪えられそうだ。
いや、持ち堪えられそう――だったのだが。
唇の隙間から紫煙を吐くように、長く静かに息をつき、土方は視線を紗己に戻した。するとそこには、夫の異変を感じ取り不安そうな表情を浮かべる彼女がいた。
ほんの少し寄せられた眉は切なげで、何かを言おうとして言えないのか、僅かにすぼめられた唇は悩ましげな動きを見せる。
土方は思わずごくりと生唾を飲んだ。
「・・・っ!」
「土方さん?」
「っ、ばっ・・・」
「ば?」
「なっ、なな何でもねーよっ」
話すたびに動く唇に、どうにも目が離せない。思わず「馬鹿、喋るな!」と言いそうになってしまった。紗己からしてみれば、随分と迷惑な話だ。
世間体や常識を気にする堅真面目な気質を呼び起こそうと、土方は理性を総動員させる。そうして必死に気を逸らそうとするのだが、愛しい妻の口元につい目がいってしまうのをどうやっても止められない。自分を見つめる紗己の瞳が、唇が、口付けを求めているようにさえ見えてくる。
少し前に味わった、それ以外では得ることの出来ない柔らかな感触。その甘美な刺激を思い出し喉の奥が熱くなるが、欲望のままに動くにはこの場所は少々危険が過ぎる。
葛藤ののち、自らに常識的判断を下す方を選んだ土方は、何とか勝ち残った理性を保つため、平時の無愛想な面持ちで紗己を一瞥した。
「も、もう行くぞっ」
「はい、行ってらっしゃい」
「と、とりあえず夜にでも電話する」
一歩二歩と靴底を摺りながら後退し、そそくさと早口に言う。
すると紗己は、パッと花咲く笑顔を見せた。ぎこちない素振りの夫の放った言葉の中身が嬉しかったようだ。
「はい! お電話、待ってますね」
「っ・・・あ、ああ」
新妻の笑顔に思わず息を呑んだ。治まりかけていた鼓動の高鳴りが急加速していく。
電話をすると言っただけで、ここまで喜んでくれる。そんな彼女が愛おしくて堪らなく、今すぐにでも抱き締めたくなる――そう思った瞬間、土方の欲求のストッパーが景気よく外れた。
ここが職場であるのは百も承知だ。だからこそ今視界に映る範囲には誰もおらず、足音が聞こえる前に事を済ませてしまえば大丈夫だということも分かっている。
そう、目の前の廊下には誰もいないし、死角になっている方の廊下からは、もうずっと足音一つ、誰の気配すら感じない。
俺は・・・こんなにも口付けが好きな男だったか?
頭の隅で過去の自分を振り返るが、すぐにどうでもいいと胸中で切り捨てた。愛しい紗己との口付けが好きなのは、紛れもない事実なのだ。
相反する思いに揺れながらも、土方はゆっくりと慎重に紗己との距離を詰め始める。行くと言ってまた戻った夫に、どうかしたのかと紗己は首を傾げた。
「土方さん? お忘れ物ですか?」
「・・・いや」
短く答えると、背後を振り返る。
玄関戸は片側が開いているが、周囲に人の気配はない。外に停めてある車は二人の位置からは見えないので、車で待っている者から姿を見られることはない。
土方は捻っていた上体を戻すと、向けられた視線に僅かに怯みつつも、キッと強く彼女を見据えた。
「土方さん? あの・・・忘れ物、ですか?」
「まァ、忘れ物と言えばそうかもな・・・」
まるで独り言のように呟きながら、紗己の二の腕を優しく掴む。一瞬肩をびくっと震わせた彼女に小さく笑いかけると、紗己の身体を少し引き寄せ、同時に身を乗り出した。
そのままそっと唇を重ねる。啄むような甘い口付けを二回、その後は角度を少しずつ変え、唇を吸い、吐息が混じり合う口付けを交わした。
額を軽く擦り合わせてから、ゆっくりと名残惜しそうに顔を離す。欲求を満たした土方は、紗己の頬に触れながら穏やかに笑った。
「コレ、忘れてたんだよ」
「あ・・・っ、は、はい!」
まさか口付けをされるとは思ってもいなかったし、土方の言う『忘れ物』が口付けの事だとは思いもしなかった紗己。予想外の忘れ物に顔を真っ赤にして、これ以上の接近を拒むように胸の前で両手をパタパタと振った。
「ひ、土方さんたらっここ、こんな場所で・・・」
「ん? 誰もいねェよ。今日はえらく静かなもんだ」
「でででもっ・・・」
「壁に耳あり『廊下』に目ありってねィ」
「っ!?」
突然耳に届いた『第三者』の声に、土方は首がもげそうな勢いで声のする方、死角になっていた廊下に顔を向けた。
するとそこから、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべた沖田が、両手をポケットに突っ込んだままひょいと姿を現した。
近藤に対してか土方に対してなのか、彼女はちょっとだけ肩を竦めて、そこにかかる長さの髪を揺らしてくすりと笑った。昨日までに比べて格段に豊かになった表情に、心臓が軽やかに跳ねるのを感じつつ、土方もまた彼女を見つめてフッと表情を緩める。
「あー、急に静かになったな」
「ふふ、ほんとですね」
右手を口元へやり、またクスクスと笑う。その可愛らしい仕草と笑い声に、土方は不思議な安心感に見舞われた。
寂しいとは思って欲しかったけれど、いざ出発という時点では、笑顔で見送ってもらいたいとの思いがあったのだ。我ながら勝手なことを・・・と自分でも思いつつ、スッと右手を伸ばす。
「じゃあ、そろそろ行ってくる」
言いながら、小さな子供にするように彼女の頭を優しく撫でる。土間との段差のおかげで、目線の高さが同じになった紗己の顔は、前方に体重を傾ければすぐにでも口付けられる近さだ。
「はい、お気をつけて」
「・・・あ、ああ!」
自然と前方に移りかけた重心を、瞬時に後方へと移しかえた。
土方は半歩後退るような姿勢のまま、ばくばくと賑やかに鳴り出した心臓を落ち着かせようと、浅い深呼吸を数回繰り返す。
っぶねェ・・・おいおい何しようとしてんだ俺は、部屋ん中じゃねーんだぞ!
特別顔には出さないが、背中に嫌な汗をかいてしまった。
そう、土方は今、愛しい妻に口付けそうになったのだ。真正面に向き合って、艶やかな唇が言葉を紡ぐ様に見惚れているうちに、身体が素直に動きかけた。
だが、ここは自室ではない。勿論人々が行き交う往来というわけではないが、生活空間ではあっても今居るこの場所はれっきとした職場だ。
平常心を取り戻すため、土方は明後日の方を見て一時停止する。あと少し、ここは自室ではないんだと自らに言い聞かせれば、何とか持ち堪えられそうだ。
いや、持ち堪えられそう――だったのだが。
唇の隙間から紫煙を吐くように、長く静かに息をつき、土方は視線を紗己に戻した。するとそこには、夫の異変を感じ取り不安そうな表情を浮かべる彼女がいた。
ほんの少し寄せられた眉は切なげで、何かを言おうとして言えないのか、僅かにすぼめられた唇は悩ましげな動きを見せる。
土方は思わずごくりと生唾を飲んだ。
「・・・っ!」
「土方さん?」
「っ、ばっ・・・」
「ば?」
「なっ、なな何でもねーよっ」
話すたびに動く唇に、どうにも目が離せない。思わず「馬鹿、喋るな!」と言いそうになってしまった。紗己からしてみれば、随分と迷惑な話だ。
世間体や常識を気にする堅真面目な気質を呼び起こそうと、土方は理性を総動員させる。そうして必死に気を逸らそうとするのだが、愛しい妻の口元につい目がいってしまうのをどうやっても止められない。自分を見つめる紗己の瞳が、唇が、口付けを求めているようにさえ見えてくる。
少し前に味わった、それ以外では得ることの出来ない柔らかな感触。その甘美な刺激を思い出し喉の奥が熱くなるが、欲望のままに動くにはこの場所は少々危険が過ぎる。
葛藤ののち、自らに常識的判断を下す方を選んだ土方は、何とか勝ち残った理性を保つため、平時の無愛想な面持ちで紗己を一瞥した。
「も、もう行くぞっ」
「はい、行ってらっしゃい」
「と、とりあえず夜にでも電話する」
一歩二歩と靴底を摺りながら後退し、そそくさと早口に言う。
すると紗己は、パッと花咲く笑顔を見せた。ぎこちない素振りの夫の放った言葉の中身が嬉しかったようだ。
「はい! お電話、待ってますね」
「っ・・・あ、ああ」
新妻の笑顔に思わず息を呑んだ。治まりかけていた鼓動の高鳴りが急加速していく。
電話をすると言っただけで、ここまで喜んでくれる。そんな彼女が愛おしくて堪らなく、今すぐにでも抱き締めたくなる――そう思った瞬間、土方の欲求のストッパーが景気よく外れた。
ここが職場であるのは百も承知だ。だからこそ今視界に映る範囲には誰もおらず、足音が聞こえる前に事を済ませてしまえば大丈夫だということも分かっている。
そう、目の前の廊下には誰もいないし、死角になっている方の廊下からは、もうずっと足音一つ、誰の気配すら感じない。
俺は・・・こんなにも口付けが好きな男だったか?
頭の隅で過去の自分を振り返るが、すぐにどうでもいいと胸中で切り捨てた。愛しい紗己との口付けが好きなのは、紛れもない事実なのだ。
相反する思いに揺れながらも、土方はゆっくりと慎重に紗己との距離を詰め始める。行くと言ってまた戻った夫に、どうかしたのかと紗己は首を傾げた。
「土方さん? お忘れ物ですか?」
「・・・いや」
短く答えると、背後を振り返る。
玄関戸は片側が開いているが、周囲に人の気配はない。外に停めてある車は二人の位置からは見えないので、車で待っている者から姿を見られることはない。
土方は捻っていた上体を戻すと、向けられた視線に僅かに怯みつつも、キッと強く彼女を見据えた。
「土方さん? あの・・・忘れ物、ですか?」
「まァ、忘れ物と言えばそうかもな・・・」
まるで独り言のように呟きながら、紗己の二の腕を優しく掴む。一瞬肩をびくっと震わせた彼女に小さく笑いかけると、紗己の身体を少し引き寄せ、同時に身を乗り出した。
そのままそっと唇を重ねる。啄むような甘い口付けを二回、その後は角度を少しずつ変え、唇を吸い、吐息が混じり合う口付けを交わした。
額を軽く擦り合わせてから、ゆっくりと名残惜しそうに顔を離す。欲求を満たした土方は、紗己の頬に触れながら穏やかに笑った。
「コレ、忘れてたんだよ」
「あ・・・っ、は、はい!」
まさか口付けをされるとは思ってもいなかったし、土方の言う『忘れ物』が口付けの事だとは思いもしなかった紗己。予想外の忘れ物に顔を真っ赤にして、これ以上の接近を拒むように胸の前で両手をパタパタと振った。
「ひ、土方さんたらっここ、こんな場所で・・・」
「ん? 誰もいねェよ。今日はえらく静かなもんだ」
「でででもっ・・・」
「壁に耳あり『廊下』に目ありってねィ」
「っ!?」
突然耳に届いた『第三者』の声に、土方は首がもげそうな勢いで声のする方、死角になっていた廊下に顔を向けた。
するとそこから、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべた沖田が、両手をポケットに突っ込んだままひょいと姿を現した。