第十章
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「触らないでっ」
声を震わせ、一旦は掴まれた手首を反対の手と共に胸元に持っていく。
そう、紗己は土方の手を渾身の力で振り払ったのだ。その際に跳ね上がった袂が、土方の手の甲を打ったらしい。
「なっ・・・」
いくら力を入れてなかったとはいえ、よもや紗己に抵抗を許すとは思っていなかった。というより、抵抗されるとは欠片も思っていなかった。
土方は呆然と振り払われた手に視線を落とすが、拒絶されたことに対して沸々と腹立たしさが込み上げてきた。
(クソッ、俺が悪いのかよ!)
弁明のためというよりも、拒絶されたことへの意地で紗己を呼び止めようとする。
「おい! 待てよ」
「いやっ」
土方はもう一度手を伸ばすが、紗己も必死に身を捩る。
土方の制止を振り切り障子戸を開けて廊下に出た紗己は、唇をわななかせて土方を睨み付けた。
普段は優しさしか感じない双眸からは、止めどなく涙が零れている。
「っ、あ、あの人に触った手で触らないで・・・っ」
「お、おい・・・」
「嫌いよ大っ嫌い・・・・・・! 土方さんなんてもう知らないっ」
泣きながらそう言うと、紗己は逃げるように走り出した。
紗己に投げ付けられた言葉に衝撃を受ける土方だったが、パタパタと廊下を駆ける足音が耳に届き、ハッと我に返るとすぐさま廊下に飛び出て怒鳴り声を上げた。
「ちょっ・・・、馬鹿走るなっ!」
転んだりしたら一大事だ。
紗己の身体能力がいかほどのものかまだよく知らないが、何故か土方には彼女が転ぶイメージしか浮かばない。
紗己は廊下の角を曲がる手前で立ち止まった。
二人の間には一部屋半の距離しかなく、本気で追えばものの数秒で、逃げる妻を腕の中に捕まえられるだろう。
けれど――足が進まない。気も進まない。
怒鳴りはしたものの、追いかけてこない土方に痺れを切らした紗己は、
「っ、じゃあ来ないでください!」
強い口調でピシャリと言い放つと、渋面を浮かべたまま廊下に立ち尽くしている土方を残して、スタスタと早歩きで角を曲がり行ってしまった。
遠ざかっていく紗己の足音もやがて聴こえなくなり、土方は激しい脱力感に見舞われ、障子戸に寄り掛かるようにして部屋に入った。
後ろ手に障子を閉めて、その場で盛大に溜息をつく。
しんと静まり返った室内をぐるりと見回せば、紗己と二人で生活をしていることの証しでもある家財道具全てに、『ああ、やっちまったな』と言われている気分になり、更に気が滅入った。
――触らないで! いやっ
耳の奥に紗己の声がこびりついて離れない。
拒絶されてここまでショックを受けたのは生まれて初めてだった。
土方は部屋の入口に突っ立ったまま、自身の手の平へと視線を落として、ぼんやりとそれを眺める。
この手を振り払われた。あんなにも力一杯に、涙まで流して。
弁明するのも面倒で、本気で取り合おうとしなかった土方に対し、紗己は本気だった。本気で土方を拒絶した。
これは彼にとってはまさに青天の霹靂で、紗己に嫌われるなんて有り得ないという自信を、根底から覆されたようなものだ。
「なんなんだよ・・・・・・」
気怠げに前髪を掻き上げ、大きく吐息する。
どうしてか、落ち着くどころかだんだんとむしゃくしゃしてきた。
必死に身を捩ってまで触れられるのを拒んだ紗己の姿が、脳内で繰り返し再生されて、何故こんな目に遭わなければいけないんだと不快感が増してくる。
フラフラになりながらも帰ってきて、重たい身体に何とか鞭打って起きてみたら、唯一の癒しである女房はにこりともせず、未だ朝茶にさえありつけない始末。
自身の置かれた現状に、募る苛立ちが舌打ちとなり口元から漏れる。
湯呑みの代わりに座卓の上を独占している財布をギロリと睨み付けると、土方は大股で部屋の真ん中へと進んだ。
紗己の泣き顔がチラチラと頭に過り、胸の奥がちくりと痛む。けれど今は、非を認める気になれない。
座卓の手前で立ち止まった土方は、仲違いの原因である財布を乱暴に掴み取った。
冷たい革の感触が、揉め事など知ったことではないと言ってるように思えて、余計に苛立ちが募る。
また紗己の泣き顔が脳裏を掠めた。ズキッと胸が痛む。
罪悪感とでも言うのか? そうかそうかよ俺が悪いのかよ。何が気に入らない、誰のためにこんなに頑張ってると思ってるんだ、泣きたいのはこっちの方だ!
「クソッ! 人の気も知らねーでっ」
手の中の財布を、襖に向けて思い切り投げ付けた。
薄板が割れる音が部屋に響く。貫通こそしなかったが、片面の襖紙は財布大に陥没した。
「クソ・・・っ」
当然気が晴れることはなく、畳に落ちた財布を忌々しげに一瞥すると、土方はがさつな足取りで隣の部屋へと移った。
引きっぱなしの布団にどてっと寝転がると、両手を頭の下に差し入れて天井を見上げ嘆息する。
なんだか疲れてしまった。何もする気が起きない。厠に行く気も失せた。出て行った紗己を追いかける気にもなれない。
これがどこか外に出られたとしたら、放っておくこともできずに捜しに出るのだろうが、どうせ屯所内にいるに決まっているという安心感が、彼を自室に留まらせていた。
――――――
その頃紗己は厠にいた。別に用を足しているわけではなく、泣き顔を誰にも見られないようにと籠もっていたのだ。
とはいえ、暖房が効いているわけでもないそこは長く居るには寒過ぎて、このままでは風邪を引いてしまうと思った紗己は、洗面台でサッと顔を洗ってから厠を出た。
腫れ上がった目元を見られないように、結っていた髪も下ろし、俯き加減でどこへともなく廊下を歩く。
非番の隊士達も出払っている者が多いのか、幸い昼前の屯所はなかなかに静かだ。
だがしかし、もうすぐ勤務中の者達が昼食のために戻ってくる頃でもある。
(どこへ行けばいいんだろう・・・部屋には戻れない、戻りたくない・・・・・・)
床板の木目に視線を落として、当て所も無く歩き続けるうちに、やがて庭に面した廊下に差し掛かった。
雨戸に手を這わせながら、ふらふらと縁側に立つ紗己の泣き腫らした双眸に映るのは、楽しい記憶が詰まっている庭。
数時間前と何ら変わりない風景を見ていると、さっきまでの出来事は夢なのではないかとさえ思えてくる。
――これは夢、全部夢。本当はまだ布団の中で、明け方に一度起きたからこんな嫌な夢を見てしまってるんだ。
ああ、どうせなら目が覚めた瞬間に忘れる夢がいいな。何も覚えていたくない。
たとえ覚えてなくても夢の余韻に身を震わせるだろうけど、あの人はきっとその気配に気付いてくれる。
眠そうに欠伸を噛みながら、「どうした、怖い夢でも見たのか」そう言って掛け布団を広げてくれる。
そのまま力強い腕に抱き締められて、温もりに包まれて、深い安堵の中再び眠りにつける。
これが夢なら、夢だったら――夢ならどんなに良かっただろう。
いくら現実逃避しても、これは夢ではないと、吹き荒ぶ寒風が、曇りだした低い空が言っている。
「ひ・・・っ、く・・・」
喉奥から込み上げてくる灼けるような熱に負け、紗己はとうとう両手で顔を覆って泣き出してしまった。
何も考えたくないのに、アルバムを捲るように土方との幸せな日々が思い出されて、誰かが通るかも知れないと分かっていても、胸を詰まらせる切なさに涙が止まらない。
嫌い 大嫌い 違う 嫌いになんてなれるわけない
苦しい 苦しい! 助けて!
「も・・・っ、や・・・」
怒り、嫉妬、哀しみ――綯い交ぜになった感情を、制御出来ない苦しさが恐怖に変わる。
どうすれば、この苦しみから解放されるのだろう。その術を彼女は知らない。
ひたひたと廊下を歩く誰かの足音が近付いてきていても、泣いている紗己の耳には届かない。
声を震わせ、一旦は掴まれた手首を反対の手と共に胸元に持っていく。
そう、紗己は土方の手を渾身の力で振り払ったのだ。その際に跳ね上がった袂が、土方の手の甲を打ったらしい。
「なっ・・・」
いくら力を入れてなかったとはいえ、よもや紗己に抵抗を許すとは思っていなかった。というより、抵抗されるとは欠片も思っていなかった。
土方は呆然と振り払われた手に視線を落とすが、拒絶されたことに対して沸々と腹立たしさが込み上げてきた。
(クソッ、俺が悪いのかよ!)
弁明のためというよりも、拒絶されたことへの意地で紗己を呼び止めようとする。
「おい! 待てよ」
「いやっ」
土方はもう一度手を伸ばすが、紗己も必死に身を捩る。
土方の制止を振り切り障子戸を開けて廊下に出た紗己は、唇をわななかせて土方を睨み付けた。
普段は優しさしか感じない双眸からは、止めどなく涙が零れている。
「っ、あ、あの人に触った手で触らないで・・・っ」
「お、おい・・・」
「嫌いよ大っ嫌い・・・・・・! 土方さんなんてもう知らないっ」
泣きながらそう言うと、紗己は逃げるように走り出した。
紗己に投げ付けられた言葉に衝撃を受ける土方だったが、パタパタと廊下を駆ける足音が耳に届き、ハッと我に返るとすぐさま廊下に飛び出て怒鳴り声を上げた。
「ちょっ・・・、馬鹿走るなっ!」
転んだりしたら一大事だ。
紗己の身体能力がいかほどのものかまだよく知らないが、何故か土方には彼女が転ぶイメージしか浮かばない。
紗己は廊下の角を曲がる手前で立ち止まった。
二人の間には一部屋半の距離しかなく、本気で追えばものの数秒で、逃げる妻を腕の中に捕まえられるだろう。
けれど――足が進まない。気も進まない。
怒鳴りはしたものの、追いかけてこない土方に痺れを切らした紗己は、
「っ、じゃあ来ないでください!」
強い口調でピシャリと言い放つと、渋面を浮かべたまま廊下に立ち尽くしている土方を残して、スタスタと早歩きで角を曲がり行ってしまった。
遠ざかっていく紗己の足音もやがて聴こえなくなり、土方は激しい脱力感に見舞われ、障子戸に寄り掛かるようにして部屋に入った。
後ろ手に障子を閉めて、その場で盛大に溜息をつく。
しんと静まり返った室内をぐるりと見回せば、紗己と二人で生活をしていることの証しでもある家財道具全てに、『ああ、やっちまったな』と言われている気分になり、更に気が滅入った。
――触らないで! いやっ
耳の奥に紗己の声がこびりついて離れない。
拒絶されてここまでショックを受けたのは生まれて初めてだった。
土方は部屋の入口に突っ立ったまま、自身の手の平へと視線を落として、ぼんやりとそれを眺める。
この手を振り払われた。あんなにも力一杯に、涙まで流して。
弁明するのも面倒で、本気で取り合おうとしなかった土方に対し、紗己は本気だった。本気で土方を拒絶した。
これは彼にとってはまさに青天の霹靂で、紗己に嫌われるなんて有り得ないという自信を、根底から覆されたようなものだ。
「なんなんだよ・・・・・・」
気怠げに前髪を掻き上げ、大きく吐息する。
どうしてか、落ち着くどころかだんだんとむしゃくしゃしてきた。
必死に身を捩ってまで触れられるのを拒んだ紗己の姿が、脳内で繰り返し再生されて、何故こんな目に遭わなければいけないんだと不快感が増してくる。
フラフラになりながらも帰ってきて、重たい身体に何とか鞭打って起きてみたら、唯一の癒しである女房はにこりともせず、未だ朝茶にさえありつけない始末。
自身の置かれた現状に、募る苛立ちが舌打ちとなり口元から漏れる。
湯呑みの代わりに座卓の上を独占している財布をギロリと睨み付けると、土方は大股で部屋の真ん中へと進んだ。
紗己の泣き顔がチラチラと頭に過り、胸の奥がちくりと痛む。けれど今は、非を認める気になれない。
座卓の手前で立ち止まった土方は、仲違いの原因である財布を乱暴に掴み取った。
冷たい革の感触が、揉め事など知ったことではないと言ってるように思えて、余計に苛立ちが募る。
また紗己の泣き顔が脳裏を掠めた。ズキッと胸が痛む。
罪悪感とでも言うのか? そうかそうかよ俺が悪いのかよ。何が気に入らない、誰のためにこんなに頑張ってると思ってるんだ、泣きたいのはこっちの方だ!
「クソッ! 人の気も知らねーでっ」
手の中の財布を、襖に向けて思い切り投げ付けた。
薄板が割れる音が部屋に響く。貫通こそしなかったが、片面の襖紙は財布大に陥没した。
「クソ・・・っ」
当然気が晴れることはなく、畳に落ちた財布を忌々しげに一瞥すると、土方はがさつな足取りで隣の部屋へと移った。
引きっぱなしの布団にどてっと寝転がると、両手を頭の下に差し入れて天井を見上げ嘆息する。
なんだか疲れてしまった。何もする気が起きない。厠に行く気も失せた。出て行った紗己を追いかける気にもなれない。
これがどこか外に出られたとしたら、放っておくこともできずに捜しに出るのだろうが、どうせ屯所内にいるに決まっているという安心感が、彼を自室に留まらせていた。
――――――
その頃紗己は厠にいた。別に用を足しているわけではなく、泣き顔を誰にも見られないようにと籠もっていたのだ。
とはいえ、暖房が効いているわけでもないそこは長く居るには寒過ぎて、このままでは風邪を引いてしまうと思った紗己は、洗面台でサッと顔を洗ってから厠を出た。
腫れ上がった目元を見られないように、結っていた髪も下ろし、俯き加減でどこへともなく廊下を歩く。
非番の隊士達も出払っている者が多いのか、幸い昼前の屯所はなかなかに静かだ。
だがしかし、もうすぐ勤務中の者達が昼食のために戻ってくる頃でもある。
(どこへ行けばいいんだろう・・・部屋には戻れない、戻りたくない・・・・・・)
床板の木目に視線を落として、当て所も無く歩き続けるうちに、やがて庭に面した廊下に差し掛かった。
雨戸に手を這わせながら、ふらふらと縁側に立つ紗己の泣き腫らした双眸に映るのは、楽しい記憶が詰まっている庭。
数時間前と何ら変わりない風景を見ていると、さっきまでの出来事は夢なのではないかとさえ思えてくる。
――これは夢、全部夢。本当はまだ布団の中で、明け方に一度起きたからこんな嫌な夢を見てしまってるんだ。
ああ、どうせなら目が覚めた瞬間に忘れる夢がいいな。何も覚えていたくない。
たとえ覚えてなくても夢の余韻に身を震わせるだろうけど、あの人はきっとその気配に気付いてくれる。
眠そうに欠伸を噛みながら、「どうした、怖い夢でも見たのか」そう言って掛け布団を広げてくれる。
そのまま力強い腕に抱き締められて、温もりに包まれて、深い安堵の中再び眠りにつける。
これが夢なら、夢だったら――夢ならどんなに良かっただろう。
いくら現実逃避しても、これは夢ではないと、吹き荒ぶ寒風が、曇りだした低い空が言っている。
「ひ・・・っ、く・・・」
喉奥から込み上げてくる灼けるような熱に負け、紗己はとうとう両手で顔を覆って泣き出してしまった。
何も考えたくないのに、アルバムを捲るように土方との幸せな日々が思い出されて、誰かが通るかも知れないと分かっていても、胸を詰まらせる切なさに涙が止まらない。
嫌い 大嫌い 違う 嫌いになんてなれるわけない
苦しい 苦しい! 助けて!
「も・・・っ、や・・・」
怒り、嫉妬、哀しみ――綯い交ぜになった感情を、制御出来ない苦しさが恐怖に変わる。
どうすれば、この苦しみから解放されるのだろう。その術を彼女は知らない。
ひたひたと廊下を歩く誰かの足音が近付いてきていても、泣いている紗己の耳には届かない。