第十章
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憤りを隠しきれずに唇を噛み締めた紗己を見て、土方はしまった――そう思った。地雷を踏んだとすぐに気付いた。
しかし地雷源はあくまでも雪乃であり、まさか自分だとは微塵も考えなかった土方の危機感はまだまだ薄く、適当に言い繕えばなんとでもなるとも思った。
元々が穏やかな性格で我を通すタイプでもなく、前に怒った時だって翌日には仲直りできたし、向こうから謝ってきたくらいだ。
今回も怒ってはいるらしいが、世間一般の尺度で言えば、せいぜい不機嫌に毛が生えた程度だろう。コイツはそういう女だ。
雪乃が来たのが事実だとして、目的は本当に財布を届けることだけだったかもしれない。
紗己に不必要な情報を与えたくない土方は、その可能性に懸けた。
誰よりも妻を理解しているとの自負が、軌道修正のチャンスを逃したことに彼は気付かない。
「あー・・・その、アレだろ、財布! 財布届けにきた、だけだろ?」
土方は気まずそうに、そろそろと浮かせていた腰を落とし言葉を並べた。
「・・・・・・」
「だろ?」
すぐに答えない紗己に焦れて、胡座の状態で両膝を落ち着きなく揺する。
「届けに、来て・・・」
「お、おう」
「言って・・・ました」
紗己は俯いていた顔を少しだけ上げ、隣の部屋に虚ろな眼を向けて弱々しく言葉を発する。
「寝入ってたから、起こすのが遅くなってごめんなさいって・・・・・・」
「は? なんだそれ・・・」
「財布、着物の下に紛れてたって・・・・・・」
「え、ちょ、待てって・・・」
サァーッと顔を青ざめさせた土方は、慌てて紗己の言葉を遮ろうとしたが、今の彼女には夫の言い訳めいた声など聞こえていない。
「見送らなくていいって言われたから着物を羽織るまで気付かなかったって・・・っ」
両目をきつく閉じて苦し気に声を絞り出す。
感情を制御しようと必死なのだろう、細い指が袂をぎゅうっと掴んだ。
妻の口から語られる、雪乃が残していったであろう言葉の数々に焦りの色を隠せない土方は、座卓の縁に乱暴に手を乗せて唾を飛ばす。
「ま、待てって! お、落ち着けっ! な、なあ、こっち向けよ」
「・・・・・・」
「なあ紗己、こっち向けって!」
依然として顔を背けたまま、頑としてこちらを見ようとしない紗己の顔を覗き込むように身を乗り出す。
すると、怒りか悲しみか、もしくはその両方に顔を歪める紗己がゆっくりと振り向いた。
「あ・・・・・・ち、違うんだこれはその」
「どういう、こと、ですか・・・っ」
「いや、だからだな・・・」
責めるような目で見据えられ、今度は土方がたまらず視線を逸らした。
座卓の天板に片肘をつき、筋ばった手で口元を覆う。
(何考えてんだあの女! )
妖艶な笑みを浮かべた雪乃を思い出し、胸中で毒づいた。
揉め事の種と共に舞い戻ってきた自身の財布を、苦々しい表情で睨み付ける土方だが、それと同時に微かな違和感も覚える。
(なんかおかしくないか? こんなことして、アイツに何の得があるんだ?)
昨夜の雪乃と、今朝ここでの彼女の行動とがうまく重ならない。何かがおかしい。どこか臭う。
「説明して、ください・・・・・・」
「あー・・・うん・・・」
妻の悲痛な声を聞き流して適当な返事をし、物言わぬ財布を見つめ頬杖を付いて思考をフル回転させる。
雪乃の真の目的が何なのかを探ることに重点を置いているため、深刻な表情で答えを待つ紗己にも土方は気付いていない。
裏がある。ただの親切とか、そんなレベルの話じゃないはずだ。奴等に繋がってるってのか? いや、でもアイツは昨夜・・・・・・
「・・・さん」
「・・・・・・」
「土方さん!」
「あ?」
間の抜けた声が出た。そうだ、話し合いの最中だった。
「あ、ああ悪ィ聞いてなかった。で、何だ?」
「っ・・・!」
最低とも言える土方の対応に、紗己は瞬時に顔を赤くした。無論怒りだ。
こんな彼女を見たのは初めてで、さすがにまずかったと、再度しまったと思った土方は、慌てて姿勢を正し、弁明しようとする。だが――。
「あ、いやっ違うんだこれは・・・」
「・・・」
「これは・・・・・・」
違うんだ、とも言えず、土方はそのまま口を噤んでしまう。
――今俺はあの女を含む一味に脅されていて、奴等はお前を盾に不正に加担しろと要求してきているんだ――
(んなこと言えるわけねーだろ・・・・・・)
土方はやんわりと頭を振りながら、腰から力を抜き、首筋に手を当てて深く吐息した。
ズキン、ズキンと頭の芯が痛む。
己の体温を感じた途端に、治まったと思っていた頭痛がぶり返してきた。どうやら一時的に痛みを忘れていただけらしい。
ありのまま言やァ、浮気の疑いは晴れるだろう。だが、血生臭ェ事とは無縁のコイツを怯えさせたくねーし、何より巻き込みたくねェ・・・・・・。
誤解を解きたいのはやまやまだが、真実を話すよりも今は、何とか紗己を巻き込まずに解決出来る方法を考えなければ。
土方は眉間に皺を寄せて嘆息すると、目を伏せてそのまま黙り込んだ。
解決策を暗中模索しているのだ。
だが、土方の複雑な心情を知る由もない紗己は、待てども言い訳すらくれない夫の姿に、とうとう我慢の限界がきてしまった。
「もういいです!」
怒りの感情露わに、天板を叩くようにして反動をつけ立ち上がり、高く結い上げた髪を揺らして背中を向け、障子戸に向かって歩き出す。
その後ろ姿を目で追いながら、そりゃァ怒るよな――まるで他人事みたいに土方は思う。
悪いのは・・・少なくともコイツは悪くねェ。そんなこたァ分かってる。止めた方がいいってのも分かってる。分かっちゃいるんだが・・・・・・。
今の紗己を宥められるほど、うまい言い訳も思い付かないし、真実を語ることは絶対に避けたい。
それに、気持ちに一切の余裕を持てないこの状態で、激怒している紗己の相手をするのは正直しんどい。
(けどまあ、このまま放っておくってのも何だしな・・・・・・)
やれやれと嘆息しながら、土方は重たい腰を上げた。
「なあ待てよ、紗己・・・」
言いながら立ち上がり、部屋を出ようとする紗己の細い手首に、とりあえずと手を伸ばしたのだが――。
ぴしっと何かが手の甲に当たり、えっ? と思った瞬間にはもう、土方の伸ばした手は掴むもの無く宙に浮いていた。
しかし地雷源はあくまでも雪乃であり、まさか自分だとは微塵も考えなかった土方の危機感はまだまだ薄く、適当に言い繕えばなんとでもなるとも思った。
元々が穏やかな性格で我を通すタイプでもなく、前に怒った時だって翌日には仲直りできたし、向こうから謝ってきたくらいだ。
今回も怒ってはいるらしいが、世間一般の尺度で言えば、せいぜい不機嫌に毛が生えた程度だろう。コイツはそういう女だ。
雪乃が来たのが事実だとして、目的は本当に財布を届けることだけだったかもしれない。
紗己に不必要な情報を与えたくない土方は、その可能性に懸けた。
誰よりも妻を理解しているとの自負が、軌道修正のチャンスを逃したことに彼は気付かない。
「あー・・・その、アレだろ、財布! 財布届けにきた、だけだろ?」
土方は気まずそうに、そろそろと浮かせていた腰を落とし言葉を並べた。
「・・・・・・」
「だろ?」
すぐに答えない紗己に焦れて、胡座の状態で両膝を落ち着きなく揺する。
「届けに、来て・・・」
「お、おう」
「言って・・・ました」
紗己は俯いていた顔を少しだけ上げ、隣の部屋に虚ろな眼を向けて弱々しく言葉を発する。
「寝入ってたから、起こすのが遅くなってごめんなさいって・・・・・・」
「は? なんだそれ・・・」
「財布、着物の下に紛れてたって・・・・・・」
「え、ちょ、待てって・・・」
サァーッと顔を青ざめさせた土方は、慌てて紗己の言葉を遮ろうとしたが、今の彼女には夫の言い訳めいた声など聞こえていない。
「見送らなくていいって言われたから着物を羽織るまで気付かなかったって・・・っ」
両目をきつく閉じて苦し気に声を絞り出す。
感情を制御しようと必死なのだろう、細い指が袂をぎゅうっと掴んだ。
妻の口から語られる、雪乃が残していったであろう言葉の数々に焦りの色を隠せない土方は、座卓の縁に乱暴に手を乗せて唾を飛ばす。
「ま、待てって! お、落ち着けっ! な、なあ、こっち向けよ」
「・・・・・・」
「なあ紗己、こっち向けって!」
依然として顔を背けたまま、頑としてこちらを見ようとしない紗己の顔を覗き込むように身を乗り出す。
すると、怒りか悲しみか、もしくはその両方に顔を歪める紗己がゆっくりと振り向いた。
「あ・・・・・・ち、違うんだこれはその」
「どういう、こと、ですか・・・っ」
「いや、だからだな・・・」
責めるような目で見据えられ、今度は土方がたまらず視線を逸らした。
座卓の天板に片肘をつき、筋ばった手で口元を覆う。
(何考えてんだあの女! )
妖艶な笑みを浮かべた雪乃を思い出し、胸中で毒づいた。
揉め事の種と共に舞い戻ってきた自身の財布を、苦々しい表情で睨み付ける土方だが、それと同時に微かな違和感も覚える。
(なんかおかしくないか? こんなことして、アイツに何の得があるんだ?)
昨夜の雪乃と、今朝ここでの彼女の行動とがうまく重ならない。何かがおかしい。どこか臭う。
「説明して、ください・・・・・・」
「あー・・・うん・・・」
妻の悲痛な声を聞き流して適当な返事をし、物言わぬ財布を見つめ頬杖を付いて思考をフル回転させる。
雪乃の真の目的が何なのかを探ることに重点を置いているため、深刻な表情で答えを待つ紗己にも土方は気付いていない。
裏がある。ただの親切とか、そんなレベルの話じゃないはずだ。奴等に繋がってるってのか? いや、でもアイツは昨夜・・・・・・
「・・・さん」
「・・・・・・」
「土方さん!」
「あ?」
間の抜けた声が出た。そうだ、話し合いの最中だった。
「あ、ああ悪ィ聞いてなかった。で、何だ?」
「っ・・・!」
最低とも言える土方の対応に、紗己は瞬時に顔を赤くした。無論怒りだ。
こんな彼女を見たのは初めてで、さすがにまずかったと、再度しまったと思った土方は、慌てて姿勢を正し、弁明しようとする。だが――。
「あ、いやっ違うんだこれは・・・」
「・・・」
「これは・・・・・・」
違うんだ、とも言えず、土方はそのまま口を噤んでしまう。
――今俺はあの女を含む一味に脅されていて、奴等はお前を盾に不正に加担しろと要求してきているんだ――
(んなこと言えるわけねーだろ・・・・・・)
土方はやんわりと頭を振りながら、腰から力を抜き、首筋に手を当てて深く吐息した。
ズキン、ズキンと頭の芯が痛む。
己の体温を感じた途端に、治まったと思っていた頭痛がぶり返してきた。どうやら一時的に痛みを忘れていただけらしい。
ありのまま言やァ、浮気の疑いは晴れるだろう。だが、血生臭ェ事とは無縁のコイツを怯えさせたくねーし、何より巻き込みたくねェ・・・・・・。
誤解を解きたいのはやまやまだが、真実を話すよりも今は、何とか紗己を巻き込まずに解決出来る方法を考えなければ。
土方は眉間に皺を寄せて嘆息すると、目を伏せてそのまま黙り込んだ。
解決策を暗中模索しているのだ。
だが、土方の複雑な心情を知る由もない紗己は、待てども言い訳すらくれない夫の姿に、とうとう我慢の限界がきてしまった。
「もういいです!」
怒りの感情露わに、天板を叩くようにして反動をつけ立ち上がり、高く結い上げた髪を揺らして背中を向け、障子戸に向かって歩き出す。
その後ろ姿を目で追いながら、そりゃァ怒るよな――まるで他人事みたいに土方は思う。
悪いのは・・・少なくともコイツは悪くねェ。そんなこたァ分かってる。止めた方がいいってのも分かってる。分かっちゃいるんだが・・・・・・。
今の紗己を宥められるほど、うまい言い訳も思い付かないし、真実を語ることは絶対に避けたい。
それに、気持ちに一切の余裕を持てないこの状態で、激怒している紗己の相手をするのは正直しんどい。
(けどまあ、このまま放っておくってのも何だしな・・・・・・)
やれやれと嘆息しながら、土方は重たい腰を上げた。
「なあ待てよ、紗己・・・」
言いながら立ち上がり、部屋を出ようとする紗己の細い手首に、とりあえずと手を伸ばしたのだが――。
ぴしっと何かが手の甲に当たり、えっ? と思った瞬間にはもう、土方の伸ばした手は掴むもの無く宙に浮いていた。