第十章
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――――――
「・・・っ!」
息苦しさにハッと目を開けた。掛け布団を掴んでいた手の平が、じとっと汗ばんでいる。
見慣れた天井、いつもの布団、住み慣れた部屋――ここは間違いなく自室だ。
すぐには起き上がる気になれず、土方はもぞもぞと両手を頭の下に差し入れ嘆息した。
嫌な夢を見た、気がする。
目覚めた瞬間に夢の内容を忘れてしまうのは誰にでもよくあることで、粘り強く記憶を探っていけば、その内容に辿り着けることもままある。
だが土方は思い出そうとしなかった。どのみち嫌な夢だったのは、速い心拍と胸にもたげる不快感が証明しているし、大方の予想もついていたからだ。
(そりゃァ、嫌な夢くらい見んだろ・・・・・・)
深く吐息して、両腕で頭を挟むようにしながら寝返りを打つと、
「ってェ・・・」
酷い頭痛に思わず声が漏れた。
いろいろと頭の痛いことはあるが、これは正真正銘頭痛、所謂二日酔いだ。
いつもの二日酔いに比べて、今回は全身の倦怠感が半端ない。
原因がただのアルコールではないことを思い出し、土方は腹立たしそうに舌打ちをした。
揃えた人差し指と中指でこめかみを揉み、しかめっ面で柱の時計に目をやる。もう十時半だ。
(しまった、寝過ぎちまった)
いくら帰ってきたのが遅かったとはいえ、これ以上寝ていたら余計に身体が重くなる。考えねばならない事もあるし、そろそろ厠にも行きたい。
土方は身体を起こして布団を捲ると、手近にあった半纏を羽織って続き間の襖を開けた。
程よい冷たさの空気が、むき出しの足首を撫でる。
廊下に面しているために、寝室よりも風通しがよい居間には、炬燵仕様に替わった座卓の前に静かに座っている紗己の姿があった。
「お、なんだいたのか」
言いながら土方はポリポリと腹を掻き、いつもの位置に腰を下ろす。
普段なら、夜勤明けなどで朝が遅めの場合は、土方の睡眠の邪魔にならないようにと、部屋を空けて家事に勤しんでいることが多い紗己。今のように何もしないでじっとしている彼女は珍しい。
「おはようございます・・・・・・」
「おう、おはよう」
返事をして、そばにあった新聞に手を伸ばしたところで、ふと動きを止めた。
そのままの姿勢で、 斜め向かいに座る紗己にちらりと視線を送る。
彼女は笑顔とはとても言えない曇った表情で、自身の膝の辺りをじっと見つめていた。
(怒ってんのか?)
今までに見たことのない妻の様子に、土方はどう反応していいか分からず、とりあえず新聞を手に取って広げてみる。
いつもならば、この時点で茶を淹れるなり何なりとあるのに。紗己は微動だにせず、自分をちろちろと見る土方と目も合わせない。
過去に喧嘩をしたのは関係が発展する前の一度きりで、それ以来怒った紗己を土方は見たことがなかった。無論、些細な言い合いでさえしたことがない。
いつも穏やかでにこやかで、体調が良くない時でも笑顔を見せる紗己。
共に暮らしていれば、ああ機嫌が良いんだなとか、あまり具合が良くないのかとか、気持ちを読むのもそう難しくはない。
だからこそ、今の紗己の表情がそのどれにも当てはまらなく、結果怒っているのだと土方は判断した。
しかし、だ。怒っている理由が分からない。皆目見当がつかない。
昨日屯所を出る際には普段と変わりない様子だったので、予定変更が原因とは考えにくい。
ならばその後から今にかけての間に、紗己が怒っている原因があるはずだ。土方は新聞を読むふりをして考える。
明け方に帰ってきたことか? いや、それも違う気がする。
そもそもが不規則な仕事で、帰宅が遅いのもそう珍しいことではない。それを紗己が不満に思うようなことは、恐らくないだろう。いや、絶対と言ってもいいくらいだ。土方は新聞を読むふりをして頷いている。
帰ってきた時も、別段怒ってなどいなかった。
ひどく酔っていたため断片的ではあるが、玄関の床に寝そべった時、「お帰りなさい」と言って紗己が髪に触れてきたのを覚えている。優しい声を土方は確かに聴いた。
そうだ。あの時も怒ってなかった。だったらどこに原因がある? 土方は新聞で顔を隠して首を捻った。
もしもあるとすれば、時間的には帰宅後から今この瞬間までなのだろうが、こんな朝っぱらから紗己が怒るようなことはまず起こり得ない。
いつもと何ら変わりない平凡な朝だ。槍が降ってきたわけでも、天変地異が起こったわけでもない。いや、そんなことで怒られても困るけど。
妻の日常はいつもと変わらないものだと早々に決め付けた土方だが、結局紗己の重たい表情の理由は分からないままだ。
本当に自分が悪いのなら素直に謝らないでもないが、下手に謝って墓穴を掘るような事態は招きたくない。
何より面倒事は避けたいのだ。これ以上頭の痛い問題は抱えたくない。
少々姑息な手ではあるが、ここは一つ何でもないような顔をして、
「なんだ、具合でも悪いのか?」
新聞を捲りながら訊いてみた。
「・・・・・・」
「紗己?」
返事がないので、新聞から顔を出して紗己の表情を窺う。
「・・・・・・」
唇を一文字に結び、視線を落としたままの姿は、怒っているかは別として、只事ではないと思わせるには十分な様子だ。
土方は参ったとばかりに溜息を落とすと、新聞を畳んで脇に置いた。
「どうしたんだ、何かあったのか?」
「・・・・・・」
「おい、紗己」
聞こえていないわけではない。もっちりとした頬が一瞬引き攣ったのを、土方は見逃さなかった。
以前紗己を怒らせた時でも、こんな表情は見せなかった。
これは余程のことなのだろうかと気が滅入るが、このままでは埒があかないので、紗己が話しやすいようにと落ち着いた声音で話し掛ける。
「なあ、どうしたんだ。何かあったんだろ?」
「・・・・・・」
紗己は押し黙ったまま、座卓の下からゆっくりと手を引き出して『ある物』を差し出した。
焦げ茶色の天板の上に載せられた黒い物体に、土方はんん? と眉を上げる。
(あれ、これ俺の財布だよな?)
背中を丸めて顔を近付け、まじまじとそれを見る。
使い込まれた革素材が味な風合いの財布。間違いなく自身の物だ。
「なんだ、俺ここに忘れてってたのか。見つからねーから、どっかで落としたのかと思ったぜ」
金も去ることながら、免許証等も入っていたため、自室で見つかったことに安堵の息を漏らす。
しかし、ホッとして財布に手を伸ばそうとしたのも束の間、紗己の震える声が土方を停止させた。
「今朝・・・・・・」
「ん?」
「今朝・・・」
紗己は自らを落ち着かせるように、深く息を吸って――少し早口に告げる。
「雪乃って方が届けてくださいました・・・・・・」
いつもは穏やかな空気に包まれている居心地の良い二人の部屋に、緊張を帯びた紗己の声が重々しく響く。
思いもよらぬ妻の言葉に土方は目を見張ると、焦ったように座卓に両手をついて腰を浮かせた。
「え、雪乃って・・・お、おい紗己! 雪乃が、アイツが来てたのか!?」
「っ・・・」
紗己は問いに答えない。顔も上げない。
垂れた前髪が目元を隠しているため、その瞳がどんな色をしているのかは分からない。
けれど、彼女が桜色の唇をきつく噛んだのは土方にも分かった。
「・・・っ!」
息苦しさにハッと目を開けた。掛け布団を掴んでいた手の平が、じとっと汗ばんでいる。
見慣れた天井、いつもの布団、住み慣れた部屋――ここは間違いなく自室だ。
すぐには起き上がる気になれず、土方はもぞもぞと両手を頭の下に差し入れ嘆息した。
嫌な夢を見た、気がする。
目覚めた瞬間に夢の内容を忘れてしまうのは誰にでもよくあることで、粘り強く記憶を探っていけば、その内容に辿り着けることもままある。
だが土方は思い出そうとしなかった。どのみち嫌な夢だったのは、速い心拍と胸にもたげる不快感が証明しているし、大方の予想もついていたからだ。
(そりゃァ、嫌な夢くらい見んだろ・・・・・・)
深く吐息して、両腕で頭を挟むようにしながら寝返りを打つと、
「ってェ・・・」
酷い頭痛に思わず声が漏れた。
いろいろと頭の痛いことはあるが、これは正真正銘頭痛、所謂二日酔いだ。
いつもの二日酔いに比べて、今回は全身の倦怠感が半端ない。
原因がただのアルコールではないことを思い出し、土方は腹立たしそうに舌打ちをした。
揃えた人差し指と中指でこめかみを揉み、しかめっ面で柱の時計に目をやる。もう十時半だ。
(しまった、寝過ぎちまった)
いくら帰ってきたのが遅かったとはいえ、これ以上寝ていたら余計に身体が重くなる。考えねばならない事もあるし、そろそろ厠にも行きたい。
土方は身体を起こして布団を捲ると、手近にあった半纏を羽織って続き間の襖を開けた。
程よい冷たさの空気が、むき出しの足首を撫でる。
廊下に面しているために、寝室よりも風通しがよい居間には、炬燵仕様に替わった座卓の前に静かに座っている紗己の姿があった。
「お、なんだいたのか」
言いながら土方はポリポリと腹を掻き、いつもの位置に腰を下ろす。
普段なら、夜勤明けなどで朝が遅めの場合は、土方の睡眠の邪魔にならないようにと、部屋を空けて家事に勤しんでいることが多い紗己。今のように何もしないでじっとしている彼女は珍しい。
「おはようございます・・・・・・」
「おう、おはよう」
返事をして、そばにあった新聞に手を伸ばしたところで、ふと動きを止めた。
そのままの姿勢で、 斜め向かいに座る紗己にちらりと視線を送る。
彼女は笑顔とはとても言えない曇った表情で、自身の膝の辺りをじっと見つめていた。
(怒ってんのか?)
今までに見たことのない妻の様子に、土方はどう反応していいか分からず、とりあえず新聞を手に取って広げてみる。
いつもならば、この時点で茶を淹れるなり何なりとあるのに。紗己は微動だにせず、自分をちろちろと見る土方と目も合わせない。
過去に喧嘩をしたのは関係が発展する前の一度きりで、それ以来怒った紗己を土方は見たことがなかった。無論、些細な言い合いでさえしたことがない。
いつも穏やかでにこやかで、体調が良くない時でも笑顔を見せる紗己。
共に暮らしていれば、ああ機嫌が良いんだなとか、あまり具合が良くないのかとか、気持ちを読むのもそう難しくはない。
だからこそ、今の紗己の表情がそのどれにも当てはまらなく、結果怒っているのだと土方は判断した。
しかし、だ。怒っている理由が分からない。皆目見当がつかない。
昨日屯所を出る際には普段と変わりない様子だったので、予定変更が原因とは考えにくい。
ならばその後から今にかけての間に、紗己が怒っている原因があるはずだ。土方は新聞を読むふりをして考える。
明け方に帰ってきたことか? いや、それも違う気がする。
そもそもが不規則な仕事で、帰宅が遅いのもそう珍しいことではない。それを紗己が不満に思うようなことは、恐らくないだろう。いや、絶対と言ってもいいくらいだ。土方は新聞を読むふりをして頷いている。
帰ってきた時も、別段怒ってなどいなかった。
ひどく酔っていたため断片的ではあるが、玄関の床に寝そべった時、「お帰りなさい」と言って紗己が髪に触れてきたのを覚えている。優しい声を土方は確かに聴いた。
そうだ。あの時も怒ってなかった。だったらどこに原因がある? 土方は新聞で顔を隠して首を捻った。
もしもあるとすれば、時間的には帰宅後から今この瞬間までなのだろうが、こんな朝っぱらから紗己が怒るようなことはまず起こり得ない。
いつもと何ら変わりない平凡な朝だ。槍が降ってきたわけでも、天変地異が起こったわけでもない。いや、そんなことで怒られても困るけど。
妻の日常はいつもと変わらないものだと早々に決め付けた土方だが、結局紗己の重たい表情の理由は分からないままだ。
本当に自分が悪いのなら素直に謝らないでもないが、下手に謝って墓穴を掘るような事態は招きたくない。
何より面倒事は避けたいのだ。これ以上頭の痛い問題は抱えたくない。
少々姑息な手ではあるが、ここは一つ何でもないような顔をして、
「なんだ、具合でも悪いのか?」
新聞を捲りながら訊いてみた。
「・・・・・・」
「紗己?」
返事がないので、新聞から顔を出して紗己の表情を窺う。
「・・・・・・」
唇を一文字に結び、視線を落としたままの姿は、怒っているかは別として、只事ではないと思わせるには十分な様子だ。
土方は参ったとばかりに溜息を落とすと、新聞を畳んで脇に置いた。
「どうしたんだ、何かあったのか?」
「・・・・・・」
「おい、紗己」
聞こえていないわけではない。もっちりとした頬が一瞬引き攣ったのを、土方は見逃さなかった。
以前紗己を怒らせた時でも、こんな表情は見せなかった。
これは余程のことなのだろうかと気が滅入るが、このままでは埒があかないので、紗己が話しやすいようにと落ち着いた声音で話し掛ける。
「なあ、どうしたんだ。何かあったんだろ?」
「・・・・・・」
紗己は押し黙ったまま、座卓の下からゆっくりと手を引き出して『ある物』を差し出した。
焦げ茶色の天板の上に載せられた黒い物体に、土方はんん? と眉を上げる。
(あれ、これ俺の財布だよな?)
背中を丸めて顔を近付け、まじまじとそれを見る。
使い込まれた革素材が味な風合いの財布。間違いなく自身の物だ。
「なんだ、俺ここに忘れてってたのか。見つからねーから、どっかで落としたのかと思ったぜ」
金も去ることながら、免許証等も入っていたため、自室で見つかったことに安堵の息を漏らす。
しかし、ホッとして財布に手を伸ばそうとしたのも束の間、紗己の震える声が土方を停止させた。
「今朝・・・・・・」
「ん?」
「今朝・・・」
紗己は自らを落ち着かせるように、深く息を吸って――少し早口に告げる。
「雪乃って方が届けてくださいました・・・・・・」
いつもは穏やかな空気に包まれている居心地の良い二人の部屋に、緊張を帯びた紗己の声が重々しく響く。
思いもよらぬ妻の言葉に土方は目を見張ると、焦ったように座卓に両手をついて腰を浮かせた。
「え、雪乃って・・・お、おい紗己! 雪乃が、アイツが来てたのか!?」
「っ・・・」
紗己は問いに答えない。顔も上げない。
垂れた前髪が目元を隠しているため、その瞳がどんな色をしているのかは分からない。
けれど、彼女が桜色の唇をきつく噛んだのは土方にも分かった。