第十章
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「あ、それ・・・」
「ええ、副長さんの財布。こればっかりは、ご本人か奥様にお渡ししないとと思いまして」
雪乃はにっこりと完成された笑みを見せ、黒い財布を紗己に差し出した。
「ありがとうございます! わざわざ届けてくださったんですね」
紗己は財布を受け取り深々と頭を下げると、彼女らしい穏やかな笑顔で言葉を続けた。
「それで、これどこに落ちてたんですか?」
「いいえ? 落ちてたんじゃなくて、お忘れになられたんですよ」
「忘れて、って・・・」
復唱しながら紗己は眉を寄せた。今聞いたばかりの言葉が、頭の中で鈍く反響している。
夫の財布が登場したことで、雪乃を拾得者と認識したばかりだった。それなら土方と雪乃に関連性が無くても、彼女が訪ねてくることに納得がいく。
きっと中身を確認して、免許証を見つけ、持ち主が真選組の副長だと知ったのだろう。まあそこまで事細かには考えなかったが、漠然と、そう思った。
どういう意味だろう。忘れた? 忘れて帰った? どこに? 昨夜の彼の行き先は――?
「・・・あ!」
ぐるぐると思考を巡らせ、あることに気付く。
目の前にいる女性は芸者で、土方は昨夜接待を受けていた。接待とくれば芸者は定番で、二人がそこで顔を合わせている可能性は極めて高い。
あくまでも可能性の段階だがそう信じたい紗己は、内心びくびくしながらも二人の関連性を確かめるために、重々しく口を開く。
「雪乃さんは・・・あの、昨夜のお座敷に、いらしたんですよね・・・・・・?」
「え、ええ」
「そうですか、やっぱり!」
嬉しい答えに、紗己の顔がパァっと華やいだ。
「そっか。土方さん、お座敷にコレ忘れて帰ったんですね」
大事そうに両手で持った財布に視線を落とし、クスッと笑う。
上着を脱いだ時に、ポケットから落ちたのかもしれない。あれほど泥酔していたくらいだから、落としたことにも気付かなかったのだろう。
土方の少し抜けた一面を想像すれば、紗己の頬は自然と緩む。完全無欠の夫の人間味溢れる姿を愛しく思う。
人間味で言えば普段から十分溢れているのだが、あくまでも紗己にとっては、土方は完璧な人間なのだ。
「本当にありがとうございました」
心からの礼を述べる紗己の笑顔は、いかに幸せを感じて日々暮らしているかを物語っている。
雪乃は、切れ長の瞳をすうっと細めた。微笑むように。何かを見定めるように。
「昨夜のこと、奥様はご存知だったんですか」
「昨夜?」
「ほら、私が座敷に上がっていたの、気付かれたでしょう?」
「ああ、そのことですか。急な仕事が入って、接待があるからって聞いてましたから」
昨日の事を思い出して答える。
土方から夜の予定のキャンセルを告げられたのは、昨日の昼過ぎ、彼が昼食のために食堂に顔を出した時だった。
その前夜、寝しなに突然土方から外食の誘いを受けた紗己。仕事もだいぶ落ち着いたしな――そう言って土方は、紗己の方に寝返りを打ってはにかんだ。
夫が忙しい中で自分を気に掛けていてくれた事が、紗己にはたまらなく嬉しかった。だからこそ昨日の予定変更は、紗己にも土方にとっても大変残念なことだったのだ。
「そう・・・急な仕事・・・・・・」
雪乃は物憂げに細く白い指を唇にあて、吐息混じりに呟いた。が、すぐに自信に満ちた表情と親しみやすい穏やかな声音をつくる。
「それはそうと、財布が無かったから随分お困りになったんじゃありません? どうやってお帰りになられたのかしら」
「ええ、帰りは籠屋だったんですよ。かなり酔っていましたから、部屋まで運ぶのも大変でした」
思い出すだけでくたびれてしまうかのか、紗己は頬に手を当て嘆息した。
土方が籠屋で屯所に帰ってきたのは明け方のこと。門番をしていた若い隊士の控えめだが切羽詰まった声によって、待ちくたびれて眠っていた紗己は浅い眠りから引き戻された。
綿入れを羽織って慌てて向かった先は玄関口。ちょうどもう一人の門番によって、担がれるように土方が運び込まれたところだった。聞けば財布が無いらしく、紗己は生活費を詰めた財布から籠屋代を払い、両手足を投げ出していびきをかき始めた夫を、隊士らに自室まで運んでもらったのだ。
その後も着替えさせるのに一苦労し、ようやく床につけるという頃には、紗己の肌襦袢は冬だというのに汗でじっとりと湿っていた。
「あらあら、それは大変でしたわねえ。もっと早くお帰りいただけばよかったかしら」
苦笑いを浮かべる紗己に、雪乃もまた同調するように肩を竦めてみせた。
「何だか申し訳ないわ」
「え?」
何が申し訳ないのだろうときょとんとしている。まだあどけなささえ残る副長夫人の視線を受け、雪乃は着物の袖で口元を隠すようにして小さく笑う。
「いえね、私まですっかり寝入ってしまったもんだから、副長さんを起こすのが遅くなってしまって。ごめんなさいね?」
「・・・え?」
紗己の表情が瞬時に固まった。今までの会話に当てはめるには、話の流れを一変してしまうその『言葉』に、我が耳を疑う紗己。だが雪乃は彼女に考える間さえ与えず、饒舌に昨夜の出来事を語りだす。
「ちゃんとお見送りまでしていたら、財布をお忘れなのに気付けたんですけど。副長さんのお財布、私の着物の下に紛れてたんですよ」
「・・・え・・・・・・?」
「副長さんね、着付け直すのもなんだし、見送らなくていいって言ってくださったの。おかげで私ったら、着物を羽織るまで財布が落ちてることに気付かなくて」
深緑の袖の向こうにちらりと見えた真っ赤な唇が、愉しげに弧を描いた。
「・・・・・・」
一方的に話し続ける雪乃を前に、紗己は茫然と立ち尽くしていた。
頭が真っ白になって、何をしているのか、真っ直ぐに立っているのか、どこを見ているのか、彼女自身分からないでいる。
なに? なにをいってるの? コノヒトハナニヲイッテルノ?
「・・・・・・あっ・・・」
指先から力が抜けて、持っていた財布を落としそうになった。震える手で、夫の財布をしっかりと持ち直す。何も考えられないほど動揺しているのに、落としてはいけないと、こんな時でさえ思ってしまう。
そんな紗己の様子を一瞥して、雪乃は軽く頭を下げ背を向けると、玄関戸を開けた。重たい静けさが漂う玄関に、ガラガラと引き戸の音が一際響く。
そのまま帰るかと思いきや、雪乃は立ち止まりくるりと振り返った。
「こんなに可愛らしい奥様がいるのに、副長さんったら困った人ねえ。でもまあ、男の人っていろいろ発散したい時もありますから。『いろいろ』と」
視線の絡まない紗己にそう言い残すと、白いうなじを見せつけて、雪乃は柔らかな陽に溶けるように去って行った。
「ええ、副長さんの財布。こればっかりは、ご本人か奥様にお渡ししないとと思いまして」
雪乃はにっこりと完成された笑みを見せ、黒い財布を紗己に差し出した。
「ありがとうございます! わざわざ届けてくださったんですね」
紗己は財布を受け取り深々と頭を下げると、彼女らしい穏やかな笑顔で言葉を続けた。
「それで、これどこに落ちてたんですか?」
「いいえ? 落ちてたんじゃなくて、お忘れになられたんですよ」
「忘れて、って・・・」
復唱しながら紗己は眉を寄せた。今聞いたばかりの言葉が、頭の中で鈍く反響している。
夫の財布が登場したことで、雪乃を拾得者と認識したばかりだった。それなら土方と雪乃に関連性が無くても、彼女が訪ねてくることに納得がいく。
きっと中身を確認して、免許証を見つけ、持ち主が真選組の副長だと知ったのだろう。まあそこまで事細かには考えなかったが、漠然と、そう思った。
どういう意味だろう。忘れた? 忘れて帰った? どこに? 昨夜の彼の行き先は――?
「・・・あ!」
ぐるぐると思考を巡らせ、あることに気付く。
目の前にいる女性は芸者で、土方は昨夜接待を受けていた。接待とくれば芸者は定番で、二人がそこで顔を合わせている可能性は極めて高い。
あくまでも可能性の段階だがそう信じたい紗己は、内心びくびくしながらも二人の関連性を確かめるために、重々しく口を開く。
「雪乃さんは・・・あの、昨夜のお座敷に、いらしたんですよね・・・・・・?」
「え、ええ」
「そうですか、やっぱり!」
嬉しい答えに、紗己の顔がパァっと華やいだ。
「そっか。土方さん、お座敷にコレ忘れて帰ったんですね」
大事そうに両手で持った財布に視線を落とし、クスッと笑う。
上着を脱いだ時に、ポケットから落ちたのかもしれない。あれほど泥酔していたくらいだから、落としたことにも気付かなかったのだろう。
土方の少し抜けた一面を想像すれば、紗己の頬は自然と緩む。完全無欠の夫の人間味溢れる姿を愛しく思う。
人間味で言えば普段から十分溢れているのだが、あくまでも紗己にとっては、土方は完璧な人間なのだ。
「本当にありがとうございました」
心からの礼を述べる紗己の笑顔は、いかに幸せを感じて日々暮らしているかを物語っている。
雪乃は、切れ長の瞳をすうっと細めた。微笑むように。何かを見定めるように。
「昨夜のこと、奥様はご存知だったんですか」
「昨夜?」
「ほら、私が座敷に上がっていたの、気付かれたでしょう?」
「ああ、そのことですか。急な仕事が入って、接待があるからって聞いてましたから」
昨日の事を思い出して答える。
土方から夜の予定のキャンセルを告げられたのは、昨日の昼過ぎ、彼が昼食のために食堂に顔を出した時だった。
その前夜、寝しなに突然土方から外食の誘いを受けた紗己。仕事もだいぶ落ち着いたしな――そう言って土方は、紗己の方に寝返りを打ってはにかんだ。
夫が忙しい中で自分を気に掛けていてくれた事が、紗己にはたまらなく嬉しかった。だからこそ昨日の予定変更は、紗己にも土方にとっても大変残念なことだったのだ。
「そう・・・急な仕事・・・・・・」
雪乃は物憂げに細く白い指を唇にあて、吐息混じりに呟いた。が、すぐに自信に満ちた表情と親しみやすい穏やかな声音をつくる。
「それはそうと、財布が無かったから随分お困りになったんじゃありません? どうやってお帰りになられたのかしら」
「ええ、帰りは籠屋だったんですよ。かなり酔っていましたから、部屋まで運ぶのも大変でした」
思い出すだけでくたびれてしまうかのか、紗己は頬に手を当て嘆息した。
土方が籠屋で屯所に帰ってきたのは明け方のこと。門番をしていた若い隊士の控えめだが切羽詰まった声によって、待ちくたびれて眠っていた紗己は浅い眠りから引き戻された。
綿入れを羽織って慌てて向かった先は玄関口。ちょうどもう一人の門番によって、担がれるように土方が運び込まれたところだった。聞けば財布が無いらしく、紗己は生活費を詰めた財布から籠屋代を払い、両手足を投げ出していびきをかき始めた夫を、隊士らに自室まで運んでもらったのだ。
その後も着替えさせるのに一苦労し、ようやく床につけるという頃には、紗己の肌襦袢は冬だというのに汗でじっとりと湿っていた。
「あらあら、それは大変でしたわねえ。もっと早くお帰りいただけばよかったかしら」
苦笑いを浮かべる紗己に、雪乃もまた同調するように肩を竦めてみせた。
「何だか申し訳ないわ」
「え?」
何が申し訳ないのだろうときょとんとしている。まだあどけなささえ残る副長夫人の視線を受け、雪乃は着物の袖で口元を隠すようにして小さく笑う。
「いえね、私まですっかり寝入ってしまったもんだから、副長さんを起こすのが遅くなってしまって。ごめんなさいね?」
「・・・え?」
紗己の表情が瞬時に固まった。今までの会話に当てはめるには、話の流れを一変してしまうその『言葉』に、我が耳を疑う紗己。だが雪乃は彼女に考える間さえ与えず、饒舌に昨夜の出来事を語りだす。
「ちゃんとお見送りまでしていたら、財布をお忘れなのに気付けたんですけど。副長さんのお財布、私の着物の下に紛れてたんですよ」
「・・・え・・・・・・?」
「副長さんね、着付け直すのもなんだし、見送らなくていいって言ってくださったの。おかげで私ったら、着物を羽織るまで財布が落ちてることに気付かなくて」
深緑の袖の向こうにちらりと見えた真っ赤な唇が、愉しげに弧を描いた。
「・・・・・・」
一方的に話し続ける雪乃を前に、紗己は茫然と立ち尽くしていた。
頭が真っ白になって、何をしているのか、真っ直ぐに立っているのか、どこを見ているのか、彼女自身分からないでいる。
なに? なにをいってるの? コノヒトハナニヲイッテルノ?
「・・・・・・あっ・・・」
指先から力が抜けて、持っていた財布を落としそうになった。震える手で、夫の財布をしっかりと持ち直す。何も考えられないほど動揺しているのに、落としてはいけないと、こんな時でさえ思ってしまう。
そんな紗己の様子を一瞥して、雪乃は軽く頭を下げ背を向けると、玄関戸を開けた。重たい静けさが漂う玄関に、ガラガラと引き戸の音が一際響く。
そのまま帰るかと思いきや、雪乃は立ち止まりくるりと振り返った。
「こんなに可愛らしい奥様がいるのに、副長さんったら困った人ねえ。でもまあ、男の人っていろいろ発散したい時もありますから。『いろいろ』と」
視線の絡まない紗己にそう言い残すと、白いうなじを見せつけて、雪乃は柔らかな陽に溶けるように去って行った。