第十章
名前変換はこちら
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
――――――
「紗己ちゃん!」
「え?」
炊事場へと入りかけたところを背後から声を掛けられ、結った髪を揺らして振り返ると、何やら複雑な面持ちの山崎が早足で向かって来た。
「あら、山崎さん。どうかしましたか」
「ああのさ、副長もう起きた?」
「多分寝てると思いますよ。三十分くらい前に部屋を覗いたら、まだ眠ってましたから」
洗濯を終えて一旦部屋に戻ると、土方はまだ眠っていた。起きる気配すらなかったが、起こしてはいけないと部屋を出てきたのだ。
「だよなぁ」
紗己の発言に山崎は、耳の後ろを掻いて溜め息をつく。
「副長帰ってきたの明け方だって聞いてたから、きっとまだ寝てるとは思ったんだけど・・・」
起きてて欲しかった・・・と小さく呟き、眉をハの字にしている山崎を、紗己は訝しげに見やる。
「あの、何かあったんですか?」
「あー・・・うん、実は副長に来客なんだ」
「お客様?」
「なんでも渡したい物があるって。副長はまだ寝てるかもって言ったら、起こすのは気の毒だから、奥様を呼んでくれって言われたんだけど・・・」
どうにも歯切れが悪い。彼が言い淀む理由は分からないが、それならば代わりに顔を出した方がいいのではと、紗己は前掛けを外しながら山崎に声を掛けた。
「あの、お客様は今どちらに?」
「え、あ、ああ玄関に・・・って待って紗己ちゃん!」
「はい?」
「そ、その・・・代わりに俺らが受け取ろうとしたんだけど、大事な物だからって渡してもらえなくてさ・・・」
「お客様がそうおっしゃってるのなら、仕方ないですよ。私が行きますから」
山崎の言葉の真意を知らない紗己は、申し訳なさそうな顔をする彼ににっこり微笑んだ。
玄関に続く廊下を進んでいくと、ちょうど曲がり角のところで、玄関を覗き見るようにしている隊士達のそわそわした背中が見えた。
「・・・皆さん?」
「うわっ!? 紗己ちゃん!!」
突然背後から声を掛けられた事と、その声の主が紗己である事に驚き慌てる隊士達。彼等の興味を一身に引く来客とは、一体どんな人物なのだろうか。
紗己は散り散りに場を離れる素振りを見せる隊士達と入れ替わると、不安にも似た緊張に鼓動を乱されつつ、角からすっと顔を出した。
女の人・・・・・・?
こちらに背を向けて、一人の女が玄関土間に立っている。
深緑の地に黄色い水仙を彩った着物。右腕には脱いだ半纏と藍色の肩掛けを掛けている。髪を低い位置ですっきりと纏め上げており、露になったうなじは遠目からにも透けるように白かった。
此処は土方にとっては自宅である前に職場なので、来客があるのは不自然な事でもなんでもない。けれど、視界に映る後ろ姿と自分の夫に、仕事での繋がりがあるとは紗己には思えなかった。
胸の奥がざわめきだす。紗己は無意識に息を詰め、慎重な足取りで待ち人の元へと近付いていった。
「あら、あなたが副長さんの奥様?」
迫る気配に気付き、女は振り向き様に言った。出し抜けに問い掛けられ、紗己はどうにも臆してしまう。
「あ、はい、妻の紗己ですが・・・あの・・・」
「私、雪乃と申します。以後お見知りおきを」
艶やかな声が、いやに静かな玄関に広がった。
「はあ・・・・・・」
滲み出る大人の女の余裕と色香に、完全に圧倒されている。
殺風景な玄関先に、まるで浮かび上がるように存在感を放つ女――雪乃。真っ赤な紅を引いた唇はやや薄めだが形が良く、きわに色を乗せた切れ長の双眸も落ち着いた雰囲気を醸し出している。
然もすればやや冷たい印象になりそうな涼やかな顔立ちに、開き気味の襟元から覗く白磁の肌が相まって、女性らしさを一層引き立てている。
化粧の仕方にしても、着物の着こなし一つとっても、素堅気ではないのは一目瞭然だ。すぐに芸者だと分かった。だからなのだろうか、夜の街では映えるであろう妖艶さも、日の光の下ではかえって違和感を覚える。
まるで観察でもしているかのようにじぃっと見つめてくる紗己に、雪乃は流れるような仕草で手を口元へと持っていって笑った。
「芸者がお天道さんの下にいるのが、そんなに物珍しいかしら?」
「えっ、あ、いえその・・・」
そんなことないですと言おうとしたが、うまく口が回らなかった。
元々が口下手で、思ってもいない事を口に出来ないし嘘もつけない。だから言えなかった。雪乃の言う通り、芸者が午前中に町を出歩いていることに、紗己は物珍しさを感じていたのだ。
顔がカァっと熱くなる。言い当てられてしまったことと、初対面の人物に好奇の目を向けていた自分自身が恥ずかしくて堪らない。
どうしていいか分からずに俯いてしまった紗己を見て、雪乃はクスクスと笑い、眉尻を下げた。
「ふふ、可愛らしい方だこと。これじゃあ副長さんも・・・」
頑ななわけよねえ――少し間をおいて小さく呟くと、聞こえなかったのか紗己は顔を上げて雪乃を見た。
「え?」
「いーえ、こちらの話ですよ」
「はあ・・・・・・」
会話が終わってしまい、また紗己に気まずさが舞い戻ってきた。
帯締めを弄りながら、目の前の客人とどう接すればいいのかを考える。と、そこで、客人を玄関土間に立たせたままである事に紗己はようやく気付いた。
「あっあの、私ったら失礼な・・・どうぞお上がりください!」
「お気になさらず、すぐに失礼しますから。ここで結構ですよ」
「で、でも・・・」
「本当にお気になさらないでくださいな。そうそう、今日はお渡ししたい物がありましてね」
言いながら、袂に手を入れる。衣擦れの音が止んだと同時に雪乃が手にしていた物――それは土方の財布だった。
「紗己ちゃん!」
「え?」
炊事場へと入りかけたところを背後から声を掛けられ、結った髪を揺らして振り返ると、何やら複雑な面持ちの山崎が早足で向かって来た。
「あら、山崎さん。どうかしましたか」
「ああのさ、副長もう起きた?」
「多分寝てると思いますよ。三十分くらい前に部屋を覗いたら、まだ眠ってましたから」
洗濯を終えて一旦部屋に戻ると、土方はまだ眠っていた。起きる気配すらなかったが、起こしてはいけないと部屋を出てきたのだ。
「だよなぁ」
紗己の発言に山崎は、耳の後ろを掻いて溜め息をつく。
「副長帰ってきたの明け方だって聞いてたから、きっとまだ寝てるとは思ったんだけど・・・」
起きてて欲しかった・・・と小さく呟き、眉をハの字にしている山崎を、紗己は訝しげに見やる。
「あの、何かあったんですか?」
「あー・・・うん、実は副長に来客なんだ」
「お客様?」
「なんでも渡したい物があるって。副長はまだ寝てるかもって言ったら、起こすのは気の毒だから、奥様を呼んでくれって言われたんだけど・・・」
どうにも歯切れが悪い。彼が言い淀む理由は分からないが、それならば代わりに顔を出した方がいいのではと、紗己は前掛けを外しながら山崎に声を掛けた。
「あの、お客様は今どちらに?」
「え、あ、ああ玄関に・・・って待って紗己ちゃん!」
「はい?」
「そ、その・・・代わりに俺らが受け取ろうとしたんだけど、大事な物だからって渡してもらえなくてさ・・・」
「お客様がそうおっしゃってるのなら、仕方ないですよ。私が行きますから」
山崎の言葉の真意を知らない紗己は、申し訳なさそうな顔をする彼ににっこり微笑んだ。
玄関に続く廊下を進んでいくと、ちょうど曲がり角のところで、玄関を覗き見るようにしている隊士達のそわそわした背中が見えた。
「・・・皆さん?」
「うわっ!? 紗己ちゃん!!」
突然背後から声を掛けられた事と、その声の主が紗己である事に驚き慌てる隊士達。彼等の興味を一身に引く来客とは、一体どんな人物なのだろうか。
紗己は散り散りに場を離れる素振りを見せる隊士達と入れ替わると、不安にも似た緊張に鼓動を乱されつつ、角からすっと顔を出した。
女の人・・・・・・?
こちらに背を向けて、一人の女が玄関土間に立っている。
深緑の地に黄色い水仙を彩った着物。右腕には脱いだ半纏と藍色の肩掛けを掛けている。髪を低い位置ですっきりと纏め上げており、露になったうなじは遠目からにも透けるように白かった。
此処は土方にとっては自宅である前に職場なので、来客があるのは不自然な事でもなんでもない。けれど、視界に映る後ろ姿と自分の夫に、仕事での繋がりがあるとは紗己には思えなかった。
胸の奥がざわめきだす。紗己は無意識に息を詰め、慎重な足取りで待ち人の元へと近付いていった。
「あら、あなたが副長さんの奥様?」
迫る気配に気付き、女は振り向き様に言った。出し抜けに問い掛けられ、紗己はどうにも臆してしまう。
「あ、はい、妻の紗己ですが・・・あの・・・」
「私、雪乃と申します。以後お見知りおきを」
艶やかな声が、いやに静かな玄関に広がった。
「はあ・・・・・・」
滲み出る大人の女の余裕と色香に、完全に圧倒されている。
殺風景な玄関先に、まるで浮かび上がるように存在感を放つ女――雪乃。真っ赤な紅を引いた唇はやや薄めだが形が良く、きわに色を乗せた切れ長の双眸も落ち着いた雰囲気を醸し出している。
然もすればやや冷たい印象になりそうな涼やかな顔立ちに、開き気味の襟元から覗く白磁の肌が相まって、女性らしさを一層引き立てている。
化粧の仕方にしても、着物の着こなし一つとっても、素堅気ではないのは一目瞭然だ。すぐに芸者だと分かった。だからなのだろうか、夜の街では映えるであろう妖艶さも、日の光の下ではかえって違和感を覚える。
まるで観察でもしているかのようにじぃっと見つめてくる紗己に、雪乃は流れるような仕草で手を口元へと持っていって笑った。
「芸者がお天道さんの下にいるのが、そんなに物珍しいかしら?」
「えっ、あ、いえその・・・」
そんなことないですと言おうとしたが、うまく口が回らなかった。
元々が口下手で、思ってもいない事を口に出来ないし嘘もつけない。だから言えなかった。雪乃の言う通り、芸者が午前中に町を出歩いていることに、紗己は物珍しさを感じていたのだ。
顔がカァっと熱くなる。言い当てられてしまったことと、初対面の人物に好奇の目を向けていた自分自身が恥ずかしくて堪らない。
どうしていいか分からずに俯いてしまった紗己を見て、雪乃はクスクスと笑い、眉尻を下げた。
「ふふ、可愛らしい方だこと。これじゃあ副長さんも・・・」
頑ななわけよねえ――少し間をおいて小さく呟くと、聞こえなかったのか紗己は顔を上げて雪乃を見た。
「え?」
「いーえ、こちらの話ですよ」
「はあ・・・・・・」
会話が終わってしまい、また紗己に気まずさが舞い戻ってきた。
帯締めを弄りながら、目の前の客人とどう接すればいいのかを考える。と、そこで、客人を玄関土間に立たせたままである事に紗己はようやく気付いた。
「あっあの、私ったら失礼な・・・どうぞお上がりください!」
「お気になさらず、すぐに失礼しますから。ここで結構ですよ」
「で、でも・・・」
「本当にお気になさらないでくださいな。そうそう、今日はお渡ししたい物がありましてね」
言いながら、袂に手を入れる。衣擦れの音が止んだと同時に雪乃が手にしていた物――それは土方の財布だった。