第十章
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「っ・・・な、なんだ?」
何事かと驚き、乱暴に障子窓へと振り向いた土方の見開かれた双眸に映ったもの――それは、冬の夜空に咲いては散る花火だった。
次々と打ち上げられる花火に、芸者達は若い娘らしくきゃあきゃあとはしゃいでいる。その娘達に挟まれている男共も、驚いたように窓の向こうを見入っていることから、これは彼等の仕業ではないのだろう。
それにしても、こんな季節外れの演出を一体誰が手掛けたのか。窓の向こう側は川なので、恐らく花火は川縁で打ち上げられているはずだ。それもこの座敷に、座っている各人の目に留まるよう、完璧な位置計算のもとで。
花火の美しさにではなく、状況に思考が追い付かず唖然とする土方。しかし彼を混乱させる事態は、これで終わりでは無かった。
右上腕に温もりを感じふと視線を落とすと、隣に座る雪乃が凭れ掛かるようにして身体を寄せてきている。彼女は切れ長の瞳を弓のようにしてにっこりと笑った。
微笑みの中に見える、決意を固めたような迷いの無い眼差しが、土方へと真っ直ぐに向けられている。
さっきまでは、思わずつられて緊張してしまう程緊迫した気を発していたのに・・・と訝しむ土方だが、すぐにその表情も固まってしまった。ふいに伸びてきた白い手が、土方の手から素早く猪口を奪ったからだ。
雪乃は舞うようになめらかな動きで自身の着物の袖口をつんと広げると、手にした猪口をさっと傾け――中身を右の袂に流し入れた。
「・・・っ、な・・・」
驚きのあまり言葉にもならず、開いた口から漏れ出た声も打ち上げ続けられる花火によってかき消される。
流水模様の袖の内側に消えた、猪口丸々一杯分の酒。容量だけで言えば大したものではないが、布地にぶちまけたとあれば、いくら袷の着物であっても表側に滲んでしまうのは必至だ。
呆気に取られている土方の宙で固まったままの手に、雪乃は空の猪口をそっと戻した。この突飛な早業を見逃していれば、早々に中身を飲み干したと連中は思うだろう。
ふと思った土方は、一瞬だけ目線を男達に向けた。
向かって右側に座る芸者達が揃って身を乗り出し、花火へと腕を伸ばしてはしゃいでいるせいで、垂れる袖が目隠しとなり連中の顔が見えない。どうやらこちらの様子は見られていないらしい。
薄い靄がかかったように考えがまとまらない中、土方は視線を落として手元の猪口を凝視する。
なんなんだこの女は・・・何のためにこんなことをする? まるで正気の沙汰とは思えねェ。あの口ぶりからすれば、酒に何か仕込んで・・・いや、それならどうして・・・・・・。
目の周りがじとっと重くなり、怠さを分散させるために頭を乱暴に振る。理解の範疇を超えた雪乃の行動に、いよいよ混乱し始めたのか。
乱れた黒髪を空いている右手で一掻きして、薄く開いた唇から息を吐き出した途端、土方の腕からふうっと力が抜けた。戻ってきたばかりの猪口が、手からぼとりと畳に落ちる。
「っ、あ・・・?」
頭の芯が溶けていくような感覚に、激しい眩暈が土方を襲う。真っ直ぐ顔を上げることすらままならない。
どう、なってんだ・・・・・・? 頭が重くて仕方ねえ・・・・・・。
何が起こっているのか考えようとしても、その度に思考の扉を無理矢理閉じられてしまう。転がる猪口を目で追えば、黒い着物を纏った雪乃の膝が視界に入った。
勝手に下を向いてしまう顔を、何とかぐっと持ち上げて彼女を見つめる。土方の目には、雪乃は僅かに困惑しているように見えた。
頭がぼうっとして視界の利きが悪いので、実際とは異なるのかも知れないが。
「お、前・・・」
「・・・」
彼女は何も言わないが、やけに真剣な目でじっと土方を見つめ返す。大丈夫だと言われている気がしてしまうのも、まともな判断力を失っているからだろうか。
ますます重たくなっていく身体を起こしていることさえ困難で、とうとう土方は畳に手を付いてしまった。こうなれば、さすがに周囲も異変にも気付くというもの。
「・・・飲み過ぎたようだね、土方君」
視界を邪魔する芸者の袖の奥から、暖簾をくぐるように顔を覗かせ、髭の男がニヤッと笑った。
「う、るせェ・・・」
「ほお、まだ起きていられるとは」
土方の使用していた猪口が畳を濡らしていないのを見て、全部飲み干したと思ったようだ。
「常人ならすぐに落ちるところを、さすが『鬼』の名は伊達じゃありませんなぁ」
「ああ全くだ。しかし、そろそろ限界じゃないのかね」
「ちっ・・・」
彼等の話から、やはり酒には薬が仕込まれていたのだと土方は気付く。痛みや息苦しさは無いので、恐らくはただの睡眠薬だろう。だから雪乃は舐めるだけにしろと言ったのかと、頭の片隅で思う。
舐めるだけで、この効き目かよ・・・ん? いや違う、あの時・・・・・・。
飲むフリをしようと猪口を口に当てたところ花火が打ち上がり、それに驚き思わず一口飲んでしまったのだ。思い出した土方は苦々しく顔を歪め、それでも意識を保つために、自身の膝に爪をたてた。
「何の、ため・・・に、こんな・・・」
「ご心配なさらずとも、危害を加える気など毛頭ございません」
「そうとも。君が姿を消しては意味がないからねェ」
髭を撫で整えながら、言葉を続ける。
「ちゃんと帰ってもらうよ。朝までには、ね」
「朝まで、って・・・」
ちょうど花火が終わったらしく、土方の切れ切れの声も静まり返った座敷にはよく通る。その苦し気な姿を髭の男は一瞥してから、両隣の芸者の手をむんずと掴むと自身の太腿に乗せた。
「君の奥方は、随分と若い娘さんだそうだね」
「それが・・・っ、どうした・・・」
「傷付くだろうねェ、新婚早々夫が女の匂いを纏って帰ってくれば」
「なっ・・・」
太腿の上で若い娘の手を揉むイヤらしい男の目線が、土方から雪乃にスウッと移った。雪乃は喜怒哀楽の全く読めない能面のような表情で、じっと前方を見据えている。
「私は慎重な男でね。念には念を、損をしない保険ならいくらでも掛けたい性格なんだ」
「どういう、意味だっ・・・」
怪しくなってきた雲行きに、予想は出来てもつい訊き返してしまう。
「こちらは手の内を明かしたんだ。秘密を握られているようなもんだろう? 我々は君の秘密が欲しい。だから今夜、それを作ってもらおうと思ってね」
「じょ、冗談っ・・・じゃ、ね・・・ぞ」
屈めた背中に、冷たい汗が一筋流れる。
勝手に巻き込んでおいて人の女房を脅しの道具にして、この期に及んでまだ脅しのネタを欲しがるとは。なんと強欲で狡猾な連中だろうと、怒りは勿論のこと土方は呆れすら覚える。
とはいえ、もう目を開けているのも限界といった状態で、誰の目にも今の彼は弱々しく映る。
軽く肩を突けばそのまま傾き倒れそうな土方に、男達は遠慮無い言葉を投げつける。
「なあに、いずれにしても手を組むのだから、今夜はたっぷり楽しんでくださればいいんですよ」
「奥さんが妊娠中だと、何かと不便もあるだろうしねぇ」
「っ・・・ざけ、な・・・」
反論虚しく、掠れた声が途切れると同時に、土方はとうとう畳に崩れ落ちた。
い草の匂いと、微かに漂う火薬の匂い。障子窓の向こう側には雪がちらついている。
消えゆく意識の中、愛しい妻の笑顔が瞼の裏に見えた気がした。
「紗己・・・」
小さく呟いたのを最後に、土方は完全に意識を手離した。
何事かと驚き、乱暴に障子窓へと振り向いた土方の見開かれた双眸に映ったもの――それは、冬の夜空に咲いては散る花火だった。
次々と打ち上げられる花火に、芸者達は若い娘らしくきゃあきゃあとはしゃいでいる。その娘達に挟まれている男共も、驚いたように窓の向こうを見入っていることから、これは彼等の仕業ではないのだろう。
それにしても、こんな季節外れの演出を一体誰が手掛けたのか。窓の向こう側は川なので、恐らく花火は川縁で打ち上げられているはずだ。それもこの座敷に、座っている各人の目に留まるよう、完璧な位置計算のもとで。
花火の美しさにではなく、状況に思考が追い付かず唖然とする土方。しかし彼を混乱させる事態は、これで終わりでは無かった。
右上腕に温もりを感じふと視線を落とすと、隣に座る雪乃が凭れ掛かるようにして身体を寄せてきている。彼女は切れ長の瞳を弓のようにしてにっこりと笑った。
微笑みの中に見える、決意を固めたような迷いの無い眼差しが、土方へと真っ直ぐに向けられている。
さっきまでは、思わずつられて緊張してしまう程緊迫した気を発していたのに・・・と訝しむ土方だが、すぐにその表情も固まってしまった。ふいに伸びてきた白い手が、土方の手から素早く猪口を奪ったからだ。
雪乃は舞うようになめらかな動きで自身の着物の袖口をつんと広げると、手にした猪口をさっと傾け――中身を右の袂に流し入れた。
「・・・っ、な・・・」
驚きのあまり言葉にもならず、開いた口から漏れ出た声も打ち上げ続けられる花火によってかき消される。
流水模様の袖の内側に消えた、猪口丸々一杯分の酒。容量だけで言えば大したものではないが、布地にぶちまけたとあれば、いくら袷の着物であっても表側に滲んでしまうのは必至だ。
呆気に取られている土方の宙で固まったままの手に、雪乃は空の猪口をそっと戻した。この突飛な早業を見逃していれば、早々に中身を飲み干したと連中は思うだろう。
ふと思った土方は、一瞬だけ目線を男達に向けた。
向かって右側に座る芸者達が揃って身を乗り出し、花火へと腕を伸ばしてはしゃいでいるせいで、垂れる袖が目隠しとなり連中の顔が見えない。どうやらこちらの様子は見られていないらしい。
薄い靄がかかったように考えがまとまらない中、土方は視線を落として手元の猪口を凝視する。
なんなんだこの女は・・・何のためにこんなことをする? まるで正気の沙汰とは思えねェ。あの口ぶりからすれば、酒に何か仕込んで・・・いや、それならどうして・・・・・・。
目の周りがじとっと重くなり、怠さを分散させるために頭を乱暴に振る。理解の範疇を超えた雪乃の行動に、いよいよ混乱し始めたのか。
乱れた黒髪を空いている右手で一掻きして、薄く開いた唇から息を吐き出した途端、土方の腕からふうっと力が抜けた。戻ってきたばかりの猪口が、手からぼとりと畳に落ちる。
「っ、あ・・・?」
頭の芯が溶けていくような感覚に、激しい眩暈が土方を襲う。真っ直ぐ顔を上げることすらままならない。
どう、なってんだ・・・・・・? 頭が重くて仕方ねえ・・・・・・。
何が起こっているのか考えようとしても、その度に思考の扉を無理矢理閉じられてしまう。転がる猪口を目で追えば、黒い着物を纏った雪乃の膝が視界に入った。
勝手に下を向いてしまう顔を、何とかぐっと持ち上げて彼女を見つめる。土方の目には、雪乃は僅かに困惑しているように見えた。
頭がぼうっとして視界の利きが悪いので、実際とは異なるのかも知れないが。
「お、前・・・」
「・・・」
彼女は何も言わないが、やけに真剣な目でじっと土方を見つめ返す。大丈夫だと言われている気がしてしまうのも、まともな判断力を失っているからだろうか。
ますます重たくなっていく身体を起こしていることさえ困難で、とうとう土方は畳に手を付いてしまった。こうなれば、さすがに周囲も異変にも気付くというもの。
「・・・飲み過ぎたようだね、土方君」
視界を邪魔する芸者の袖の奥から、暖簾をくぐるように顔を覗かせ、髭の男がニヤッと笑った。
「う、るせェ・・・」
「ほお、まだ起きていられるとは」
土方の使用していた猪口が畳を濡らしていないのを見て、全部飲み干したと思ったようだ。
「常人ならすぐに落ちるところを、さすが『鬼』の名は伊達じゃありませんなぁ」
「ああ全くだ。しかし、そろそろ限界じゃないのかね」
「ちっ・・・」
彼等の話から、やはり酒には薬が仕込まれていたのだと土方は気付く。痛みや息苦しさは無いので、恐らくはただの睡眠薬だろう。だから雪乃は舐めるだけにしろと言ったのかと、頭の片隅で思う。
舐めるだけで、この効き目かよ・・・ん? いや違う、あの時・・・・・・。
飲むフリをしようと猪口を口に当てたところ花火が打ち上がり、それに驚き思わず一口飲んでしまったのだ。思い出した土方は苦々しく顔を歪め、それでも意識を保つために、自身の膝に爪をたてた。
「何の、ため・・・に、こんな・・・」
「ご心配なさらずとも、危害を加える気など毛頭ございません」
「そうとも。君が姿を消しては意味がないからねェ」
髭を撫で整えながら、言葉を続ける。
「ちゃんと帰ってもらうよ。朝までには、ね」
「朝まで、って・・・」
ちょうど花火が終わったらしく、土方の切れ切れの声も静まり返った座敷にはよく通る。その苦し気な姿を髭の男は一瞥してから、両隣の芸者の手をむんずと掴むと自身の太腿に乗せた。
「君の奥方は、随分と若い娘さんだそうだね」
「それが・・・っ、どうした・・・」
「傷付くだろうねェ、新婚早々夫が女の匂いを纏って帰ってくれば」
「なっ・・・」
太腿の上で若い娘の手を揉むイヤらしい男の目線が、土方から雪乃にスウッと移った。雪乃は喜怒哀楽の全く読めない能面のような表情で、じっと前方を見据えている。
「私は慎重な男でね。念には念を、損をしない保険ならいくらでも掛けたい性格なんだ」
「どういう、意味だっ・・・」
怪しくなってきた雲行きに、予想は出来てもつい訊き返してしまう。
「こちらは手の内を明かしたんだ。秘密を握られているようなもんだろう? 我々は君の秘密が欲しい。だから今夜、それを作ってもらおうと思ってね」
「じょ、冗談っ・・・じゃ、ね・・・ぞ」
屈めた背中に、冷たい汗が一筋流れる。
勝手に巻き込んでおいて人の女房を脅しの道具にして、この期に及んでまだ脅しのネタを欲しがるとは。なんと強欲で狡猾な連中だろうと、怒りは勿論のこと土方は呆れすら覚える。
とはいえ、もう目を開けているのも限界といった状態で、誰の目にも今の彼は弱々しく映る。
軽く肩を突けばそのまま傾き倒れそうな土方に、男達は遠慮無い言葉を投げつける。
「なあに、いずれにしても手を組むのだから、今夜はたっぷり楽しんでくださればいいんですよ」
「奥さんが妊娠中だと、何かと不便もあるだろうしねぇ」
「っ・・・ざけ、な・・・」
反論虚しく、掠れた声が途切れると同時に、土方はとうとう畳に崩れ落ちた。
い草の匂いと、微かに漂う火薬の匂い。障子窓の向こう側には雪がちらついている。
消えゆく意識の中、愛しい妻の笑顔が瞼の裏に見えた気がした。
「紗己・・・」
小さく呟いたのを最後に、土方は完全に意識を手離した。