第十章
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――気を付けてくださいね。行ってらっしゃい。
今夜は冷えるらしいですから、暖かくしていかないと。
あ、そうそう。雪。
ふふ、夜になったら雪が降るかもって天気予報で言ってましたよ――。
「・・・・・・」
出掛けの紗己との会話を思い出し、土方は眉を寄せて瞼を閉じた。宙に浮いたままの右手を、ゆっくりと胡座をかいた膝の上に下ろす。
たとえどんな条件を出されようと、手を組むつもりはやはり無い。しかしここで非協力的な態度を示せば、取り返しのつかない事態を引き起こしかねない。
こうして来ちまった以上、もう無かったことには出来ねえ。今後の身のふりは追々考えるとして、今は大人しく引き込まれてやるしかねェな。
とりあえず従うフリをする。話も聞くだけ聞いてやる。胸中で自身にそう言い聞かせ、土方は深く吐息してから瞼を開けた。
慎重にならざるを得ない土方とは対照的に、おそらくは思い描いていた通りの展開になったであろう男達。平然と酒を飲み箸を進める二人の姿が、その余裕を物語っている。
「まあまあそんな怖い顔をなさらずに。持ちつ持たれつでやっていこうじゃありませんか」
「何が持ちつ持たれつだ、胸糞悪ィ」
言いながら胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、中から一本摘み取り、素早く火を点けてせっかちに吸い出した。それはあっという間に灰となり、また次の一本を取り出し火を点ける。
何とか自分のペースを取り戻そうとする土方を嘲笑うかのように、髭の男は自身の猪口を顔の高さまで持ち上げた。乾杯の動作のようにも見える。
「護るものが多いと何かと大変だ。なあ、土方君?」
「っ、てめェ・・・」
素手で十分だったとしても、今ここで暴れられないもどかしさに奥歯をギリッと鳴らす。
土方はまだ長さのある煙草を手元の灰皿に押し付けると、依然怒りの色を宿した双眸で向かい側に座る男達を見据えた。
乾いた唇から吐き出された声は、地を這うように低く重たい。
「・・・これだけは覚えとけ。鬼の名は伊達じゃねえぞ、万一のことがあればその時はてめえらだけじゃなく一族根絶やしにしてやるからな・・・・・・!」
「あらあら、随分と物騒な話だこと」
「っ・・・!?」
突然艶を帯びた声が聴こえ、驚いた土方は声のする方へと顔を向けた。黒地に扇の流水模様の着物を纏った芸者が、しゃなりしゃなりと土方に近付いてくる。
「お座敷は楽しんで頂けてないのかしら、副長さん?」
緩やかな弧を描いた切れ長の瞳で妖艶に笑う。
「・・・楽しんでいるように見えるか?」
一瞬呆気に取られた土方だったが、すぐに憮然とした表情でそっけなく言い放った。
思わぬ横槍に、臨界点に近かった怒りの感情が一気に盛り下がっていく。土方自身が望んでいたかは別として、それは彼にとって落ち着きを取り戻すきっかけではあった。
気持ちに余裕の無かった土方は気付いていなかったが、つい先程舞が終わったばかりだった。
あらためて室内を見渡す。一仕事終えた芸者達は、今宵の上客の傍らに次々に腰を下ろしているところだ。酌をして機嫌を取り宴席を盛り立てる。それも彼女達の仕事である。
「そんな顔して帰らせたんじゃあ、芸者の名が廃るってもんだわねえ」
土方の前で立ち止まると、彼女は静かに腰を下ろした。
「お初に御目にかかります、雪乃と申します」
指をついて頭を下げる。水白粉を塗られたうなじと背中が、大きく開いた襟元から丸見えだ。
特別な反応を見せずにちらっと一瞥しただけの土方に、向かい側でまだ年若い芸者に挟まれた髭の高官が、やけに自慢げに声を掛けてくる。
「雪乃は私が特に目をかけている芸妓なんだよ」
「・・・」
だからなんだと思いはするが、あえて口には出さない。土方はまた煙草を吸おうとポケットに手を差し入れた。
「あ?」
厚みの無い感触に、思わず声が漏れ出てしまう。
残念なことに中身はからっぽだった。頭に血が上っていたので、先程のが最後の一本だということに気付かなかった。
こうなってみると、灰皿の中で数本の吸殻に混じって、中ほどから折れてしまっている一本が非常に勿体無く見える。まだまだ吸える長さがあったのに、と残念に思うが、惨めたらしく灰皿から取り出すなんて出来るわけも無い。
何もかも思い通りにならないことに苛立つ土方は、空の箱をグシャッと握りつぶした。
――――――
茶屋の女中が座敷に酒を運んできた。
武器商人は一旦箸を置き女中を呼び止め、酒が載った二つの膳を確かめるように眺めてから、うち一つを上座へと持っていくように告げた。上座に座る土方の前に、徳利三本が載せられた膳が置かれる。
雪乃は両手を付き、畳の上を滑るように前方に移った。反対の手で袖を押さえつつ、膳へと伸ばされた手。一瞬、それはほんの一瞬――細く白い指先が、躊躇うように宙で動きを止めた。
土方は僅かに眉を動かすが、黙ったまま腕を組んで雪乃を見据える。視線を感じ取った雪乃は両目を細めてにこりと笑い、真ん中の徳利を手に取った。
「せっかくですから、煙草よりもお酒はいかが?」
「・・・ああ」
組んでいた手を下ろし、自身の猪口を差し出す。
並々と注がれた酒を見て喉の渇きが加速していくが、それでも土方はすぐには口を付けずに右手を伸ばす。大きく武骨な手が、雪乃の手ごと徳利を掴んだ。手の中でぴくりと動いた彼女の指先は、驚くほどに冷たい。
「お前も飲め」
雪乃から徳利を取り上げると、顎をしゃくって合図する。察した彼女は先程運ばれてきた膳の上の猪口を手に取り、素直に土方の前に差し出した。
「ありがたく頂戴いたします」
「いけるクチか?」
「まあ、弱くはありませんねえ」
言い終えたと同時に、注がれた中身を二度に分けて飲み干した。
「ああ、美味しい」
真っ赤な唇が酒に濡れて艶を増す。その姿に、土方は眉間に軽く皺を寄せた。
何も
「・・・いい飲みっぷりじゃねェか」
また彼女の猪口に酒を注ぎ足し、自らも一気に飲み干した。
一本目の酒を飲み終えようという時、タイミングを計っていたように武器商人が土方に声を掛けてきた。
「たまにはこういうのも悪くはないでしょう。美女に銘酒、一年を締め括るのにはもってこいの組み合わせだ」
「相手がアンタ等でなければ、そう悪くは無ェんだが」
「これは手厳しい」
「それに俺は、自宅で寛ぎながら飲む酒の方が好きなんでね」
新婚相手に無粋な事を訊くなと思いながら、隣に座る雪乃をちらりと横目で見やる。愛しい妻とはまた違った笑みを浮かべる彼女と目が合った途端、胸の中にもやっとしたものが広がった。
この女は――土方は軽く首を捻ると、猪口に残っていた酒をクイッと飲み干し口端を親指で拭った。喉奥から込み上げてくる熱い息が、強いアルコール臭を放っているのが自分でもわかる。
今夜はこのまま飲み続けるだけなのか、それともこれからまた本題へと戻るのか。連中の出方を探りたいが、下手な発言は控えねばならない。
第一これ以上酒を飲めば、思考は鈍る一方だ。そう思った矢先、髭の男が口元に薄い笑いを浮かべて両手を打った。パンパンと乾いた音が座敷に広がる。
「さあさあ土方君、まだ飲み足らないんじゃないかね。まさか、この程度の酒で酔いが回ったとは言わんだろう?」
まるで挑発するように、隣の武器商人と顔を見合わせニヤニヤと笑う。その態度が気に障った土方は、眉を吊り上げ空の猪口を雪乃に向けて突き出した。
「注げ!」
「・・・はい、ただいま」
強い口調に急かされるように、帯の内側に指を差し込み帯揚げを整えていた雪乃が、その手を徳利へと伸ばした。
ゆっくりとした動作で一本手に取る。両手でそれを大事そうに持つと、雪乃は土方の肩に摺り寄り、耳元で吐息混じりに囁いた。
「・・ ねえ、土方さん」
唇をあまり動かさずに話すのは、向かいに座る男達に気付かれないためか。
「美味しいお酒は舐めるだけにした方がいいわ」
囁きながら酒を注ぐ。
「お前・・・・・・?」
謎めいた言葉に再びもやっとしたものを感じた土方は、顎を引いて雪乃の様子を窺う。視線が絡むと同時に、彼女は小さく頷いた。
この女、何を企んでいやがる?
何か裏があると確信しながらも、猪口を持つ手は自然と口元へと動いていく。今この場で問い質してはいけない気がするのはどうしてだろう。
ゆっくりとした動きの中、もう一度雪乃へと視線を移す。妖艶に微笑んではいるが、よく見れば赤い唇は微かに震えていた。
そうか、コイツは――正体不明の感情が何なのか、土方はようやく気付いた。
先程から感じていたもの。それは緊張だ。彼女を纏う緊迫した空気が隣に座る土方にも伝わり、それが緊張となり彼に違和感を覚えさせていたらしい。
どうして彼女が切迫しているのか、どんな理由が隠されているのかは分からないが、不思議と敵意は感じられない。ここは合わせてやるべきなのだろうか・・・考えながら、猪口に口を付けた時――。
ドーン、と腹に響く爆発音と共に、障子窓の外が眩く光った。