第十章
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「なんでも奥さんは身重だとか。ははは、幸せの絶頂だろうねえ」
「っ・・・てめェ!」
左手を畳に叩き付けると、その反動で瞬時に片膝を立て、瞬発力を最大限に活かせる低い姿勢を取る。今にも飛び掛かりそうなその姿は、鎖を引き千切ろうとする獰猛な獣のようだ。ここに刀を持ち込んでいたなら、間違いなく鞘から抜き出していただろう。
不穏な空気に、踊りを止めた芸者達が顔を見合わせてざわめき出す。音が止んだ宴の間は、土方の発する殺気のせいで息苦しいまでの緊張に包まれている。
「おいおい、どうしたのかねそんな恐い顔をして」
髭を携えた高官は、顎を擦りながら薄っすらと笑みさえ浮かべている。殺意にも近い敵意を剥き出しにされたと言うのに、年の功なのかなかなか落ち着き払った様子だ。
男は隣で静観していた武器商人に目配せをした。上下関係はしっかりと構築されているのだろう。
商人は片手に持っていた扇子を芸者達に向けると、垂れ下がった双眸を細め温和な表情で、舞を続けるよう言い放った。
まるで何事も無かったかのように再開された演奏と舞が、熱くなりすぎた土方に少しだけ冷静さを取り戻させる。
チッ・・・考えやがったな、これじゃ分が悪ィのはこっちじゃねえか。
両の爪先に体重を掛けた低い体勢を変えることなく、舞を続ける芸者達を横目で見やる。揉め事が起こったとして、目撃証言は山程取れそうだ。
恐らくは自分に不利なものばかりになるだろうが・・・と土方は不服そうに眉間に皺を寄せる。
一見すれば土方が突然激昂したような形で、相手はただの世間話、社交辞令を言ったに過ぎない。
しかし彼は、その裏側を敏感に察知した。そこには黒い思惑がとぐろを巻いている――。
「・・・俺のモンにちょっとでも手ェ出してみろ、ただじゃ済まねえぞ」
「気が短いと損をするよ。まあそれも若さなんだろうが」
「はぐらかすな!」
殴り掛かりたい衝動を声にぶつける。すると幕府の高官である髭の男は、やれやれといったふうに肩を竦め、手にしていた猪口を膳に戻した。
「今のところ、何もする気はないんだがね」
「・・・いずれは何かする気なんだな」
爪先に更に力が入り、畳の表面がチリッと鳴った。出来ることなら、このまま膳を蹴りあげて突進したいくらいだ。
そうだ、そうしたっていいはずだ――。
含みを持たせてるが、協力しなけりゃ身内に手ェ出すって暗に言ってるんだ。こりゃァ間違いなく脅迫だろ。
土方はすくっと立ち上がると、向かい側の男達を見下ろし口端を吊り上げた。
「ここで我々を殴り倒すつもりですかな?」
「それも悪かねェな。何しろ俺は警察だ。犯罪を未然に防ぐって名目なら、暴力とは言われねえ」
武器商人の問いに、指を鳴らしながら答える。だが、彼等に怯んだ様子は特にない。
「いずれの可能性だけでそんなことをして、ただじゃ済まないのは君の方だよ、土方君」
「何だと?」
「何かと問題の多い粗暴な君たちと私じゃ、信用の厚さというものが違う。『不祥事』を起こした君を真選組にいられなくするのも、そう難しいことじゃない。可愛い奥さんを悲しませたくはないだろう?」
「・・・!」
ハッと息を呑むと、土方は瞳孔全開の目で男達を睨み付けた。
「・・・そういう、ことかよ。初めから狙いは・・・っ」
歯を強く食い縛り、振り上げそびれた拳を身体の脇に強く押し付ける。
真選組の中で相応の権力を誇り、絶対的な『弱味』を持つ人物――それが土方だった。最初に近藤を指名したのも、土方に警戒心を抱かせないためだったのだ。
俺に来させるために、当日になって近藤さんを会合なんかに呼び出したってわけか。こんな怪しい流れに、なんですぐに気付かなかったんだ俺は!
窮地に迫られてから気付いた自分に対し、後悔に加えて危機感が募る。あまりに幸せな日々を過ごしているせいで、勘が鈍っているのかも知れない。
けれども今は、自身の平和呆けに頭を悩ませている場合ではない。すぐに気持ちを切り替えた土方は、僅かに止めていた息を肩を震わせながら長く長く吐き出した。
これからどうするか。順々に浮かぶ案を、一つ一つ丁寧に検討していく。
手を組むことは――避けたい。考えたくもない。汚れた金など欲しくもないし、何より信念がそれを許さない。しかしこの決断をすれば、連中は紗己に手を掛けるはずだ。
意地を通して上層部に情報を流しても、きっと揉み消されるに違いない。悔しいが幕府への権力という点では、明らかに向こうの一人勝ちだ。信用の厚さにしても同じことが言えるだろう。
ならばいっそ、何の話も聞かなかったことにすればいい。一瞬考えはしたが、裏を知ってしまった者を野放しにするとは到底思えない。それでいて、紗己の身の安全が保証されるわけではないのだから、これも賢明とは言えない。
丁寧に検討したものの、結局はこの場に来てしまった時点で、土方に残された選択肢は二つだけ。素直に誘いに乗るか、妻に危険が及ぶ可能性を承知の上で、首を横に振るかのどちらかしかないのだ。
出来るわけねェだろ・・・・・!
苦渋の決断に土方は、苦々しい表情で頬の内側を噛んだ。愛する者と護るべき居場所を楯にされては、現段階では他に策は無い。
「チッ・・・」
舌打ちをすると、乱暴な動作で元の位置に腰を下ろした。やや後方にずれていた座布団を、軽く浮かせた尻の下に引っ張り敷く。過度の興奮により渇いてしまった口内を潤そうと、土方は膳へと手を伸ばした。
「あ・・・」
小さく声が漏れる。力が変に入りすぎていたのか、指先が徳利を掴み損ねたのだ。弾かれたようにそれは膳の上で転げ、残り少なかった中身がチョロチョロと零れていく。
自身の動揺を形として見せ付けられ、改めて後悔が心に重く乗し掛かる。その感情は、自尊心の高い彼にとっては敗北感にも近い。
迂闊だった
来るべきじゃなかった
完全に嵌められてしまった――
しかし、今更後悔したところで、事態が好転するわけではない。関わらない以外に方法などなかったのだから。
「っ・・・てめェ!」
左手を畳に叩き付けると、その反動で瞬時に片膝を立て、瞬発力を最大限に活かせる低い姿勢を取る。今にも飛び掛かりそうなその姿は、鎖を引き千切ろうとする獰猛な獣のようだ。ここに刀を持ち込んでいたなら、間違いなく鞘から抜き出していただろう。
不穏な空気に、踊りを止めた芸者達が顔を見合わせてざわめき出す。音が止んだ宴の間は、土方の発する殺気のせいで息苦しいまでの緊張に包まれている。
「おいおい、どうしたのかねそんな恐い顔をして」
髭を携えた高官は、顎を擦りながら薄っすらと笑みさえ浮かべている。殺意にも近い敵意を剥き出しにされたと言うのに、年の功なのかなかなか落ち着き払った様子だ。
男は隣で静観していた武器商人に目配せをした。上下関係はしっかりと構築されているのだろう。
商人は片手に持っていた扇子を芸者達に向けると、垂れ下がった双眸を細め温和な表情で、舞を続けるよう言い放った。
まるで何事も無かったかのように再開された演奏と舞が、熱くなりすぎた土方に少しだけ冷静さを取り戻させる。
チッ・・・考えやがったな、これじゃ分が悪ィのはこっちじゃねえか。
両の爪先に体重を掛けた低い体勢を変えることなく、舞を続ける芸者達を横目で見やる。揉め事が起こったとして、目撃証言は山程取れそうだ。
恐らくは自分に不利なものばかりになるだろうが・・・と土方は不服そうに眉間に皺を寄せる。
一見すれば土方が突然激昂したような形で、相手はただの世間話、社交辞令を言ったに過ぎない。
しかし彼は、その裏側を敏感に察知した。そこには黒い思惑がとぐろを巻いている――。
「・・・俺のモンにちょっとでも手ェ出してみろ、ただじゃ済まねえぞ」
「気が短いと損をするよ。まあそれも若さなんだろうが」
「はぐらかすな!」
殴り掛かりたい衝動を声にぶつける。すると幕府の高官である髭の男は、やれやれといったふうに肩を竦め、手にしていた猪口を膳に戻した。
「今のところ、何もする気はないんだがね」
「・・・いずれは何かする気なんだな」
爪先に更に力が入り、畳の表面がチリッと鳴った。出来ることなら、このまま膳を蹴りあげて突進したいくらいだ。
そうだ、そうしたっていいはずだ――。
含みを持たせてるが、協力しなけりゃ身内に手ェ出すって暗に言ってるんだ。こりゃァ間違いなく脅迫だろ。
土方はすくっと立ち上がると、向かい側の男達を見下ろし口端を吊り上げた。
「ここで我々を殴り倒すつもりですかな?」
「それも悪かねェな。何しろ俺は警察だ。犯罪を未然に防ぐって名目なら、暴力とは言われねえ」
武器商人の問いに、指を鳴らしながら答える。だが、彼等に怯んだ様子は特にない。
「いずれの可能性だけでそんなことをして、ただじゃ済まないのは君の方だよ、土方君」
「何だと?」
「何かと問題の多い粗暴な君たちと私じゃ、信用の厚さというものが違う。『不祥事』を起こした君を真選組にいられなくするのも、そう難しいことじゃない。可愛い奥さんを悲しませたくはないだろう?」
「・・・!」
ハッと息を呑むと、土方は瞳孔全開の目で男達を睨み付けた。
「・・・そういう、ことかよ。初めから狙いは・・・っ」
歯を強く食い縛り、振り上げそびれた拳を身体の脇に強く押し付ける。
真選組の中で相応の権力を誇り、絶対的な『弱味』を持つ人物――それが土方だった。最初に近藤を指名したのも、土方に警戒心を抱かせないためだったのだ。
俺に来させるために、当日になって近藤さんを会合なんかに呼び出したってわけか。こんな怪しい流れに、なんですぐに気付かなかったんだ俺は!
窮地に迫られてから気付いた自分に対し、後悔に加えて危機感が募る。あまりに幸せな日々を過ごしているせいで、勘が鈍っているのかも知れない。
けれども今は、自身の平和呆けに頭を悩ませている場合ではない。すぐに気持ちを切り替えた土方は、僅かに止めていた息を肩を震わせながら長く長く吐き出した。
これからどうするか。順々に浮かぶ案を、一つ一つ丁寧に検討していく。
手を組むことは――避けたい。考えたくもない。汚れた金など欲しくもないし、何より信念がそれを許さない。しかしこの決断をすれば、連中は紗己に手を掛けるはずだ。
意地を通して上層部に情報を流しても、きっと揉み消されるに違いない。悔しいが幕府への権力という点では、明らかに向こうの一人勝ちだ。信用の厚さにしても同じことが言えるだろう。
ならばいっそ、何の話も聞かなかったことにすればいい。一瞬考えはしたが、裏を知ってしまった者を野放しにするとは到底思えない。それでいて、紗己の身の安全が保証されるわけではないのだから、これも賢明とは言えない。
丁寧に検討したものの、結局はこの場に来てしまった時点で、土方に残された選択肢は二つだけ。素直に誘いに乗るか、妻に危険が及ぶ可能性を承知の上で、首を横に振るかのどちらかしかないのだ。
出来るわけねェだろ・・・・・!
苦渋の決断に土方は、苦々しい表情で頬の内側を噛んだ。愛する者と護るべき居場所を楯にされては、現段階では他に策は無い。
「チッ・・・」
舌打ちをすると、乱暴な動作で元の位置に腰を下ろした。やや後方にずれていた座布団を、軽く浮かせた尻の下に引っ張り敷く。過度の興奮により渇いてしまった口内を潤そうと、土方は膳へと手を伸ばした。
「あ・・・」
小さく声が漏れる。力が変に入りすぎていたのか、指先が徳利を掴み損ねたのだ。弾かれたようにそれは膳の上で転げ、残り少なかった中身がチョロチョロと零れていく。
自身の動揺を形として見せ付けられ、改めて後悔が心に重く乗し掛かる。その感情は、自尊心の高い彼にとっては敗北感にも近い。
迂闊だった
来るべきじゃなかった
完全に嵌められてしまった――
しかし、今更後悔したところで、事態が好転するわけではない。関わらない以外に方法などなかったのだから。