第九章
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「紗己」
「え、あっ、はい・・・」
慌てて返事をして土方と目を合わせた瞬間、今日一番最初の時と同じく視界が明るい闇に覆われ、口付けが落とされた。
ほんの一、二秒の短いキスのあと、今度は下唇を軽く吸われ、その心地良い刺激に紗己は堪らず吐息を漏らす。土方は二度、食むように弾力を楽しんでから、小さな音とともに唇を離した。
一方腕の中の紗己は、惚けた表情で土方を見上げたまま声も出せない。それでも口中で息づく煙草の味に、外側からの温もりと同じく夫の存在を強く感じている。
頬を真っ赤に染め上げ動けない彼女に、土方は優しく微笑みかけた。
「これでもう忘れねェだろ、お互いに」
言ってから撫で上げるように紗己の顎から手を離すと、自身のこめかみを掻きながら咳払いをした。彼もまた、この緊張と幸福が混じり合ったひと時に照れてしまったのだろうか。
だがすぐに普段通りの、いや、それ以上に真面目な顔で、腕の中の紗己をじっと見据えた。
「俺は忘れねェからな」
腰を抱いている左腕に力がこもる。
同じ時間はやり直せないが、やり直しのきかない人生などないのだと、土方は強く思う。それは二人の運命を決めたあの夜への、そして今を生きる自分への決意表明だった。二度と忘れたりしない――。
「・・・今日のこと、何十年経っても絶対に忘れねえよ」
力強く真摯な声が、その言葉により一層の真実味を持たせる。信じて欲しいという想いが、声に、眼差しにと、全身から溢れ出ている。
そしてそれは、想いを届けたいただ一人に確実に伝わっていた。
「あ、わ、私もっ・・・」
声を詰まらせて不器用に息継ぎをすると、紗己は潤んだ瞳で土方を見つめ返した。
「私も、絶対・・・絶対に忘れません・・・っ」
言い切った途端、大粒の涙が零れ落ちた。感涙は止まることなく、彼女の頬を濡らし続ける。
その様子に満足そうな表情を浮かべた土方は、両目を瞬かせている紗己の肩を自身の方へと引き寄せた。あまり力の入っていなかった身体は、簡単に逞しい胸へと凭れ掛かる。
「ったく、また泣いてんのか」
呆れたような口調ではあるが、それが本心でないことは明白だ。大きな手の平が子供をあやすように、丸い頭と背中を撫でる。その優しすぎる手付きが、いかに彼女を慈しんでいるかを物語っていた。
土方の与える温もりは、外からだけでなく紗己の胸の内にもひしひしと伝わっていく。とうとう感極まった彼女は、込み上げる熱に負け、嗚咽を上げて硬い胸に顔を押し付けた。
肩を揺らして子供のように泣きじゃくり、くぐもった声を漏らして土方の背中に腕を回す。白く細い指先が、中に着ているシャツもろとも上着の背を掴んだ。
その動作に先程までのぎこちなさは微塵もなく、触れられた箇所にも強い感情が込められている。
「・・・ありがとな」
自然と口をついて出たその言葉は、驚く程に優しい声音だった。必死にしがみつく紗己を、安心させてやりたいと思ったのだろう。
顎を引いて紗己の旋毛に視線を落とし、土方もまた安堵の息をつく。ようやく感情を解放し『女』になり始めた妻に、肩の荷が下りたような気分になっているのだ。
昨日今日と、ただただ鈍感に思えていた紗己の穏やかな笑顔も、今となって振り返ればどこか遠慮がちなものだったようにも思えてくる。その裏側に気付こうともせず、出発前の貴重な時間を無駄にしていたことに、今更ながら土方は嘆息した。
後悔先に立たずってのは、まさにこれだよな。せっかくコイツが積極的になってくれてんのに、ここで一旦幕を引かなきゃなんねーんだから。
柱に掛けられた時計を一瞥して、勿体無いと胸中で呟いた。
それでもすぐに思い直す。思い違いから部屋を離れたことにより、紗己が本当は寂しがっていると知ることが出来たのだ。
土方は何か楽しい事を思い出したのか小さく笑うと、未だしがみつくように抱き着く紗己に声を掛けた。
「なあ紗己」
「っ・・・は、い・・・」
一瞬肩を強張らせ鼻声で返事をすると、紗己は鼻を啜りながらゆっくりと顔を上げた。
かわいそうに彼女の目と鼻先は、見事真っ赤になってしまっている。それに思わず吹き出しそうになった土方だが、何とか堪えつつ軽い口調で言葉を放った。
「上着よりも、本物の方がいいだろ」
「へ・・・?」
突然そう言われても、何のことやら分からない。紗己は小首を傾げて間抜けな声を出した。
それは実に彼女らしく、端から伝わる訳がないと踏んでいた土方は、予想通りの反応に喉を鳴らして笑う。
「くくっ・・・いや、何でもねェよ」
「はあ・・・」
「それより、出張な。電話、出来るだけ時間作るようにはするから、まァ・・・待ってろ」
そう言って紗己の様子を窺うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。濡れた瞳と唇は柔らかな弧を描き、それにまた土方は安心を深める。
あの時覗き見た、多分に出来すぎていた妻の感情的な一面を、今の紗己と重ね合わせてみる。
見られてたことに気付いてねーんだ、どうせなら言わないでおくか。
自分だけが知っている、こんな秘密があってもいいだろう。それもなかなか悪くないと、腕の中に愛しい妻の温もりを感じながら、口元を緩ませた。
「え、あっ、はい・・・」
慌てて返事をして土方と目を合わせた瞬間、今日一番最初の時と同じく視界が明るい闇に覆われ、口付けが落とされた。
ほんの一、二秒の短いキスのあと、今度は下唇を軽く吸われ、その心地良い刺激に紗己は堪らず吐息を漏らす。土方は二度、食むように弾力を楽しんでから、小さな音とともに唇を離した。
一方腕の中の紗己は、惚けた表情で土方を見上げたまま声も出せない。それでも口中で息づく煙草の味に、外側からの温もりと同じく夫の存在を強く感じている。
頬を真っ赤に染め上げ動けない彼女に、土方は優しく微笑みかけた。
「これでもう忘れねェだろ、お互いに」
言ってから撫で上げるように紗己の顎から手を離すと、自身のこめかみを掻きながら咳払いをした。彼もまた、この緊張と幸福が混じり合ったひと時に照れてしまったのだろうか。
だがすぐに普段通りの、いや、それ以上に真面目な顔で、腕の中の紗己をじっと見据えた。
「俺は忘れねェからな」
腰を抱いている左腕に力がこもる。
同じ時間はやり直せないが、やり直しのきかない人生などないのだと、土方は強く思う。それは二人の運命を決めたあの夜への、そして今を生きる自分への決意表明だった。二度と忘れたりしない――。
「・・・今日のこと、何十年経っても絶対に忘れねえよ」
力強く真摯な声が、その言葉により一層の真実味を持たせる。信じて欲しいという想いが、声に、眼差しにと、全身から溢れ出ている。
そしてそれは、想いを届けたいただ一人に確実に伝わっていた。
「あ、わ、私もっ・・・」
声を詰まらせて不器用に息継ぎをすると、紗己は潤んだ瞳で土方を見つめ返した。
「私も、絶対・・・絶対に忘れません・・・っ」
言い切った途端、大粒の涙が零れ落ちた。感涙は止まることなく、彼女の頬を濡らし続ける。
その様子に満足そうな表情を浮かべた土方は、両目を瞬かせている紗己の肩を自身の方へと引き寄せた。あまり力の入っていなかった身体は、簡単に逞しい胸へと凭れ掛かる。
「ったく、また泣いてんのか」
呆れたような口調ではあるが、それが本心でないことは明白だ。大きな手の平が子供をあやすように、丸い頭と背中を撫でる。その優しすぎる手付きが、いかに彼女を慈しんでいるかを物語っていた。
土方の与える温もりは、外からだけでなく紗己の胸の内にもひしひしと伝わっていく。とうとう感極まった彼女は、込み上げる熱に負け、嗚咽を上げて硬い胸に顔を押し付けた。
肩を揺らして子供のように泣きじゃくり、くぐもった声を漏らして土方の背中に腕を回す。白く細い指先が、中に着ているシャツもろとも上着の背を掴んだ。
その動作に先程までのぎこちなさは微塵もなく、触れられた箇所にも強い感情が込められている。
「・・・ありがとな」
自然と口をついて出たその言葉は、驚く程に優しい声音だった。必死にしがみつく紗己を、安心させてやりたいと思ったのだろう。
顎を引いて紗己の旋毛に視線を落とし、土方もまた安堵の息をつく。ようやく感情を解放し『女』になり始めた妻に、肩の荷が下りたような気分になっているのだ。
昨日今日と、ただただ鈍感に思えていた紗己の穏やかな笑顔も、今となって振り返ればどこか遠慮がちなものだったようにも思えてくる。その裏側に気付こうともせず、出発前の貴重な時間を無駄にしていたことに、今更ながら土方は嘆息した。
後悔先に立たずってのは、まさにこれだよな。せっかくコイツが積極的になってくれてんのに、ここで一旦幕を引かなきゃなんねーんだから。
柱に掛けられた時計を一瞥して、勿体無いと胸中で呟いた。
それでもすぐに思い直す。思い違いから部屋を離れたことにより、紗己が本当は寂しがっていると知ることが出来たのだ。
土方は何か楽しい事を思い出したのか小さく笑うと、未だしがみつくように抱き着く紗己に声を掛けた。
「なあ紗己」
「っ・・・は、い・・・」
一瞬肩を強張らせ鼻声で返事をすると、紗己は鼻を啜りながらゆっくりと顔を上げた。
かわいそうに彼女の目と鼻先は、見事真っ赤になってしまっている。それに思わず吹き出しそうになった土方だが、何とか堪えつつ軽い口調で言葉を放った。
「上着よりも、本物の方がいいだろ」
「へ・・・?」
突然そう言われても、何のことやら分からない。紗己は小首を傾げて間抜けな声を出した。
それは実に彼女らしく、端から伝わる訳がないと踏んでいた土方は、予想通りの反応に喉を鳴らして笑う。
「くくっ・・・いや、何でもねェよ」
「はあ・・・」
「それより、出張な。電話、出来るだけ時間作るようにはするから、まァ・・・待ってろ」
そう言って紗己の様子を窺うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。濡れた瞳と唇は柔らかな弧を描き、それにまた土方は安心を深める。
あの時覗き見た、多分に出来すぎていた妻の感情的な一面を、今の紗己と重ね合わせてみる。
見られてたことに気付いてねーんだ、どうせなら言わないでおくか。
自分だけが知っている、こんな秘密があってもいいだろう。それもなかなか悪くないと、腕の中に愛しい妻の温もりを感じながら、口元を緩ませた。