第九章
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言い終えて、少し申し訳なさそうに苦笑する紗己。しかし予想外の答えを聞かされた土方は、呆気に取られたような表情を見せる。
え? 忘れてたって・・・あんなことされて、普通忘れたりするか・・・・・・?
いやいやないだろうと、『あんなこと』を仕出かした張本人は口中で小さく呟いた。
余程こなれていない限り、それが一方的なものであっても、男女の行為をすっかり忘れるなんてあり得ない。得心がいかない。
思いながら土方は片手を腰に当てて大きく息をつくと、まるで珍獣でも目にするように、愛しい妻をまじまじと見つめた。
本当に忘れてたってのか・・・・・・? 声には出さないが、裏を探ろうと細められた双眸がそう語っている。
だが、紗己の言葉には何ら嘘は隠されていない。完全にではないが、実際忘れていたのだ。
普通ならば少々考え難い事だが、これにはいくつかの理由がある。
まず一つに、紗己はあの夜の事件を『事故』だと思い込んだ。土方を困らせないようにと、持ち前の気遣い性が発揮されたのが原因だ。
そして次に、記憶を振り返ることの放棄。これは事故なのだから、深く考えてはいけない――と、翌日の土方との話し合い以降は、この問題を思い返さずにきた。
記憶というのは、反芻しなければ忘れてしまうものである。そして、容易に塗り重ねられてしまうものでもある。
紗己にとっては、一方的な『事故』よりも、それ以降の土方との様々なやり取りの方が余程印象深く、日々記憶は新しい出来事に上書きされていった。
こうして紗己はこの重大な『事故』を、彼女曰く「ちょっと忘れて」しまったのだ。
誰よりも愛しい存在である紗己の衝撃の発言に、土方はまだ納得がいかない様子だ。
忘れていたのではなく、さっきのキスが初めてだと、俺を喜ばせるために過剰な演技をしていたんじゃないか?
そんな器用さは持ち合わせていないと分かってはいるのだが、嫌な疑問まで浮かんでくる。
そう訝しんで彼女を見やると、先程の苦笑いから一転、やけに赤い顔をして俯く紗己の姿がそこにあった。
「紗己?」
「・・・え、あっ、いえ・・・」
「何だよ、どうした?」
急な変化が気になって、彼女の顔を覗き込むように背中を屈める。すると紗己は、その視線から逃げられないと思ったのか、はたまた告げたいという感情が芽生えたのか、足袋に包まれた足をもじもじと動かして、恥ずかしそうに口を開いた。
「あ、あの・・・その、して・・・たんだなあって・・・」
「え?」
「こ、こんなすごい・・・事、わ、私あの時経験してたんだなって・・・っ」
言って余計に恥ずかしさが増したのか、唇が僅かに震えている。
今にしてじっくりと思い返せば、確かに口付けもされていたのだと紗己は気付いたのだ。けれど思考が一切回らなかった中でのそれは、彼女にしてみれば『口中を好き勝手にされていた』という印象でしかない。好き勝手されていたのは、口中だけではないが。
行為自体に気持ちが込められていたか否かは、彼女の与り知るところではない。しかし少なくとも紗己には、それを口付けだと意識するだけの気持ちの余裕は無かった。だからこその、今になってのこの初々しい反応なのだ。
夫からの問いを受けて、ようやく記憶を振り返ってみれば、まるであの夜の自分が自分ではないようなこそばゆさに、居ても立ってもいられない。
それでもその恥ずかしさとはまた裏腹に、案外大人な経験をしていた自身に高揚感がわき起こり、それを伝えずにはいられない。
「あ、あれ程の事・・・き、キス・・・されてたのを忘れちゃうなんて、私ったら本当に馬鹿ですよね!」
吃りつつも、早口に捲し立てる。
事故だと思い込むように決めたのも自分自身で、誰に命令されたわけでもない。あの時はそうするのが土方にとって最善なのだと、自分なりに選んだ結果だ。
しかし今となれば、よくあれだけのことを『事故』と片付けられたものだと、半ば自分に呆れる気持ちの紗己。それと恥ずかしさが相まって、なかなか上げられない顔にカアッと熱が集中する。
おまけに向かい合う土方からは何の言葉も聞こえてこないので、彼にもまた、馬鹿だと呆れられたのだろうと思ってしまう。
気まずさと自嘲の感情が複雑に絡み合う中、紗己は垂れ落ちる髪を耳に掛けて嘆息した。
「私・・・ほんと馬鹿ですよね、呆れちゃいますよね・・・」
「・・・んだよ・・・」
「え?」
ぽつり呟くと、前方から掠れた声が微かに届いた。
え? 忘れてたって・・・あんなことされて、普通忘れたりするか・・・・・・?
いやいやないだろうと、『あんなこと』を仕出かした張本人は口中で小さく呟いた。
余程こなれていない限り、それが一方的なものであっても、男女の行為をすっかり忘れるなんてあり得ない。得心がいかない。
思いながら土方は片手を腰に当てて大きく息をつくと、まるで珍獣でも目にするように、愛しい妻をまじまじと見つめた。
本当に忘れてたってのか・・・・・・? 声には出さないが、裏を探ろうと細められた双眸がそう語っている。
だが、紗己の言葉には何ら嘘は隠されていない。完全にではないが、実際忘れていたのだ。
普通ならば少々考え難い事だが、これにはいくつかの理由がある。
まず一つに、紗己はあの夜の事件を『事故』だと思い込んだ。土方を困らせないようにと、持ち前の気遣い性が発揮されたのが原因だ。
そして次に、記憶を振り返ることの放棄。これは事故なのだから、深く考えてはいけない――と、翌日の土方との話し合い以降は、この問題を思い返さずにきた。
記憶というのは、反芻しなければ忘れてしまうものである。そして、容易に塗り重ねられてしまうものでもある。
紗己にとっては、一方的な『事故』よりも、それ以降の土方との様々なやり取りの方が余程印象深く、日々記憶は新しい出来事に上書きされていった。
こうして紗己はこの重大な『事故』を、彼女曰く「ちょっと忘れて」しまったのだ。
誰よりも愛しい存在である紗己の衝撃の発言に、土方はまだ納得がいかない様子だ。
忘れていたのではなく、さっきのキスが初めてだと、俺を喜ばせるために過剰な演技をしていたんじゃないか?
そんな器用さは持ち合わせていないと分かってはいるのだが、嫌な疑問まで浮かんでくる。
そう訝しんで彼女を見やると、先程の苦笑いから一転、やけに赤い顔をして俯く紗己の姿がそこにあった。
「紗己?」
「・・・え、あっ、いえ・・・」
「何だよ、どうした?」
急な変化が気になって、彼女の顔を覗き込むように背中を屈める。すると紗己は、その視線から逃げられないと思ったのか、はたまた告げたいという感情が芽生えたのか、足袋に包まれた足をもじもじと動かして、恥ずかしそうに口を開いた。
「あ、あの・・・その、して・・・たんだなあって・・・」
「え?」
「こ、こんなすごい・・・事、わ、私あの時経験してたんだなって・・・っ」
言って余計に恥ずかしさが増したのか、唇が僅かに震えている。
今にしてじっくりと思い返せば、確かに口付けもされていたのだと紗己は気付いたのだ。けれど思考が一切回らなかった中でのそれは、彼女にしてみれば『口中を好き勝手にされていた』という印象でしかない。好き勝手されていたのは、口中だけではないが。
行為自体に気持ちが込められていたか否かは、彼女の与り知るところではない。しかし少なくとも紗己には、それを口付けだと意識するだけの気持ちの余裕は無かった。だからこその、今になってのこの初々しい反応なのだ。
夫からの問いを受けて、ようやく記憶を振り返ってみれば、まるであの夜の自分が自分ではないようなこそばゆさに、居ても立ってもいられない。
それでもその恥ずかしさとはまた裏腹に、案外大人な経験をしていた自身に高揚感がわき起こり、それを伝えずにはいられない。
「あ、あれ程の事・・・き、キス・・・されてたのを忘れちゃうなんて、私ったら本当に馬鹿ですよね!」
吃りつつも、早口に捲し立てる。
事故だと思い込むように決めたのも自分自身で、誰に命令されたわけでもない。あの時はそうするのが土方にとって最善なのだと、自分なりに選んだ結果だ。
しかし今となれば、よくあれだけのことを『事故』と片付けられたものだと、半ば自分に呆れる気持ちの紗己。それと恥ずかしさが相まって、なかなか上げられない顔にカアッと熱が集中する。
おまけに向かい合う土方からは何の言葉も聞こえてこないので、彼にもまた、馬鹿だと呆れられたのだろうと思ってしまう。
気まずさと自嘲の感情が複雑に絡み合う中、紗己は垂れ落ちる髪を耳に掛けて嘆息した。
「私・・・ほんと馬鹿ですよね、呆れちゃいますよね・・・」
「・・・んだよ・・・」
「え?」
ぽつり呟くと、前方から掠れた声が微かに届いた。