第九章
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ほんの数秒、目を閉じていただけ。だが、いつも通りにこやかに笑っているとばかり思っていた紗己が、次の瞬間には泣きそうな顔をしていた。
突然がらりと表情を変えた妻に、土方の心臓が大きく跳ねる。驚きのあまり、その名を呼ぶことしか出来ない。
「・・・紗己・・・・・・?」
「・・・っ!」
ヒュッと息を飲む。目が合ってしまったことに驚き、紗己は慌てて視線を切るように下を向き、一呼吸置いてからすぐに顔を上げた。そこにはもう笑みが浮かべられている。
しかし普段からは考えられない程に、その笑顔はぎこちない。
「あ・・・あの・・・っ」
「・・・・・・」
「あの・・・え・・・と」
言葉無く自分を凝視する夫を目の前に、恥ずかしさと気まずさが紗己を襲う。
それでもこの耐え難い空気が出来上がったのは、自分の一瞬の『顔』を見られたせいだと分かっている。
何とかこの気まずさを振り払いたいと、紗己は片足だけを半歩後ろにやや重心を落として、向かい合う土方との間に微妙な距離をつくった。
「あ、あの・・・その・・・」
言い知れぬ緊張に震える指で、頬にかかる髪を耳に掛けて言葉を捻り出す。
「バッ、バッチリ似合ってます隊服!」
上擦った声が、しんと静かな部屋に高らかに響いた。
今のこの場、この状況に不似合いすぎる、お世辞にもうまいとは言えない紗己の誤魔化し。勿論彼女は咄嗟に言っただけで、決してうまく言おうなどと考える余裕は持っていなかった。
「あ・・・あの・・・」
「・・・」
「いえ・・・その・・・」
自分の発言が完全に浮いてしまっているのは、いくら鈍感と言われる紗己であっても重々承知している。出来るなら、どこかに穴を掘って入りたいくらいだ。
しかしそんな彼女の一連の発言や動作にも、目の前の男は確実に心を揺さぶられていた。ポケットに突っ込んだままの右手で、強く強く拳をつくる。
何でお前はそんなに・・・無理して笑うことねェんだよ・・・・・・!
分かっていたのに。今の表情を見るまでもなく、本当は寂しがっているとちゃんと分かっていたのに――思い通りにならなかったことを、つい紗己のせいにしてしまった。
時間が無いことも、元はと言えば自分が拗ねて部屋を出てしまったからなのに。言い訳をするように、あたかも紗己が何も感じていないと、僅かにでもそう思ってしまった。
もう何度目か分からない。昨日から、どれほど彼女の気持ちを受け違えてきただろう。
今にも溢れそうな紗己への想いに突き動かされるように、土方の唇から愛しい妻の名が紡がれる。
「・・・紗己」
「えっ・・・あ、あの・・・」
土方の胸中を知らない紗己の中では、今もまだ、気まずさと恥ずかしさが持続し続けている。
それでも穴に入りたい気持ちをぐっと堪えて、目線をしっかり土方に合わせた。するとそこには、切なげに眉を寄せている夫の姿が。
「あ・・・」
胸の奥が締め付けるように痛み、鈍い疼きを抑えようと無意識に自身の胸元に手を添えた。どうしよう、困らせてしまった――。
紗己は何とかこの場を取り繕おうと、やや上体を退き気味に、土方との間に更に腕の長さ分程の距離を取って、ぎこちない笑顔を見せた。
「あ、ああもう時間ですねっ」
柱の時計に視線をやって、早口に捲し立てる。強引に土方を送り出すつもりなのだ。
けれど土方はそれには答えずに、ジッと紗己を見つめたままだ。
「・・・・・・」
「お、お車待たせてたんですよね! す、すみませんのんびりしちゃってて」
「・・・っ」
「じゃ、じゃあそろそろ行きま・・・」
言いながら、ゆっくりと土方へと目線を移すと。突如として、紗己の視界が柔らかな影で覆われた。
眼前に感じた気配に驚いた紗己は、両目をきつく閉じて肩を強張らせる。だが次の瞬間――。
「っ!!?」
柔らかな『何か』に唇を塞がれ、彼女は全身をも硬直させた。
人が居るとは思えないほど静かな部屋だ。嫌になる程はっきりと耳に届いていた時計の音も、今の彼女にはきっと聴こえていないだろう。
時間としては十秒あるかないかだが、全身を硬直させて思考停止している紗己にとっては、体感時間は遥かに長い。
そしてこの間彼女は、息が出来ていない。
鼻から息をするという至極簡単な行為を、今だけはすっかり忘れてしまっているようだ。
酸素が欲しいと足袋を履いた爪先に力が入り、布と畳が擦れてチリッと小さな音がする。何が起きているのか考えるより前に、とにかく息が苦しくて堪らない。
右肩に強い力を感じた紗己は、訳も分からぬまま右手を上げて、そこに触れた硬い温もりを力一杯揺さぶった。
「んんっ!」
「・・・」
「っ、ふ・・・」
彼女の願いが通じたのか、呼吸の妨げになっていた『何か』が、ゆっくりと唇から離れた。
ようやく新鮮な空気が口元を掠め、それと同時に光も取り戻す。紗己は少し乱れた呼吸を整えながら、正面に焦点を合わせた。
うっすらとぼやけた視界――そこに映るのは、見慣れた部屋に見慣れた隊服。
愛する人の、一番輝いて見える隊服姿だった。
突然がらりと表情を変えた妻に、土方の心臓が大きく跳ねる。驚きのあまり、その名を呼ぶことしか出来ない。
「・・・紗己・・・・・・?」
「・・・っ!」
ヒュッと息を飲む。目が合ってしまったことに驚き、紗己は慌てて視線を切るように下を向き、一呼吸置いてからすぐに顔を上げた。そこにはもう笑みが浮かべられている。
しかし普段からは考えられない程に、その笑顔はぎこちない。
「あ・・・あの・・・っ」
「・・・・・・」
「あの・・・え・・・と」
言葉無く自分を凝視する夫を目の前に、恥ずかしさと気まずさが紗己を襲う。
それでもこの耐え難い空気が出来上がったのは、自分の一瞬の『顔』を見られたせいだと分かっている。
何とかこの気まずさを振り払いたいと、紗己は片足だけを半歩後ろにやや重心を落として、向かい合う土方との間に微妙な距離をつくった。
「あ、あの・・・その・・・」
言い知れぬ緊張に震える指で、頬にかかる髪を耳に掛けて言葉を捻り出す。
「バッ、バッチリ似合ってます隊服!」
上擦った声が、しんと静かな部屋に高らかに響いた。
今のこの場、この状況に不似合いすぎる、お世辞にもうまいとは言えない紗己の誤魔化し。勿論彼女は咄嗟に言っただけで、決してうまく言おうなどと考える余裕は持っていなかった。
「あ・・・あの・・・」
「・・・」
「いえ・・・その・・・」
自分の発言が完全に浮いてしまっているのは、いくら鈍感と言われる紗己であっても重々承知している。出来るなら、どこかに穴を掘って入りたいくらいだ。
しかしそんな彼女の一連の発言や動作にも、目の前の男は確実に心を揺さぶられていた。ポケットに突っ込んだままの右手で、強く強く拳をつくる。
何でお前はそんなに・・・無理して笑うことねェんだよ・・・・・・!
分かっていたのに。今の表情を見るまでもなく、本当は寂しがっているとちゃんと分かっていたのに――思い通りにならなかったことを、つい紗己のせいにしてしまった。
時間が無いことも、元はと言えば自分が拗ねて部屋を出てしまったからなのに。言い訳をするように、あたかも紗己が何も感じていないと、僅かにでもそう思ってしまった。
もう何度目か分からない。昨日から、どれほど彼女の気持ちを受け違えてきただろう。
今にも溢れそうな紗己への想いに突き動かされるように、土方の唇から愛しい妻の名が紡がれる。
「・・・紗己」
「えっ・・・あ、あの・・・」
土方の胸中を知らない紗己の中では、今もまだ、気まずさと恥ずかしさが持続し続けている。
それでも穴に入りたい気持ちをぐっと堪えて、目線をしっかり土方に合わせた。するとそこには、切なげに眉を寄せている夫の姿が。
「あ・・・」
胸の奥が締め付けるように痛み、鈍い疼きを抑えようと無意識に自身の胸元に手を添えた。どうしよう、困らせてしまった――。
紗己は何とかこの場を取り繕おうと、やや上体を退き気味に、土方との間に更に腕の長さ分程の距離を取って、ぎこちない笑顔を見せた。
「あ、ああもう時間ですねっ」
柱の時計に視線をやって、早口に捲し立てる。強引に土方を送り出すつもりなのだ。
けれど土方はそれには答えずに、ジッと紗己を見つめたままだ。
「・・・・・・」
「お、お車待たせてたんですよね! す、すみませんのんびりしちゃってて」
「・・・っ」
「じゃ、じゃあそろそろ行きま・・・」
言いながら、ゆっくりと土方へと目線を移すと。突如として、紗己の視界が柔らかな影で覆われた。
眼前に感じた気配に驚いた紗己は、両目をきつく閉じて肩を強張らせる。だが次の瞬間――。
「っ!!?」
柔らかな『何か』に唇を塞がれ、彼女は全身をも硬直させた。
人が居るとは思えないほど静かな部屋だ。嫌になる程はっきりと耳に届いていた時計の音も、今の彼女にはきっと聴こえていないだろう。
時間としては十秒あるかないかだが、全身を硬直させて思考停止している紗己にとっては、体感時間は遥かに長い。
そしてこの間彼女は、息が出来ていない。
鼻から息をするという至極簡単な行為を、今だけはすっかり忘れてしまっているようだ。
酸素が欲しいと足袋を履いた爪先に力が入り、布と畳が擦れてチリッと小さな音がする。何が起きているのか考えるより前に、とにかく息が苦しくて堪らない。
右肩に強い力を感じた紗己は、訳も分からぬまま右手を上げて、そこに触れた硬い温もりを力一杯揺さぶった。
「んんっ!」
「・・・」
「っ、ふ・・・」
彼女の願いが通じたのか、呼吸の妨げになっていた『何か』が、ゆっくりと唇から離れた。
ようやく新鮮な空気が口元を掠め、それと同時に光も取り戻す。紗己は少し乱れた呼吸を整えながら、正面に焦点を合わせた。
うっすらとぼやけた視界――そこに映るのは、見慣れた部屋に見慣れた隊服。
愛する人の、一番輝いて見える隊服姿だった。