第九章
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ふわふわと揺れる、肩にかかる長さの紗己の髪。その揺れる毛先を眺めながら土方はふと、以前紗己の父親から聞いた話を思い出す。
妻を亡くして嘆き哀しむ父親を心配させまいと、母親を亡くした哀しみを胸の内に抑え込んだ、器用すぎる不器用な幼い娘の話だ。
優しさ故に、無意識に感情を抑え込むことを覚えてしまった少女。いつしか彼女には、相手ばかりを優先する平和過ぎる自己の無さが板についてしまった。そんな彼女に、喜怒哀楽を出させられるのは自分だけなのだと、土方には強い自負がある。
コイツは、俺には涙を見せてくれたんだよな。
まだ始まったばかりの二人の歴史を、まるで大昔を懐かしむように紐解いていく。
結果的にはフライング気味の、奇妙なスタートではあった。だが日を重ねる毎に紗己は、様々な表情を見せるようになった。
ただただ癒されるだけの、他者にも見せる微笑み以外にも、自分の前でだけ見せる明るい花咲く笑顔。時に感情が高ぶり、嬉し涙を見せることもある。
祝言の日にはようやく父親にも涙を見せ、土方は彼にとても感謝されたのだ。
非常に緩やかではあるが、紗己の変化は紛れもなく自分がもたらしたもの。その思いに後押しされるように土方は、まだ直接的には見せられていない感情を引き出そうと、彼女の名を呼んだ。
「・・・紗己」
「はい? あ、そのままで」
「え、あ、ああ・・・」
いきなり動きを制され、一体何なのかと首を捻りつつも背筋を伸ばす。すると紗己は、急に真剣な表情を作って、スッと土方に向けて両手を伸ばした。
突如首元に伸びてきた手に、絞められるとは思わないが肩に力が入る。その指先にどんな意味が込められているのか。期待と困惑の混じった吐息が土方の唇から漏れた。
ひょっとしたら、「寂しい」とすがり付いてくれるのでは――なんて、淡い期待も持ってしまう。
「・・・紗己?」
顎を引いて、目線だけを紗己と彼女の指先に交互に合わせる。すると紗己はまたにこりと微笑み、そのしなやかな指は彼のスカーフへと到着した。
「ちょっと、歪んじゃってますから・・・」
「え?」
「スカーフが、ね」
言いながら、上着の襟に引っ張られるように形が歪んだスカーフを直していく。
どうやら、上着を羽織った時にやや右方向に寄ってしまったらしい。先程までスカーフを少し緩めていたので、きっとそのせいなのだろう。
「あー・・・」
やはり期待は外れたか、という思いが微かな声になって出た。それでも初めから期待が薄かったからか不思議と落ち込みは無く、土方は紗己が直しやすいようにとほんの少しだけ背中を屈めた。
それによってやりやすくなった紗己は、細い指を土方の首とスカーフの間に差し込んで、丁寧に形を整えていく。
土方はというと、されるがまま大人しく直立しつつ、すぐにでも抱き締められるこの距離感に、とある記憶を思い出していた。
昨日の紗己との、何の結果も生み出さなかった話し合い。いや、正確には土方が『出産が終わるまでは抱かない』と決意したので、それなりの成果はあったのかもしれないが。
その話し合いの中、土方に抱き締められた紗己は、甘い意図を含んでいるかのような態度を見せた。ぎこちなくもじれったい指先は、熱っぽい視線と相まって、まるで口付けを求めているかのようにも感じた。
しかしながらその後の彼女の様子は、全くもっていつも通りで、欲望が暴発しないようにと口付けをしなかった土方に対し、落ち込んだり残念そうな素振りを見せることは無かった。
土方は半日前の出来事を思い返しながら、それと今の紗己とを照らし合わせてみる。
昨日のアレは、結局どっちだったんだ? 今のコイツを見てたら、どうせアレも俺の思い違いだったって気にもなってくるしなァ。
半ば呆れつつも、これこそが紗己なのだと土方は思う。
いくら自分が変化をもたらしたとはいえ、そう簡単に性格も全て変わったりしない。元が恐ろしく鈍感で控え目なのだから、変わったと言っても、それは世間的には『普通』の範疇なのだろう。
昨夜も今も変わらず平和な空気を醸し出している紗己に、その夫は小さく笑う。
まァあれだな、よくここまで小気味よく期待を裏切ってくれるもんだ・・・ったく。
平和で平凡な日常に、突如として訪れる新鮮な驚き。そんな毎日を、何だかんだ言って彼は楽しんでいるのだ。と、そんなふうに『穏やか』な幸せを実感していると。
「これで・・・うん・・・」
恐らくは独り言なのだろう。紗己の呟きが土方の耳に届き、今この時、幸せな時間が終盤に近付いていると気付かされる。
妻を亡くして嘆き哀しむ父親を心配させまいと、母親を亡くした哀しみを胸の内に抑え込んだ、器用すぎる不器用な幼い娘の話だ。
優しさ故に、無意識に感情を抑え込むことを覚えてしまった少女。いつしか彼女には、相手ばかりを優先する平和過ぎる自己の無さが板についてしまった。そんな彼女に、喜怒哀楽を出させられるのは自分だけなのだと、土方には強い自負がある。
コイツは、俺には涙を見せてくれたんだよな。
まだ始まったばかりの二人の歴史を、まるで大昔を懐かしむように紐解いていく。
結果的にはフライング気味の、奇妙なスタートではあった。だが日を重ねる毎に紗己は、様々な表情を見せるようになった。
ただただ癒されるだけの、他者にも見せる微笑み以外にも、自分の前でだけ見せる明るい花咲く笑顔。時に感情が高ぶり、嬉し涙を見せることもある。
祝言の日にはようやく父親にも涙を見せ、土方は彼にとても感謝されたのだ。
非常に緩やかではあるが、紗己の変化は紛れもなく自分がもたらしたもの。その思いに後押しされるように土方は、まだ直接的には見せられていない感情を引き出そうと、彼女の名を呼んだ。
「・・・紗己」
「はい? あ、そのままで」
「え、あ、ああ・・・」
いきなり動きを制され、一体何なのかと首を捻りつつも背筋を伸ばす。すると紗己は、急に真剣な表情を作って、スッと土方に向けて両手を伸ばした。
突如首元に伸びてきた手に、絞められるとは思わないが肩に力が入る。その指先にどんな意味が込められているのか。期待と困惑の混じった吐息が土方の唇から漏れた。
ひょっとしたら、「寂しい」とすがり付いてくれるのでは――なんて、淡い期待も持ってしまう。
「・・・紗己?」
顎を引いて、目線だけを紗己と彼女の指先に交互に合わせる。すると紗己はまたにこりと微笑み、そのしなやかな指は彼のスカーフへと到着した。
「ちょっと、歪んじゃってますから・・・」
「え?」
「スカーフが、ね」
言いながら、上着の襟に引っ張られるように形が歪んだスカーフを直していく。
どうやら、上着を羽織った時にやや右方向に寄ってしまったらしい。先程までスカーフを少し緩めていたので、きっとそのせいなのだろう。
「あー・・・」
やはり期待は外れたか、という思いが微かな声になって出た。それでも初めから期待が薄かったからか不思議と落ち込みは無く、土方は紗己が直しやすいようにとほんの少しだけ背中を屈めた。
それによってやりやすくなった紗己は、細い指を土方の首とスカーフの間に差し込んで、丁寧に形を整えていく。
土方はというと、されるがまま大人しく直立しつつ、すぐにでも抱き締められるこの距離感に、とある記憶を思い出していた。
昨日の紗己との、何の結果も生み出さなかった話し合い。いや、正確には土方が『出産が終わるまでは抱かない』と決意したので、それなりの成果はあったのかもしれないが。
その話し合いの中、土方に抱き締められた紗己は、甘い意図を含んでいるかのような態度を見せた。ぎこちなくもじれったい指先は、熱っぽい視線と相まって、まるで口付けを求めているかのようにも感じた。
しかしながらその後の彼女の様子は、全くもっていつも通りで、欲望が暴発しないようにと口付けをしなかった土方に対し、落ち込んだり残念そうな素振りを見せることは無かった。
土方は半日前の出来事を思い返しながら、それと今の紗己とを照らし合わせてみる。
昨日のアレは、結局どっちだったんだ? 今のコイツを見てたら、どうせアレも俺の思い違いだったって気にもなってくるしなァ。
半ば呆れつつも、これこそが紗己なのだと土方は思う。
いくら自分が変化をもたらしたとはいえ、そう簡単に性格も全て変わったりしない。元が恐ろしく鈍感で控え目なのだから、変わったと言っても、それは世間的には『普通』の範疇なのだろう。
昨夜も今も変わらず平和な空気を醸し出している紗己に、その夫は小さく笑う。
まァあれだな、よくここまで小気味よく期待を裏切ってくれるもんだ・・・ったく。
平和で平凡な日常に、突如として訪れる新鮮な驚き。そんな毎日を、何だかんだ言って彼は楽しんでいるのだ。と、そんなふうに『穏やか』な幸せを実感していると。
「これで・・・うん・・・」
恐らくは独り言なのだろう。紗己の呟きが土方の耳に届き、今この時、幸せな時間が終盤に近付いていると気付かされる。