第九章
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一つ角を曲がり、大人の歩幅で十歩も行けばまた次の角。そこを曲がる一歩手前で、土方は足を止めた。
その角自体が自室の外側になっており、要するに、角を曲がるとすぐに自室に到着してしまうのだ。
不機嫌を露わに部屋を出てきてしまったため、何となくだが戻りづらい。しかし、ここで何もせずにずっと立ち尽くしているわけにもいかない。
土方は眉を寄せて嘆息すると、重々しく一歩を踏み出して角を曲がった。道は開け、和室一部屋分歩いた先に自室の出入り口がある。
「・・・行くか」
自分の耳にも届かないような小さな声で呟き、のっそりと歩き出したのだが、二、三歩進んだところで土方は再び足を止めた。
居ねェのか――? 壁一枚隔てた向こう側から、人の気配が感じられないのだ。
これはおかしい。ひょっとして紗己は部屋に居ないのかとも思ってしまう。だが、そんなことはありえない。
土方と紗己の住まう部屋には二箇所出入り口があり、一つは縁側に面した障子戸で、もう一つは縁側とは反対側の廊下に面した襖だ。仮にそのどちらかの出入り口を使って部屋を出たとしても、途中必ず、先程まで土方が居た縁側に差し掛かる。
いくら物思いに耽っていたとはいえ、人が通ったことに気付かないわけがない。さっきまでの時間には、人ひとり通りはしなかった。だとすれば紗己が部屋に居るのは確実だ。
生活音の一つも聞こえないなんて、一体中で何をしているのか。その静けさにつられるように、ついつい足音を忍ばせながら一歩二歩と進んでいくと、障子の向こうから密かな気配を感じ取った。
良かった、倒れているわけじゃないんだな。こちらも密かに安堵した。そこまで気にするくらいなら、さっさと入っていけばいいのだが。
それでも土方は、そのまま気取られないように障子戸まで歩を進める。敵方の動きを探るかのような慎重さに、誰かがその姿を見たら、さぞかし訝しむことだろう。
じりじりと障子戸まで近付き、引き手の前で足を止める。しかし、引き手には手を掛けないでいる。どんな感じで中に入っていけばいいか、まだ決めかねているのだ。
とは言え、機嫌を損ねて部屋を出たことに紗己が気付いていたかは疑問だ。どうせ何も気にしていないだろうと、土方は予想する。だが、やはり気まずさを感じずにはいられない。
けれど、いつまでもここでジッとしてもいられない。寒さが身に堪えるので早く上着を羽織りたいのだ。それにもうすぐ、車の用意が出来たと誰かが呼びに来るだろう。
土方は幾度目かの溜め息を落とすと、そっと引き手に手を掛けた。音を立てないように、慎重な手付きで静かに障子戸を開ける。
拳一つ分程開いたところで、土方は一旦手を止めた。中の様子を窺うために、開いた戸の隙間にそっと顔を近付ける。
手前の部屋に紗己の姿は無い。ならば奥に居るのかと、目線を続き間の和室へと移した。二つの部屋を仕切る襖は完全に開け放たれているため、今彼の立つ位置から対角線上はしっかりと見える。
なんだ、いるじゃねーか。視線の先には、愛しい妻の後ろ姿が。やはり何でもなかったのかと、安心しつつ中へと入ろうと思ったのだが――。
こちらに背を向けたままの紗己が取った行動に、土方はその場で固まったように動けなくなってしまった。
箪笥の前に立っている紗己の手が、取っ手に掛けてあるハンガーにすっと伸びた。
ハンガーには土方の隊服の上着が掛かっており、それを撫でるようにしなやかな手が滑っていく。愛おしそうに、そっと。
その手の動きが上着の左袖で止まると、紗己はその袖口を手に取り、自身の頬に押し当て摺り寄せるような仕草をしてみせた。
そして上着自体をハンガーから取り外し、それをぎゅうっと抱き締めた。両腕を自身の胸元に引き寄せるようにして、夫の匂いがする上着の襟首に顔を埋めている。
え・・・紗己・・・・・・?
土方は呆然と立ち尽くしたまま、しかしそこから目が離せない。妻の意外な行動を目の当たりにして、鼓動が激しく高鳴り、どうしようもなく胸が苦しい。
これって・・・そういう、こと、だよな・・・・・・?
頭の中で、今見たばかりの光景が何度も何度も繰り返される。土方は、自分の隊服の上着を抱き締めている妻の背中を、瞬きもせずに見つめ続ける。
表情は見えない。けれど分かる。不思議なまでに、彼女の気持ちがひしひしと伝わってくる。
少し屈めた華奢な背中から、襟元から覗く白いうなじから――本当は寂しいと、彼女の想いが聴こえてくる。
後ろ姿なのに。声が漏れているわけでもないのに。
「寂しくて堪らない」と、そう聴こえた気がしたのだ。
その角自体が自室の外側になっており、要するに、角を曲がるとすぐに自室に到着してしまうのだ。
不機嫌を露わに部屋を出てきてしまったため、何となくだが戻りづらい。しかし、ここで何もせずにずっと立ち尽くしているわけにもいかない。
土方は眉を寄せて嘆息すると、重々しく一歩を踏み出して角を曲がった。道は開け、和室一部屋分歩いた先に自室の出入り口がある。
「・・・行くか」
自分の耳にも届かないような小さな声で呟き、のっそりと歩き出したのだが、二、三歩進んだところで土方は再び足を止めた。
居ねェのか――? 壁一枚隔てた向こう側から、人の気配が感じられないのだ。
これはおかしい。ひょっとして紗己は部屋に居ないのかとも思ってしまう。だが、そんなことはありえない。
土方と紗己の住まう部屋には二箇所出入り口があり、一つは縁側に面した障子戸で、もう一つは縁側とは反対側の廊下に面した襖だ。仮にそのどちらかの出入り口を使って部屋を出たとしても、途中必ず、先程まで土方が居た縁側に差し掛かる。
いくら物思いに耽っていたとはいえ、人が通ったことに気付かないわけがない。さっきまでの時間には、人ひとり通りはしなかった。だとすれば紗己が部屋に居るのは確実だ。
生活音の一つも聞こえないなんて、一体中で何をしているのか。その静けさにつられるように、ついつい足音を忍ばせながら一歩二歩と進んでいくと、障子の向こうから密かな気配を感じ取った。
良かった、倒れているわけじゃないんだな。こちらも密かに安堵した。そこまで気にするくらいなら、さっさと入っていけばいいのだが。
それでも土方は、そのまま気取られないように障子戸まで歩を進める。敵方の動きを探るかのような慎重さに、誰かがその姿を見たら、さぞかし訝しむことだろう。
じりじりと障子戸まで近付き、引き手の前で足を止める。しかし、引き手には手を掛けないでいる。どんな感じで中に入っていけばいいか、まだ決めかねているのだ。
とは言え、機嫌を損ねて部屋を出たことに紗己が気付いていたかは疑問だ。どうせ何も気にしていないだろうと、土方は予想する。だが、やはり気まずさを感じずにはいられない。
けれど、いつまでもここでジッとしてもいられない。寒さが身に堪えるので早く上着を羽織りたいのだ。それにもうすぐ、車の用意が出来たと誰かが呼びに来るだろう。
土方は幾度目かの溜め息を落とすと、そっと引き手に手を掛けた。音を立てないように、慎重な手付きで静かに障子戸を開ける。
拳一つ分程開いたところで、土方は一旦手を止めた。中の様子を窺うために、開いた戸の隙間にそっと顔を近付ける。
手前の部屋に紗己の姿は無い。ならば奥に居るのかと、目線を続き間の和室へと移した。二つの部屋を仕切る襖は完全に開け放たれているため、今彼の立つ位置から対角線上はしっかりと見える。
なんだ、いるじゃねーか。視線の先には、愛しい妻の後ろ姿が。やはり何でもなかったのかと、安心しつつ中へと入ろうと思ったのだが――。
こちらに背を向けたままの紗己が取った行動に、土方はその場で固まったように動けなくなってしまった。
箪笥の前に立っている紗己の手が、取っ手に掛けてあるハンガーにすっと伸びた。
ハンガーには土方の隊服の上着が掛かっており、それを撫でるようにしなやかな手が滑っていく。愛おしそうに、そっと。
その手の動きが上着の左袖で止まると、紗己はその袖口を手に取り、自身の頬に押し当て摺り寄せるような仕草をしてみせた。
そして上着自体をハンガーから取り外し、それをぎゅうっと抱き締めた。両腕を自身の胸元に引き寄せるようにして、夫の匂いがする上着の襟首に顔を埋めている。
え・・・紗己・・・・・・?
土方は呆然と立ち尽くしたまま、しかしそこから目が離せない。妻の意外な行動を目の当たりにして、鼓動が激しく高鳴り、どうしようもなく胸が苦しい。
これって・・・そういう、こと、だよな・・・・・・?
頭の中で、今見たばかりの光景が何度も何度も繰り返される。土方は、自分の隊服の上着を抱き締めている妻の背中を、瞬きもせずに見つめ続ける。
表情は見えない。けれど分かる。不思議なまでに、彼女の気持ちがひしひしと伝わってくる。
少し屈めた華奢な背中から、襟元から覗く白いうなじから――本当は寂しいと、彼女の想いが聴こえてくる。
後ろ姿なのに。声が漏れているわけでもないのに。
「寂しくて堪らない」と、そう聴こえた気がしたのだ。