第八章
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――――――
「あ、お帰りなさい」
自室の障子戸を開けるなり、耳に届いた紗己の声。土方は後ろ手に障子戸を閉めると、部屋の端でアイロン掛けをしている彼女の傍らに腰を下ろした。
「なんだ、まだ起きてたのか」
「はい、これだけ終わったら寝るつもりでした」
そう言って、にこりと笑う。
今アイロン台に乗っているのは、隊服の白いシャツ。その台の横には、もうアイロンを掛け終わった衣類がざっと十枚ほど。
まあそう大した枚数ではないかと思った矢先、土方は続き間の和室の奥、箪笥の前に重ねられたあるものに気付いた。
そこには、皺一つなく綺麗に畳まれた着物が、引き出しの下から三段目あたりまでしっかりと積まれている。それは、今よりも少し前にアイロンを掛け終えた物。すぐには箪笥に仕舞えないので、熱が冷めるまでそこに置いていたのだ。
三時間ほど前。風呂から上がった土方は、自室に戻ってすぐに仕事をすることになった。元々は仕事をする気があったわけではなく、明日の出張に必要な書類に、何となく目を通していただけ。
それも、濡れた髪で横になって風邪を引いてはいけないと紗己が心配するので、髪が少し乾くまでの時間潰しを兼ねていただけだった。
しかし、それが結果功を奏した。大事な書類に不明点と不備が見つかったのだ。これはいけない、今夜中に確認と修正をしなければと、やむなく時間外労働を自らに課す羽目に。
確認作業は近藤の部屋に行けばいいし、そう時間も掛からない。だが不備の修正にはだいぶ時間が掛かる。
そこで土方は、以前自分が自室として使用していた部屋で書類仕事に勤しむことにした。
身体を動かすこともなく、根を詰めなければならない地味な仕事。時間外ということもあり、ニコチンの助けが無ければとてもじゃないがやってられない。
となると、自室の文机で筆を走らせるわけにはいかない。
昼間ならまだしも、夜遅くに紗己が煙から避難する場所など無いのだ。愛する妻を想って――といえば聞こえが良いが、ただ単に喫煙を止められないだけとも言える。
土方は必要な書類等を手に持つと、紗己に「待たなくていいから先に寝てろ」と言い残して自室を出た。
以前使用していた、現在は空き部屋となっている和室。そこには別の部屋から運んできた簡素な文机だけが置かれてあり、土方は今でも時々そこで書類仕事をしていた。
今日のような、煙草の本数が増えそうな仕事の時もそうだし、後は紗己の体調があまり良くない時もそうだ。夫が仕事をしている横では、ゆっくり身体を休められないだろうと、そんな時は土方が気を利かせて別室に移る。
しかし、床に伏せるまで調子の悪い時はまた別だ。そういう場合は、心配だからこそ自室で出来る仕事は自室でするようにしている。
家具一つ無い寂しい部屋で、黙々と筆を走らせたのちに、土方はようやく仕事を終えた。当初の予定よりも時間がかかってしまったので、さすがにもう紗己も寝てるだろうと自室に戻ってきたところ、優しい声が彼を迎え入れたのだ。
隣の和室にはもう布団も敷いてあるし、寝ようと思えばいつでも寝れたはず。それでも紗己は、土方を待っていた。
先に寝てろと言われたし、寝不足がいかに身体に悪影響を及ぼすかは、先日倒れたことで身をもって理解している。
ならば無理にならない程度に、ちょっとした用事をこなしていようと、アイロン掛けに手を出した。決して急ぎの物ではない、本当にちょっとした用事だった。
それをしているうちに土方が戻ってくれば、待たせたと彼に思わせなくて済むと、紗己はそう考えたのだ。
箪笥の前に積まれたたくさんの着物たち。その風景に、土方は胸がキュッと熱くなるのを感じた。
『これだけ終わったら寝るつもりでした』
それを言うために、大掛かりな着物があれほどの数になるまで、一枚、また一枚と手を伸ばしていったのだろう。
待たせてしまったと、そう感じさせないように、もう寝るつもりだったと言ってくれた。そんな彼女の思いやりが、いじらしくて堪らない。
だが、ここで待たせて悪かったと言えば、せっかくの彼女の気遣いが無駄になってしまう。また手を動かし始めた紗己に、土方は短く「そうか」とだけ返事をした。
紗己以外には見せることがない、とても穏やかな表情で。
――――――
そして今、土方は一人布団の中。掛布団から肩を出し、右腕は完全に布団からはみ出している。いわゆる爆睡状態だ。
まだ布団に入ってからそんなには時間が経っていないのだが、あっという間に睡魔に負かされてしまった。
本当は土方も、先に寝るつもりはなかった。もう仕事も済ませたので、ならば今度は自分が紗己を待っていようと、とりあえずの暇潰しにとうに読み終えた夕刊を広げてみた、までは良かった。
しかし内容が頭に入らない。一回読んだ記事だからというのも多少はあるが、それ以前に頭が働かない。
この二日間、通常職務とは別に出張までに片付けなければいけない仕事に追われていたため、寝不足だったのだ。おまけに今日は何かと気疲れすることが多く、挙句最後にまた仕事をせざるを得なかった。
土方自身には睡魔に襲われているという自覚は無かったが、しょぼしょぼと瞬きを繰り返し、時折意識を保とうと頭を振っている姿は誰の目にも明らかな程に眠そうだ。座卓越しにその姿を見ていた紗己は、アイロンを持つ手を一旦止めた。
先に寝てくださいと言ったとして、意地でも寝ようとしないのは彼女もよく分かっている。そこで、言い方に捻りを加えてみた。
ここじゃ冷えますから、布団の上で読まれたらどうですか?
・・そうだな、そうするか・・・・・・。
意外なことに、素直な言葉が返ってきた。
季節は晩秋、冷えるのは確かに冷える。特に今二人が居る側の部屋は、廊下に面した障子戸からのすきま風が容赦ない。いつもの土方なら紗己の言葉の裏側にもすぐに気付きそうなものだが、今の彼にまともな思考力は無かった。
額面通りに受け止め、頭が働かないのは寒さのせいかと、夕刊片手に土方は緩慢な動作で室内を移動した。優しい声には、ちょっとした催眠誘導効果もあるようだ。
大人しく布団の上に腰を下ろした土方だったが、当然の事ながら眠気は更に増す。寝るための落ち着ける場所という認識が、彼の身体から見事に緊張を奪っていく。完全なる条件反射だ。
結局、瞬く間に土方は眠りに落ちた。紗己の織り成す心地好い生活音が、子守唄のように彼を夢の中へと誘ったのだ。
「あ、お帰りなさい」
自室の障子戸を開けるなり、耳に届いた紗己の声。土方は後ろ手に障子戸を閉めると、部屋の端でアイロン掛けをしている彼女の傍らに腰を下ろした。
「なんだ、まだ起きてたのか」
「はい、これだけ終わったら寝るつもりでした」
そう言って、にこりと笑う。
今アイロン台に乗っているのは、隊服の白いシャツ。その台の横には、もうアイロンを掛け終わった衣類がざっと十枚ほど。
まあそう大した枚数ではないかと思った矢先、土方は続き間の和室の奥、箪笥の前に重ねられたあるものに気付いた。
そこには、皺一つなく綺麗に畳まれた着物が、引き出しの下から三段目あたりまでしっかりと積まれている。それは、今よりも少し前にアイロンを掛け終えた物。すぐには箪笥に仕舞えないので、熱が冷めるまでそこに置いていたのだ。
三時間ほど前。風呂から上がった土方は、自室に戻ってすぐに仕事をすることになった。元々は仕事をする気があったわけではなく、明日の出張に必要な書類に、何となく目を通していただけ。
それも、濡れた髪で横になって風邪を引いてはいけないと紗己が心配するので、髪が少し乾くまでの時間潰しを兼ねていただけだった。
しかし、それが結果功を奏した。大事な書類に不明点と不備が見つかったのだ。これはいけない、今夜中に確認と修正をしなければと、やむなく時間外労働を自らに課す羽目に。
確認作業は近藤の部屋に行けばいいし、そう時間も掛からない。だが不備の修正にはだいぶ時間が掛かる。
そこで土方は、以前自分が自室として使用していた部屋で書類仕事に勤しむことにした。
身体を動かすこともなく、根を詰めなければならない地味な仕事。時間外ということもあり、ニコチンの助けが無ければとてもじゃないがやってられない。
となると、自室の文机で筆を走らせるわけにはいかない。
昼間ならまだしも、夜遅くに紗己が煙から避難する場所など無いのだ。愛する妻を想って――といえば聞こえが良いが、ただ単に喫煙を止められないだけとも言える。
土方は必要な書類等を手に持つと、紗己に「待たなくていいから先に寝てろ」と言い残して自室を出た。
以前使用していた、現在は空き部屋となっている和室。そこには別の部屋から運んできた簡素な文机だけが置かれてあり、土方は今でも時々そこで書類仕事をしていた。
今日のような、煙草の本数が増えそうな仕事の時もそうだし、後は紗己の体調があまり良くない時もそうだ。夫が仕事をしている横では、ゆっくり身体を休められないだろうと、そんな時は土方が気を利かせて別室に移る。
しかし、床に伏せるまで調子の悪い時はまた別だ。そういう場合は、心配だからこそ自室で出来る仕事は自室でするようにしている。
家具一つ無い寂しい部屋で、黙々と筆を走らせたのちに、土方はようやく仕事を終えた。当初の予定よりも時間がかかってしまったので、さすがにもう紗己も寝てるだろうと自室に戻ってきたところ、優しい声が彼を迎え入れたのだ。
隣の和室にはもう布団も敷いてあるし、寝ようと思えばいつでも寝れたはず。それでも紗己は、土方を待っていた。
先に寝てろと言われたし、寝不足がいかに身体に悪影響を及ぼすかは、先日倒れたことで身をもって理解している。
ならば無理にならない程度に、ちょっとした用事をこなしていようと、アイロン掛けに手を出した。決して急ぎの物ではない、本当にちょっとした用事だった。
それをしているうちに土方が戻ってくれば、待たせたと彼に思わせなくて済むと、紗己はそう考えたのだ。
箪笥の前に積まれたたくさんの着物たち。その風景に、土方は胸がキュッと熱くなるのを感じた。
『これだけ終わったら寝るつもりでした』
それを言うために、大掛かりな着物があれほどの数になるまで、一枚、また一枚と手を伸ばしていったのだろう。
待たせてしまったと、そう感じさせないように、もう寝るつもりだったと言ってくれた。そんな彼女の思いやりが、いじらしくて堪らない。
だが、ここで待たせて悪かったと言えば、せっかくの彼女の気遣いが無駄になってしまう。また手を動かし始めた紗己に、土方は短く「そうか」とだけ返事をした。
紗己以外には見せることがない、とても穏やかな表情で。
――――――
そして今、土方は一人布団の中。掛布団から肩を出し、右腕は完全に布団からはみ出している。いわゆる爆睡状態だ。
まだ布団に入ってからそんなには時間が経っていないのだが、あっという間に睡魔に負かされてしまった。
本当は土方も、先に寝るつもりはなかった。もう仕事も済ませたので、ならば今度は自分が紗己を待っていようと、とりあえずの暇潰しにとうに読み終えた夕刊を広げてみた、までは良かった。
しかし内容が頭に入らない。一回読んだ記事だからというのも多少はあるが、それ以前に頭が働かない。
この二日間、通常職務とは別に出張までに片付けなければいけない仕事に追われていたため、寝不足だったのだ。おまけに今日は何かと気疲れすることが多く、挙句最後にまた仕事をせざるを得なかった。
土方自身には睡魔に襲われているという自覚は無かったが、しょぼしょぼと瞬きを繰り返し、時折意識を保とうと頭を振っている姿は誰の目にも明らかな程に眠そうだ。座卓越しにその姿を見ていた紗己は、アイロンを持つ手を一旦止めた。
先に寝てくださいと言ったとして、意地でも寝ようとしないのは彼女もよく分かっている。そこで、言い方に捻りを加えてみた。
ここじゃ冷えますから、布団の上で読まれたらどうですか?
・・そうだな、そうするか・・・・・・。
意外なことに、素直な言葉が返ってきた。
季節は晩秋、冷えるのは確かに冷える。特に今二人が居る側の部屋は、廊下に面した障子戸からのすきま風が容赦ない。いつもの土方なら紗己の言葉の裏側にもすぐに気付きそうなものだが、今の彼にまともな思考力は無かった。
額面通りに受け止め、頭が働かないのは寒さのせいかと、夕刊片手に土方は緩慢な動作で室内を移動した。優しい声には、ちょっとした催眠誘導効果もあるようだ。
大人しく布団の上に腰を下ろした土方だったが、当然の事ながら眠気は更に増す。寝るための落ち着ける場所という認識が、彼の身体から見事に緊張を奪っていく。完全なる条件反射だ。
結局、瞬く間に土方は眠りに落ちた。紗己の織り成す心地好い生活音が、子守唄のように彼を夢の中へと誘ったのだ。