第八章
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あー・・・やっぱり今日しかねーよな、今日しか!
屈めていた背中をすっきりと伸ばすと、己を奮わすように唇を一文字に引き締めた。そのまま鼻からふんっと息を出し、勢いに任せて愛しい妻の名を呼んだ。
「紗己っ」
左手を座卓に乗せたまま、上体を右方向に捻る。焦燥感が滲み出ている彼の双眸が、隣室で鞄のファスナーを閉めていた紗己を捉えた。
一方の紗己は、上擦った声で呼ばれたがあまり気にしていない様子で、着物の裾を押さえながら立ち上がると、顔を強張らせている土方の元へとやってきた。
二人の間に幼子が座れる程の間隔をとって、静かに腰を下ろす。その表情は限りなく穏やかだ。
「はい、なんでしょう」
「あっ・・・いや、その・・・もう用事は済んだか?」
「明日の準備ですか? 一応済んだんですけど、明日の朝、もう一度確認しますね」
入れ忘れがあったらいけませんから、と言葉を付け足す。
それを聞いた土方は、何とも微妙な表情を浮かべながら頬を指先で掻いた。眉間に軽く皺を寄せ、落胆と同時に困惑の色を隠せない。
本当は、明日の準備は抜かりないか、という意味で訊いたのではない。もう何も急ぎの用事はないか、無いなら今から誘ってもいいか、という意味を含んでいたのだ。
しかしながら紗己は、当然素直に質問に答える。それがまた、たった三日間の出張であるにもかかわらず、念を入れすぎで。微妙な表情になってしまったのは、そのせいだった。
土方は半開きになっていた唇を一旦閉じると、口内の渇きを潤してから言葉を放つ。
「最低限仕事に必要なもんが揃ってりゃ、そう不自由はしねーだろ」
「そうですね。でも、これが無いと不自由だって物があれば、言ってくださいね」
「ああ・・・」
笑顔を見せる紗己に、胸の奥がキュッと熱くなる。土方は短く返事をすると、続き間の和室に置かれている鞄に視線を移した。
たかだか三日間で、無いと不自由な物など特にはない。財布と電話さえあれば、あとは宿泊先にある物でまかなうか買い足せばいい。ここまで準備に力を入れなくてもなんとでもなる。そう、たかだか三日間だ。大した日数じゃない。
だがその思いとは裏腹に、荷物の詰まった鞄が語りかけてくる。本当は寂しいんだろう――と。
一人になるのが寂しいのか、残していく彼女の様子が普段と変わらないことが寂しいのか。いずれにしてもその感情に間違いはなく、土方は肩を下げて自身の首筋を撫でながら吐息した。
お前が居ないのが、何より不自由だよ――。
「お・・・っ!」
言いかけて、慌てて口を塞ぐ。
・・・って言えるかっ! こんな恥ずかしい台詞、相当ムードに酔ってねェと言えるわけねえ!!
ごくごく自然に頭に浮かんだ台詞だが、言おうとした途端照れが増幅したらしい。常からもこれと同様に、甘い言葉を囁いている時もあるのだが、そのことに彼自身気付いてないと思われる。
土方の妙な動きに、それを目の前で見ている紗己は不思議そうに首を傾げる。
「『お』?」
「~~っ」
「土方さん、どうしたんですか? 今、何か言いかけて・・・」
「い、いやあのっ」
彼女の言葉を遮るように、身を乗り出して声を被せる。だが決定的な否定はしない。
疑うことをしない性格なのだ。「何でもない」と言えば、それで紗己は納得するだろう。
それなのに言えないのは何故か。言いかけたその先を、気付いて欲しい気持ちがあるというのか。
自分でも本心が掴めず、土方は紗己の視線に嫌な汗をかいている。それでも土方の心情を知る由もない紗己は、どこまでも真っ直ぐに夫を見つめる。
「土方さん?」
「・・・あー、その・・・」
「どうかしましたか?」
「ああ・・・うん」
口ごもる土方に紗己は優しく訊ねるが、しかし、やはりと言うべきかそれらしい返答はない。
すると今度は、紗己の方が小さく声を発した。
「あっ・・・」
何かを思い付いたように目線を上に、一呼吸置いてから晴れやかな笑みを見せる。
「ああ、お風呂ですか!」
「・・・え?」
「今日は、食事が先でしたもんね。ええ、すぐに入れますよ」
「え、いや違っ・・・」
土方の訴え虚しく、紗己はスクッと立ち上がると続き間を移動し、箪笥の引き出しからタオルや着替えを取り出し始めた。
紗己の妻らしい妻っぷりを、土方はただただ目で追うしか出来ずにいる。これにはさすがに、意気消沈したようだ。
何で・・・何で伝わって欲しいことが、全然伝わんねーんだ!
まともに伝えていないのは自分だということは棚に上げて、勝手な言い分を胸中でぶち撒ける。土方はとことんまで背中を丸め、がっくりと肩を落とし、親指と人差し指で眉間を押し上げると、盛大に嘆息した。