* SS集 (鬼滅) *
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(彼女がポメラニアンになりました?)
『人って疲れやストレスが極限まで溜まっちゃうとポメラニアンになっちゃうんだって』
以前、何でもない会話の中で突然彼女がそんな話題を出してきたことを思い出す。あの時食後のコーヒーを堪能しながら冗談めいた話を真剣に話す彼女に少し違和感を覚えた。だがそんな馬鹿な話があるかとその時軽く流してしまったことは記憶に新しい。
どう考えたって有り得ないだろう。人が犬に、しかも小型犬になるなんて。俺はさすがに信じることが出来なかった。
「ただ、いま……」
「ワンッ」
「……」
まさに今、自宅の玄関に見覚えのない小型犬がいようとも——。
この光景を俺はどう解釈したらいいんだろうか。俺はいつものように仕事を終えて、寄り道せずに真っ直ぐ帰ってきた筈。一緒に暮らす彼女は終業して先に家に帰っているというメッセージを少し前に受信したから、恐らく夕飯の準備をして待っているだろうとそれなりに急ぎ足で帰ってきた。
なのに自宅の玄関を開ければ彼女がいる気配はなく、目の前には何故か飼った覚えもないモコモコで可愛い小型犬が俺を出迎えた。フリフリと尻尾を振ってこちらを見るつぶらな瞳はまさに愛くるしいの一言に尽きるのだが、正直言って、俺は混乱している。
「まて、え? 俺、そんなに疲れてるのか?」
違う。仕事終わりで疲れているのはそうなんだが、そういうことじゃない。
アイツはどこ行った。先に帰ってるって言ってたのに。玄関を上がり、寝室、風呂場、トイレ、リビング…部屋中くまなく探しても見当たらない。リビングのテーブルの上には既に夕飯の準備がされていてまだ温かい。さっきまでここにいたのか。部屋中に届くように彼女の名前を呼んでみても、もちろん返事はない。
「どこ行ったんだ……あ、電話」
ふと思い出して、ポケットからすかさず携帯電話を取り出す。プルプルと流れる着信音を聞きながら、早くこの音が途切れろとこんなにも強く願うことが今までにあっただろうか。だけどそんな願いも虚しく着信音は延々と流れ続ける。それどころか、耳元からの音に重なって部屋の何処からか聞こえてくる別の着信音が耳に届く。まさか、とその出所を探ると、案の定台所で悲し気に音を鳴らす携帯電話を見つけて盛大に溜息を吐いた。
「あんの馬鹿……」
これはもう外まで探しに行くかとさっき脱いだジャケットをもう一度着ようと手に取った時、後ろから「ワンッ」と呼ばれた。振り向けば俺の心配なんぞ関係なしに愛想よく尻尾を振り続けるポメラニアン。俺がウロチョロしている間もずっと後ろをついてきていたのか。
「まさか、まさか……な」
そういえば、最近仕事が繁忙期だと言って残業続きだった。一緒に暮らしているがすれ違いの日々に中々触れ合う時間も取れなくて。朝によく疲れが取れきってない顔で自身の肩を叩いていたような。思い返せば思い当たる節がいくつも出てきて、前に彼女が言っていた人が犬になる説が急に頭の中を支配する。
いや、だけどやっぱり有り得ない。有り得るはずが無い。一度頭の中を整理しようとフルフルと頭を振ってみる……が、ふと視界に入るそのポメラニアンの毛色は彼女の髪色にどことなく似ているようにも見えるし、顔も、なんとなく似ているような……。見れば見る程その可愛らしい顔が彼女に見えて仕方がない。
「……おまえ、なのか?」
信じられない気持ちで、恐る恐る名前を呼ぶ。すると、ピンと耳を立てまるで返事をするように大きな声で「ワンッッ」と吠えた。その瞬間、絶望に打ちひしがれた俺の身体はガクリと膝から崩れ落ちて頭を抱えた。
「嘘だろう……どうやって戻るんだこれ」
彼女がポメラニアンになってしまった。こんなことを周りに相談して誰が信じてくれるだろうか。下手に相談してどっかの怪しい研究施設に連れていかれてしまうなんて恐ろしい考えが過ってどうしようもできない。
『ポメラニアンになったらね、うんとヨシヨシして、癒してあげると戻るんだよ』
ふと、そういえばあの時そんな解決策を彼女が話していたことを思い出した。たっぷり褒めてストレスを発散させてやると戻る。確かに理にかなっている話ではあるが、内心まだ信じられなかった。だけど、実際彼女はこの場に居ない。もうそれしかやることが見当たらなかった。俺も十分疲れているんだと思う。
そっと犬を抱き上げる。存外人懐っこいのか、初対面の俺にもあっさりと抱き抱えられ嬉しそうに尻尾をこれでもかとブンブン振っていた。あまりの可愛さに俺の方が癒されそうだ。リビングのソファに座って、膝の上にコロリと寝そべった犬の頭をゆっくり撫でる。
「お前は、本当によく頑張ってるよ」
耳の後ろを撫でられるのが好きなのか「くぅん」と気持ちよさそうに鳴いた。自分の上で今にも寝てしまいそうなくらいリラックスしている様子に徐々に愛着が湧いてくる。
「毎日仕事しながら家事もこなしてくれて、感謝しかないな」
可愛い姿に癒されても、でもこれは彼女の本来の姿ではない。このまま人に戻らなかったらどうしたらいいのか。一抹の不安が身を支配し始めて、何とか彼女の心の負担を減らすために必死に言葉を並べた。ふわふわの背中を優しく撫でると気持ち良さげに目を細める。その姿が時折見せる彼女の表情に重なって、胸が切なく締め付けられた。今こうしている時間が、正しいのか考えれば考える程、無性に彼女が恋しくなる。
「なあ、早く戻ってくれ。……そろそろ寂しくなるだろ」
男の癖に、情けなく震えた声が彼女の名前を紡いだ——瞬間。
「……え、っと。錆兎、どうしたの?」
「……?!?!」
聞きなれた彼女の声が聞こえて、伏せていた視線をバッと持ち上げる。その勢いに驚いて、気持ち良く寝転んでいた犬が慌てるように膝から飛び降りた。逃げるように走っていった先にスラリと伸びた足が見える。もう少し視線を上げると、そこには焦がれて止まなかった彼女が不思議そうに首を傾げてこちらを眺めていた。
「……は?……は?!」
整理のつかない頭で足元をちょろちょろ駆け回る犬と、扉前に佇む彼女、犬、彼女と何度も交互に見る。しばしの沈黙。ひとしきりそれを繰り返して、ようやく自分の大きな勘違いに気付いて謎の大声を発した。
「おまえ、な、どこ行って」
「サラダ作ってる途中でマヨネーズ切れちゃって、コンビニまで走りにいってたんだけど……」
「この犬は!?」
「友達が盲腸で入院することになっちゃったから急遽飼い犬を預かることになったのって、言ってなかったっけ?」
「聞いてない……」
本日二度目のでかい溜息に、彼女は「ごめん~!」と慌てて俺に手を合わした。携帯電話を家に忘れて出たことも含め、もう一言くらい何か言ってやろうかと思ったが、無事に彼女がここにいることに安堵した気持ちの方が勝った俺はただソファにもたれかかる。項垂れる俺の隣に座り込んだ彼女の腕が俺のそれにくるりと巻き付いた。
「ねえ、もしかして、私がポメラニアンになったと思った?」
突然彼女の核心を突く台詞に思わず正直に肩が震えた。お前が変なことを言ったからだとじとりと睨むも、にたりと微笑み返す彼女に結局何も言えなくなる。
それを肯定と捉えたのか、さらに嬉しそうにふふっと笑みを溢した。
「ちゃーんと、ヨシヨシしてくれた?」
「……お前な、戻らなかったらどうしようかと思ったんだぞ」
「寂しいって、言ってくれてたね」
「やめろ、掘り返すな」
「やだよーだって錆兎がそんなに私のこと思ってくれてたことが嬉しいんだもん」
こっち見て、と促され移した視線に映った彼女の瞳はにこりと弧を描いて、やっぱり犬にそっくりだと感じた。この件に関しては彼女に敵わない気がして、諦めたように息を吐く。
「錆兎が疲れ果ててポメラニアンになったら、私が全力でヨシヨシするから安心してね!」
張り切って豪語する彼女に、俺は「いらない」とあっさり返す。彼女はなんで、と不満げに口を尖らせた。
「お前が隣にいるだけで癒されてるからな」
だから、俺はポメラニアンになることはない。そう言うと彼女はぱっと花を咲かせたように顔を綻ばした。
「でもポメラニアンになった錆兎見てみたい……」
「おい。ならないぞ」