桜舞う季節に
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桜舞う季節に ─ 弐話 ─
「い、嫌です!」
広く綺麗に整えられた庭園、静かな構えの玄関。近辺で稀に見る立派な屋敷の中で、似つかわしくない程可愛らしい声が大きく響いた。瑠火はその声の主に向かって落ち着かせるように再度その名を呼ぶ。
「ナマエ……」
「私だって居候の身です、住まわせて貰っている分働きます!」
先日、戸惑いながらも煉獄家に迎えられその家の子として住むことを許された。「ここの子供として、自由にしていい」と槇寿郎さんも瑠火さんも言ってくれたけど、良いお家柄の家庭とはいえ何も払わずにそこに居座るのはどうしても気が引けた。
せめて何かお返しできるものは無いかと早朝から朝餉作りをしに台所に行けば、既に煉獄家に仕えて二十年になる女中のスミ江さん(齢五十)に止められてしまった。仕方がないから掃除でも始めようかと廊下を歩いているとばったり瑠火さんに出会い今に至る。
「あなたはまだ子供でしょう、杏寿郎とそう変わらないのに働かせるわけにはいきません」
瑠火さんの揺るがない姿勢は凛とナマエの前に立ちはだかり、真っ直ぐな視線に射抜かれ思わず怯む。だけどここで引いてしまってはいけない。お世話になりっぱなしでは、私は大人になるまでこの煉獄家の人たちに顔向けができない。今までずっと父と二人で暮らしてきて、本を書くことだけが取り柄だった父に代わって家事もそれなりにこなしてきたナマエは自分だけに時間を使うという生活がどうしても落ち着かなかった。
「せめて、何かお手伝いだけでもさせてください…じゃないと私…」
涙が出る程温かく迎えてくれたこの家の為に、自分が出来る事をやりたかった。絞り出すような声を出して俯く。瑠火はそんなナマエの様子を見て、諦めたように小さく溜息を吐いた。
「仕方がないですね……今はスミ江さんお一人に任せていますから、彼女の手伝いをして頂けますか?」
「は、はい!!」
その言葉にナマエはパッと顔を上げた。視線の先には少し困ったように笑う瑠火さんの表情。
許されたことが嬉しくて飛び跳ねたい気持ちになるが、その後「ただし、」に続く言葉によって一転する。
「勉学は疎かにしないこと」
「う、はい…」
子供は学び育つことが最優先だと瑠火さんは以前私に言った。きっと来たばかりの私に気を使わずにのびのびと過ごして欲しいという意味を込めて言ってくれた言葉なのだろう。それは重々分かっている。
だが決して裕福ではない家に生まれたナマエは、今まで家事ばかりに専念していたこともあって、学校にはもちろん通っていない。絵本を読むために簡単な文字の読み書きくらいは父から習った。少しくらいの計算は可能だが、所詮お釣りの計算程度でしかないし算盤など扱ったこともない。
日頃剣術の訓練が殆どの煉獄家は、専属の講師を呼んでの家庭教育を主体にしている。ナマエは杏寿郎と共に学ぶことを決められたが、正直気乗りがしなかった。自分の為にずっと机に向かっているより、この家の為になることをしたい。そんなナマエの気持ちを察したのか、瑠火は先程までの厳しい表情をふっと綻ばせると優しく微笑んだ。
「そんなに気負いせずともいいんですよ」
「え…」
「貴方にはまだ沢山時間があるんですから、出来る事をやっていきましょう」
勉学もいつか必ず貴方の力になります。穏やかな声でそう言われてナマエはそれ以上何も言えなくなった。
だけど、時間があると言った瑠火さんの表情はいつもの強かさなど微塵も感じなく、今にも消えてしまうんではないかと思う程の儚さを帯びていて、何故だかナマエは胸の奥がザワリとざわめく思いがした。
その時は自分の気のせいだとしか思わなかったけど。
◇◇
「スミ江さん! 次は何をお手伝いしましょうか!」
「まあ、もう床拭き終わったの。早いわねぇ」
スミ江はナマエの張り切りようにふふと楽し気に微笑んだ。ナマエも彼女の喜ぶ顔を見て自分も嬉しい気持ちになり満面の笑みを浮かべる。
瑠火に許可を貰ってからすぐにナマエはスミ江の元に駆け付け、事の詳細を告げると彼女は喜んで承諾した。それから数日あっという間に時間は過ぎた。教えられた一日の流れも徐々に覚え、元々家事は慣れていたことから言われたことをすぐにこなすナマエにスミ江は大喜びし、ナマエを孫のように可愛がるようになった。ナマエも優しく接してくれるスミ江にすぐに懐いた。この家の人達は皆温かい。
「これから奥様がお出掛けされるから、千寿郎さんの子守をお願いしたいのよ」
「はい、わかりました!」
子守は一番の得意分野だ。父が紙芝居を読んでる間、愚図る子供をあやしたりするのはナマエの役目だったのもあって、子供と接する機会は多くあった。「早くしないともう出られる時間だわ」とスミ江が慌てて言うから早歩きで部屋に向かうと、既に準備を済ました瑠火が千寿郎を抱き抱えてあやしている所だった。
「ごめんなさいね、本当は一緒に連れていけたら良かったのだけど」
「大丈夫ですよ、瑠火さんもう急がないとなんですよね」
代わります、と両手を広げるナマエにそっと千寿郎を預けると、母親と離れたことであー!と大きく泣き叫ぶ。
困惑した様子の瑠火に「大丈夫ですから」ともう一回声を掛けると瑠火は少し思案した末、ナマエにそのまま託すことにした。
「鍛錬が終れば杏寿郎も来ますから、それまでよろしくお願いします」
「はい、いってらっしゃいませ」
千寿郎を抱きながら深々とお辞儀し、瑠火が退室して襖が閉まるまでを見送る。瑠火が見えなくなったことで千寿郎はよりその泣き声を大きくさせたが、ナマエは落ち着いた様子でポンポンと千寿郎の背中を優しく撫でる。それでもすぐに泣き止むことはないことは分かっていたので、根気強くあやし続ける。これくらいは想定の範囲内。ゆらゆらと体を揺らしながら背中を撫でると、泣き声が少しづつ歯切れが悪くなる。そろそろ眠たくなる時間だったのだろう。
「ねんねんころりよ、おころりよ~」
小さな歌声が部屋に木霊した。千寿郎に耳障りの良いように穏やかに、ゆりかごに乗せているような気持ちで。小さな頃から聞いていた子守唄を聞かせてあげた。
「坊やは、良い子だ〜ねんね〜しな〜」
次第に小さくなる泣き声は、少しずつ寝息へと変わっていく。肩にコテンと頭を乗せて指を吸いながら寝る姿は、誰が見ても可愛らしいとナマエは笑みを零した。完全に寝入ったことを確認して、そっと床に引いていた布団に寝かしポンポンと胸を撫でてやる。
すると、襖の向こうからバタバタと元気な足音が聞こえてきて、勢いよく襖が開けられた。そこから入ってきた小さな獅子は部屋に入るなり口を大きく開けた。あ、嫌な予感。
「千寿郎!」
「ひゃっ、しーっ!今寝ていますから!」
「わ、ごめん!」
案の定、杏寿郎の盛大な大声にナマエは慌てて小声で制止の声を上げた。急いで千寿郎を見るとどうやらまだ夢の中にいるようですやすやと穏やかに寝ている。その様子に二人でホッと胸を撫で下ろした。最早杏寿郎の元気いっぱいな声にはもう慣れているのだろうか。
「千寿郎は寝ているのか」
「はい、今さっき」
「へぇ、珍しいな!」
まじまじと寝ている千寿郎を眺めながら隣に座る杏寿郎をナマエは不思議そうに見つめる。
「千寿郎は母上がいないと寝ないことの方が多いんだ」
「え、そうなんですか」
「ああ! だからこんなにぐっすり寝ているのは珍しい!」
結構すんなり寝てくれたけどなぁ。子守唄が良かったんだろうか。何でだろうと原因を考えていると、隣にいた杏寿郎がこちらに向かってにこにこと嬉しそうに微笑んでいた。
「ナマエは母上と同じ匂いがするからかもしれないな!」
その素直で曇りの無い視線は瑠火さんにとても似ている。さらに杏寿郎の言葉は胸をほんのり温かくさせ、内から込み上げてくる気持ちにナマエは自然と微笑んだ。
「ふふ、そんなことないよ。杏寿郎さんの方が瑠火さんの匂いしてるよ」
「そうか、じゃあ皆同じ匂いだ! 俺たちは家族だからな!」
「家族……」
小さく呟いた単語に杏寿郎はもう一度「そうだ!」と快活に答えた。
正直、ずっとそう名乗っても良いのか分からないままでいた。だからここに居ていい理由が欲しくてスミ江の手伝いを率先しては自分の居場所を作ろうとして。だけど、既に彼はもう自分を家族だと認識してくれていたのだと思うと、ナマエはさっきとは比べ物にならないくらいの熱い思いが込み上げてくる。うっかり目頭が熱くなるのを必死に堪えた。
「そうだ、家族なんだから、俺のことはさん付けして呼ばなくていいぞ!」
「あ、じゃ、じゃあ杏寿郎……」
でもいきなり呼び捨ては無理だった。その為小さく最後に「くん」と付け足す。
杏寿郎は少々不満そうだったが、深く考えないのかすぐに「まあいいか!」と納得したようだった。
「じゃあ、改めてよろしくな、ナマエ!」
「うん、杏寿郎くん」
家族として少しだけ彼との距離が近づいたことが、何だか少し擽ったい心地だった。
こんな気持ちは、生まれて初めてのような気がする。ナマエは照れくさい気持ちを彼に知られないように、寝ている千寿郎の胸を再び撫でた。