桜舞う季節に
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桜舞う季節に ─ 壱話 ─
私の両親はとても仲が良いと近所でも評判の夫婦だったらしい。
らしい、と言うのは私は母をよく知らないから。生まれつき身体の弱かった母は私を産んだと同時に静かに息を引き取った。だから私は物心ついた頃から父の顔しか知らない。
私の知る母は、古びた一枚の写真と、父の描いた似顔絵のなかのみにだけ存在している。
『もう!お父さん!そんな格好で風邪ひくよ!』
『はは、ナマエは日に日に母さんにそっくりになっていくね』
私の父はしがない絵本作家だった。
慌ただしいのを好まない性格で、いつか小さな田舎町に家を構え少しの収入だけでのんびり過ごしたいとずっと言っているような物静かな人だった。
週に一回、手作りの紙芝居を近所の子供達に読み聞かすことをとても楽しみにしていた誰よりも優しい人。
そんな父の描く物語は人の心に仄かな火を灯すような温かいものが殆どで、私はそれを読むのが日課だった。本を読んでいる時間が鬼の蔓延る夜の恐怖を忘れられる唯一の時間でもあった。
『お父さん!今日はこれ読んで!』
『ははっ、ナマエはこの本が好きだなぁ』
『だって好きなんだもん!』
私の頭を撫でて、ふわりと笑う父が大好きだった。
『早く、物語の結末のような平穏な世が訪れたらいいね』
それでも、二人で貧しいながらも笑顔で過ごせる日々がとても大切で愛おしくて、ずっとこんな毎日が続くのだと信じて疑うことはなかった。
──そう、父が鬼に殺されるまでは。
突然訪れた絶望。
それは私が九つの頃だった。
いつもの様に紙芝居を見に来ていた子供が一人、夕方になっても家に帰って来ないと心配になった親が尋ねてきてから数刻の事だった。『私も探しに行ってくるよ』と家を出た時が、生きてる父の最後の姿になるなんて誰が想像したか。
血まみれで冷たくなった父の亡骸を見た大人たちは子供の私に見せるのは酷だと最期の姿すら見せてくれなかった。『可哀想に』と哀れむ顔で私を眺めるだけの空間が辛く、酷く居心地が悪くて吐き気すらした。そんな中でめそめそと泣ける訳が無かった。
昨日まで心地よい空気が流れていた家は虚しさが冷たく刺さる。父の香りの残る布団にくるまって、涙が零れそうになるのを必死で耐えた。ここで泣いてしまえば、父の死を受け入れてしまう。まだ、子供の私は一人になってしまった現実を認めたくなかった。
誰よりも平和を願った人でさえ呆気なく殺される。理想と現実は掛け離れていると気付くには、私には十分過ぎる程だった。
***
季節は春、川辺に並ぶ桜並木。
ぼんやりと眺めてもその光景は平和そのものなのに、夜になればここにも鬼は現れるのかと煮えきらぬ思いを馳せて、ぽつぽつと、一歩ずつその砂利道を踏みしめる。
「これからここが君の家になるんだよ」
言われるがままに連れられてきた家の門前で、父の昔からの仕事仲間である大友さんが私に優しく言った。
彼は一人になって親戚もいない私を見兼ねて、預かり場所は無いかと知り合い一軒一軒虱潰しに聞きまわってくれたそうだ。そこで「うちで預かりましょう」と快く受け入れてくれた家がここだったらしい。他人である私の為にここまで動いてくれた大友さんには一生頭が上がらないと思う。
それにしても大きい家だな…。
『煉獄』と力強い字で書かれた表札に少しだけ怖気づきそうになる。名前だけでとてつもない圧力を感じるのだから、この家の人たちはどんな怖い人たちなんだろう。そんな思いで後ずさりそうになる私に気付いてか気付かないでか、大友さんは私ににこりと軽く微笑み、煉獄家の門を軽快に開けた。
「ごめんください」
門を潜ると、大きな庭が広がった。とても綺麗に整えられた植木に、鯉が優雅に泳ぐ小さな池。明らかに格式の高そうな雰囲気に気圧されそうになった私は大友さんの後ろで彼の上着をキュッと握りしめた。
「ああ、大友さん、いらっしゃい」
大友さんの挨拶に低めで威厳を感じる声が応えた。その人は貫禄のある雰囲気からこの家の主であることが分かる。彼は幾つか言葉を交わした後、チラリとこちらを見て私の身体がビクリと跳ねた。碌な挨拶も出来ないまま、すぐさま再び大友さんに視線を移し「しばし待っててくれ」と家の中へ入っていった。
どうしよう、怖い。
これから一人で知らない家で暮らしていくのかと、唐突に訪れる恐怖に身体が震える。無意識に大友さんの上着を握る手に力が入った。それに気付いた大友さんは、またふわりと優しい笑顔を浮かべて「大丈夫だよ」と言った。何が大丈夫なんだろう、あの男の人、すごく険しい顔してたけど…。
「あなたがナマエさん?」
するとふと玄関の辺りから聞こえてきた女性の声にハッとする。振り返るとそこには黒髪の美しい女性が立っていて、強さを含みながらも優しい目が私を見ていた。
「初めまして、私は煉獄瑠火と申します。槇寿郎の妻でございます」
さっきの人は槇寿郎さんと言うのか。気難しそうな顔をしている彼の考えが読めなくてまだ少し怖いと感じる。
ふと、瑠火さんの後ろに何かがいることに気付いた。瑠火さんは私の前にしゃがむと、「この子は千寿郎です」と後ろに隠れていた小さな男の子がひょこりと顔を出した。ふにゃりと笑われその可愛さについ私も釣られて頬を緩める。そのお陰か、緊張で閉ざされた口がゆっくりと開けるようになるのを感じた。
「……初めまして、ミョウジ ナマエと申します…」
「ナマエさん、あなたの御父上の事は、よく知っていますよ」
「え?」
「沢山、お世話になりましたから」
そう言うと瑠火さんは一冊の本を私に差し出した。その見覚えのある表紙にグッと唇に力が入った。
「これは……」
「子供たちがとても気に入っている本なんですよ」
父の作った本、私が大好きでよく読んでもらっていた本。思い入れのありすぎるそれに、今までの記憶が一気に脳裏を過って、目頭が熱くなるのを必死で耐えた。するとふわりと頭に何かが覆いかぶさる。驚いて見上げると、それはまさか槇寿郎さんの大きな手だった。何も言わずに壊れ物を扱うように優しく頭を撫でてくれる手がとても温かい。こんな風に頭を撫でて貰ったのはいつ振りだろう。
「あ……」
ふいに、ほろりと目から零れ落ちる涙に自分でも驚いた。泣くつもりは無かったのに。必死で手の甲で目元を擦ると、瑠火さんの手がそっとそれを制する。泣きなさい、と言われているような行為に、溢れて堰を切った涙は止めどなく流れてくる。
お父さん、お父さん·····!!!
思い出される記憶、あの日は雪が降っていた。傷だらけで外にずっと放り出されて、寒かっただろう。痛かっただろう。辛かっただろう。なのに助けることも出来なかった。労ることも許されなかった。あの優しく笑う父は、もういないのだ。
流れる涙はずっと背けてきた現実を無理やりに整理させてきて、押し込めていた感情がボロボロと零れ落ちる。
「お、とうさ·····ふ、う·····っ」
嗚咽混じりの声を漏らす私の手を、瑠火さんがそっと握った。続いた千寿郎くんが心配そうに私の頬に触れて、私に触れる手の温かさにまた涙が零れた。なんて、温かい家族なんだろう。
「ナマエさん、今日からよろしくお願いしますね」
敢えてなのか、父のことを深く聞かずに瑠火さんの穏やかな声が私を迎え入れてくれた。ただ、よろしくと言う言葉に素直に頷いていいのか少しだけ困惑して、隣に視線を向ける。そこにいた大友さんは私の思いをすぐに察して、柔らかに微笑んだ。
「……はい…っ」
それを合図に小さく、でも芯を持って呟いた言葉は辺りを明るくさせた。最初に抱いた不安はいつの間にか薄まって、何故だかここなら大丈夫だという気持ちが胸を熱くさせた。それよりも、ここに居たい、そんな思いが強くなっていく。
「そういえば、杏寿郎はどこにいるんだ」
突然、槇寿郎さんがぼそりと言った杏寿郎と言う新しく耳に入れる名前に首を傾げる。まさか、もう一人いるの? 皆でキョロキョロと辺りを見回している様子をぽかんと眺めていると、近くの植木からドサドサドサ!と大きな音を立てて何かが落ちて来た。
「!!!」
「いたた……」
何事かと全員の視線が集中する。大量の桜の花びらと土煙が舞う中から徐々に現れた、姿は似ているが千寿郎くんより大きな身体の少年に息を呑んだ。着地を失敗したのだろう、腰を摩りながら立ち上がるその姿は恐らく私と同じくらいの年齢か。驚いて言葉も出ないでいると、まず先に槇寿郎さんが口を開いた。
「杏寿郎!お前何を…!」
「はっ父上!申し訳ありません!降りれなくなった猫を助けようとしたのですが着地に失敗してしまいました!」
元気の良い通る声が耳を突いて、彼をまじまじと眺めた。落ちた衝撃で砂と花弁まみれになりながらも猫を落とさまいと大事そうに抱える様子は何処かしら責任感の強さが垣間見える。
「杏寿郎、こちらへ」
「はい!母上」
瑠火さんの静かな声と共に、砂を払って彼がこちらに歩み寄ってくる。一言二言、言葉を交わした後、ふと彼の目が私を捉えた。飲み込まれそうな程真っ直ぐな瞳。なんて綺麗な火の色なんだろう、そう思った。
「俺は煉獄杏寿郎!よろしく、ナマエ!」
これが私が杏寿郎さんと出会った瞬間だった。
彼の太陽のような金色の髪についた桜の花びらが、ひと際印象に残った。