【長編】追いかけた先で
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第3話
静かすぎて、かえって足音が響く。
崩れた石畳の上を担架の脚が擦れるたび、乾いた音が短く残った。
巨人は、もういない。
昨夜まで続いた掃討作戦で、全て死滅した。
今は人だけがいて、運ばれていくのは、もう動かない身体だった。
口元を覆う布の奥で、自分の呼吸だけが少し湿っていた。
それでも、鼻の奥には乾いた血と石の匂いが残る。
フランカは白布の束を抱え直した。
布の端が腕に擦れる。朝の空気は冷えているのに、掌だけがずっと汗ばんでいた。
ようやく始まった戦場処理は、最初から容赦がなかった。
担架に乗せられて運ばれていく顔が見える。
その瞬間、訓練のあとで笑っていた顔が勝手に重なった。
一昨日まで普通に喋っていた声まで浮かぶのに、目の前の口元はもう動かない。
別の場所では、瓦礫に半身を潰されたまま止まっている。
顔は見えない。けれど髪の色だけで分かった。
よく見かけた色だった。
もっと奥には、もう誰か分からない身体がある。
それでも、胸元に縫いつけられた訓練兵団の紋章だけは残っていた。
その紋章を見るたび、喉の奥が狭くなる。
誰か分からない。
でも、知らない誰かではいられなかった。
「フランカ!」
呼ばれて、はっと顔を上げる。
白布を持ったまま駆け寄ると、担架を挟んで二人の同期が立っていた。
片側を支えていた一人が、今にも倒れそうな目をしている。
もう片方の同期が、苦しそうに息を継いだ。
「こっち、少し頼めるか……」
「いいよ。座って」
フランカは白布を脇へ押し込み、ふらついている方の手から担架の柄を受け取った。
触れた手は冷たく、力もほとんど入っていない。
「そこまで運ぼう」
短く言って、もう一人と一緒に数歩だけ進む。
近くの空いた場所へ担架をそっと下ろすと、フランカはすぐその子の腕を取った。
「水、持ってくるから動かないで」
返事を待たず、彼女を壁際へ座らせる。
別の場所で誰かが低く嗚咽した。
白布の向こうから、泣くのを堪えるような息が聞こえる。
フランカはそちらを見た。
見てしまったせいで、また動いた。
「ごめん、ちょっと待ってて」
立ち上がる。
水桶は少し離れた荷車の脇にある。ほんの短い距離だった。
足を速めながら、視線が先を探す。
少し離れた場所にマルコとジャンが見えた。二人で担架を運んでいる。
マルコがちゃんとそこにいる。
そのことに、胸の奥が少しだけ緩む。
緩んだ、その直後だった。
「……さっきの奴、大丈夫だったか?」
声に呼び止められて、足が止まる。
ライナーだった。
石壁の陰に立っている。
日陰にいるせいか、顔の影が少し濃い。
布越しで少しくぐもっていたが、声だけならいつも通りに聞こえた。
フランカは水桶の取っ手を握り直す。
「たぶん。少し休めば平気だと思う」
「そうか」
短く返して、ライナーは一歩だけ近づく。
近づいた分だけ、声が低くなる。
「お前も朝から動きっぱなしだな」
「別に。みんなそうでしょ」
返事が少し早かった。
自分でも分かる。
ライナーはそれを流すみたいに、視線を外した。
けれど次の言葉は、何でもない調子のまま落ちてきた。
「マルコも、さっきから大丈夫そうに見えねぇな」
胸の奥がひくりと鳴る。
「……そう?」
「昨日、ずっと一緒にいたんだろ?」
水桶の金具が掌に食い込む。
離したら音が鳴りそうで、逆に指がほどけない。
「まあ、作業が一緒になること多かったし」
「何かあったのかと思ってな」
目元だけが、ほんのわずかに和らいだように見えた。
ただ気遣っているだけみたいに。
その顔のまま、こっちの反応を見ている気がした。
「別に何も」
言ってから、言葉を足しそうになる。
喉がひりつく。
「……昨日なんて、みんな変だったし」
ライナーの目が、ほんの一瞬だけ止まる。
見られた。
そう思った時にはもう遅かった。
「まあな」
それだけ言う。
責めるでもなく、探るでもなく、ただ相槌みたいに。
なのに、気が抜けない。
「悪かった。呼び止めて」
先に身を引いたのはライナーの方だった。
そのまま別の担架の方へ向かっていく。歩き方まで普段通りだった。
フランカはそこに残ったまま、すぐには動けなかった。
水桶の中で、水面だけが細かく揺れている。
「……フランカ?」
壁際に座らせた同期が、かすれた声で呼ぶ。
フランカははっとして、水桶を持ち上げた。
「ごめん、今行く」
声だけは、ちゃんと出た。
*
水を渡して、落ち着くまで背中をさすってから、フランカはマルコたちの方へ戻った。
ジャンが先に気づいた。
フランカが一人で戻ってきたのを見て、その顔がすぐに渋くなる。
マルコは何も言わない。
ただ、フランカの手元の水桶と、その顔を順に見た。
フランカは二人のそばまで来ると、小さく言った。
「……ライナーに話しかけられた」
ジャンの眉が動く。
「どこで」
「水取りに行った時。ちょっとだけ一人になって」
「何て」
フランカは喉を湿らせる。けれど、あまりうまくいかない。
「最初は、さっき介抱してた子のこと聞かれた。
そのあと……マルコのこと」
マルコの指が、担架の柄を握ったまま強張る。
「……僕?」
「昨日、ずっとマルコと一緒にいたんだろって。何かあったのかって」
ジャンが短く息を吐いた。
「で、お前何て返した」
「別に何もって。……でも、少し喋りすぎたかも」
言った瞬間、自分でもそうだと分かった。
ライナーが何を聞きたかったのか、全部は分からない。けれど、あの一瞬の目は忘れられない。
マルコが低く言う。
「……反応を見てたんだと思う」
フランカは頷きかけて、途中で止まる。
その言葉を認めると、急に現実味が増した。
ジャンは周囲を見た。
近くに人がいないのを確かめてから、さらに声を落とす。
「探ってきたなら、向こうもまだ確信はねぇんだろ。だからこっちからボロ出すな」
フランカは唇を噛む。
「分かってる」
「分かってねぇ」
即答だった。
「お前、顔に出るんだよ」
言い返しかけて、やめた。
さっきの自分の返事の速さを思い出す。否定しきれなかった。
マルコが間に入るように言う。
「……でも、向こうも気にしてる」
「僕が聞いたこと自体は、向こうも分かってるはずだ。でも、僕がどこまで気づいたかは、まだ探ってるのかもしれない」
「だから余計に一人になるな」
ジャンの声は低いままだった。
苛立っているのに、それだけじゃない。焦りが混ざっている。
「マルコは俺と動く。フランカも、できるだけ単独になるな」
「うん」
「話す時はもっと短くしろ。聞かれたことだけ返せ。自分から足すな」
フランカは小さく頷いた。
ジャンはそこで、マルコに視線を向ける。
「お前もだ。勝手に離れるな」
「分かってる」
「……ならいい」
短く切って、ジャンは担架の方へ戻る。
マルコも半歩遅れて動こうとしたが、フランカは先にそちらを見た。
「私、水戻してくる」
「一人で?」
マルコがすぐに言う。
その声に、フランカは少しだけ目を瞬かせた。
「すぐそこだよ」
「それでも」
言い切る前に、ジャンが振り向きもせずに言った。
「行くならさっさと戻れ。今は離れるな」
フランカは「分かってる」と返しかけて、飲み込む。
今日はその言葉ばかり使っている気がした。
水桶を置いて戻る。
本当に短い距離だった。
それだけなのに、足の裏がずっと落ち着かない。
*
午後になるほど、陽の色が白くなる。
崩れた石壁に当たって跳ね返る光まで乾いて見えた。
街の中から巨人の気配はもう消えているのに、残ったものの方が重い。
担架は途切れない。
白布も足りなくなる。
止まっている暇はない。
フランカは一度も座らなかった。
水も、さっき口を湿らせたきりだった。
誰かがふらつけば先に肩を貸す。
吐きそうな顔をしていれば壁際まで連れていく。
泣いている子がいれば、何も言わずに横にいる。
マルコの方も、視界の端で確かめる。
ジャンがそばにいることを確認して、また別の方へ走る。
そうして動いているあいだだけ、何かを見ないで済む気がした。
けれど、見えてしまうものは見えてしまう。
白布がずれた。
そこにあった顔を知っていた。
訓練のあとで、食堂の前で笑っていた顔だった。
二日前から姿が見えなかったことを、今になって思い出す。
息が止まる。
「フランカ!」
呼ばれて、はっと振り向く。
次の荷が来ていた。
「……今行く!」
返事をして、駆ける。
少し声が裏返った。
重い木箱を持ち上げた時だった。
いけると思った。
腕にも足にも、まだ力は残っているつもりだった。
でも、一歩目で急に重みが落ちてくる。
「あ……」
膝から力が抜けた。
木箱の角が腕を滑り、鈍い音を立てて地面に落ちる。
同時に、自分の膝も石畳についた。
遅れて痛みが来る。
「フランカ!」
マルコの声が近い。
駆け寄る足音。
次の瞬間、腕を支えられた。
「大丈夫か?」
フランカは顔を上げかけて、すぐに逸らした。
マルコの目を見るのが、今は少しきつい。
「……平気」
浅い呼吸のまま答える。
「思ったより重くて驚いた」
軽く返したつもりだった。
でも、自分でも少し掠れているのが分かった。
マルコの手は離れない。
何も言わないまま、少しだけ支える力が強くなる。
ジャンが少し遅れて来た。
「何やってんだ」
ぶっきらぼうな声だった。
けれど、目は笑っていない。
「別に。ちょっと滑っただけ」
「それを普通は別にって言わねぇんだよ」
ジャンは木箱を拾い上げると、フランカを一度だけ見た。
「……座れ」
「まだいける」
「座れって言ってんだろ」
低い声だった。
その声に、フランカは言い返せなかった。
近くの木箱に腰を下ろす。
座った瞬間、自分の足が思ったより頼りなかったことに気づく。
マルコが水筒を差し出した。
フランカは受け取る。
金具の冷たさが掌に沁みる。
「……ありがと」
口元の布を下にずらして、ぬるい水を流し込んだ。
喉を通った瞬間、ようやく自分がずっと乾いていたことに気づく。
ジャンが鼻を鳴らす。
「朝から一回も座ってなかっただろ」
「……そんなことない」
「ある」
言い切られて、フランカは黙る。
マルコはまだ何も言わない。
でも、その沈黙の方が責められるより苦しかった。
少しして、別の場所で呼び声が上がる。
ジャンはそちらを見て、短く息を吐いた。
「俺、向こう行ってくる」
木箱を抱えて離れていく。
その背が見えなくなるまで、フランカは水筒を見たまま動けなかった。
「……フランカ」
マルコが呼ぶ。
「なに」
「無理しすぎだよ」
責める声ではなかった。
確かめるみたいに、静かな声だった。
「してない」
反射みたいに返す。
返したあとで、自分でも早すぎたと思った。
マルコは少しだけ黙る。
「してるよ」
その言い方が、余計にきつい。
フランカは笑おうとして、うまくいかなかった。
代わりに、口元だけが少し歪む。
「……平気だって」
「そう言うと思った」
その返しに、フランカはようやく顔を上げた。
マルコの目が、まっすぐこちらを見ていた。
けれど、その視線を受け止めきれず、すぐに逸らす。
「ほんとに平気。ちょっと驚いただけ」
同じことを、もう一度言う。
言いながら、自分でも軽すぎると思った。
マルコはそれ以上言わなかった。
ただ、じっとフランカを見ていた。
その視線に気づくたび、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
休んでいる間にも、街の中では担架が動いていた。
白布の擦れる音。
石畳を引く車輪の軋み。
低く名を呼ぶ声。
何も終わっていない。
止まっている方が、かえってきつかった。
フランカは立ち上がる。
「もう行ける」
そう言って、水筒を返す。
口元を覆い直してから、ようやく息を整える。
マルコは受け取りながら、ほんの少しだけ眉を寄せた。
それでも止めはしなかった。
「……じゃあ、一緒に行こう」
その言い方が、妙に静かだった。
フランカは一瞬だけ目を瞬かせる。
それから、小さく頷いた。
「うん」
二人で歩き出す。
崩れた街は、朝から少しも変わっていなかった。
石の色も、白布の数も、空気の冷たさも、そのままだ。
それでも。
隣を歩くマルコが、さっきから妙に静かにこっちを見ている気がした。
視線が合うたび、すぐ逸れる。
何か言いかけて、やめているようにも見える。
「……なに」
先に聞くと、マルコは少しだけ首を振った。
「別に」
その返事が、いつもより遅い。
フランカはそれ以上追わなかった。
追えば、また何かを見られそうだった。
代わりに前を見る。
抱え上げられる担架。
その上に置かれる白布。
訓練兵団の紋章。
足は止めない。
止めたら、たぶん今度こそ立てなくなる。
それでも、隣から時々向けられる気配だけは消えなかった。
マルコが何を見ているのか、フランカには分からない。
ただ、いつもより静かなその気配だけが、午後の冷えた空気の中に長く残った。
…To be continued
探る視線
トロスト区は、静かだった。静かすぎて、かえって足音が響く。
崩れた石畳の上を担架の脚が擦れるたび、乾いた音が短く残った。
巨人は、もういない。
昨夜まで続いた掃討作戦で、全て死滅した。
今は人だけがいて、運ばれていくのは、もう動かない身体だった。
口元を覆う布の奥で、自分の呼吸だけが少し湿っていた。
それでも、鼻の奥には乾いた血と石の匂いが残る。
フランカは白布の束を抱え直した。
布の端が腕に擦れる。朝の空気は冷えているのに、掌だけがずっと汗ばんでいた。
ようやく始まった戦場処理は、最初から容赦がなかった。
担架に乗せられて運ばれていく顔が見える。
その瞬間、訓練のあとで笑っていた顔が勝手に重なった。
一昨日まで普通に喋っていた声まで浮かぶのに、目の前の口元はもう動かない。
別の場所では、瓦礫に半身を潰されたまま止まっている。
顔は見えない。けれど髪の色だけで分かった。
よく見かけた色だった。
もっと奥には、もう誰か分からない身体がある。
それでも、胸元に縫いつけられた訓練兵団の紋章だけは残っていた。
その紋章を見るたび、喉の奥が狭くなる。
誰か分からない。
でも、知らない誰かではいられなかった。
「フランカ!」
呼ばれて、はっと顔を上げる。
白布を持ったまま駆け寄ると、担架を挟んで二人の同期が立っていた。
片側を支えていた一人が、今にも倒れそうな目をしている。
もう片方の同期が、苦しそうに息を継いだ。
「こっち、少し頼めるか……」
「いいよ。座って」
フランカは白布を脇へ押し込み、ふらついている方の手から担架の柄を受け取った。
触れた手は冷たく、力もほとんど入っていない。
「そこまで運ぼう」
短く言って、もう一人と一緒に数歩だけ進む。
近くの空いた場所へ担架をそっと下ろすと、フランカはすぐその子の腕を取った。
「水、持ってくるから動かないで」
返事を待たず、彼女を壁際へ座らせる。
別の場所で誰かが低く嗚咽した。
白布の向こうから、泣くのを堪えるような息が聞こえる。
フランカはそちらを見た。
見てしまったせいで、また動いた。
「ごめん、ちょっと待ってて」
立ち上がる。
水桶は少し離れた荷車の脇にある。ほんの短い距離だった。
足を速めながら、視線が先を探す。
少し離れた場所にマルコとジャンが見えた。二人で担架を運んでいる。
マルコがちゃんとそこにいる。
そのことに、胸の奥が少しだけ緩む。
緩んだ、その直後だった。
「……さっきの奴、大丈夫だったか?」
声に呼び止められて、足が止まる。
ライナーだった。
石壁の陰に立っている。
日陰にいるせいか、顔の影が少し濃い。
布越しで少しくぐもっていたが、声だけならいつも通りに聞こえた。
フランカは水桶の取っ手を握り直す。
「たぶん。少し休めば平気だと思う」
「そうか」
短く返して、ライナーは一歩だけ近づく。
近づいた分だけ、声が低くなる。
「お前も朝から動きっぱなしだな」
「別に。みんなそうでしょ」
返事が少し早かった。
自分でも分かる。
ライナーはそれを流すみたいに、視線を外した。
けれど次の言葉は、何でもない調子のまま落ちてきた。
「マルコも、さっきから大丈夫そうに見えねぇな」
胸の奥がひくりと鳴る。
「……そう?」
「昨日、ずっと一緒にいたんだろ?」
水桶の金具が掌に食い込む。
離したら音が鳴りそうで、逆に指がほどけない。
「まあ、作業が一緒になること多かったし」
「何かあったのかと思ってな」
目元だけが、ほんのわずかに和らいだように見えた。
ただ気遣っているだけみたいに。
その顔のまま、こっちの反応を見ている気がした。
「別に何も」
言ってから、言葉を足しそうになる。
喉がひりつく。
「……昨日なんて、みんな変だったし」
ライナーの目が、ほんの一瞬だけ止まる。
見られた。
そう思った時にはもう遅かった。
「まあな」
それだけ言う。
責めるでもなく、探るでもなく、ただ相槌みたいに。
なのに、気が抜けない。
「悪かった。呼び止めて」
先に身を引いたのはライナーの方だった。
そのまま別の担架の方へ向かっていく。歩き方まで普段通りだった。
フランカはそこに残ったまま、すぐには動けなかった。
水桶の中で、水面だけが細かく揺れている。
「……フランカ?」
壁際に座らせた同期が、かすれた声で呼ぶ。
フランカははっとして、水桶を持ち上げた。
「ごめん、今行く」
声だけは、ちゃんと出た。
*
水を渡して、落ち着くまで背中をさすってから、フランカはマルコたちの方へ戻った。
ジャンが先に気づいた。
フランカが一人で戻ってきたのを見て、その顔がすぐに渋くなる。
マルコは何も言わない。
ただ、フランカの手元の水桶と、その顔を順に見た。
フランカは二人のそばまで来ると、小さく言った。
「……ライナーに話しかけられた」
ジャンの眉が動く。
「どこで」
「水取りに行った時。ちょっとだけ一人になって」
「何て」
フランカは喉を湿らせる。けれど、あまりうまくいかない。
「最初は、さっき介抱してた子のこと聞かれた。
そのあと……マルコのこと」
マルコの指が、担架の柄を握ったまま強張る。
「……僕?」
「昨日、ずっとマルコと一緒にいたんだろって。何かあったのかって」
ジャンが短く息を吐いた。
「で、お前何て返した」
「別に何もって。……でも、少し喋りすぎたかも」
言った瞬間、自分でもそうだと分かった。
ライナーが何を聞きたかったのか、全部は分からない。けれど、あの一瞬の目は忘れられない。
マルコが低く言う。
「……反応を見てたんだと思う」
フランカは頷きかけて、途中で止まる。
その言葉を認めると、急に現実味が増した。
ジャンは周囲を見た。
近くに人がいないのを確かめてから、さらに声を落とす。
「探ってきたなら、向こうもまだ確信はねぇんだろ。だからこっちからボロ出すな」
フランカは唇を噛む。
「分かってる」
「分かってねぇ」
即答だった。
「お前、顔に出るんだよ」
言い返しかけて、やめた。
さっきの自分の返事の速さを思い出す。否定しきれなかった。
マルコが間に入るように言う。
「……でも、向こうも気にしてる」
「僕が聞いたこと自体は、向こうも分かってるはずだ。でも、僕がどこまで気づいたかは、まだ探ってるのかもしれない」
「だから余計に一人になるな」
ジャンの声は低いままだった。
苛立っているのに、それだけじゃない。焦りが混ざっている。
「マルコは俺と動く。フランカも、できるだけ単独になるな」
「うん」
「話す時はもっと短くしろ。聞かれたことだけ返せ。自分から足すな」
フランカは小さく頷いた。
ジャンはそこで、マルコに視線を向ける。
「お前もだ。勝手に離れるな」
「分かってる」
「……ならいい」
短く切って、ジャンは担架の方へ戻る。
マルコも半歩遅れて動こうとしたが、フランカは先にそちらを見た。
「私、水戻してくる」
「一人で?」
マルコがすぐに言う。
その声に、フランカは少しだけ目を瞬かせた。
「すぐそこだよ」
「それでも」
言い切る前に、ジャンが振り向きもせずに言った。
「行くならさっさと戻れ。今は離れるな」
フランカは「分かってる」と返しかけて、飲み込む。
今日はその言葉ばかり使っている気がした。
水桶を置いて戻る。
本当に短い距離だった。
それだけなのに、足の裏がずっと落ち着かない。
*
午後になるほど、陽の色が白くなる。
崩れた石壁に当たって跳ね返る光まで乾いて見えた。
街の中から巨人の気配はもう消えているのに、残ったものの方が重い。
担架は途切れない。
白布も足りなくなる。
止まっている暇はない。
フランカは一度も座らなかった。
水も、さっき口を湿らせたきりだった。
誰かがふらつけば先に肩を貸す。
吐きそうな顔をしていれば壁際まで連れていく。
泣いている子がいれば、何も言わずに横にいる。
マルコの方も、視界の端で確かめる。
ジャンがそばにいることを確認して、また別の方へ走る。
そうして動いているあいだだけ、何かを見ないで済む気がした。
けれど、見えてしまうものは見えてしまう。
白布がずれた。
そこにあった顔を知っていた。
訓練のあとで、食堂の前で笑っていた顔だった。
二日前から姿が見えなかったことを、今になって思い出す。
息が止まる。
「フランカ!」
呼ばれて、はっと振り向く。
次の荷が来ていた。
「……今行く!」
返事をして、駆ける。
少し声が裏返った。
重い木箱を持ち上げた時だった。
いけると思った。
腕にも足にも、まだ力は残っているつもりだった。
でも、一歩目で急に重みが落ちてくる。
「あ……」
膝から力が抜けた。
木箱の角が腕を滑り、鈍い音を立てて地面に落ちる。
同時に、自分の膝も石畳についた。
遅れて痛みが来る。
「フランカ!」
マルコの声が近い。
駆け寄る足音。
次の瞬間、腕を支えられた。
「大丈夫か?」
フランカは顔を上げかけて、すぐに逸らした。
マルコの目を見るのが、今は少しきつい。
「……平気」
浅い呼吸のまま答える。
「思ったより重くて驚いた」
軽く返したつもりだった。
でも、自分でも少し掠れているのが分かった。
マルコの手は離れない。
何も言わないまま、少しだけ支える力が強くなる。
ジャンが少し遅れて来た。
「何やってんだ」
ぶっきらぼうな声だった。
けれど、目は笑っていない。
「別に。ちょっと滑っただけ」
「それを普通は別にって言わねぇんだよ」
ジャンは木箱を拾い上げると、フランカを一度だけ見た。
「……座れ」
「まだいける」
「座れって言ってんだろ」
低い声だった。
その声に、フランカは言い返せなかった。
近くの木箱に腰を下ろす。
座った瞬間、自分の足が思ったより頼りなかったことに気づく。
マルコが水筒を差し出した。
フランカは受け取る。
金具の冷たさが掌に沁みる。
「……ありがと」
口元の布を下にずらして、ぬるい水を流し込んだ。
喉を通った瞬間、ようやく自分がずっと乾いていたことに気づく。
ジャンが鼻を鳴らす。
「朝から一回も座ってなかっただろ」
「……そんなことない」
「ある」
言い切られて、フランカは黙る。
マルコはまだ何も言わない。
でも、その沈黙の方が責められるより苦しかった。
少しして、別の場所で呼び声が上がる。
ジャンはそちらを見て、短く息を吐いた。
「俺、向こう行ってくる」
木箱を抱えて離れていく。
その背が見えなくなるまで、フランカは水筒を見たまま動けなかった。
「……フランカ」
マルコが呼ぶ。
「なに」
「無理しすぎだよ」
責める声ではなかった。
確かめるみたいに、静かな声だった。
「してない」
反射みたいに返す。
返したあとで、自分でも早すぎたと思った。
マルコは少しだけ黙る。
「してるよ」
その言い方が、余計にきつい。
フランカは笑おうとして、うまくいかなかった。
代わりに、口元だけが少し歪む。
「……平気だって」
「そう言うと思った」
その返しに、フランカはようやく顔を上げた。
マルコの目が、まっすぐこちらを見ていた。
けれど、その視線を受け止めきれず、すぐに逸らす。
「ほんとに平気。ちょっと驚いただけ」
同じことを、もう一度言う。
言いながら、自分でも軽すぎると思った。
マルコはそれ以上言わなかった。
ただ、じっとフランカを見ていた。
その視線に気づくたび、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
休んでいる間にも、街の中では担架が動いていた。
白布の擦れる音。
石畳を引く車輪の軋み。
低く名を呼ぶ声。
何も終わっていない。
止まっている方が、かえってきつかった。
フランカは立ち上がる。
「もう行ける」
そう言って、水筒を返す。
口元を覆い直してから、ようやく息を整える。
マルコは受け取りながら、ほんの少しだけ眉を寄せた。
それでも止めはしなかった。
「……じゃあ、一緒に行こう」
その言い方が、妙に静かだった。
フランカは一瞬だけ目を瞬かせる。
それから、小さく頷いた。
「うん」
二人で歩き出す。
崩れた街は、朝から少しも変わっていなかった。
石の色も、白布の数も、空気の冷たさも、そのままだ。
それでも。
隣を歩くマルコが、さっきから妙に静かにこっちを見ている気がした。
視線が合うたび、すぐ逸れる。
何か言いかけて、やめているようにも見える。
「……なに」
先に聞くと、マルコは少しだけ首を振った。
「別に」
その返事が、いつもより遅い。
フランカはそれ以上追わなかった。
追えば、また何かを見られそうだった。
代わりに前を見る。
抱え上げられる担架。
その上に置かれる白布。
訓練兵団の紋章。
足は止めない。
止めたら、たぶん今度こそ立てなくなる。
それでも、隣から時々向けられる気配だけは消えなかった。
マルコが何を見ているのか、フランカには分からない。
ただ、いつもより静かなその気配だけが、午後の冷えた空気の中に長く残った。
…To be continued