【長編】追いかけた先で
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第2話
壁の向こうで榴弾が炸裂するたび、遅れてきた振動が地面の下を鈍く揺らす。
夜のあいだ何度も浅く途切れた眠りは、その音のたびに引き戻された。目を閉じても、熱と煙の匂いだけが喉の奥に残っている。
フランカは、結局ほとんど眠れないまま外へ出た。
宿舎の前の空気はひんやりしていた。
空はまだ薄く青く、朝日が建物の縁を越えるには少し早い。
人の気配も、いつもより少ない。
皆、起きてはいるのだろうが、動き出すまでに少し間がある。そんな静けさだった。
壁の方角から、また砲声が来る。
昨夜からずっと続いている。トロスト区の中には、まだ巨人がいる。
その事実だけが、寝不足の頭にも妙にはっきりしていた。
フランカは腕を組み、宿舎の出入口を見た。
胸の奥のざわつきが、まだ抜けない。
砲声のせいか、マルコの顔のせいか、自分でもうまく分からないまま、朝になると先に外へ出て、ここで待っていた。
しばらくして扉が開く。
人の流れの中に、見慣れた顔が混じっていた。
マルコだった。
外へ出たところで視線が上がり、
フランカと目が合う。
ほんの一瞬、その足が止まる。
フランカは先に口を開いた。
「おはよう」
「おはよう……って、いつからここに居たんだ?」
「日の出前から」
「え……!?」
「冗談だよ」
言ってから、口元だけで少し笑う。
マルコがようやく小さく息を吐いた。
笑ったというより、苦笑に近かった。
その顔を見た瞬間、フランカは眉を寄せる。
「……眠れた?」
「……少しは」
「嘘だ。眠れた顔してない」
「……はは、よく見てるな」
力のない返しだった。
声はいつも通りを装っているのに、目の下の色が隠しきれていない。
二人で並んで歩き出す。
朝の空気は冷たいのに、胸のあたりだけ妙に落ち着かない。
「フランカは眠れたの?」
「まあね。私、体力だけは自信あるからさ。多少寝れなくても平気」
「それって眠れてないんじゃ……」
「あはは、私のことはいいじゃん」
言いながら、少しだけ視線を逸らす。
自分だって、まともに寝ていない。
砲声の合間に、昨夜のライナーの顔や、マルコの低い声が何度も浮かんだ。
けれど、それを今ここで言ったところで、余計に重くなるだけだと思った。
足元に朝の光が少しずつ伸びてくる。
宿舎のまわりにも人が増え始めていた。
物資を運ぶ兵、壁の方を見上げる兵、まだ眠気の抜けない顔で歩く訓練兵。皆どこか遅れていて、でも止まってはいない。
その人の流れの中で、肩に軽い衝撃が来た。
「ごめん!前よく見てなかった」
咄嗟に謝って顔を上げる。
アニだった。
こちらを見た目が、ほんの一瞬だけ止まる。
何を考えているのか分からない、平たい目だった。
けれど返事はすぐには来ない。
ひと呼吸遅れて、冷たく落ちる。
「……別に」
それだけ言って、アニはそのまま横を抜けていった。
フランカは思わずその背中を見る。
「なにあれ。感じ悪……」
声を落としたつもりだったが、少し棘が残った。
マルコはアニの去っていく背を見ながら、小さく言う。
「アニも昨日の今日で疲れてるんだろう」
フランカは口を尖らせかけて、すぐに引っ込めた。
たしかに、と思う。
昨日、死にかけたのは自分たちだけじゃない。
皆それぞれ、まともじゃない朝を迎えている。
それでも、今の返事の遅さが、
胸のどこかに薄く引っかかった。
砲声がまた鳴る。
二人は少しだけ黙ったまま歩いた。
朝日はようやく建物の縁を越え始めていた。
壁の向こうから来る音だけが、まだ夜の続きみたいだった。
*
午後の作業は、朝よりも空気が重かった。
壁の向こうでは、まだ砲声が途切れない。
榴弾が炸裂するたび、遅れてきた振動が地面の下を鈍く揺らす。積み上げられた木箱の隙間で、細かな埃がかすかに跳ねた。
訓練兵たちはウォール・ローゼ内で補助作業に回されていた。
弾薬や水の運搬、装備の点検、負傷兵の手伝い。
どれも手を動かしていれば済む仕事のはずなのに、誰の顔にも落ち着きがない。
フランカは木箱の陰から、少し離れた装備点検の列を見た。
ライナーとベルトルトが、整備係のところへ回されている。周囲にも人が多い。
少なくとも、今すぐこちらへ来る気配はない。
そのことを確かめてから、物資を抱えて歩いてくるジャンに近づいた。
「ジャン、ちょっと来て」
低く呼ぶと、ジャンが露骨に顔をしかめた。
疲れがそのまま張りついたみたいな顔だった。
「なんだよ」
「いいから!こっち」
返事を待たず、袖を軽く引く。
「あ!?ちょっ……おい!?」
足を止めきれないまま、ジャンが半歩よろける。
フランカはそのまま物資置き場の裏手へ回り込んだ。
壁際は人の流れから少し外れていて、表より音が鈍い。とはいえ、静かとは言えなかった。
遠くの砲声も、木箱を下ろす音も、ここまで届いている。
ジャンは抱えていた荷を足元に置き、荒っぽく息を吐いた。
「なんだよ急に」
フランカは一度だけ周囲を見た。人影はない。
けれど声を張る気にはなれなかった。
「ジャンに話がある」
「……は?」
苛立ちの色が少しだけ薄れた。
「昨日から、マルコの様子がおかしいんだよね」
「マルコが?」
「うん、だから今一人にしたくなくて」
「は?なんだそりゃ?なんでそんな話になる?」
「ちょっと私も気になることがあって」
「気になるって何が」
フランカは口を開きかけて、言葉を探した。
昨夜のあの感じを、そのままうまく出せる気がしない。
「うまく説明できないけど……」
その時、裏手の入口に足音が止まった。
振り向くと、マルコが立っていた。
こちらを見たまま、ほんのわずかに呼吸が止まる。
フランカは小さく呼ぶ。
「……マルコ」
マルコの視線が、ジャンに止まる。
「……ジャンに話したのか?」
「昨日、言ったでしょ」
マルコは一瞬だけ目を伏せた。
「……そうだね」
ジャンが腕を組む。
機嫌の悪さは消えていないが、もうさっきの雑な調子ではなかった。
「で?何なんだよ。マルコの様子がおかしいだの、一人にしたくないだの。さっきから話が見えねぇ」
フランカはマルコを見る。
「……マルコ、話せる?」
マルコはすぐには答えなかった。
喉がひとつ上下する。
「……昨日、聞いたんだ。
ライナーとベルトルトが話してるのを」
ジャンの眉がぴくりと動く。
「何を」
「すぐには信じないでほしい。僕も、まだ……」
「いいから言え」
ジャンの声は低い。押しつけるような強さがある。
マルコはそれ以上、言いよどむ隙を持てなかった。
「……最初は、うまく意味が分からなかった」
風が、積んだ木箱の端をかすめる。
遠くでまたひとつ爆発音がした。
「ライナーが、俺たちの目的みたいなことを口にしてた。ベルトルトに向かって、……“俺の巨人”って」
フランカの口から、ほとんど反射みたいに声が漏れる。
「……え?」
ジャンの顔色が変わった。
「……待て。今、何て言った?」
「俺の巨人。そう聞こえた」
フランカの背筋に冷たいものが走る。
「……っ、それ……」
「静かにしろ」
ジャンに押さえられて、はっと口をつぐむ。
声を落としたつもりだったのに、自分でも少し大きかったと分かった。
マルコは一度だけ息を吐いて、続けた。
「そのあと、ベルトルトが……、“せっかく空けた穴が塞がれてしまう”って、そういうことも言ってた」
「……穴?」
ジャンの声が低く沈む。
「あと……、エレンが食われたら何も分からない……みたいなことも」
「なんでエレンが出てくる?」
「……分からない」
マルコの視線は地面に落ちたままだった。
「僕が聞き返したら、ライナーは冗談だって言った。でも」
そこで言葉が切れる。
砲声の余韻だけがしばらく残った。
「エレンが巨人になっただろ。だから、人が巨人になること自体はもう否定できない」
ジャンの喉が、低く鳴った。
「……お前それ、昨日の時点で全部聞いてたのか」
「全部、じゃない。途中からだったし、順番も、細かい言い回しも曖昧なところはある」
「でも……聞き間違いじゃなかったと思う」
マルコの声は、言い切るたび少しずつ重くなっていく。
「そうなると、あの会話も……ただ変な冗談じゃ、済まない気がして」
フランカの背筋に、ぞわりとしたものが走った。
壊れた門が浮かぶ。
昨日のライナーの顔も、そこへ重なった。
「……ちょっと待って」
うまく掴めないまま、喉だけがひりついた。
「それって、じゃあ――」
「まだ分からない」
マルコが遮る。
強くはないのに、はっきり止める声だった。
フランカは息を呑む。
マルコの顔は青かった。
止める声だけが、妙にはっきりしていた。
それでも、引き下がれなかった。
「でも私、昨日マルコと合流した時、後ろからライナーが来るの見た」
ジャンが振り向く。
「……ああ?」
「ライナー、すごい顔してた。ほんとに、見たことない顔。怖くて、とにかくマルコをそこから離さなきゃって思った」
マルコは黙ったまま、フランカを見る。
「でも、あの時は自分でも何が変なのか分かってなかった。ただ嫌な感じがしただけで……」
喉の奥が乾く。
「でも今の話、聞いたら……、
あれ、マルコに向いてたんじゃないの」
一度切って、少しだけ言い直す。
「マルコが、ライナーたちの話を聞いたから……、
口止めしようとしてたみたいな顔に見えた」
ジャンが眉を寄せる。
「……それを先に言えよ」
「今言った」
「お前なあ……」
ジャンがこめかみを押さえる。
苛立っているのに、それだけじゃない顔だった。
マルコは低く言った。
「……まだ、そこまでは言えない。僕の考えすぎかもしれない」
フランカは唇を結ぶ。
違うと言い切れないまま、胸の奥だけが落ち着かなかった。
「でも、もし違ってなかったら」
マルコはほんの少し間を置いてから答えた。
「……かなり、まずい」
「……そりゃまずいどころじゃねぇだろ」
ジャンの声は低かった。
抑えているのに、奥の硬さだけが消えない。
フランカはマルコを見る。
昨日から喉の奥に引っかかっていたものが、もう曖昧では済まなくなっていた。
「だから今、一人にしたくないの」
口にすると、昨夜よりずっとはっきりした意味を持って響いた。
マルコが苦く笑うみたいに口元を歪める。
「……ごめん。本当は、二人とも巻き込みたくなかった」
「今さらだ。こんな話、聞いた時点でもう無関係でいられるわけねぇだろ」
ジャンは短く息を吐いた。
木箱の陰に半分隠れたまま、外の気配に耳を向ける。人の声は遠い。
けれど、遠いだけで、ここが完全に切り離されているわけじゃなかった。
「……いいか」
声を落としたまま言う。
「今後、一人で動くな」
マルコがわずかに顔を上げる。
「お前にどこまで聞かれてるか、向こうが気づいてるかは分からねぇ。でも、分からねぇからこそ一人になるな」
ジャンの視線がフランカにも向く。
「お前もだ」
「……うん」
「ライナーたちの前じゃ、何も知らねぇ顔しろ。避けすぎるな。でも、近づきすぎるな」
乱暴な言い方のくせに、一つずつ噛み砕いて置いていく。その声で、胸の奥の張りだけが少し緩んだ。
「話す時は場所を選ぶ。人のいねぇとこで、小声で。誰か来たらすぐやめろ」
ジャンはそこで少しだけ言葉を切った。
「……あと、マルコ」
「うん」
「男子の方に戻る時は、俺が一緒にいる」
マルコが目を瞬かせる。
「でも——」
「でもじゃねぇよ」
ジャンが被せる。
苛立っているように聞こえるのに、目だけは真っ直ぐだった。
「お前、今そういうこと言ってる場合か?」
その言葉に、マルコは返せない。
少しして、低く息を吐く。
「……分かった」
ジャンは今度、フランカの方を見た。
「お前も、変に一人で動くな。何かあったらすぐ言え。勝手に抱え込むなよ」
フランカは口を開きかけて、閉じた。
“分かってる”と言いかけて、喉の奥で止まった。
「……うん」
それだけ言う。
砲声がまたひとつ、遠くで鳴った。
地面の下をくぐってきたような振動が、木箱の隙間の空気を細く揺らす。
マルコが膝の横で、指をゆっくり握り込む。
「……ごめん」
また、小さく言った。
「昨日のうちに、もっとちゃんと話しておけばよかった」
「昨日のお前に、そんな余裕があったのか?」
ジャンが即座に返す。
吐き捨てるみたいな口調だったが、そのせいでかえって、少しだけ息がしやすくなった。
フランカも口を挟む。
「昨日のマルコ、返事まで変だったし」
「お前はお前で、全然人のこと言えねぇけどな」
「なんで?」
「朝も眠れてない顔してたろ」
「……してない」
「してた」
短くぶつかって、そこで途切れる。いつもならもう一言二言続くところだった。
でも今日は、誰もそこから軽く転がせなかった。
少しの沈黙のあと、ジャンが低く言う。
「とにかく、今は余計なこと考えるな。考えるのは、三人揃ってる時だけでいい」
それは命令みたいだった。
でも、たぶん自分自身にも言い聞かせている。
フランカは木箱の木目を見つめたまま、小さく息を吐いた。
三人でいる時だけ。その言葉を胸の中で繰り返す。
その時、表の方で足音が止まった。
誰かが近い。
三人とも同時に口を閉ざす。
空気が、一瞬で張りつめる。
「——ジャン?」
木箱の向こうから声がした。
コニーだった。
「お前、さっきの荷どこ置いたんだよ!」
ジャンは少し遅れて、声を返す。
「うるせぇ!今持ってく!」
普段通りの、少し棘のある声。
言い終わる前にはもう、顔つきまでいつもの調子に戻っていた。
その変わり身の早さに、フランカは思わずジャンを見た。ジャンはこっちを見ずに、低く言う。
「ほら、戻るぞ。顔、普通にしろ」
言われて、ようやく自分の顔がこわばっていたことに気づく。
頬に力を入れる。
うまくできているかは分からない。
マルコも短く頷いた。
返るまでに、ほんの少しだけ時間がかかった。
三人で裏手を出る。
先にジャンが荷を持ち上げ、何もなかったみたいに歩き出す。
フランカとマルコは半歩遅れて、そのあとを追った。
表は相変わらず雑然としていた。
木箱を運ぶ音と、遠くで鳴り続ける固定砲だけが、途切れず耳に残る。
昨日の続きみたいな景色だった。
なのに、戻ってきた感じはしなかった。
少し離れた装備点検の列の方へ、フランカは視線をやる。
ライナーがいた。
整備兵と何か短く言葉を交わしたあと、ふと顔を上げる。
視線が、こちらの方へ滑った気がした。
ほんの一瞬。確かめる前に、ライナーは何事もなかったように向きを変える。
フランカの喉がひりついた。
「……フランカ」
低い声で呼ばれて、はっとする。
マルコだった。
顔は前を向いたまま、声だけがこっちへ寄る。
「今は、普通に」
「……分かってる」
返した声が少しだけ硬かった。
それでも、歩みは止めない。
ジャンが前で荷を抱え直す。
誰かの低い呼び声と、荷を下ろす乾いた音だけが、途切れずあたりに残っていた。
動いている人は多いのに、賑やかさはどこにもない。三人はその中を、何も知らないふりで歩いた。
いつもの歩幅に戻すだけで、妙に力がいった。
…To be continued
秘密の連帯
朝になっても、砲声は止まなかった。壁の向こうで榴弾が炸裂するたび、遅れてきた振動が地面の下を鈍く揺らす。
夜のあいだ何度も浅く途切れた眠りは、その音のたびに引き戻された。目を閉じても、熱と煙の匂いだけが喉の奥に残っている。
フランカは、結局ほとんど眠れないまま外へ出た。
宿舎の前の空気はひんやりしていた。
空はまだ薄く青く、朝日が建物の縁を越えるには少し早い。
人の気配も、いつもより少ない。
皆、起きてはいるのだろうが、動き出すまでに少し間がある。そんな静けさだった。
壁の方角から、また砲声が来る。
昨夜からずっと続いている。トロスト区の中には、まだ巨人がいる。
その事実だけが、寝不足の頭にも妙にはっきりしていた。
フランカは腕を組み、宿舎の出入口を見た。
胸の奥のざわつきが、まだ抜けない。
砲声のせいか、マルコの顔のせいか、自分でもうまく分からないまま、朝になると先に外へ出て、ここで待っていた。
しばらくして扉が開く。
人の流れの中に、見慣れた顔が混じっていた。
マルコだった。
外へ出たところで視線が上がり、
フランカと目が合う。
ほんの一瞬、その足が止まる。
フランカは先に口を開いた。
「おはよう」
「おはよう……って、いつからここに居たんだ?」
「日の出前から」
「え……!?」
「冗談だよ」
言ってから、口元だけで少し笑う。
マルコがようやく小さく息を吐いた。
笑ったというより、苦笑に近かった。
その顔を見た瞬間、フランカは眉を寄せる。
「……眠れた?」
「……少しは」
「嘘だ。眠れた顔してない」
「……はは、よく見てるな」
力のない返しだった。
声はいつも通りを装っているのに、目の下の色が隠しきれていない。
二人で並んで歩き出す。
朝の空気は冷たいのに、胸のあたりだけ妙に落ち着かない。
「フランカは眠れたの?」
「まあね。私、体力だけは自信あるからさ。多少寝れなくても平気」
「それって眠れてないんじゃ……」
「あはは、私のことはいいじゃん」
言いながら、少しだけ視線を逸らす。
自分だって、まともに寝ていない。
砲声の合間に、昨夜のライナーの顔や、マルコの低い声が何度も浮かんだ。
けれど、それを今ここで言ったところで、余計に重くなるだけだと思った。
足元に朝の光が少しずつ伸びてくる。
宿舎のまわりにも人が増え始めていた。
物資を運ぶ兵、壁の方を見上げる兵、まだ眠気の抜けない顔で歩く訓練兵。皆どこか遅れていて、でも止まってはいない。
その人の流れの中で、肩に軽い衝撃が来た。
「ごめん!前よく見てなかった」
咄嗟に謝って顔を上げる。
アニだった。
こちらを見た目が、ほんの一瞬だけ止まる。
何を考えているのか分からない、平たい目だった。
けれど返事はすぐには来ない。
ひと呼吸遅れて、冷たく落ちる。
「……別に」
それだけ言って、アニはそのまま横を抜けていった。
フランカは思わずその背中を見る。
「なにあれ。感じ悪……」
声を落としたつもりだったが、少し棘が残った。
マルコはアニの去っていく背を見ながら、小さく言う。
「アニも昨日の今日で疲れてるんだろう」
フランカは口を尖らせかけて、すぐに引っ込めた。
たしかに、と思う。
昨日、死にかけたのは自分たちだけじゃない。
皆それぞれ、まともじゃない朝を迎えている。
それでも、今の返事の遅さが、
胸のどこかに薄く引っかかった。
砲声がまた鳴る。
二人は少しだけ黙ったまま歩いた。
朝日はようやく建物の縁を越え始めていた。
壁の向こうから来る音だけが、まだ夜の続きみたいだった。
*
午後の作業は、朝よりも空気が重かった。
壁の向こうでは、まだ砲声が途切れない。
榴弾が炸裂するたび、遅れてきた振動が地面の下を鈍く揺らす。積み上げられた木箱の隙間で、細かな埃がかすかに跳ねた。
訓練兵たちはウォール・ローゼ内で補助作業に回されていた。
弾薬や水の運搬、装備の点検、負傷兵の手伝い。
どれも手を動かしていれば済む仕事のはずなのに、誰の顔にも落ち着きがない。
フランカは木箱の陰から、少し離れた装備点検の列を見た。
ライナーとベルトルトが、整備係のところへ回されている。周囲にも人が多い。
少なくとも、今すぐこちらへ来る気配はない。
そのことを確かめてから、物資を抱えて歩いてくるジャンに近づいた。
「ジャン、ちょっと来て」
低く呼ぶと、ジャンが露骨に顔をしかめた。
疲れがそのまま張りついたみたいな顔だった。
「なんだよ」
「いいから!こっち」
返事を待たず、袖を軽く引く。
「あ!?ちょっ……おい!?」
足を止めきれないまま、ジャンが半歩よろける。
フランカはそのまま物資置き場の裏手へ回り込んだ。
壁際は人の流れから少し外れていて、表より音が鈍い。とはいえ、静かとは言えなかった。
遠くの砲声も、木箱を下ろす音も、ここまで届いている。
ジャンは抱えていた荷を足元に置き、荒っぽく息を吐いた。
「なんだよ急に」
フランカは一度だけ周囲を見た。人影はない。
けれど声を張る気にはなれなかった。
「ジャンに話がある」
「……は?」
苛立ちの色が少しだけ薄れた。
「昨日から、マルコの様子がおかしいんだよね」
「マルコが?」
「うん、だから今一人にしたくなくて」
「は?なんだそりゃ?なんでそんな話になる?」
「ちょっと私も気になることがあって」
「気になるって何が」
フランカは口を開きかけて、言葉を探した。
昨夜のあの感じを、そのままうまく出せる気がしない。
「うまく説明できないけど……」
その時、裏手の入口に足音が止まった。
振り向くと、マルコが立っていた。
こちらを見たまま、ほんのわずかに呼吸が止まる。
フランカは小さく呼ぶ。
「……マルコ」
マルコの視線が、ジャンに止まる。
「……ジャンに話したのか?」
「昨日、言ったでしょ」
マルコは一瞬だけ目を伏せた。
「……そうだね」
ジャンが腕を組む。
機嫌の悪さは消えていないが、もうさっきの雑な調子ではなかった。
「で?何なんだよ。マルコの様子がおかしいだの、一人にしたくないだの。さっきから話が見えねぇ」
フランカはマルコを見る。
「……マルコ、話せる?」
マルコはすぐには答えなかった。
喉がひとつ上下する。
「……昨日、聞いたんだ。
ライナーとベルトルトが話してるのを」
ジャンの眉がぴくりと動く。
「何を」
「すぐには信じないでほしい。僕も、まだ……」
「いいから言え」
ジャンの声は低い。押しつけるような強さがある。
マルコはそれ以上、言いよどむ隙を持てなかった。
「……最初は、うまく意味が分からなかった」
風が、積んだ木箱の端をかすめる。
遠くでまたひとつ爆発音がした。
「ライナーが、俺たちの目的みたいなことを口にしてた。ベルトルトに向かって、……“俺の巨人”って」
フランカの口から、ほとんど反射みたいに声が漏れる。
「……え?」
ジャンの顔色が変わった。
「……待て。今、何て言った?」
「俺の巨人。そう聞こえた」
フランカの背筋に冷たいものが走る。
「……っ、それ……」
「静かにしろ」
ジャンに押さえられて、はっと口をつぐむ。
声を落としたつもりだったのに、自分でも少し大きかったと分かった。
マルコは一度だけ息を吐いて、続けた。
「そのあと、ベルトルトが……、“せっかく空けた穴が塞がれてしまう”って、そういうことも言ってた」
「……穴?」
ジャンの声が低く沈む。
「あと……、エレンが食われたら何も分からない……みたいなことも」
「なんでエレンが出てくる?」
「……分からない」
マルコの視線は地面に落ちたままだった。
「僕が聞き返したら、ライナーは冗談だって言った。でも」
そこで言葉が切れる。
砲声の余韻だけがしばらく残った。
「エレンが巨人になっただろ。だから、人が巨人になること自体はもう否定できない」
ジャンの喉が、低く鳴った。
「……お前それ、昨日の時点で全部聞いてたのか」
「全部、じゃない。途中からだったし、順番も、細かい言い回しも曖昧なところはある」
「でも……聞き間違いじゃなかったと思う」
マルコの声は、言い切るたび少しずつ重くなっていく。
「そうなると、あの会話も……ただ変な冗談じゃ、済まない気がして」
フランカの背筋に、ぞわりとしたものが走った。
壊れた門が浮かぶ。
昨日のライナーの顔も、そこへ重なった。
「……ちょっと待って」
うまく掴めないまま、喉だけがひりついた。
「それって、じゃあ――」
「まだ分からない」
マルコが遮る。
強くはないのに、はっきり止める声だった。
フランカは息を呑む。
マルコの顔は青かった。
止める声だけが、妙にはっきりしていた。
それでも、引き下がれなかった。
「でも私、昨日マルコと合流した時、後ろからライナーが来るの見た」
ジャンが振り向く。
「……ああ?」
「ライナー、すごい顔してた。ほんとに、見たことない顔。怖くて、とにかくマルコをそこから離さなきゃって思った」
マルコは黙ったまま、フランカを見る。
「でも、あの時は自分でも何が変なのか分かってなかった。ただ嫌な感じがしただけで……」
喉の奥が乾く。
「でも今の話、聞いたら……、
あれ、マルコに向いてたんじゃないの」
一度切って、少しだけ言い直す。
「マルコが、ライナーたちの話を聞いたから……、
口止めしようとしてたみたいな顔に見えた」
ジャンが眉を寄せる。
「……それを先に言えよ」
「今言った」
「お前なあ……」
ジャンがこめかみを押さえる。
苛立っているのに、それだけじゃない顔だった。
マルコは低く言った。
「……まだ、そこまでは言えない。僕の考えすぎかもしれない」
フランカは唇を結ぶ。
違うと言い切れないまま、胸の奥だけが落ち着かなかった。
「でも、もし違ってなかったら」
マルコはほんの少し間を置いてから答えた。
「……かなり、まずい」
「……そりゃまずいどころじゃねぇだろ」
ジャンの声は低かった。
抑えているのに、奥の硬さだけが消えない。
フランカはマルコを見る。
昨日から喉の奥に引っかかっていたものが、もう曖昧では済まなくなっていた。
「だから今、一人にしたくないの」
口にすると、昨夜よりずっとはっきりした意味を持って響いた。
マルコが苦く笑うみたいに口元を歪める。
「……ごめん。本当は、二人とも巻き込みたくなかった」
「今さらだ。こんな話、聞いた時点でもう無関係でいられるわけねぇだろ」
ジャンは短く息を吐いた。
木箱の陰に半分隠れたまま、外の気配に耳を向ける。人の声は遠い。
けれど、遠いだけで、ここが完全に切り離されているわけじゃなかった。
「……いいか」
声を落としたまま言う。
「今後、一人で動くな」
マルコがわずかに顔を上げる。
「お前にどこまで聞かれてるか、向こうが気づいてるかは分からねぇ。でも、分からねぇからこそ一人になるな」
ジャンの視線がフランカにも向く。
「お前もだ」
「……うん」
「ライナーたちの前じゃ、何も知らねぇ顔しろ。避けすぎるな。でも、近づきすぎるな」
乱暴な言い方のくせに、一つずつ噛み砕いて置いていく。その声で、胸の奥の張りだけが少し緩んだ。
「話す時は場所を選ぶ。人のいねぇとこで、小声で。誰か来たらすぐやめろ」
ジャンはそこで少しだけ言葉を切った。
「……あと、マルコ」
「うん」
「男子の方に戻る時は、俺が一緒にいる」
マルコが目を瞬かせる。
「でも——」
「でもじゃねぇよ」
ジャンが被せる。
苛立っているように聞こえるのに、目だけは真っ直ぐだった。
「お前、今そういうこと言ってる場合か?」
その言葉に、マルコは返せない。
少しして、低く息を吐く。
「……分かった」
ジャンは今度、フランカの方を見た。
「お前も、変に一人で動くな。何かあったらすぐ言え。勝手に抱え込むなよ」
フランカは口を開きかけて、閉じた。
“分かってる”と言いかけて、喉の奥で止まった。
「……うん」
それだけ言う。
砲声がまたひとつ、遠くで鳴った。
地面の下をくぐってきたような振動が、木箱の隙間の空気を細く揺らす。
マルコが膝の横で、指をゆっくり握り込む。
「……ごめん」
また、小さく言った。
「昨日のうちに、もっとちゃんと話しておけばよかった」
「昨日のお前に、そんな余裕があったのか?」
ジャンが即座に返す。
吐き捨てるみたいな口調だったが、そのせいでかえって、少しだけ息がしやすくなった。
フランカも口を挟む。
「昨日のマルコ、返事まで変だったし」
「お前はお前で、全然人のこと言えねぇけどな」
「なんで?」
「朝も眠れてない顔してたろ」
「……してない」
「してた」
短くぶつかって、そこで途切れる。いつもならもう一言二言続くところだった。
でも今日は、誰もそこから軽く転がせなかった。
少しの沈黙のあと、ジャンが低く言う。
「とにかく、今は余計なこと考えるな。考えるのは、三人揃ってる時だけでいい」
それは命令みたいだった。
でも、たぶん自分自身にも言い聞かせている。
フランカは木箱の木目を見つめたまま、小さく息を吐いた。
三人でいる時だけ。その言葉を胸の中で繰り返す。
その時、表の方で足音が止まった。
誰かが近い。
三人とも同時に口を閉ざす。
空気が、一瞬で張りつめる。
「——ジャン?」
木箱の向こうから声がした。
コニーだった。
「お前、さっきの荷どこ置いたんだよ!」
ジャンは少し遅れて、声を返す。
「うるせぇ!今持ってく!」
普段通りの、少し棘のある声。
言い終わる前にはもう、顔つきまでいつもの調子に戻っていた。
その変わり身の早さに、フランカは思わずジャンを見た。ジャンはこっちを見ずに、低く言う。
「ほら、戻るぞ。顔、普通にしろ」
言われて、ようやく自分の顔がこわばっていたことに気づく。
頬に力を入れる。
うまくできているかは分からない。
マルコも短く頷いた。
返るまでに、ほんの少しだけ時間がかかった。
三人で裏手を出る。
先にジャンが荷を持ち上げ、何もなかったみたいに歩き出す。
フランカとマルコは半歩遅れて、そのあとを追った。
表は相変わらず雑然としていた。
木箱を運ぶ音と、遠くで鳴り続ける固定砲だけが、途切れず耳に残る。
昨日の続きみたいな景色だった。
なのに、戻ってきた感じはしなかった。
少し離れた装備点検の列の方へ、フランカは視線をやる。
ライナーがいた。
整備兵と何か短く言葉を交わしたあと、ふと顔を上げる。
視線が、こちらの方へ滑った気がした。
ほんの一瞬。確かめる前に、ライナーは何事もなかったように向きを変える。
フランカの喉がひりついた。
「……フランカ」
低い声で呼ばれて、はっとする。
マルコだった。
顔は前を向いたまま、声だけがこっちへ寄る。
「今は、普通に」
「……分かってる」
返した声が少しだけ硬かった。
それでも、歩みは止めない。
ジャンが前で荷を抱え直す。
誰かの低い呼び声と、荷を下ろす乾いた音だけが、途切れずあたりに残っていた。
動いている人は多いのに、賑やかさはどこにもない。三人はその中を、何も知らないふりで歩いた。
いつもの歩幅に戻すだけで、妙に力がいった。
…To be continued