【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第35話
見慣れない白さだった。
戦場の煙でも、兵舎の木目でもない。乾いていて、何も映さない色。
オリアナはしばらく、瞬きもせずにそれを見ていた。
どこにいるのか、すぐには分からなかった。
息を吸うと、胸の奥に鈍い痛みが走った。肋のあたりがきしみ、その痛みでようやく、自分が横になっていることに気づく。
頬に触れる布の感触。
包帯の重さ。
鼻の奥に残る薬品の匂い。
医務室だった。
体を起こそうとして、すぐにやめた。
力を入れた瞬間、胸に鋭い痛みが走り、喉の奥で息が詰まる。
浅く息を吐く。
それだけで精一杯だった。
窓の方から、薄い光が差していた。朝か昼かも分からない、曖昧な明るさだった。
耳を澄ますと、廊下の方から人の気配がした。
誰かが歩く足音に、担架のきしむ音と低い話し声が混じっている。
世界は、もう動いている。
オリアナは目を閉じた。
白い蒸気。
崩れる屋根。
熱。
焼ける空気。
そして。
——ベルトルト。
胸の内側が、小さく軋んだ。
だが記憶はそこで途切れる。
その先を掴もうとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。
扉が静かに開き、抑えた足音がベッドの脇へ近づいてくる。
「……起きたんだね」
ハンジの声だった。
オリアナはゆっくり目を開けた。
ベッドの脇に、ハンジが立っていた。
包帯が巻かれている。顔色もいいとは言えない。
けれど眼鏡の奥の目だけは、いつものようにこちらをまっすぐ見ていた。
「気分はどう?」
オリアナは答えようとして、少し間を置いた。
「……重い、です」
声が掠れている。
自分の声なのに、どこか遠かった。
ハンジは小さく頷く。
「二日眠ってた。煙も吸ってるし、頭も打ってる。肋も傷めてる。しばらくは起き上がらない方がいい」
二日。
その数字だけが、妙に遅れて胸に落ちた。
「……二日」
「うん」
ハンジは少しだけ視線を窓の方へ向けた。
「作戦は成功したよ」
その言葉に、オリアナの指先がわずかに動く。
「ウォール・マリアは取り戻した。エレンの地下室にも辿り着いた」
地下室。
その言葉が、現実を一気に近づける。
「ただ」
そこでハンジは言葉を切った。
病室が静かになる。
廊下の向こうで、遠く誰かが咳をした。
「鎧と超大型は回収された。獣も撤退した」
オリアナは何も言わない。
言葉の意味は分かる。
けれど、体のどこにもまだ届かなかった。
「私の班は……」
ハンジの声が少しだけ低くなった。
「ほぼ壊滅だ」
息が、止まった気がした。
胸が痛む。だが、それとは別の痛みが、もっと奥で静かに広がっていく。
オリアナは天井を見たまま動かなかった。
脳裏に、断片が浮かぶ。
訓練場。
分解された立体機動装置。
部品を手渡す手。
モブリットの淡々とした声。
食堂の机。
巨人の話ばかりするハンジ。
班員の笑い声。
それが、音もなく遠ざかっていく。
「……君は屋根の上で見つかった」
ハンジが続ける。
「瓦礫の中からじゃなくてね。正直、あの爆発のあとで生きてるとは思わなかった」
オリアナの喉が小さく動く。
屋根の上。
そこから先の記憶は、まだ霧の中だった。
「運が良かったんだと思う」
ハンジはそう言ってから、少しだけ目を伏せた。
「本当に」
その一言で、胸の内側が重く沈んだ。
運が良かった。
自分だけが。
オリアナはようやく唇を開く。
「……班の、みんなは」
問いの形になりきらない声だった。
ハンジはすぐには答えなかった。
ほんの短い沈黙が落ちる。
「……他に確認できた者は、いない」
それだけだった。
それ以上、聞けなかった。
聞いた瞬間に、何かが崩れそうだった。
ハンジはベッド脇の椅子に軽く手を添える。
「今は休みな。考えるのは、体がもう少し戻ってからでいい」
オリアナは答えなかった。
答えられなかった。
ハンジは少しだけ困ったように笑う。
「……君が生きていてよかったよ」
その言葉だけを残して、ハンジは部屋を出ていった。扉が閉まり、静けさが戻る。
オリアナは目を閉じた。
生きていてよかった。
その言葉が、なぜか喉のあたりにつかえた。
*
しばらくして、また扉が開いた。
今度はノックもなく、少しだけ遠慮のない音だった。
「……起きたのか」
エレンだった。
その後ろにミカサがいる。
オリアナはそちらに視線を向けた。
エレンは壁にもたれるように立っていた。ミカサはその少し後ろで、静かにこちらを見ている。
「……うん」
エレンは腕を組んだまま、すぐには口を開かなかった。視線だけが一度、ベッドの端へ落ちる。
それから、ためらいもなく言う。
「お前、またアイツのこと呼んだな」
胸の奥が小さく跳ねる。
「……何のこと」
声は弱かった。
自分でも、逃げるための問いだと分かった。
エレンは肩をすくめる。
「覚えてねぇのかよ」
オリアナは目を逸らした。
覚えていない。
いや、正確には、断片しか残っていない。
熱。
蒸気。
叫んだ気配。
そして、あの名前。
だが、それを言葉にするにはまだ輪郭が足りなかった。
「……覚えてない」
エレンは少しだけ黙った。
「そうか」
そこで言葉は一度途切れた。
だがエレンは、視線を逸らさないまま続けた。
「でも、お前が叫んだ瞬間、超大型の動きが止まった」
オリアナの指先が、シーツの上でわずかに強張る。
「その隙で仕留められた」
エレンの声は平坦だった。
責めるでも、かばうでもない。ただ事実を置く声。
「アルミンも死ななかった」
病室が静かになる。
オリアナは何も言えない。
エレンは短く息を吐いた。
「……だから、俺は別にいい」
言い切ったあとで、エレンはわずかに視線を逸らした。
「理解はできねぇけど」
その言い方が、妙にエレンらしかった。
その後ろで、ミカサがずっと黙っていた。
言葉はない。けれど、静かで鋭いものだけがこちらへ向いている。
責める声はない。
だが、警戒はそこにあった。
オリアナはその視線を受け止められず、目を伏せた。
エレンが扉の方へ向かう。
「まだ寝てろ。どうせ起き上がれねぇんだろ」
それだけ言って出ていく。
ミカサは最後まで動かなかった。
扉を出る直前、一度だけオリアナを見た。何か言いかけて、言わないまま去っていく。
扉が閉まる。
また静けさが戻った。
オリアナは浅く息を吐いた。
呼吸のたびに胸が軋む。
目を閉じると、すぐに声が蘇る。
——話をしたら、全員死んでくれるか!?
違う。
——誰が好きでこんなことをしたいと思うんだよ!!
二つの声が、頭の奥で重なって離れない。
扉がまた開いた。
今度は、ためらうような音だった。
ジャンは部屋に入ってきたものの、すぐには近づかなかった。扉のそばで一度立ち止まり、それから静かにベッドの脇まで来る。
「……目」
言いかけて、言葉が切れた。
視線が一度、シーツの端へ落ちる。
「……目、覚めたんだな」
オリアナはわずかに視線を向けた。
ジャンは、どこか疲れた顔をしていた。
ひどく寝不足のようにも見える。
「……うん」
それだけ返すと、ジャンは小さく息を吐いた。
視線をベッドの端へ落としたまま、ぽつりと言う。
「お前が爆発に巻き込まれた時」
指先が、無意識に握られる。
「もう……」
言葉が詰まる。
「もう本当に駄目かと思った」
病室は静かだった。
窓の外で風が鳴る。
遠くで誰かが扉を閉める音がした。
ジャンは一度だけ顔を上げた。
それから、少し困ったように笑った。
「……でも、目が覚めて良かった」
その言葉だけだった。
オリアナは何も答えられなかった。
喉が動かない。
ただ、視界がぼやけた。
最初は、何が起きたのか分からなかった。
天井の白が滲む。
輪郭が溶ける。
頬に温かいものが流れていた。
瞬きをする。
また落ちる。
涙だった。
止めようとしても、止まらない。
呼吸のたび、胸がきつく潰れる。
息を吸う。
肋が痛む。
それでも涙は続いた。
どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。
ハンジ班のことも、爆発のことも、彼のことも、自分だけが生き残ったことも、どれも別々にはならないまま胸の中で崩れていた。
ジャンは何も言わなかった。
視線を少し逸らして、ただそこに立っている。
しばらくして、静かに言う。
「……無理に喋んな。まだ寝てろ」
オリアナは目を閉じた。
涙は止まらなかった。
*
ジャンがいつ部屋を出たのか、分からなかった。
気づけば病室はまた静かになっていた。
涙はようやく止まり、頬に乾いた跡だけが残っている。窓から差し込む光が、少しだけ傾いていた。
オリアナは天井を見つめた。
いくつものものが、重さを持って沈んでいた。
ハンジ班。
訓練場の朝。
分解された装置。
ハンジの早口。
モブリットの呆れた声。
食堂で流れていく会話。
誰かの笑い声。
実験の後の夕方。
いつのまにか、そこは安心できる場所になっていた。
班に馴染み切ったわけではない。
心のどこかでは、ずっと少し離れていた。
それでも、そこへ行けば自分の居場所があった。
次に何をすればいいか分かる場所。
黙っていても、そこにいていい場所。
それが、もうない。
煙の匂いが蘇る。
瓦礫。
炎。
崩れた屋根。
あの時。
もし、自分が別の方へ動いていたら、生き残っている誰かがいたかもしれない。
瓦礫の下で、まだ息をしていた誰かが。
炎に呑まれる前に、引き上げられたかもしれない。
自分と同じように、即死だけは免れていた誰かがいたかもしれないのに。
自分は、彼を選んだ。
仲間でも、生存者確認でもなく、ベルトルトの方へ向かった。
その事実が、重さを持って体に残っていく。
息を吸う。
痛い。
吐く。
静かな呼吸が続く。
あの感情があったから、体は動いた。
けれど同じものが、判断を一瞬だけ遅らせる。
兵士として立っている足元を、気づかないうちに崩していく。
今回、生き残ったのは偶然だった。
一歩違えば、アルミンは死んでいた。
作戦は崩れていた。
もっと多くの仲間が死んでいたかもしれない。
その引き金になったのが、自分の感情だった。
奥の方で、何かがゆっくり固まっていく。
オリアナは目を閉じた。
次に戦場へ出る時。
もう、同じことは起こさない。
起こさせない。
必要なのは、分かっていた。
余計なものを、全部閉じること。
もっと奥へ。
誰にも触れない場所へ。
感情は、沈んでいく。
冷たい水の底へ沈む石みたいに。
静かに。
動かなくなる。
やがて、胸の内側は何も動かなくなった。
呼吸だけが続く。
病室の光は変わらない。
外では兵の声が続いている。
世界は動いている。
だが。
オリアナの中だけは、もう動かなかった。
…To be continued
動かない内側
目を開けたとき、最初に見えたのは白い天井だった。見慣れない白さだった。
戦場の煙でも、兵舎の木目でもない。乾いていて、何も映さない色。
オリアナはしばらく、瞬きもせずにそれを見ていた。
どこにいるのか、すぐには分からなかった。
息を吸うと、胸の奥に鈍い痛みが走った。肋のあたりがきしみ、その痛みでようやく、自分が横になっていることに気づく。
頬に触れる布の感触。
包帯の重さ。
鼻の奥に残る薬品の匂い。
医務室だった。
体を起こそうとして、すぐにやめた。
力を入れた瞬間、胸に鋭い痛みが走り、喉の奥で息が詰まる。
浅く息を吐く。
それだけで精一杯だった。
窓の方から、薄い光が差していた。朝か昼かも分からない、曖昧な明るさだった。
耳を澄ますと、廊下の方から人の気配がした。
誰かが歩く足音に、担架のきしむ音と低い話し声が混じっている。
世界は、もう動いている。
オリアナは目を閉じた。
白い蒸気。
崩れる屋根。
熱。
焼ける空気。
そして。
——ベルトルト。
胸の内側が、小さく軋んだ。
だが記憶はそこで途切れる。
その先を掴もうとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。
扉が静かに開き、抑えた足音がベッドの脇へ近づいてくる。
「……起きたんだね」
ハンジの声だった。
オリアナはゆっくり目を開けた。
ベッドの脇に、ハンジが立っていた。
包帯が巻かれている。顔色もいいとは言えない。
けれど眼鏡の奥の目だけは、いつものようにこちらをまっすぐ見ていた。
「気分はどう?」
オリアナは答えようとして、少し間を置いた。
「……重い、です」
声が掠れている。
自分の声なのに、どこか遠かった。
ハンジは小さく頷く。
「二日眠ってた。煙も吸ってるし、頭も打ってる。肋も傷めてる。しばらくは起き上がらない方がいい」
二日。
その数字だけが、妙に遅れて胸に落ちた。
「……二日」
「うん」
ハンジは少しだけ視線を窓の方へ向けた。
「作戦は成功したよ」
その言葉に、オリアナの指先がわずかに動く。
「ウォール・マリアは取り戻した。エレンの地下室にも辿り着いた」
地下室。
その言葉が、現実を一気に近づける。
「ただ」
そこでハンジは言葉を切った。
病室が静かになる。
廊下の向こうで、遠く誰かが咳をした。
「鎧と超大型は回収された。獣も撤退した」
オリアナは何も言わない。
言葉の意味は分かる。
けれど、体のどこにもまだ届かなかった。
「私の班は……」
ハンジの声が少しだけ低くなった。
「ほぼ壊滅だ」
息が、止まった気がした。
胸が痛む。だが、それとは別の痛みが、もっと奥で静かに広がっていく。
オリアナは天井を見たまま動かなかった。
脳裏に、断片が浮かぶ。
訓練場。
分解された立体機動装置。
部品を手渡す手。
モブリットの淡々とした声。
食堂の机。
巨人の話ばかりするハンジ。
班員の笑い声。
それが、音もなく遠ざかっていく。
「……君は屋根の上で見つかった」
ハンジが続ける。
「瓦礫の中からじゃなくてね。正直、あの爆発のあとで生きてるとは思わなかった」
オリアナの喉が小さく動く。
屋根の上。
そこから先の記憶は、まだ霧の中だった。
「運が良かったんだと思う」
ハンジはそう言ってから、少しだけ目を伏せた。
「本当に」
その一言で、胸の内側が重く沈んだ。
運が良かった。
自分だけが。
オリアナはようやく唇を開く。
「……班の、みんなは」
問いの形になりきらない声だった。
ハンジはすぐには答えなかった。
ほんの短い沈黙が落ちる。
「……他に確認できた者は、いない」
それだけだった。
それ以上、聞けなかった。
聞いた瞬間に、何かが崩れそうだった。
ハンジはベッド脇の椅子に軽く手を添える。
「今は休みな。考えるのは、体がもう少し戻ってからでいい」
オリアナは答えなかった。
答えられなかった。
ハンジは少しだけ困ったように笑う。
「……君が生きていてよかったよ」
その言葉だけを残して、ハンジは部屋を出ていった。扉が閉まり、静けさが戻る。
オリアナは目を閉じた。
生きていてよかった。
その言葉が、なぜか喉のあたりにつかえた。
*
しばらくして、また扉が開いた。
今度はノックもなく、少しだけ遠慮のない音だった。
「……起きたのか」
エレンだった。
その後ろにミカサがいる。
オリアナはそちらに視線を向けた。
エレンは壁にもたれるように立っていた。ミカサはその少し後ろで、静かにこちらを見ている。
「……うん」
エレンは腕を組んだまま、すぐには口を開かなかった。視線だけが一度、ベッドの端へ落ちる。
それから、ためらいもなく言う。
「お前、またアイツのこと呼んだな」
胸の奥が小さく跳ねる。
「……何のこと」
声は弱かった。
自分でも、逃げるための問いだと分かった。
エレンは肩をすくめる。
「覚えてねぇのかよ」
オリアナは目を逸らした。
覚えていない。
いや、正確には、断片しか残っていない。
熱。
蒸気。
叫んだ気配。
そして、あの名前。
だが、それを言葉にするにはまだ輪郭が足りなかった。
「……覚えてない」
エレンは少しだけ黙った。
「そうか」
そこで言葉は一度途切れた。
だがエレンは、視線を逸らさないまま続けた。
「でも、お前が叫んだ瞬間、超大型の動きが止まった」
オリアナの指先が、シーツの上でわずかに強張る。
「その隙で仕留められた」
エレンの声は平坦だった。
責めるでも、かばうでもない。ただ事実を置く声。
「アルミンも死ななかった」
病室が静かになる。
オリアナは何も言えない。
エレンは短く息を吐いた。
「……だから、俺は別にいい」
言い切ったあとで、エレンはわずかに視線を逸らした。
「理解はできねぇけど」
その言い方が、妙にエレンらしかった。
その後ろで、ミカサがずっと黙っていた。
言葉はない。けれど、静かで鋭いものだけがこちらへ向いている。
責める声はない。
だが、警戒はそこにあった。
オリアナはその視線を受け止められず、目を伏せた。
エレンが扉の方へ向かう。
「まだ寝てろ。どうせ起き上がれねぇんだろ」
それだけ言って出ていく。
ミカサは最後まで動かなかった。
扉を出る直前、一度だけオリアナを見た。何か言いかけて、言わないまま去っていく。
扉が閉まる。
また静けさが戻った。
オリアナは浅く息を吐いた。
呼吸のたびに胸が軋む。
目を閉じると、すぐに声が蘇る。
——話をしたら、全員死んでくれるか!?
違う。
——誰が好きでこんなことをしたいと思うんだよ!!
二つの声が、頭の奥で重なって離れない。
扉がまた開いた。
今度は、ためらうような音だった。
ジャンは部屋に入ってきたものの、すぐには近づかなかった。扉のそばで一度立ち止まり、それから静かにベッドの脇まで来る。
「……目」
言いかけて、言葉が切れた。
視線が一度、シーツの端へ落ちる。
「……目、覚めたんだな」
オリアナはわずかに視線を向けた。
ジャンは、どこか疲れた顔をしていた。
ひどく寝不足のようにも見える。
「……うん」
それだけ返すと、ジャンは小さく息を吐いた。
視線をベッドの端へ落としたまま、ぽつりと言う。
「お前が爆発に巻き込まれた時」
指先が、無意識に握られる。
「もう……」
言葉が詰まる。
「もう本当に駄目かと思った」
病室は静かだった。
窓の外で風が鳴る。
遠くで誰かが扉を閉める音がした。
ジャンは一度だけ顔を上げた。
それから、少し困ったように笑った。
「……でも、目が覚めて良かった」
その言葉だけだった。
オリアナは何も答えられなかった。
喉が動かない。
ただ、視界がぼやけた。
最初は、何が起きたのか分からなかった。
天井の白が滲む。
輪郭が溶ける。
頬に温かいものが流れていた。
瞬きをする。
また落ちる。
涙だった。
止めようとしても、止まらない。
呼吸のたび、胸がきつく潰れる。
息を吸う。
肋が痛む。
それでも涙は続いた。
どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。
ハンジ班のことも、爆発のことも、彼のことも、自分だけが生き残ったことも、どれも別々にはならないまま胸の中で崩れていた。
ジャンは何も言わなかった。
視線を少し逸らして、ただそこに立っている。
しばらくして、静かに言う。
「……無理に喋んな。まだ寝てろ」
オリアナは目を閉じた。
涙は止まらなかった。
*
ジャンがいつ部屋を出たのか、分からなかった。
気づけば病室はまた静かになっていた。
涙はようやく止まり、頬に乾いた跡だけが残っている。窓から差し込む光が、少しだけ傾いていた。
オリアナは天井を見つめた。
いくつものものが、重さを持って沈んでいた。
ハンジ班。
訓練場の朝。
分解された装置。
ハンジの早口。
モブリットの呆れた声。
食堂で流れていく会話。
誰かの笑い声。
実験の後の夕方。
いつのまにか、そこは安心できる場所になっていた。
班に馴染み切ったわけではない。
心のどこかでは、ずっと少し離れていた。
それでも、そこへ行けば自分の居場所があった。
次に何をすればいいか分かる場所。
黙っていても、そこにいていい場所。
それが、もうない。
煙の匂いが蘇る。
瓦礫。
炎。
崩れた屋根。
あの時。
もし、自分が別の方へ動いていたら、生き残っている誰かがいたかもしれない。
瓦礫の下で、まだ息をしていた誰かが。
炎に呑まれる前に、引き上げられたかもしれない。
自分と同じように、即死だけは免れていた誰かがいたかもしれないのに。
自分は、彼を選んだ。
仲間でも、生存者確認でもなく、ベルトルトの方へ向かった。
その事実が、重さを持って体に残っていく。
息を吸う。
痛い。
吐く。
静かな呼吸が続く。
あの感情があったから、体は動いた。
けれど同じものが、判断を一瞬だけ遅らせる。
兵士として立っている足元を、気づかないうちに崩していく。
今回、生き残ったのは偶然だった。
一歩違えば、アルミンは死んでいた。
作戦は崩れていた。
もっと多くの仲間が死んでいたかもしれない。
その引き金になったのが、自分の感情だった。
奥の方で、何かがゆっくり固まっていく。
オリアナは目を閉じた。
次に戦場へ出る時。
もう、同じことは起こさない。
起こさせない。
必要なのは、分かっていた。
余計なものを、全部閉じること。
もっと奥へ。
誰にも触れない場所へ。
感情は、沈んでいく。
冷たい水の底へ沈む石みたいに。
静かに。
動かなくなる。
やがて、胸の内側は何も動かなくなった。
呼吸だけが続く。
病室の光は変わらない。
外では兵の声が続いている。
世界は動いている。
だが。
オリアナの中だけは、もう動かなかった。
…To be continued