【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第32話
月は出ていない。木々の輪郭だけが黒く重なり、その間を兵たちが縫うように進んでいく。
馬は引いていた。蹄が石を鳴らさないよう、人の歩幅に合わせてゆっくり進む。
全員がフードを深く被っていて、顔は見えない。
見えているのは、前を行く兵の背と、闇の中に白くほどける息だけだった。
オリアナは黙って歩いていた。
左手に手綱。右手には、小さな灯り。
掌に収まる鉱石が、強く光っている。夜の山道を進むための、わずかな明かりだった。
青白い光が指先を照らす。冷たい金属の感触だけが、いま自分が何者なのかを思い出させた。
前方では小声のやり取りが続いている。
進路の確認。足場の注意。
誰かが馬をなだめる声。
そのどれも低い。
夜の奥へ溶けていくような声だった。
少し離れた斜面の下、木の間に巨人の影が見えた。
立ったまま動かない。夜の間は眠っているだけだと知っていても、視界に入るたび喉が詰まる。
誰も戦わない。刺激もしない。
見つからないまま、ただ横を抜ける。
風がない。
だからこそ、どこから何が現れてもおかしくない気がした。
山を越えるにつれて息は上がり、冷えた空気の中で脚の筋だけが熱を持ち始めていた。
それでも列は止まらない。
誰も振り返らない。
オリアナは前だけを見ていた。
それ以外を見ると、暗闇のどこかに敵の気配を見つけてしまいそうだった。
ふと、胸の奥で別の緊張がわずかに揺れた。
敵とは違う種類のものだった。
すぐに息を吐く。
余計なことを考えるな。
思考を切り捨てるように、視線を前へ戻した。
*
やがて木々が薄くなり、視界が開けた。
麓だった。
荒れた街道跡が、夜の底からうっすら浮かび上がっている。そこでようやく兵たちは馬へ跨った。
革のきしむ音。鐙に足をかける音。
息を殺していた列が、わずかに形を変える。
東の空は、ほんの少しだけ青み始めていた。
その薄い光の先に、巨大な影が横たわっている。
ウォール・マリアだった。
オリアナは馬腹を軽く蹴った。
列が一気に動き出す。
今度は速い。風が頬を打つ。
眠りかけていた地面が、蹄の振動で一斉に目を覚ます。
シガンシナ区の内門が見えたときには、夜明けはもう始まっていた。
「これより作戦を開始する!!」
エルヴィンの声が、朝の冷えた空気を裂いた。
「全員立体機動に移れ!!」
次の瞬間には、兵たちが一斉に飛んでいた。
アンカーが壁を打ち、張ったワイヤーが朝の空気を裂く。百の影が、一度に空へ散った。
オリアナも馬を蹴って飛び上がった。
外門へ向かって一直線に飛ぶ。フードが風に鳴り、視界の端では、同じ軌道を取った兵たちの影が次々に横切っていく。
その先で、閃光が弾けた。
蒸気が上がる。
白い煙の向こうで巨人の骨格が立ち上がり、盛り上がった結晶が噛み合いながら穴を塞いでいく。
石より冷たく見える白い面が、朝の薄い光を受けて鈍く照った。
オリアナは壁上へ降り立った。
蒸気が流れていく先で、兵たちの視線が門へ集まる。
「敵は!?」
「見えません!!」
「穴は!?」
「成功です!!しっかり塞がっています!!」
張り詰めていた空気が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
外門は白い結晶で完全に塞がれている。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
敵が出てこない。
巨人も。
彼らも。
何一つ。
だが、どこかで見られている気がした。
屋根の上を飛ぶ兵の軌道だけが、空しく街を切っていく。
ハンジ班は散開しながら街の上を移動していた。
エレンの位置を悟らせないよう、互いに距離を取ったまま飛ぶ。
オリアナも建物の間を抜けながら視線を巡らせる。
崩れた屋根。
草の伸びた路地。
朝の光を受ける窓枠。
次の目標は、内門。
このまま進めば、外門と同じように塞ぐ。それでシガンシナ区は完全に閉じる。
そのはずだった。
そのとき。
遠くで信煙弾が上がった。
赤い線が、空に細く立つ。
オリアナは思わず軌道を緩めた。
「作戦中止の合図!?」
ハンジが振り向く。
「総員、壁の上に散らばって待機だ!!」
「了解!!」
班がまとめて向きを変える。
オリアナもそれに続き、壁の上へ降りた。
壁の上は、妙に静かだった。
兵たちは散開し、間隔を空けて並んでいる。
立体機動の煙がまだ街の上に薄く残っていた。
その中で、数十人の兵が壁面にぶら下がる。
そして、壁を叩き始めた。
カン。
金属が石を打つ乾いた音。
カン。
また別の場所で同じ音がする。
オリアナは眉をわずかに寄せた。
(……壁?)
巨人でも、敵でもない。
ただ、兵たちは壁の石を叩いている。
意味が分からない。
だが命令なのだろう。
兵たちは躊躇なく壁を順に叩いていく。
カン。
カン。
カン。
同じ音が続く。
その中で、一つだけ響きが違った。
鈍い。石の奥に空洞があるような音。
叩いていた兵が止まる。
短い沈黙を挟んで、声が弾けた。
「ここだ!!ここに空洞があるぞ!!」
音響弾が上がる。
耳を突く高音が空に響いた。
直後、壁の一部が内側から外れた。
そこから人影が飛び出す。
刃が光り、血が散った。
叩いていた兵の体が、横へ弾かれる。
「ライナー!!」
アルミンの叫びが響く。
だがその声とほとんど同時に、別の影が動いていた。
リヴァイの黒い軌道が空を裂く。
兵たちが状況を理解するより速く、刃はもうライナーの首へ届いていた。
——斬撃。
間を置かず、もう一撃が腹へ入る。
だがリヴァイの動きは止まらない。ほんの一瞬の判断で、そのままライナーの体を蹴り落とした。
落下。
叩きつけられた体から閃光が走り、巨人化の蒸気が一気に噴き上がった。
「っ……!」
蒸気の中に、巨大な影が立った。
鎧の巨人だった。
オリアナの喉がわずかに詰まる。
ほとんど同時に、壁の外側で別の閃光が走った。オリアナは反射的に振り向く。
シガンシナ区の外。
土煙の向こうに、巨人が次々と姿を現している。その中央に、長い腕を持つ巨大な影があった。
獣の巨人。
その姿を認識した瞬間、腕が振り上げられた。
直後、空気が裂けた。
岩が飛ぶ。
轟音とともに巨大な石塊が内門へ叩きつけられ、跳ね上がった土煙がその奥を覆った。
その奥で、内門が塞がれているのが見えた。
退路が消えた。
同時に、鎧の巨人が動く。
兵には目もくれず、壁の下へ向かって一直線に走り出した。
「攻撃命令はまだですか!?」
エレンの声が壁の上に響く。
「団長は何を!?」
ハンジが視線を鎧から外さないまま答えた。
「敵の動きを見ているんだ」
わずかに口元が歪む。
「どうもライナー君たちは、手の込んだ催しで歓迎してくれるようじゃないか」
そのとき。
獣の巨人が咆哮した。
低く長い声が街の奥まで響き、瓦礫の陰で眠っていた影が一斉に動き出す。
二メートル級、三メートル級。
巨人の群れが、瓦礫を蹴りながら走り出した。
「動いた!!」
ハンジの声だった。
そこへ、エルヴィンの声が戦場を貫く。
「ディルク班並びにマレーネ班は内門のクラース班と共に馬を死守せよ!!」
「リヴァイ班並びにハンジ班は!!鎧の巨人を仕留めよ!!」
「各班は指揮の下、雷槍を使用し、何としてでも目的を果たせ!!」
一瞬の間。そして。
「今一度人類に……心臓を捧げよ!!」
「ハッ!!」
兵たちが散り、ワイヤーが飛ぶ。
空が一瞬で兵の軌道に埋まる。
オリアナもアンカーを撃ち込んだ。
風が頬を打つ。
戦場が、開いた。
…To be continued
沈黙の行軍
夜の山は、音を吸っていた。月は出ていない。木々の輪郭だけが黒く重なり、その間を兵たちが縫うように進んでいく。
馬は引いていた。蹄が石を鳴らさないよう、人の歩幅に合わせてゆっくり進む。
全員がフードを深く被っていて、顔は見えない。
見えているのは、前を行く兵の背と、闇の中に白くほどける息だけだった。
オリアナは黙って歩いていた。
左手に手綱。右手には、小さな灯り。
掌に収まる鉱石が、強く光っている。夜の山道を進むための、わずかな明かりだった。
青白い光が指先を照らす。冷たい金属の感触だけが、いま自分が何者なのかを思い出させた。
前方では小声のやり取りが続いている。
進路の確認。足場の注意。
誰かが馬をなだめる声。
そのどれも低い。
夜の奥へ溶けていくような声だった。
少し離れた斜面の下、木の間に巨人の影が見えた。
立ったまま動かない。夜の間は眠っているだけだと知っていても、視界に入るたび喉が詰まる。
誰も戦わない。刺激もしない。
見つからないまま、ただ横を抜ける。
風がない。
だからこそ、どこから何が現れてもおかしくない気がした。
山を越えるにつれて息は上がり、冷えた空気の中で脚の筋だけが熱を持ち始めていた。
それでも列は止まらない。
誰も振り返らない。
オリアナは前だけを見ていた。
それ以外を見ると、暗闇のどこかに敵の気配を見つけてしまいそうだった。
ふと、胸の奥で別の緊張がわずかに揺れた。
敵とは違う種類のものだった。
すぐに息を吐く。
余計なことを考えるな。
思考を切り捨てるように、視線を前へ戻した。
*
やがて木々が薄くなり、視界が開けた。
麓だった。
荒れた街道跡が、夜の底からうっすら浮かび上がっている。そこでようやく兵たちは馬へ跨った。
革のきしむ音。鐙に足をかける音。
息を殺していた列が、わずかに形を変える。
東の空は、ほんの少しだけ青み始めていた。
その薄い光の先に、巨大な影が横たわっている。
ウォール・マリアだった。
オリアナは馬腹を軽く蹴った。
列が一気に動き出す。
今度は速い。風が頬を打つ。
眠りかけていた地面が、蹄の振動で一斉に目を覚ます。
シガンシナ区の内門が見えたときには、夜明けはもう始まっていた。
「これより作戦を開始する!!」
エルヴィンの声が、朝の冷えた空気を裂いた。
「全員立体機動に移れ!!」
次の瞬間には、兵たちが一斉に飛んでいた。
アンカーが壁を打ち、張ったワイヤーが朝の空気を裂く。百の影が、一度に空へ散った。
オリアナも馬を蹴って飛び上がった。
外門へ向かって一直線に飛ぶ。フードが風に鳴り、視界の端では、同じ軌道を取った兵たちの影が次々に横切っていく。
その先で、閃光が弾けた。
蒸気が上がる。
白い煙の向こうで巨人の骨格が立ち上がり、盛り上がった結晶が噛み合いながら穴を塞いでいく。
石より冷たく見える白い面が、朝の薄い光を受けて鈍く照った。
オリアナは壁上へ降り立った。
蒸気が流れていく先で、兵たちの視線が門へ集まる。
「敵は!?」
「見えません!!」
「穴は!?」
「成功です!!しっかり塞がっています!!」
張り詰めていた空気が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
外門は白い結晶で完全に塞がれている。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
敵が出てこない。
巨人も。
彼らも。
何一つ。
だが、どこかで見られている気がした。
屋根の上を飛ぶ兵の軌道だけが、空しく街を切っていく。
ハンジ班は散開しながら街の上を移動していた。
エレンの位置を悟らせないよう、互いに距離を取ったまま飛ぶ。
オリアナも建物の間を抜けながら視線を巡らせる。
崩れた屋根。
草の伸びた路地。
朝の光を受ける窓枠。
次の目標は、内門。
このまま進めば、外門と同じように塞ぐ。それでシガンシナ区は完全に閉じる。
そのはずだった。
そのとき。
遠くで信煙弾が上がった。
赤い線が、空に細く立つ。
オリアナは思わず軌道を緩めた。
「作戦中止の合図!?」
ハンジが振り向く。
「総員、壁の上に散らばって待機だ!!」
「了解!!」
班がまとめて向きを変える。
オリアナもそれに続き、壁の上へ降りた。
壁の上は、妙に静かだった。
兵たちは散開し、間隔を空けて並んでいる。
立体機動の煙がまだ街の上に薄く残っていた。
その中で、数十人の兵が壁面にぶら下がる。
そして、壁を叩き始めた。
カン。
金属が石を打つ乾いた音。
カン。
また別の場所で同じ音がする。
オリアナは眉をわずかに寄せた。
(……壁?)
巨人でも、敵でもない。
ただ、兵たちは壁の石を叩いている。
意味が分からない。
だが命令なのだろう。
兵たちは躊躇なく壁を順に叩いていく。
カン。
カン。
カン。
同じ音が続く。
その中で、一つだけ響きが違った。
鈍い。石の奥に空洞があるような音。
叩いていた兵が止まる。
短い沈黙を挟んで、声が弾けた。
「ここだ!!ここに空洞があるぞ!!」
音響弾が上がる。
耳を突く高音が空に響いた。
直後、壁の一部が内側から外れた。
そこから人影が飛び出す。
刃が光り、血が散った。
叩いていた兵の体が、横へ弾かれる。
「ライナー!!」
アルミンの叫びが響く。
だがその声とほとんど同時に、別の影が動いていた。
リヴァイの黒い軌道が空を裂く。
兵たちが状況を理解するより速く、刃はもうライナーの首へ届いていた。
——斬撃。
間を置かず、もう一撃が腹へ入る。
だがリヴァイの動きは止まらない。ほんの一瞬の判断で、そのままライナーの体を蹴り落とした。
落下。
叩きつけられた体から閃光が走り、巨人化の蒸気が一気に噴き上がった。
「っ……!」
蒸気の中に、巨大な影が立った。
鎧の巨人だった。
オリアナの喉がわずかに詰まる。
ほとんど同時に、壁の外側で別の閃光が走った。オリアナは反射的に振り向く。
シガンシナ区の外。
土煙の向こうに、巨人が次々と姿を現している。その中央に、長い腕を持つ巨大な影があった。
獣の巨人。
その姿を認識した瞬間、腕が振り上げられた。
直後、空気が裂けた。
岩が飛ぶ。
轟音とともに巨大な石塊が内門へ叩きつけられ、跳ね上がった土煙がその奥を覆った。
その奥で、内門が塞がれているのが見えた。
退路が消えた。
同時に、鎧の巨人が動く。
兵には目もくれず、壁の下へ向かって一直線に走り出した。
「攻撃命令はまだですか!?」
エレンの声が壁の上に響く。
「団長は何を!?」
ハンジが視線を鎧から外さないまま答えた。
「敵の動きを見ているんだ」
わずかに口元が歪む。
「どうもライナー君たちは、手の込んだ催しで歓迎してくれるようじゃないか」
そのとき。
獣の巨人が咆哮した。
低く長い声が街の奥まで響き、瓦礫の陰で眠っていた影が一斉に動き出す。
二メートル級、三メートル級。
巨人の群れが、瓦礫を蹴りながら走り出した。
「動いた!!」
ハンジの声だった。
そこへ、エルヴィンの声が戦場を貫く。
「ディルク班並びにマレーネ班は内門のクラース班と共に馬を死守せよ!!」
「リヴァイ班並びにハンジ班は!!鎧の巨人を仕留めよ!!」
「各班は指揮の下、雷槍を使用し、何としてでも目的を果たせ!!」
一瞬の間。そして。
「今一度人類に……心臓を捧げよ!!」
「ハッ!!」
兵たちが散り、ワイヤーが飛ぶ。
空が一瞬で兵の軌道に埋まる。
オリアナもアンカーを撃ち込んだ。
風が頬を打つ。
戦場が、開いた。
…To be continued