【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
第31話
訓練場の隅では、ワイヤーが巻き上がる音と、工具の先が机に触れる小さな音が乾いて響いていた。
オリアナは記録板を抱えたまま、足を止めた。
少し離れた場所では、ハンジが木箱の前にしゃがみ込んでいる。
箱の上には分解された立体機動装置が広げられ、モブリットが横で手順を書き留めていた。班員はその指示に合わせて、順に部品を手渡している。
「だからね、この摩耗が前回より浅いのは——」
「分隊長、そこに触らないでください。油が移ります」
「あ、ほんとだ」
「ほんとだ、じゃありませんよ」
班員の一人が吹き出し、その笑いに別の誰かもつられた。
オリアナは記録板を脇に抱え直し、箱の上の部品を拾う。何も言わずに手渡すと、モブリットが短く頷いた。
「助かる」
「……いえ」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
配属から二ヶ月。
ハンジ班の空気は、ようやく身体に馴染んできていた。
踏み込みすぎない。
けれど、遠くもしない。
必要な時には、自然にそこにいる。
そういう距離だった。
訓練場の奥では、別の班が新しい装備の点検をしていた。金属の噛み合う重い音が、ときどき風に混じって届く。
訓練場の端には、見慣れない兵たちが列を作っていた。
新しい制服。
固い顔。
兵員不足による補充。駐屯兵団や憲兵団から移ってきた兵だと、昨夜モブリットが言っていた。
列の中に、見知った顔があった。
フロックだった。
同じ南方出身の104期。
視線が一瞬だけ合い、すぐ逸れる。
その少し前には、姿勢の整った男が立っていた。
名前までは知らない。
オリアナは視線を戻した。
「オリアナ!」
ハンジが振り向く。
眼鏡の奥の目が、いつものように妙に明るい。
「前回の記録、持ってる?」
「はい」
記録板を差し出すと、ハンジは受け取るより先に身を乗り出した。
「昨日の数値と並べて見たいんだよね。ほら、あの亀裂の入り方、面白かったでしょ?」
「分隊長、その話を始めると長くなります」
モブリットが淡々と遮る。
ハンジは不満そうに口を曲げたが、記録板だけは素直に受け取った。
風が吹き、紙が一枚、箱の上で揺れる。
オリアナはその端を押さえた。
指先の動きが、もう迷わない。
ここが新しい場所なのだと、身体だけは知っていた。
*
調整日の昼、兵舎を出る許可が下りた。
道は静かだった。壁内の空は薄く晴れ、石畳の上に乾いた秋の光が落ちている。
家の前まで来ると、扉の隙間から小さな足音がした。
「姉さん!」
飛び出してきたルカが、そのまま勢いよく腰に抱きつく。オリアナは一歩だけよろめいて、それからゆっくり腕を回した。
「……ただいま」
「ほんとに来た……!」
顔を上げたルカの目が明るい。
頬は前より少しだけ丸くなっていた。
「背、伸びた?」
「伸びた!」
即答だった。
家の中には、煮込みの匂いが満ちていた。
父が奥から顔を出し、いつもより短い言葉で「帰ったか」とだけ言った。
それで十分だった。
卓の上には、質素だが温かい食事が並んでいた。
木の器から湯気が上がり、パンをちぎる音が小さく響く。
ルカは魚の話をした。
川で大きいのが獲れたこと。
近所の子と競争して負けたこと。
字が少し上手くなったこと。
オリアナは頷きながら聞いていた。
言葉は少ない。
けれど、息は少し深かった。
食事のあと、ルカは恐る恐る、それでもどこか誇らしげに兵団の外套へ触れた。
「姉さん、また壁の外に行くの?」
指先が止まった。
「……うん」
「危ない?」
少し考えてから、オリアナは答えた。
「危なくない、とは言えない」
ルカは黙る。
唇を結び、それから小さく頷いた。
「ぼく、強くなる」
その言い方が、便箋の文字と同じだった。
オリアナはルカの頭に手を置く。
髪は柔らかく、まだ子どもの熱がした。
「強くならなくていい」
「え?」
「……ちゃんと食べて、寝て」
言葉がそこで切れる。
それ以上は出なかった。
ルカは不思議そうな顔をしたが、やがて笑った。
「姉さんもね」
返事はしなかった。
できなかった。
家を出るとき、背中に「また帰って来てね」と声が追いかけてきた。
振り返ると、ルカが扉の隙間から手を振っている。
オリアナも小さく手を上げた。
それだけで、胸の奥に残っていた冷えが、ほんの少しだけ遠のいた。
*
兵舎へ戻るころには、空が傾きかけていた。
昼の訓練が終わった裏手は静かで、人の気配も少ない。乾いた土の匂いの向こうで誰かが馬を引いていて、金具の小さな音だけが夕方の空気に混じっていた。
その音に足を止めると、壁際にエレンがいた。
点検用に外した立体機動装置を膝に乗せ、引き出したワイヤーをゆっくり巻き直している。
オリアナに気づくと、エレンは顔を上げた。
「……帰ってきたのか」
「うん」
短い返事のあと、金属の擦れる音だけが続いた。
「シャーディス教官のとこ行ってた。昔のこと、聞きたくて」
オリアナは何も言わない。
ワイヤーを最後まで巻き取ると、エレンは装置を閉じた。
「……地下室、もうすぐだな」
オリアナは頷く。
「……そうだね」
エレンは地面を見たまま、少しだけ息を継いだ。
「行けば、全部分かる」
そこで言葉が途切れる。
「……たぶん」
それ以上は言わなかった。
「じゃあな」
エレンは装置を抱え直し、兵舎へ歩いていった。
*
翌日の夜。
食堂はいつもより騒がしかった。
皿のぶつかる音に、湯気と肉の匂いが混じっている。卓の中央で皿が持ち上がると、兵たちの視線が一斉にそこへ集まった。
「今日はウォールマリア奪還の前祝いだ!!」
乾杯の声が上がる。
次の瞬間だった。
兵たちが一斉に肉へ飛びかかる。
「うおおおおお!!」
サシャが真っ先に肉の塊へ飛びつき、そのままかぶりついた。
「てめぇふざけんじゃねぇぞ芋女!!」
ジャンが叫ぶ。
「自分が何をしているかわかってんのか!?」
コニーが後ろから抱きついた。
「やめてくれサシャ……俺……お前を殺したくねぇんだ……」
言いながら首に腕を回して締める。
サシャは肉を抱えたまま暴れ、椅子が倒れ、皿が転がった。
やがて。
サシャは柱に縛られていた。
意識を失い伸びている。
食堂がようやく落ち着き、肉の匂いだけが残った。
向かいの席で、新しく加わった兵が口を開く。
「確かに俺はまだ弱いが……、だからこそ前線で敵の出方を探るにはうってつけじゃないか?」
ジャンが椅子に背を預けた。
「なんだ?一丁前に自己犠牲語って勇敢気取りか?」
そこからジャンが畳みかける。
理屈。
戦場。
現実。
マルロは言い返そうとするが、言葉が続かない。
ジャンは最後にエレンを見ながら言った。
「一番使えねぇのはな、一にも二にも突撃しかできねぇ死に急ぎ野郎だよ。なぁ?」
エレンがゆっくり顔を上げる。
「ジャン……そりゃ誰のことだ?」
そのあと、言葉だけが短くぶつかった。
低く返す声に、被せるような挑発。
どちらも引かない。
次の瞬間。
「いい調子じゃねぇかイノシシ野郎!!」
「てめぇこそ何で髪伸ばしてんだ!?この勘違い野郎!!」
拳が飛び、椅子が倒れる。
誰も止めない。
「オラッ!!」
「この野郎!!」
拳がぶつかり、椅子が横に滑った。
「いいぞー!!」
誰かが机を叩く。
笑い声が広がり、皿を持ち上げて退ける兵や、椅子を引きずって円を作る兵が出始めた。
「根性見せろ!!」
「腰ひけてんぞ!?」
誰かが口笛を鳴らした。
「……マジな話よぉ、巨人の力が無かったらお前何回死んでんだ……?」
ジャンが肩で息をしながら吐き捨てる。
「その度に……、ミカサに助けてもらって……!!これ以上死に急いだら——」
ジャンの拳が、エレンの腹に入る。
「ぶっ殺すぞ!?」
「——それは、肝に銘じとくから!!」
すかさずエレンが殴り返す。
「お前こそ母ちゃん大事にしろよ!?ジャンボォオオ」
「それは忘れろぉおお」
コニーが机を叩いて笑っている。
サシャは柱に縛られたまま暴れていた。
「もっとやれぇぇぇ!!」
パンが転がり、酒がこぼれる。拳と笑い声が入り混じり、食堂は完全に二人の殴り合いを囲む輪になっていた。
オリアナはその光景を眺めていた。
ジャンとエレンが、こんなふうにやり合うのを見るのは久しぶりだった。
そのとき。
「オイ」
低い声。
リヴァイ兵長だった。
一瞬で空気が止まる。
エレンに蹴りが入り、続けてジャンの腹に拳が入った。
「……お前ら全員はしゃぎすぎだ」
ジャンがむせる。
次の瞬間。
「おえっ」
吐いた。
リヴァイが言う。
「もう寝ろ」
ジャンが口元を押さえたまま固まる。
「……あと掃除しろ」
しばらくして。
食堂は静かになっていた。
ジャンが床を拭いている。
顔色が悪い。
オリアナは近づいた。
「……大丈夫?」
ジャンの手が止まる。
「大丈夫じゃねぇよ」
低い声だった。
それでも布を絞る手は止まらない。
少しして、ジャンは布を桶に落とした。
「……でも」
オリアナが桶を少し引き寄せると、ジャンが横目で見る。
「お前に言われると、妙に腹立たねぇな」
オリアナは何も言わず、床に落ちた水気を拭いた。
ジャンはしばらくそれを見ていた。
「……ありがとう」
小さな声だった。
*
外は静かだった。
馬の鞍を締める音や、革のきしむ音だけが夜の空気に混じっている。誰も大きな声を出さない。
明日の夜、出る。
それだけが決まっていた。
オリアナは空を見上げた。
雲が薄い。
ウォール・マリアの向こうにも、同じ空がある。
胸の奥がわずかに揺れる。
そこで止める。
オリアナは視線を下ろした。
兵舎の灯りへ歩き出す。
空は、静かだった。
…To be continued
前夜の体温
朝の空気はまだ冷たかった。訓練場の隅では、ワイヤーが巻き上がる音と、工具の先が机に触れる小さな音が乾いて響いていた。
オリアナは記録板を抱えたまま、足を止めた。
少し離れた場所では、ハンジが木箱の前にしゃがみ込んでいる。
箱の上には分解された立体機動装置が広げられ、モブリットが横で手順を書き留めていた。班員はその指示に合わせて、順に部品を手渡している。
「だからね、この摩耗が前回より浅いのは——」
「分隊長、そこに触らないでください。油が移ります」
「あ、ほんとだ」
「ほんとだ、じゃありませんよ」
班員の一人が吹き出し、その笑いに別の誰かもつられた。
オリアナは記録板を脇に抱え直し、箱の上の部品を拾う。何も言わずに手渡すと、モブリットが短く頷いた。
「助かる」
「……いえ」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
配属から二ヶ月。
ハンジ班の空気は、ようやく身体に馴染んできていた。
踏み込みすぎない。
けれど、遠くもしない。
必要な時には、自然にそこにいる。
そういう距離だった。
訓練場の奥では、別の班が新しい装備の点検をしていた。金属の噛み合う重い音が、ときどき風に混じって届く。
訓練場の端には、見慣れない兵たちが列を作っていた。
新しい制服。
固い顔。
兵員不足による補充。駐屯兵団や憲兵団から移ってきた兵だと、昨夜モブリットが言っていた。
列の中に、見知った顔があった。
フロックだった。
同じ南方出身の104期。
視線が一瞬だけ合い、すぐ逸れる。
その少し前には、姿勢の整った男が立っていた。
名前までは知らない。
オリアナは視線を戻した。
「オリアナ!」
ハンジが振り向く。
眼鏡の奥の目が、いつものように妙に明るい。
「前回の記録、持ってる?」
「はい」
記録板を差し出すと、ハンジは受け取るより先に身を乗り出した。
「昨日の数値と並べて見たいんだよね。ほら、あの亀裂の入り方、面白かったでしょ?」
「分隊長、その話を始めると長くなります」
モブリットが淡々と遮る。
ハンジは不満そうに口を曲げたが、記録板だけは素直に受け取った。
風が吹き、紙が一枚、箱の上で揺れる。
オリアナはその端を押さえた。
指先の動きが、もう迷わない。
ここが新しい場所なのだと、身体だけは知っていた。
*
調整日の昼、兵舎を出る許可が下りた。
道は静かだった。壁内の空は薄く晴れ、石畳の上に乾いた秋の光が落ちている。
家の前まで来ると、扉の隙間から小さな足音がした。
「姉さん!」
飛び出してきたルカが、そのまま勢いよく腰に抱きつく。オリアナは一歩だけよろめいて、それからゆっくり腕を回した。
「……ただいま」
「ほんとに来た……!」
顔を上げたルカの目が明るい。
頬は前より少しだけ丸くなっていた。
「背、伸びた?」
「伸びた!」
即答だった。
家の中には、煮込みの匂いが満ちていた。
父が奥から顔を出し、いつもより短い言葉で「帰ったか」とだけ言った。
それで十分だった。
卓の上には、質素だが温かい食事が並んでいた。
木の器から湯気が上がり、パンをちぎる音が小さく響く。
ルカは魚の話をした。
川で大きいのが獲れたこと。
近所の子と競争して負けたこと。
字が少し上手くなったこと。
オリアナは頷きながら聞いていた。
言葉は少ない。
けれど、息は少し深かった。
食事のあと、ルカは恐る恐る、それでもどこか誇らしげに兵団の外套へ触れた。
「姉さん、また壁の外に行くの?」
指先が止まった。
「……うん」
「危ない?」
少し考えてから、オリアナは答えた。
「危なくない、とは言えない」
ルカは黙る。
唇を結び、それから小さく頷いた。
「ぼく、強くなる」
その言い方が、便箋の文字と同じだった。
オリアナはルカの頭に手を置く。
髪は柔らかく、まだ子どもの熱がした。
「強くならなくていい」
「え?」
「……ちゃんと食べて、寝て」
言葉がそこで切れる。
それ以上は出なかった。
ルカは不思議そうな顔をしたが、やがて笑った。
「姉さんもね」
返事はしなかった。
できなかった。
家を出るとき、背中に「また帰って来てね」と声が追いかけてきた。
振り返ると、ルカが扉の隙間から手を振っている。
オリアナも小さく手を上げた。
それだけで、胸の奥に残っていた冷えが、ほんの少しだけ遠のいた。
*
兵舎へ戻るころには、空が傾きかけていた。
昼の訓練が終わった裏手は静かで、人の気配も少ない。乾いた土の匂いの向こうで誰かが馬を引いていて、金具の小さな音だけが夕方の空気に混じっていた。
その音に足を止めると、壁際にエレンがいた。
点検用に外した立体機動装置を膝に乗せ、引き出したワイヤーをゆっくり巻き直している。
オリアナに気づくと、エレンは顔を上げた。
「……帰ってきたのか」
「うん」
短い返事のあと、金属の擦れる音だけが続いた。
「シャーディス教官のとこ行ってた。昔のこと、聞きたくて」
オリアナは何も言わない。
ワイヤーを最後まで巻き取ると、エレンは装置を閉じた。
「……地下室、もうすぐだな」
オリアナは頷く。
「……そうだね」
エレンは地面を見たまま、少しだけ息を継いだ。
「行けば、全部分かる」
そこで言葉が途切れる。
「……たぶん」
それ以上は言わなかった。
「じゃあな」
エレンは装置を抱え直し、兵舎へ歩いていった。
*
翌日の夜。
食堂はいつもより騒がしかった。
皿のぶつかる音に、湯気と肉の匂いが混じっている。卓の中央で皿が持ち上がると、兵たちの視線が一斉にそこへ集まった。
「今日はウォールマリア奪還の前祝いだ!!」
乾杯の声が上がる。
次の瞬間だった。
兵たちが一斉に肉へ飛びかかる。
「うおおおおお!!」
サシャが真っ先に肉の塊へ飛びつき、そのままかぶりついた。
「てめぇふざけんじゃねぇぞ芋女!!」
ジャンが叫ぶ。
「自分が何をしているかわかってんのか!?」
コニーが後ろから抱きついた。
「やめてくれサシャ……俺……お前を殺したくねぇんだ……」
言いながら首に腕を回して締める。
サシャは肉を抱えたまま暴れ、椅子が倒れ、皿が転がった。
やがて。
サシャは柱に縛られていた。
意識を失い伸びている。
食堂がようやく落ち着き、肉の匂いだけが残った。
向かいの席で、新しく加わった兵が口を開く。
「確かに俺はまだ弱いが……、だからこそ前線で敵の出方を探るにはうってつけじゃないか?」
ジャンが椅子に背を預けた。
「なんだ?一丁前に自己犠牲語って勇敢気取りか?」
そこからジャンが畳みかける。
理屈。
戦場。
現実。
マルロは言い返そうとするが、言葉が続かない。
ジャンは最後にエレンを見ながら言った。
「一番使えねぇのはな、一にも二にも突撃しかできねぇ死に急ぎ野郎だよ。なぁ?」
エレンがゆっくり顔を上げる。
「ジャン……そりゃ誰のことだ?」
そのあと、言葉だけが短くぶつかった。
低く返す声に、被せるような挑発。
どちらも引かない。
次の瞬間。
「いい調子じゃねぇかイノシシ野郎!!」
「てめぇこそ何で髪伸ばしてんだ!?この勘違い野郎!!」
拳が飛び、椅子が倒れる。
誰も止めない。
「オラッ!!」
「この野郎!!」
拳がぶつかり、椅子が横に滑った。
「いいぞー!!」
誰かが机を叩く。
笑い声が広がり、皿を持ち上げて退ける兵や、椅子を引きずって円を作る兵が出始めた。
「根性見せろ!!」
「腰ひけてんぞ!?」
誰かが口笛を鳴らした。
「……マジな話よぉ、巨人の力が無かったらお前何回死んでんだ……?」
ジャンが肩で息をしながら吐き捨てる。
「その度に……、ミカサに助けてもらって……!!これ以上死に急いだら——」
ジャンの拳が、エレンの腹に入る。
「ぶっ殺すぞ!?」
「——それは、肝に銘じとくから!!」
すかさずエレンが殴り返す。
「お前こそ母ちゃん大事にしろよ!?ジャンボォオオ」
「それは忘れろぉおお」
コニーが机を叩いて笑っている。
サシャは柱に縛られたまま暴れていた。
「もっとやれぇぇぇ!!」
パンが転がり、酒がこぼれる。拳と笑い声が入り混じり、食堂は完全に二人の殴り合いを囲む輪になっていた。
オリアナはその光景を眺めていた。
ジャンとエレンが、こんなふうにやり合うのを見るのは久しぶりだった。
そのとき。
「オイ」
低い声。
リヴァイ兵長だった。
一瞬で空気が止まる。
エレンに蹴りが入り、続けてジャンの腹に拳が入った。
「……お前ら全員はしゃぎすぎだ」
ジャンがむせる。
次の瞬間。
「おえっ」
吐いた。
リヴァイが言う。
「もう寝ろ」
ジャンが口元を押さえたまま固まる。
「……あと掃除しろ」
しばらくして。
食堂は静かになっていた。
ジャンが床を拭いている。
顔色が悪い。
オリアナは近づいた。
「……大丈夫?」
ジャンの手が止まる。
「大丈夫じゃねぇよ」
低い声だった。
それでも布を絞る手は止まらない。
少しして、ジャンは布を桶に落とした。
「……でも」
オリアナが桶を少し引き寄せると、ジャンが横目で見る。
「お前に言われると、妙に腹立たねぇな」
オリアナは何も言わず、床に落ちた水気を拭いた。
ジャンはしばらくそれを見ていた。
「……ありがとう」
小さな声だった。
*
外は静かだった。
馬の鞍を締める音や、革のきしむ音だけが夜の空気に混じっている。誰も大きな声を出さない。
明日の夜、出る。
それだけが決まっていた。
オリアナは空を見上げた。
雲が薄い。
ウォール・マリアの向こうにも、同じ空がある。
胸の奥がわずかに揺れる。
そこで止める。
オリアナは視線を下ろした。
兵舎の灯りへ歩き出す。
空は、静かだった。
…To be continued