【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第30話
空は、妙に澄んでいた。
雲は薄く、風も止んでいる。
戦場の匂いだけが、地面に残ったまま乾いていた。
ベルトルトは顔を上げ、しばらくその青を見ていた。見上げている間だけ、足の裏の感覚が遠くなる。
(……同じ空だ)
壁の内側で見た空と、同じ色をしている。あの場所も、きっと今ごろは同じように静かなはずだ。
静かなまま、人が死ぬ。
ベルトルトは視線を落とした。
壁の上には、見張りを兼ねた簡単な野営の形ができている。焚き火のそばには濡れた外套が置かれ、壁際には見張り用の銃と弾薬箱がまとめられていた。
少し離れた場所では、ライナーが背中を丸めて座っていた。両肘を膝に乗せ、どこを見るでもなく、ただそこにいた。
「……なあ」
先に声を出したのはライナーだった。
低くて、擦れた声。
ベルトルトは返事をしない。
返事の代わりに、焚き火へ薪を一本だけ足した。
火が、ぱち、と小さく弾ける。
ライナーが続ける。
「アニ……どうなってんだろうな」
名前だけが落ちる。
それだけで、火の温度が少し下がった気がした。
ベルトルトは薪を見つめたまま、息を吐く。
(分からない)
捕まった。そう聞いただけだ。
本当に捕まっているのか。
本当に生きているのか。
確認する術は、ない。
あの街に置いてきた。置いてきてしまった。
「……連れて帰りたかった」
ライナーの声は、悔しさとも違っていた。
疲労の底に沈んだ、鈍い音だった。
ベルトルトは、喉の奥が狭くなるのを感じた。
言葉が出ないまま、目線だけを火から外す。
(僕らが、置いてきた)
(……僕らが)
思考がそこで止まる。
風がないぶん、遠い音がよく届いた。
金具が擦れる音に混じって、誰かの足音が近づいてくる。硬く、迷いのない足音だった。
焚き火の向こうに人影が現れ、そこで立ち止まる。
ジークだった。
軍服の襟元がきっちり整っている。
火のそばに立っているはずなのに、あの男の周りだけ空気が冷えているように見えた。
「……休んでいるのか」
問いではなく、確認。
その口調だけで、こちらが部品に戻される。
ライナーが顔を上げる。
「……はい」
ベルトルトは立ち上がりかけて、やめた。
動けば、声が出そうだった。
ジークは二人を見比べ、焚き火の前へ来ないまま言った。
「感情は邪魔だ」
断言だった。
議論の余地がない言い方。
「必要なのは結果だけだ。始祖を持ち帰る。それ以外は副次だ」
副次。
その言葉が、胃のあたりを冷たく撫でた。
ライナーが何か言いかけて、やめる。
言っても意味がないと、すでに体が知っている。
ジークの視線が、ベルトルトに向いた。
「……お前は、迷っていないな」
質問の形なのに、答えは決まっている。
違う答えは、もう許されない。
ベルトルトは、頷いた。
「……はい」
声は落ち着いていた。
落ち着いていることが、怖かった。
ジークはわずかに目を細める。
「良いね」
短い評価。
それが余計に重い。
「やっと戦士の目になってきたな」
その言葉が、胸に刺さる。
戦士の目。
人間を削ったあとに残るもの。
ベルトルトは反論しない。できない。
(……戦士)
(僕は)
焚き火が揺れる。
火の向こうで、ライナーの肩が小さく沈んだ。
ジークは続ける。
「次は失敗するなよ」
それだけ言って、背を向ける。
足音が遠ざかっていく。迷いがない。
残ったのは、火と、灰と、言葉だけだった。
戦士。
ベルトルトの胸の奥で、その二文字が何度も擦れる。
(迷いはない)
(……そう言った)
“迷い”という単語が、引き金になった。
目の裏に、光が走る。
壁の上。
石を踏む音。
振り上げられる刃。
世界が、狭くなる。
その瞬間、視界の端に影が飛び込んだ。
走ってくる。
迷いなく、こちらへ。
息を切らし、喉を裂くような声で——
「ベルトルト!!」
名前が、空気を震わせる。
胸の奥が、強く打つ。
その声は、迷いのない響きだった。
同時に、塔の夜がよみがえる。
掴まれた手の感触。
震えていたのに、離れなかった。
(……そうか)
逃げ場がなくなる。
彼女は——
僕を、選んだ。
その事実が、体の深いところに落ちる。
(……やめてくれ)
(僕は──)
指先が、わずかに動く。
掴み返してしまうところだった。
考えるより先に。
その衝動に、胃のあたりが軋む。
(僕は……)
喉の奥に、冷たいものが落ちる。
(彼女の信頼を裏切った)
最初から、裏切っていた。
壁を壊し、あの街を壊した。
その地獄の中で、彼女は立っていた。
僕の名前を叫びながら。
胃のあたりが、きつく締まる。
喜ぶ資格なんて、どこにもない。
影の中から、別の記憶が浮かぶ。
補給倉庫。
近すぎる距離。
逸らさなかった瞳。
笑い声。
固く閉じていたものが、ほんの一瞬だけ緩んだ気がした。
けれど、それ以上触れる前に押し潰す。
これは過去だ。
触れたら、戻れなくなる。
そして。
もし違う世界だったら。
壁がなくて。
嘘がなくて。
任務も使命もなくて。
普通に出会えていたら。
一瞬だけ、そこへ落ちかける。
すぐに引き戻す。
そんな世界はない。
あのときも、同じだった。
鎧の肩から引き離され、ワイヤーに引かれたまま遠ざかる影を見た。
目が合った気がした。
その次の瞬間、音が遠のいた。
それだけで、十分だった。
もう、戻れないのだと分かった。
(……終わった)
胸の奥で、音もなく。
それでも、息は止まらなかった。
終わったはずなのに。
(僕は戦士だ……)
それしか、残っていない。
ベルトルトは目を閉じた。
それが正しいかどうかは、もう考えない。
考えたら、戻れなくなる。
焚き火の向こうで、ライナーが小さく息を吐く。
「……なあ、ベルトルト」
呼ばれて、ベルトルトは目を開けた。
ライナーは火を見たまま、ぽつりと言う。
「俺たち……間違ってねぇよな」
返せる言葉がない。
ベルトルトは頷くだけで返事を済ませた。
その沈黙のまま、ライナーは続けない。
続けたら、崩れると分かっている顔だった。
時間は進み、作戦は近づいていく。
結果だけが、もうすぐそこまで迫っていた。
ベルトルトは立ち上がり、焚き火の灰を踏みならす。火を消すと、焦げた匂いだけが残った。
(こんな地獄は)
その言葉が喉まで上がって、止まる。
まだ口にはしない。
今は、内側に沈める。
ベルトルトは空を見た。
さっきと同じ青。
同じ空。
(ここで終わらせる)
決意というより、諦めに近い硬さで。
ベルトルトは視線を下ろし、武器の確認をした。
手が震えていないことが、逆に怖かった。
戦士の目。
その言葉を、もう否定しない。
否定できない。
否定する場所を、とうに失っている。
焚き火跡の冷えた灰を背に、ベルトルトは歩き出した。石を踏む音が、乾いて響く。
胸の内側で、名前だけが一度だけ反響する。
——オリアナ。
すぐに、押し込めた。
(僕には……、資格がない)
そう言い聞かせて、前だけを見る。
空は、変わらず澄んでいた。
…To be continued
裏切りの資格
side - ベルトルト
空は、妙に澄んでいた。
雲は薄く、風も止んでいる。
戦場の匂いだけが、地面に残ったまま乾いていた。
ベルトルトは顔を上げ、しばらくその青を見ていた。見上げている間だけ、足の裏の感覚が遠くなる。
(……同じ空だ)
壁の内側で見た空と、同じ色をしている。あの場所も、きっと今ごろは同じように静かなはずだ。
静かなまま、人が死ぬ。
ベルトルトは視線を落とした。
壁の上には、見張りを兼ねた簡単な野営の形ができている。焚き火のそばには濡れた外套が置かれ、壁際には見張り用の銃と弾薬箱がまとめられていた。
少し離れた場所では、ライナーが背中を丸めて座っていた。両肘を膝に乗せ、どこを見るでもなく、ただそこにいた。
「……なあ」
先に声を出したのはライナーだった。
低くて、擦れた声。
ベルトルトは返事をしない。
返事の代わりに、焚き火へ薪を一本だけ足した。
火が、ぱち、と小さく弾ける。
ライナーが続ける。
「アニ……どうなってんだろうな」
名前だけが落ちる。
それだけで、火の温度が少し下がった気がした。
ベルトルトは薪を見つめたまま、息を吐く。
(分からない)
捕まった。そう聞いただけだ。
本当に捕まっているのか。
本当に生きているのか。
確認する術は、ない。
あの街に置いてきた。置いてきてしまった。
「……連れて帰りたかった」
ライナーの声は、悔しさとも違っていた。
疲労の底に沈んだ、鈍い音だった。
ベルトルトは、喉の奥が狭くなるのを感じた。
言葉が出ないまま、目線だけを火から外す。
(僕らが、置いてきた)
(……僕らが)
思考がそこで止まる。
風がないぶん、遠い音がよく届いた。
金具が擦れる音に混じって、誰かの足音が近づいてくる。硬く、迷いのない足音だった。
焚き火の向こうに人影が現れ、そこで立ち止まる。
ジークだった。
軍服の襟元がきっちり整っている。
火のそばに立っているはずなのに、あの男の周りだけ空気が冷えているように見えた。
「……休んでいるのか」
問いではなく、確認。
その口調だけで、こちらが部品に戻される。
ライナーが顔を上げる。
「……はい」
ベルトルトは立ち上がりかけて、やめた。
動けば、声が出そうだった。
ジークは二人を見比べ、焚き火の前へ来ないまま言った。
「感情は邪魔だ」
断言だった。
議論の余地がない言い方。
「必要なのは結果だけだ。始祖を持ち帰る。それ以外は副次だ」
副次。
その言葉が、胃のあたりを冷たく撫でた。
ライナーが何か言いかけて、やめる。
言っても意味がないと、すでに体が知っている。
ジークの視線が、ベルトルトに向いた。
「……お前は、迷っていないな」
質問の形なのに、答えは決まっている。
違う答えは、もう許されない。
ベルトルトは、頷いた。
「……はい」
声は落ち着いていた。
落ち着いていることが、怖かった。
ジークはわずかに目を細める。
「良いね」
短い評価。
それが余計に重い。
「やっと戦士の目になってきたな」
その言葉が、胸に刺さる。
戦士の目。
人間を削ったあとに残るもの。
ベルトルトは反論しない。できない。
(……戦士)
(僕は)
焚き火が揺れる。
火の向こうで、ライナーの肩が小さく沈んだ。
ジークは続ける。
「次は失敗するなよ」
それだけ言って、背を向ける。
足音が遠ざかっていく。迷いがない。
残ったのは、火と、灰と、言葉だけだった。
戦士。
ベルトルトの胸の奥で、その二文字が何度も擦れる。
(迷いはない)
(……そう言った)
“迷い”という単語が、引き金になった。
目の裏に、光が走る。
壁の上。
石を踏む音。
振り上げられる刃。
世界が、狭くなる。
その瞬間、視界の端に影が飛び込んだ。
走ってくる。
迷いなく、こちらへ。
息を切らし、喉を裂くような声で——
「ベルトルト!!」
名前が、空気を震わせる。
胸の奥が、強く打つ。
その声は、迷いのない響きだった。
同時に、塔の夜がよみがえる。
掴まれた手の感触。
震えていたのに、離れなかった。
(……そうか)
逃げ場がなくなる。
彼女は——
僕を、選んだ。
その事実が、体の深いところに落ちる。
(……やめてくれ)
(僕は──)
指先が、わずかに動く。
掴み返してしまうところだった。
考えるより先に。
その衝動に、胃のあたりが軋む。
(僕は……)
喉の奥に、冷たいものが落ちる。
(彼女の信頼を裏切った)
最初から、裏切っていた。
壁を壊し、あの街を壊した。
その地獄の中で、彼女は立っていた。
僕の名前を叫びながら。
胃のあたりが、きつく締まる。
喜ぶ資格なんて、どこにもない。
影の中から、別の記憶が浮かぶ。
補給倉庫。
近すぎる距離。
逸らさなかった瞳。
笑い声。
固く閉じていたものが、ほんの一瞬だけ緩んだ気がした。
けれど、それ以上触れる前に押し潰す。
これは過去だ。
触れたら、戻れなくなる。
そして。
もし違う世界だったら。
壁がなくて。
嘘がなくて。
任務も使命もなくて。
普通に出会えていたら。
一瞬だけ、そこへ落ちかける。
すぐに引き戻す。
そんな世界はない。
あのときも、同じだった。
鎧の肩から引き離され、ワイヤーに引かれたまま遠ざかる影を見た。
目が合った気がした。
その次の瞬間、音が遠のいた。
それだけで、十分だった。
もう、戻れないのだと分かった。
(……終わった)
胸の奥で、音もなく。
それでも、息は止まらなかった。
終わったはずなのに。
(僕は戦士だ……)
それしか、残っていない。
ベルトルトは目を閉じた。
それが正しいかどうかは、もう考えない。
考えたら、戻れなくなる。
焚き火の向こうで、ライナーが小さく息を吐く。
「……なあ、ベルトルト」
呼ばれて、ベルトルトは目を開けた。
ライナーは火を見たまま、ぽつりと言う。
「俺たち……間違ってねぇよな」
返せる言葉がない。
ベルトルトは頷くだけで返事を済ませた。
その沈黙のまま、ライナーは続けない。
続けたら、崩れると分かっている顔だった。
時間は進み、作戦は近づいていく。
結果だけが、もうすぐそこまで迫っていた。
ベルトルトは立ち上がり、焚き火の灰を踏みならす。火を消すと、焦げた匂いだけが残った。
(こんな地獄は)
その言葉が喉まで上がって、止まる。
まだ口にはしない。
今は、内側に沈める。
ベルトルトは空を見た。
さっきと同じ青。
同じ空。
(ここで終わらせる)
決意というより、諦めに近い硬さで。
ベルトルトは視線を下ろし、武器の確認をした。
手が震えていないことが、逆に怖かった。
戦士の目。
その言葉を、もう否定しない。
否定できない。
否定する場所を、とうに失っている。
焚き火跡の冷えた灰を背に、ベルトルトは歩き出した。石を踏む音が、乾いて響く。
胸の内側で、名前だけが一度だけ反響する。
——オリアナ。
すぐに、押し込めた。
(僕には……、資格がない)
そう言い聞かせて、前だけを見る。
空は、変わらず澄んでいた。
…To be continued