【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
第29話
兵士たちの足音と紙の擦れる音が、朝の空気を押しのけるように行き交っている。
誰かが小走りに角を曲がり、別の誰かが束になった書類を抱えたまま、短い指示を飛ばしていた。
オリアナは名を告げ、指示された部屋へ入った。
机の上には書類が並んでいた。
削られた名前の跡と、補充を示す印がいくつも残っている。ただの配置表ではないことは、見れば分かった。
空いた席。失われた名前。
その代わりに、別の名前が書き足されていく。
「再編だ」
上官の声は短い。
「ハンジ分隊長の班へ回る。今日からだ」
理由は告げられない。
聞く者もいない。
「……了解しました」
声は平らだった。
部屋を出ると、すぐ背後から勢いのある足音が近づいた。迷いなくこちらへ向かってくるその音に、オリアナは振り返る。
「君がオリアナ?」
そこに、ハンジ分隊長が立っていた。
眼鏡の奥の目が、観察するみたいに細まっている。
「私はハンジ。よろしくね」
握手を求めるでもなく、ただ興味を向けてくる。その視線には遠慮がないのに、不思議と威圧感はなかった。
「今日、面白い実験があるんだよね。人手が足りなくてさ」
「分隊長」
低い声が横から入った。
「いきなり連れて行く前に説明を」
整った姿勢の男が立っていた。視線は冷静だが、分隊長を止める役目に慣れている顔だった。
「モブリットだ。ついてきなさい」
オリアナは敬礼する。
「本日より、よろしくお願いいたします」
モブリットは軽く頷いた。
ハンジは、もう歩き出している。
「今日は屋外だよ。空気がいい。実験には最高だ!」
*
外れの区域は風が抜けていた。
洞窟の口が黒く開き、その周囲には木材と足場が組まれている。
作業用の縄や固定具が、あちこちに置かれていた。兵たちはそれぞれの持ち場につき、ハンジの指示を待っている。
「ここを塞げるか試す」
モブリットが簡潔に言う。
「エレンの硬質化で、入口を封鎖できるかの確認だ」
少し離れた場所に、エレンが立っていた。
ミカサはさらに後方で、全体の様子を見ている。
ハンジが声を張る。
「エレン!準備はいいか!?」
エレンが振り向き、背筋を伸ばす。
「はい。いつでもいけます」
はっきりした声だった。
「よし!実験開始だ!」
「はい!」
迷いのない返事と同時に、エレンは自分の手を噛んだ。
閃光。
爆音と蒸気。
熱を含んだ風が一気に広がり、巨人の影が洞窟の前に立ち上がる。地面が大きく揺れ、足場の木材が軋んだ。
巨人の体表に白い筋が走る。
硬質化の兆しだった。
「おおっ……!」
ハンジが身を乗り出す。
だが次の瞬間、巨人の膝が崩れた。
傾いた体勢のまま肩が岩壁にぶつかり、白い筋はそれ以上広がらない。岩に当たった衝撃で土埃が舞い、周囲の兵たちが一斉に身構えた。
「うぉおお!!頑張れエレーン!!」
ハンジが前へ出る。
「分隊長!離れてください!!」
モブリットの声が飛んだ。
巨人の体が崩れ、蒸気が噴き出す。
熱を帯びた白い煙が視界を覆い、岩肌と足場の輪郭を曖昧にしていった。
その煙の中から、エレンの体が滑り落ちた。
地面に膝をつき、荒く息を吐く。
オリアナは思わず一歩前へ出た。
その瞬間、離れた位置からミカサが駆け寄る。
「エレン……!」
「……平気だ」
息は荒いが、意識ははっきりしている。
ハンジは、まだ蒸気の残る空間を見つめていた。
「今、硬質化出たよね!?」
ハンジは巨人を指差した。
モブリットが即座に書き込む。
「硬質化確認。持続三秒」
「そうそう、それ!」
ハンジは満足そうに頷いた。
やがて休憩が入る。
エレンは水を受け取り、肩で息をしていた。額の汗を手の甲で拭い、何度か呼吸を整えている。
その視線が、少し離れた場所に立つオリアナに止まった。
エレンは数歩近づいた。
「……ハンジ班に回ったんだってな」
オリアナは振り向く。
「……うん」
「忙しくなるな」
「そうだね」
少し風が吹いた。洞窟の入口に残っていた蒸気が薄く流れ、足元の土の匂いが戻ってくる。
エレンは水を一口飲んだ。
それから、思い出したように言う。
「……そういえば」
オリアナを見る。
「壁の上のこと、覚えてるか」
オリアナは少し考える。
「……断片だけ」
エレンは頷きも否定もしない。
「ミカサが飛んでさ」
言葉を探す。
「ベルトルトが倒れて」
そこで一度、口を閉じる。
「お前、叫んだよな」
オリアナの視線が落ちる。
そのとき、背後からミカサの視線が刺さった。
言葉はない。けれど、その目が何を問うているのかは分かった。
まだ、迷っているのか。
「……覚えてない」
静かな声だった。
エレンは肩をすくめる。
「そうか」
少しの沈黙のあと、エレンが続ける。
「……今のお前」
視線は逸らさない。
「迷ってるように見える」
オリアナは顔を上げる。
「迷ってない」
すぐに返した。
エレンは少しだけ眉を寄せる。
それから短く言う。
「ならいい」
視線を外さないまま、続けた。
「迷ってると死ぬぞ」
オリアナは小さく頷く。
「……分かってる」
エレンは水袋を握り直す。
それ以上は言わない。
「休憩終わりだ」
それだけ言って、エレンは立ち上がった。
*
実験が一段落し、兵舎へ戻るころには日が傾いていた。
兵舎の食堂には、まだ人が多い。
長い机の上にはパンとスープが並び、その匂いに混じって、あちこちで疲れた笑い声が起きていた。
訓練や作業のあとの気だるさが残る空気の中で、それでも人の声だけは絶えない。
オリアナは入口で一瞬だけ立ち止まった。
「こっちだ」
モブリットが手を上げた。
奥の机には、ハンジと数人の班員が座っている。
ハンジはパンを片手に、まだ実験の続きを話していた。
「だからね、硬質化っていうのは恐らく——」
「分隊長」
モブリットが短く言う。
「食事が冷めます」
「分かった分かった」
言いながら、また話し始める。
班員の一人が小さく笑った。
オリアナは空いた席に腰を下ろした。
皿にパンを取る。
「新しい班員?」
向かいの兵が言った。
「オリアナです。本日付で配属されました」
「よろしく」
軽い調子の返事だった。
卓の上では、巨人や装備の調整、壁外の噂へと話題が次々に移っていく。誰かが話し、誰かがそれに短く返し、また別の誰かが思い出したように別の話を差し込む。
そこには、必要以上に踏み込まない距離があった。
ハンジはふとこちらを見た。
観察するような目。
「オリアナ」
身を乗り出す。
「巨人は好き?」
唐突だった。
オリアナは少し考え、
「……好きではありません」
正直に答える。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、ハンジが笑った。
「いいね!」
「?」
「好きじゃない方がいい」
パンをかじりながら言う。
「好きすぎるとね、研究が止まらなくなる」
ハンジの横で、モブリットが小さく呟いた。
「もう止まってませんよ……」
班員が笑う。
オリアナはスープを口に運んだ。
温かい。
騒がしくもなく、無理に笑う空気もない。誰かが話し、誰かが笑い、また別の話題に移る。
その流れの中に、オリアナの沈黙も自然に置かれていた。
巨人のことも、奪還作戦のことも、補給の予定も、オリアナは黙って聞いていた。
*
食堂を出たあと。
廊下には、二人分の足音だけが続いた。
昼間の騒がしさが遠のいた兵舎の中で、壁に掛けられた灯りだけが静かに揺れている。
モブリットが隣に並ぶ。
「分隊長はああだが、悪くない班だ」
淡々とした口調だった。
「王都の騒乱で席が空いた。埋めるしかない」
オリアナは頷く。
「承知しています」
モブリットは一瞬だけ視線を向けた。
「無理はするなよ」
短い声。
「動けなくなると困る」
その言い方は堅かったが、冷たくはなかった。必要なことだけを選び、余計な感傷は挟まない。
その距離が、かえって今はありがたかった。
「はい」
オリアナは答えた。
*
朝は静かに来ていた。
兵舎の廊下では、もう誰かが動いている。
補給品を運ぶ足音や、書類をめくる乾いた音が、壁越しに聞こえていた。
まだ薄暗い空気の中にも、外へ出る準備の気配が満ちている。
オリアナは寝台から起き上がった。
まだ体の奥に、昨日のざわめきが残っている。
窓辺に立つと、外の空気は少し冷たく、見上げた空は広かった。
ウォール・マリアの向こうにも、きっと同じ空がある。
ヒストリアの声。
エレンの言葉。
ミカサの視線。
どれも消えない。
それでも、朝は来る。
オリアナは窓を閉めた。
今日も動く。
それだけは、変わらない。
空は静かに明るくなっていった。
…To be continued
新しい場所
本部の廊下は騒がしかった。兵士たちの足音と紙の擦れる音が、朝の空気を押しのけるように行き交っている。
誰かが小走りに角を曲がり、別の誰かが束になった書類を抱えたまま、短い指示を飛ばしていた。
オリアナは名を告げ、指示された部屋へ入った。
机の上には書類が並んでいた。
削られた名前の跡と、補充を示す印がいくつも残っている。ただの配置表ではないことは、見れば分かった。
空いた席。失われた名前。
その代わりに、別の名前が書き足されていく。
「再編だ」
上官の声は短い。
「ハンジ分隊長の班へ回る。今日からだ」
理由は告げられない。
聞く者もいない。
「……了解しました」
声は平らだった。
部屋を出ると、すぐ背後から勢いのある足音が近づいた。迷いなくこちらへ向かってくるその音に、オリアナは振り返る。
「君がオリアナ?」
そこに、ハンジ分隊長が立っていた。
眼鏡の奥の目が、観察するみたいに細まっている。
「私はハンジ。よろしくね」
握手を求めるでもなく、ただ興味を向けてくる。その視線には遠慮がないのに、不思議と威圧感はなかった。
「今日、面白い実験があるんだよね。人手が足りなくてさ」
「分隊長」
低い声が横から入った。
「いきなり連れて行く前に説明を」
整った姿勢の男が立っていた。視線は冷静だが、分隊長を止める役目に慣れている顔だった。
「モブリットだ。ついてきなさい」
オリアナは敬礼する。
「本日より、よろしくお願いいたします」
モブリットは軽く頷いた。
ハンジは、もう歩き出している。
「今日は屋外だよ。空気がいい。実験には最高だ!」
*
外れの区域は風が抜けていた。
洞窟の口が黒く開き、その周囲には木材と足場が組まれている。
作業用の縄や固定具が、あちこちに置かれていた。兵たちはそれぞれの持ち場につき、ハンジの指示を待っている。
「ここを塞げるか試す」
モブリットが簡潔に言う。
「エレンの硬質化で、入口を封鎖できるかの確認だ」
少し離れた場所に、エレンが立っていた。
ミカサはさらに後方で、全体の様子を見ている。
ハンジが声を張る。
「エレン!準備はいいか!?」
エレンが振り向き、背筋を伸ばす。
「はい。いつでもいけます」
はっきりした声だった。
「よし!実験開始だ!」
「はい!」
迷いのない返事と同時に、エレンは自分の手を噛んだ。
閃光。
爆音と蒸気。
熱を含んだ風が一気に広がり、巨人の影が洞窟の前に立ち上がる。地面が大きく揺れ、足場の木材が軋んだ。
巨人の体表に白い筋が走る。
硬質化の兆しだった。
「おおっ……!」
ハンジが身を乗り出す。
だが次の瞬間、巨人の膝が崩れた。
傾いた体勢のまま肩が岩壁にぶつかり、白い筋はそれ以上広がらない。岩に当たった衝撃で土埃が舞い、周囲の兵たちが一斉に身構えた。
「うぉおお!!頑張れエレーン!!」
ハンジが前へ出る。
「分隊長!離れてください!!」
モブリットの声が飛んだ。
巨人の体が崩れ、蒸気が噴き出す。
熱を帯びた白い煙が視界を覆い、岩肌と足場の輪郭を曖昧にしていった。
その煙の中から、エレンの体が滑り落ちた。
地面に膝をつき、荒く息を吐く。
オリアナは思わず一歩前へ出た。
その瞬間、離れた位置からミカサが駆け寄る。
「エレン……!」
「……平気だ」
息は荒いが、意識ははっきりしている。
ハンジは、まだ蒸気の残る空間を見つめていた。
「今、硬質化出たよね!?」
ハンジは巨人を指差した。
モブリットが即座に書き込む。
「硬質化確認。持続三秒」
「そうそう、それ!」
ハンジは満足そうに頷いた。
やがて休憩が入る。
エレンは水を受け取り、肩で息をしていた。額の汗を手の甲で拭い、何度か呼吸を整えている。
その視線が、少し離れた場所に立つオリアナに止まった。
エレンは数歩近づいた。
「……ハンジ班に回ったんだってな」
オリアナは振り向く。
「……うん」
「忙しくなるな」
「そうだね」
少し風が吹いた。洞窟の入口に残っていた蒸気が薄く流れ、足元の土の匂いが戻ってくる。
エレンは水を一口飲んだ。
それから、思い出したように言う。
「……そういえば」
オリアナを見る。
「壁の上のこと、覚えてるか」
オリアナは少し考える。
「……断片だけ」
エレンは頷きも否定もしない。
「ミカサが飛んでさ」
言葉を探す。
「ベルトルトが倒れて」
そこで一度、口を閉じる。
「お前、叫んだよな」
オリアナの視線が落ちる。
そのとき、背後からミカサの視線が刺さった。
言葉はない。けれど、その目が何を問うているのかは分かった。
まだ、迷っているのか。
「……覚えてない」
静かな声だった。
エレンは肩をすくめる。
「そうか」
少しの沈黙のあと、エレンが続ける。
「……今のお前」
視線は逸らさない。
「迷ってるように見える」
オリアナは顔を上げる。
「迷ってない」
すぐに返した。
エレンは少しだけ眉を寄せる。
それから短く言う。
「ならいい」
視線を外さないまま、続けた。
「迷ってると死ぬぞ」
オリアナは小さく頷く。
「……分かってる」
エレンは水袋を握り直す。
それ以上は言わない。
「休憩終わりだ」
それだけ言って、エレンは立ち上がった。
*
実験が一段落し、兵舎へ戻るころには日が傾いていた。
兵舎の食堂には、まだ人が多い。
長い机の上にはパンとスープが並び、その匂いに混じって、あちこちで疲れた笑い声が起きていた。
訓練や作業のあとの気だるさが残る空気の中で、それでも人の声だけは絶えない。
オリアナは入口で一瞬だけ立ち止まった。
「こっちだ」
モブリットが手を上げた。
奥の机には、ハンジと数人の班員が座っている。
ハンジはパンを片手に、まだ実験の続きを話していた。
「だからね、硬質化っていうのは恐らく——」
「分隊長」
モブリットが短く言う。
「食事が冷めます」
「分かった分かった」
言いながら、また話し始める。
班員の一人が小さく笑った。
オリアナは空いた席に腰を下ろした。
皿にパンを取る。
「新しい班員?」
向かいの兵が言った。
「オリアナです。本日付で配属されました」
「よろしく」
軽い調子の返事だった。
卓の上では、巨人や装備の調整、壁外の噂へと話題が次々に移っていく。誰かが話し、誰かがそれに短く返し、また別の誰かが思い出したように別の話を差し込む。
そこには、必要以上に踏み込まない距離があった。
ハンジはふとこちらを見た。
観察するような目。
「オリアナ」
身を乗り出す。
「巨人は好き?」
唐突だった。
オリアナは少し考え、
「……好きではありません」
正直に答える。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、ハンジが笑った。
「いいね!」
「?」
「好きじゃない方がいい」
パンをかじりながら言う。
「好きすぎるとね、研究が止まらなくなる」
ハンジの横で、モブリットが小さく呟いた。
「もう止まってませんよ……」
班員が笑う。
オリアナはスープを口に運んだ。
温かい。
騒がしくもなく、無理に笑う空気もない。誰かが話し、誰かが笑い、また別の話題に移る。
その流れの中に、オリアナの沈黙も自然に置かれていた。
巨人のことも、奪還作戦のことも、補給の予定も、オリアナは黙って聞いていた。
*
食堂を出たあと。
廊下には、二人分の足音だけが続いた。
昼間の騒がしさが遠のいた兵舎の中で、壁に掛けられた灯りだけが静かに揺れている。
モブリットが隣に並ぶ。
「分隊長はああだが、悪くない班だ」
淡々とした口調だった。
「王都の騒乱で席が空いた。埋めるしかない」
オリアナは頷く。
「承知しています」
モブリットは一瞬だけ視線を向けた。
「無理はするなよ」
短い声。
「動けなくなると困る」
その言い方は堅かったが、冷たくはなかった。必要なことだけを選び、余計な感傷は挟まない。
その距離が、かえって今はありがたかった。
「はい」
オリアナは答えた。
*
朝は静かに来ていた。
兵舎の廊下では、もう誰かが動いている。
補給品を運ぶ足音や、書類をめくる乾いた音が、壁越しに聞こえていた。
まだ薄暗い空気の中にも、外へ出る準備の気配が満ちている。
オリアナは寝台から起き上がった。
まだ体の奥に、昨日のざわめきが残っている。
窓辺に立つと、外の空気は少し冷たく、見上げた空は広かった。
ウォール・マリアの向こうにも、きっと同じ空がある。
ヒストリアの声。
エレンの言葉。
ミカサの視線。
どれも消えない。
それでも、朝は来る。
オリアナは窓を閉めた。
今日も動く。
それだけは、変わらない。
空は静かに明るくなっていった。
…To be continued