【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第28話
時間は何も癒さない。
ただ、痛みの輪郭を少しだけ鈍らせる。
兵舎の空気は落ち着きを取り戻したように見える。
廊下にはいつもの足音が戻り、整備の音が響き、食堂には湯気が立つ。
けれど夜になると、もういない名前を呼ぶ声や、うなされる息遣いがどこかで聞こえた。
失われたものだけが、静かに増えていく。
オリアナは、変わらず凍らせたままだった。
思い出す前に動く。
考える前に整える。
呼吸の深さを一定に保つ。
揺れたら、割れる。
割れたら、立っていられない。
だから今日も、同じ顔で起きた。
同じ手順で服を着て、廊下へ出る。
ただ一つ違うのは——向かう場所だけだった。
王政庁舎への招集。
伝令の言葉はそれだけだった。
理由も要件も告げられない。
それでも、この呼び出しが日常の延長ではないことは分かる。
王の名が変わった。
クリスタと呼ばれていた少女は、いまはヒストリア・レイスとして王座にある。
あの日から、顔を合わせる機会はなかった。
彼女はもう、簡単に会える場所にはいない。
オリアナは歩きながら指先に力を入れる。
薄く張った氷の上を踏み抜かないように進むみたいに。
*
王政庁舎へ向かう途中、足取りがわずかに遅くなる。
会うだけだ。
ただ顔を見るだけ。
それなのに、胸の奥が落ち着かない。
護衛兵に案内され、静かな廊下で待たされる。
窓から差し込む光が白く床に落ちていた。
足音。
扉が開く。
——一瞬、言葉が出なかった。
そこに立っていたのは、確かに“女王”だった。
簡素な衣服。
飾り気のない姿。
それでも周囲の空気が自然と距離を作る。
だが。
「…… オリアナ」
呼ばれた瞬間、その空気がほどけた。
ヒストリアだった。
変わらない声。
変わらない呼び方。
「……ヒストリア」
名を呼ぶと、彼女は少しだけ笑った。
昔と同じ、控えめな笑い方。
胸の奥の張りつめたものが、わずかに緩む。
「久しぶり」
「……うん」
言葉はそれだけ。
沈黙が落ちる。
だが気まずさはない。
隣に立つ距離。
同じ呼吸の速さ。
それだけで十分だった。
ヒストリアが小さく息を吐く。
「みんな、変わったって言うんだ」
視線は窓の外に向いたまま。
「私も変わらなきゃって思うけど……」
言葉が途切れる。
オリアナは何も言わない。
ただ隣に立つ。
やがてヒストリアがこちらを見る。
「……でも、こうしてると少し楽」
その言葉に、胸の奥が静かに揺れる。
「私も」
短く答える。
それ以上の言葉はいらなかった。
護衛の気配が遠くで動く。
ヒストリアがわずかに声を落とした。
「壁の外に行くって、聞いた?」
「……まだ」
「もうすぐだと思う」
その言い方は、女王のそれだった。
確信に近い静けさ。
けれど次の瞬間。
「気をつけてね」
ただの友人の声に戻る。
オリアナは頷いた。
ヒストリアがふと手を伸ばし、オリアナの袖に触れかけ——
ほんのわずかに迷い、触れずに引いた。
その仕草だけで、互いに分かる。
まだ完全には立ち直っていない。
それでも前に進もうとしている。
「……また来て」
「うん」
扉が閉まる。
廊下に残った空気が、少しだけ温かかった。
*
庁舎を出ると、外気が思ったより硬い。
石畳の匂い。馬の蹄の音。衛兵の金具の擦れる音。
現実に戻される。
戻されたくせに、胸の奥のどこかがわずかに楽だった。
呼吸ができたことが、こんなにも珍しいことになっている。
石段を下りる途中で、視線が引っかかった。
壁にもたれて腕を組んでいる人影。
兵団服。短い髪。
見慣れた輪郭なのに、どこか雰囲気が違う。
「……女王様と会ってきたのか?」
ジャンだった。
以前より声が低い。
軽口の調子が少し薄い。
オリアナは一瞬だけ迷ってから言う。
「……ヒストリアだよ」
ジャンはわずかに目を細めた。
小さく笑う。
「……だな」
それだけで、空気が少し軽くなる。
二人で並んで歩き出す。
しばらく無言。
石畳に足音だけが続く。
ジャンがぽつりと言う。
「……変わったな」
「ヒストリア?」
「いや」
そこで言葉を切る。
オリアナは横目で見る。
ジャンは前を向いたまま。
「色々だよ」
それ以上説明しない。
だが以前より静かなその背に、何かが残っているのが分かる。
オリアナも聞かない。
聞けば、何かが変わる気がした。
風が吹く。
ジャンが視線を逸らしたまま言う。
「……お前は変わんねぇな」
責める声じゃない。
確かめるみたいな声。
オリアナは答えない。
答えられない。
しばらくしてジャンが肩をすくめた。
「まぁいい」
それで終わり。
踏み込まない優しさだけが残る。
兵舎へ戻る道すがら、オリアナは何度も“薄い氷”を踏んでいる感覚を思い出した。
ヒストリアの袖に触れかけた手。
ジャンの「変わったな」の切れ方。
どれも、言葉にならないものを抱えたままの仕草だ。
自分も同じだ。
変わらないふりをしている。
変わらないように凍らせている。
それでも、時間は勝手に進む。
補給の動きが早くなる。
兵士の顔つきが硬くなる。
“外へ行く”という現実が、毎日少しずつ近づいていた。
*
灯りが落ちるころ。
寝息が増える。
それでも眠りは、すぐには来なかった。
オリアナは天井を見ていた。
眠れば夢が来る。
選べない。止められない。
ただ、朝になると分かる。
何かが通り過ぎたあとだけが残る。
胸の奥に、触れられた痕みたいな痛み。
言葉の形を持たない感情。
(……外へ行く)
ヒストリアの声が、遅れて胸に落ちる。
女王としての声。
その直後に重なった、ただの友人の声。
——気をつけてね。
その温度だけが、凍った胸の奥を小さく叩いた。
(……変わらないものがある)
頼りすぎれば、崩れる。
捨てきれば、壊れる。
オリアナは目を閉じた。
*
目が覚めたとき、身体だけが重かった。
眠ったはずなのに、どこも休まっていない。
喉が乾いている。肩がわずかに軋む。
何かを見ていた気がする。
けれど、形は思い出せない。
ただ、胸の奥に冷たい余韻だけが残っていた。
兵団のジャケットを羽織り、廊下へ出る。
足取りはいつも通り。呼吸も整っている。
それでも身体のどこかが、まだ夜の中にある。
*
朝の食堂は、すでに人の気配で満ちていた。
焼けたパンの匂い。
湯気の立つ器。
低く交わされる声。
その奥で、少しだけ明るい声が聞こえた。
サシャだった。
パンを片手に、向かいの兵士と何か言葉を交わしている。
小さく笑う。
声は抑えているのに、どこか弾む調子だけが浮いていた。
視線が合う。
「あ、オリアナ」
パンを持ったまま、こちらへ歩いてくる。
「おはようございます。……あの」
少し言いにくそうに眉を寄せる。
「昨晩、うなされてましたよ」
一瞬、意味が分からない。
「……うなされて?」
「はい。なんか……戦ってるみたいな声で」
言葉を選ぶように、そっと付け足す。
背中の奥がひやりとした。
(……覚えてない)
指先に、わずかに力が入る。
「……そう」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
反射みたいに答える。
サシャはそれ以上踏み込まなかった。
代わりに、手にしていたパンを少し持ち上げる。
「……ちゃんと食べないと、もちませんからね」
小さく笑う。
すぐに「じゃあ」と軽く頭を下げて、自分の席へ戻っていった。
周囲のざわめきがまた元に戻る。
器の触れ合う音。
かすかな話し声。
オリアナは立ったまま、しばらく動かなかった。
胸の奥に残った“触れられた感触”だけが、静かに消えずにいた。
やがて食堂の空気がわずかに変わる。
入口のほうで人の流れが止まり、誰かの名が低く呼ばれた。
ざわめきが小さく波のように広がる。
伝令兵だった。
紙束を抱え、名前を確かめながら何人かに声をかけている。
呼ばれた兵は短く返事をし、その場で何かを告げられていた。
補充。
再編。
配置転換。
断片的な言葉だけが耳に入る。
オリアナは視線を落とす。
自分とは関係のない話だと思った。
だが次の瞬間。
「……オリアナ・シュトルツ」
名前を呼ばれた。
顔を上げる。
伝令兵が一歩近づく。
「後ほど、本部へ出頭せよとのことです」
理由は告げられない。
時間だけが簡潔に伝えられる。
それだけ言うと、伝令はすぐ次の名を呼びに去っていった。
ざわめきが元に戻る。
食堂の音。
器の触れ合う音。
誰かの小さな笑い声。
オリアナはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
本部。
理由のない呼び出し。
再編の噂。
胸の奥の氷が、わずかに軋む。
(……また、何かが動く)
それだけ理解して、思考を止める。
考えすぎない。
決まる前に揺れない。
オリアナは静かに踵を返した。
まだ知らない方向へ向かうみたいに。
…To be continued
季節の外側
ひと月が過ぎた。時間は何も癒さない。
ただ、痛みの輪郭を少しだけ鈍らせる。
兵舎の空気は落ち着きを取り戻したように見える。
廊下にはいつもの足音が戻り、整備の音が響き、食堂には湯気が立つ。
けれど夜になると、もういない名前を呼ぶ声や、うなされる息遣いがどこかで聞こえた。
失われたものだけが、静かに増えていく。
オリアナは、変わらず凍らせたままだった。
思い出す前に動く。
考える前に整える。
呼吸の深さを一定に保つ。
揺れたら、割れる。
割れたら、立っていられない。
だから今日も、同じ顔で起きた。
同じ手順で服を着て、廊下へ出る。
ただ一つ違うのは——向かう場所だけだった。
王政庁舎への招集。
伝令の言葉はそれだけだった。
理由も要件も告げられない。
それでも、この呼び出しが日常の延長ではないことは分かる。
王の名が変わった。
クリスタと呼ばれていた少女は、いまはヒストリア・レイスとして王座にある。
あの日から、顔を合わせる機会はなかった。
彼女はもう、簡単に会える場所にはいない。
オリアナは歩きながら指先に力を入れる。
薄く張った氷の上を踏み抜かないように進むみたいに。
*
王政庁舎へ向かう途中、足取りがわずかに遅くなる。
会うだけだ。
ただ顔を見るだけ。
それなのに、胸の奥が落ち着かない。
護衛兵に案内され、静かな廊下で待たされる。
窓から差し込む光が白く床に落ちていた。
足音。
扉が開く。
——一瞬、言葉が出なかった。
そこに立っていたのは、確かに“女王”だった。
簡素な衣服。
飾り気のない姿。
それでも周囲の空気が自然と距離を作る。
だが。
「…… オリアナ」
呼ばれた瞬間、その空気がほどけた。
ヒストリアだった。
変わらない声。
変わらない呼び方。
「……ヒストリア」
名を呼ぶと、彼女は少しだけ笑った。
昔と同じ、控えめな笑い方。
胸の奥の張りつめたものが、わずかに緩む。
「久しぶり」
「……うん」
言葉はそれだけ。
沈黙が落ちる。
だが気まずさはない。
隣に立つ距離。
同じ呼吸の速さ。
それだけで十分だった。
ヒストリアが小さく息を吐く。
「みんな、変わったって言うんだ」
視線は窓の外に向いたまま。
「私も変わらなきゃって思うけど……」
言葉が途切れる。
オリアナは何も言わない。
ただ隣に立つ。
やがてヒストリアがこちらを見る。
「……でも、こうしてると少し楽」
その言葉に、胸の奥が静かに揺れる。
「私も」
短く答える。
それ以上の言葉はいらなかった。
護衛の気配が遠くで動く。
ヒストリアがわずかに声を落とした。
「壁の外に行くって、聞いた?」
「……まだ」
「もうすぐだと思う」
その言い方は、女王のそれだった。
確信に近い静けさ。
けれど次の瞬間。
「気をつけてね」
ただの友人の声に戻る。
オリアナは頷いた。
ヒストリアがふと手を伸ばし、オリアナの袖に触れかけ——
ほんのわずかに迷い、触れずに引いた。
その仕草だけで、互いに分かる。
まだ完全には立ち直っていない。
それでも前に進もうとしている。
「……また来て」
「うん」
扉が閉まる。
廊下に残った空気が、少しだけ温かかった。
*
庁舎を出ると、外気が思ったより硬い。
石畳の匂い。馬の蹄の音。衛兵の金具の擦れる音。
現実に戻される。
戻されたくせに、胸の奥のどこかがわずかに楽だった。
呼吸ができたことが、こんなにも珍しいことになっている。
石段を下りる途中で、視線が引っかかった。
壁にもたれて腕を組んでいる人影。
兵団服。短い髪。
見慣れた輪郭なのに、どこか雰囲気が違う。
「……女王様と会ってきたのか?」
ジャンだった。
以前より声が低い。
軽口の調子が少し薄い。
オリアナは一瞬だけ迷ってから言う。
「……ヒストリアだよ」
ジャンはわずかに目を細めた。
小さく笑う。
「……だな」
それだけで、空気が少し軽くなる。
二人で並んで歩き出す。
しばらく無言。
石畳に足音だけが続く。
ジャンがぽつりと言う。
「……変わったな」
「ヒストリア?」
「いや」
そこで言葉を切る。
オリアナは横目で見る。
ジャンは前を向いたまま。
「色々だよ」
それ以上説明しない。
だが以前より静かなその背に、何かが残っているのが分かる。
オリアナも聞かない。
聞けば、何かが変わる気がした。
風が吹く。
ジャンが視線を逸らしたまま言う。
「……お前は変わんねぇな」
責める声じゃない。
確かめるみたいな声。
オリアナは答えない。
答えられない。
しばらくしてジャンが肩をすくめた。
「まぁいい」
それで終わり。
踏み込まない優しさだけが残る。
兵舎へ戻る道すがら、オリアナは何度も“薄い氷”を踏んでいる感覚を思い出した。
ヒストリアの袖に触れかけた手。
ジャンの「変わったな」の切れ方。
どれも、言葉にならないものを抱えたままの仕草だ。
自分も同じだ。
変わらないふりをしている。
変わらないように凍らせている。
それでも、時間は勝手に進む。
補給の動きが早くなる。
兵士の顔つきが硬くなる。
“外へ行く”という現実が、毎日少しずつ近づいていた。
*
灯りが落ちるころ。
寝息が増える。
それでも眠りは、すぐには来なかった。
オリアナは天井を見ていた。
眠れば夢が来る。
選べない。止められない。
ただ、朝になると分かる。
何かが通り過ぎたあとだけが残る。
胸の奥に、触れられた痕みたいな痛み。
言葉の形を持たない感情。
(……外へ行く)
ヒストリアの声が、遅れて胸に落ちる。
女王としての声。
その直後に重なった、ただの友人の声。
——気をつけてね。
その温度だけが、凍った胸の奥を小さく叩いた。
(……変わらないものがある)
頼りすぎれば、崩れる。
捨てきれば、壊れる。
オリアナは目を閉じた。
*
目が覚めたとき、身体だけが重かった。
眠ったはずなのに、どこも休まっていない。
喉が乾いている。肩がわずかに軋む。
何かを見ていた気がする。
けれど、形は思い出せない。
ただ、胸の奥に冷たい余韻だけが残っていた。
兵団のジャケットを羽織り、廊下へ出る。
足取りはいつも通り。呼吸も整っている。
それでも身体のどこかが、まだ夜の中にある。
*
朝の食堂は、すでに人の気配で満ちていた。
焼けたパンの匂い。
湯気の立つ器。
低く交わされる声。
その奥で、少しだけ明るい声が聞こえた。
サシャだった。
パンを片手に、向かいの兵士と何か言葉を交わしている。
小さく笑う。
声は抑えているのに、どこか弾む調子だけが浮いていた。
視線が合う。
「あ、オリアナ」
パンを持ったまま、こちらへ歩いてくる。
「おはようございます。……あの」
少し言いにくそうに眉を寄せる。
「昨晩、うなされてましたよ」
一瞬、意味が分からない。
「……うなされて?」
「はい。なんか……戦ってるみたいな声で」
言葉を選ぶように、そっと付け足す。
背中の奥がひやりとした。
(……覚えてない)
指先に、わずかに力が入る。
「……そう」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
反射みたいに答える。
サシャはそれ以上踏み込まなかった。
代わりに、手にしていたパンを少し持ち上げる。
「……ちゃんと食べないと、もちませんからね」
小さく笑う。
すぐに「じゃあ」と軽く頭を下げて、自分の席へ戻っていった。
周囲のざわめきがまた元に戻る。
器の触れ合う音。
かすかな話し声。
オリアナは立ったまま、しばらく動かなかった。
胸の奥に残った“触れられた感触”だけが、静かに消えずにいた。
やがて食堂の空気がわずかに変わる。
入口のほうで人の流れが止まり、誰かの名が低く呼ばれた。
ざわめきが小さく波のように広がる。
伝令兵だった。
紙束を抱え、名前を確かめながら何人かに声をかけている。
呼ばれた兵は短く返事をし、その場で何かを告げられていた。
補充。
再編。
配置転換。
断片的な言葉だけが耳に入る。
オリアナは視線を落とす。
自分とは関係のない話だと思った。
だが次の瞬間。
「……オリアナ・シュトルツ」
名前を呼ばれた。
顔を上げる。
伝令兵が一歩近づく。
「後ほど、本部へ出頭せよとのことです」
理由は告げられない。
時間だけが簡潔に伝えられる。
それだけ言うと、伝令はすぐ次の名を呼びに去っていった。
ざわめきが元に戻る。
食堂の音。
器の触れ合う音。
誰かの小さな笑い声。
オリアナはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
本部。
理由のない呼び出し。
再編の噂。
胸の奥の氷が、わずかに軋む。
(……また、何かが動く)
それだけ理解して、思考を止める。
考えすぎない。
決まる前に揺れない。
オリアナは静かに踵を返した。
まだ知らない方向へ向かうみたいに。
…To be continued