【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
第28話
時間は何も癒さない。
ただ、痛みの輪郭を少しだけ鈍らせる。
兵舎の空気は、落ち着きを取り戻したように見えた。
廊下にはいつもの足音が戻り、整備場のほうからは金属の触れ合う音が響いていた。食堂では温かい湯気が立っている。
朝になれば誰かが水を運び、夜になれば消灯を促す声が廊下を渡った。
けれど、すべてが元に戻ったわけではない。
夜になると、もういない名前を呼ぶ声が壁の向こうからかすかに聞こえることがあった。寝息に混じってうなされるような息遣いが続き、やがて誰かが小さく身を起こす。
失われたものだけが、静かに増えていく。
オリアナは、変わらず凍らせたままだった。
思い出す前に動き、考える前に身支度を整える。
呼吸の深さを一定に保つ。
揺れたら、割れる。
割れたら、立っていられない。
だから今日も、同じ顔で起きた。
同じ手順で服を着て、廊下へ出る。
ただ一つ違うのは、向かう場所だけだった。
王政庁舎への招集。
伝令の言葉はそれだけで、理由も要件も告げられなかった。それでも、この呼び出しが日常の延長ではないことは分かる。
王の名が変わった。
クリスタと呼ばれていた少女は、いまはヒストリア・レイスとして王座にある。
あの日から、顔を合わせる機会はなかった。
彼女はもう、簡単に会える場所にはいない。
オリアナは歩きながら、指先に力を入れた。
薄く張った氷の上を踏み抜かないように進むみたいに。
*
王政庁舎へ向かう途中、足取りがわずかに遅くなる。
会うだけだ。
ただ顔を見るだけ。
それなのに、体の内側が落ち着かない。
護衛兵に案内され、静かな廊下で待たされる。窓から差し込む光が、磨かれた床の上に白く落ちていた。
遠くで布の擦れる音がして、続いて足音が近づく。
扉が開く。
一瞬、言葉が出なかった。
そこに立っていたのは、確かに女王だった。
簡素な衣服。
飾り気のない姿。
それでも、彼女の周りだけ空気が少し違っていた。護衛兵は自然に一歩引き、誰も不用意には近づかない。
だが。
「……オリアナ」
呼ばれた瞬間、その空気がほどけた。
ヒストリアだった。
変わらない声。
変わらない呼び方。
「……ヒストリア」
名を呼ぶと、彼女は少しだけ笑った。
昔と同じ、控えめな笑い方だった。
張りつめていたものが、指先からわずかに抜けていく。
「久しぶり」
「……うん」
言葉はそれだけだった。
沈黙が落ちる。
だが気まずさはない。
隣に立つ距離と、同じくらいの呼吸の速さが、何も言わなくても残っていた。
ヒストリアが小さく息を吐く。
「みんな、変わったって言うんだ」
視線は窓の外に向いたままだった。
「私も変わらなきゃって思うけど……」
言葉が途切れる。
オリアナは何も言わず、ただ隣に立っていた。窓の外で風に揺れた木の影が、床の上を細く動いている。
やがてヒストリアがこちらを見る。
「……でも、こうしてると少し楽」
その言葉に、胸の奥が静かに揺れる。
「私も」
短く答える。
それ以上の言葉はいらなかった。
護衛の気配が遠くで動く。
ヒストリアがわずかに声を落とした。
「壁の外に行くって、聞いた?」
「……まだ」
「もうすぐだと思う」
その言い方は、女王のそれだった。
低く、静かで、もう誰かに守られる側の声ではない。
けれど次の瞬間。
「気をつけてね」
ただの友人の声に戻る。
オリアナは頷いた。
ヒストリアがふと手を伸ばす。
袖に触れかけた指先が、ほんのわずかに迷った。結局、その手は布に触れないまま下ろされる。
オリアナも、その手を見なかったことにした。
「……また来て」
「うん」
扉が閉まる。
廊下に残った空気が、少しだけ温かかった。
*
庁舎を出ると、外気が思ったより硬かった。
石畳の匂いが鼻を掠める。
馬の蹄の音が通りを渡り、衛兵が歩くたび、金具が小さく擦れた。
現実に戻される。
それでも、胸の奥のどこかがわずかに楽だった。さっきまでより息が深く入ることが、今はもう珍しい。
石段を下りる途中で、視線が引っかかった。
壁にもたれて腕を組んでいる人影がある。
兵団服に、短い髪。
見慣れた輪郭なのに、少しだけ雰囲気が違った。
「……女王様と会ってきたのか?」
ジャンだった。
以前より声が低い。
軽口の形は残っているのに、その調子は少し薄い。
オリアナは一瞬だけ迷ってから言う。
「……ヒストリアだよ」
ジャンはわずかに目を細めた。
それから、小さく笑う。
「……だな」
それだけで、空気が少し軽くなる。
二人で並んで歩き出す。
しばらく無言だった。
石畳に、二人分の足音だけが続く。
ジャンがぽつりと言う。
「……変わったな」
「ヒストリア?」
「いや」
そこで言葉を切る。
オリアナは横目で見る。
ジャンは前を向いたままだった。
「色々だよ」
それ以上説明しない。
以前なら、もう一言くらい余計なことを足していたかもしれない。けれどジャンは口を閉じたまま、石畳の先を見ている。
オリアナも聞かなかった。
聞けば、何かが変わる気がした。
風が吹く。
ジャンが視線を逸らしたまま言う。
「……お前は変わんねぇな」
責める声じゃない。
確かめるみたいな声だった。
オリアナは答えない。
答えられない。
しばらくして、ジャンが肩をすくめた。
「まぁいい」
それで終わりだった。
ジャンはそれ以上、何も言わない。足音だけがしばらく並んで続いた。
兵舎へ戻る道すがら、オリアナは何度も薄い氷を踏んでいる感覚を思い出した。
ヒストリアの、袖に触れかけた手。
ジャンの、「変わったな」のあとに落ちた沈黙。
どれも、言葉になる前の形のまま残っている。
自分も同じだ。
変わらないふりをしている。
変わらないように凍らせている。
それでも、時間は勝手に進む。
補給の動きが早くなり、兵士の顔つきが硬くなる。外へ行くという現実が、毎日少しずつ近づいていた。
*
灯りが落ちるころ、寝息が増えていく。
誰かが寝返りを打ち、布が小さく擦れた。
窓の外では、夜の風が壁に当たっている。
それでも眠りは、すぐには来なかった。
オリアナは天井を見ていた。
眠れば夢が来る。
選べない。止められない。
ただ、朝になると分かる。
何かが通り過ぎたあとだけが残る。
胸の奥に、触れられた痕みたいな痛みがあった。
言葉の形を持たない感情が、冷えたまま沈んでいる。
(……外へ行く)
ヒストリアの声が、遅れて胸に落ちる。
女王としての声。
その直後に重なった、ただの友人の声。
気をつけてね。
その温度だけが、凍った胸の奥を小さく叩いた。
(……変わらないものがある)
頼りすぎれば、崩れる。
捨てきれば、壊れる。
オリアナは目を閉じた。
*
目が覚めたとき、身体だけが重かった。
眠ったはずなのに、どこも休まっていない。喉が乾いていて、肩がわずかに軋む。
何かを見ていた気がする。
けれど、形は思い出せない。
ただ、冷たい余韻だけが体の内側に残っていた。
兵団のジャケットを羽織り、廊下へ出る。
足取りはいつも通りだった。
呼吸も整っている。
それでも身体のどこかが、まだ夜の中にある。
朝の食堂は、すでに人の気配で満ちていた。
焼けたパンの匂いがして、器から立つ湯気が朝の光に白く揺れている。低く交わされる声の奥で、少しだけ明るい声が聞こえた。
サシャだった。
パンを片手に、向かいの兵士と何か言葉を交わしている。小さく笑う声は抑えられているのに、どこか弾む調子だけが浮いていた。
視線が合う。
「あ、オリアナ」
パンを持ったまま、こちらへ歩いてくる。
「おはようございます。……あの」
少し言いにくそうに眉を寄せる。
「昨晩、うなされてましたよ」
一瞬、意味が分からない。
「……うなされて?」
「はい。なんか……戦ってるみたいな声で」
言葉を選ぶように、そっと付け足す。
背筋がひやりとした。
(……覚えてない)
指先に、わずかに力が入る。
「……そう」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
反射みたいに答える。
サシャは口を開きかけて、すぐに閉じた。
代わりに、手にしていたパンを少し持ち上げる。
「……ちゃんと食べないと、もちませんからね」
小さく笑う。すぐに「じゃあ」と軽く頭を下げて、自分の席へ戻っていった。
周囲のざわめきが戻ってくる。
器の触れ合う音や、低い話し声が、少しずつ耳に入り始めた。
オリアナは立ったまま、しばらく動かなかった。
胸の奥に残ったものだけが、静かに消えずにいた。
やがて、食堂の空気がわずかに変わる。
入口のほうで人の流れが止まり、誰かの名が低く呼ばれた。ざわめきが小さく波のように広がっていく。
伝令兵だった。
紙束を抱え、名前を確かめながら何人かに声をかけている。呼ばれた兵は短く返事をし、その場で何かを告げられていた。
補充や再編、配置転換といった断片的な言葉だけが耳に入る。
オリアナは視線を落とす。
自分とは関係のない話だと思った。
だが次の瞬間。
「……オリアナ・シュトルツ」
名前を呼ばれた。
顔を上げる。
伝令兵が一歩近づく。
「後ほど、本部へ出頭せよとのことです」
理由は告げられない。
時間だけが簡潔に伝えられる。
それだけ言うと、伝令はすぐ次の名を呼びに去っていった。
食堂はすぐに元の流れへ戻っていった。
誰かが笑い、器が鳴り、呼び出された名前だけがオリアナの中に残る。
オリアナはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
本部への呼び出し。
理由を告げられないこと。
さっき耳にした再編の噂。
ばらばらだったものが、体の内側でひとつの線になっていく。
胸の奥の氷が、わずかに軋む。
(……また、何かが動く)
それだけ理解して、思考を止める。
考えすぎない。
決まる前に揺れない。
オリアナは静かに踵を返した。
まだ知らない方向へ向かうみたいに。
…To be continued
季節の外側
ひと月が過ぎた。時間は何も癒さない。
ただ、痛みの輪郭を少しだけ鈍らせる。
兵舎の空気は、落ち着きを取り戻したように見えた。
廊下にはいつもの足音が戻り、整備場のほうからは金属の触れ合う音が響いていた。食堂では温かい湯気が立っている。
朝になれば誰かが水を運び、夜になれば消灯を促す声が廊下を渡った。
けれど、すべてが元に戻ったわけではない。
夜になると、もういない名前を呼ぶ声が壁の向こうからかすかに聞こえることがあった。寝息に混じってうなされるような息遣いが続き、やがて誰かが小さく身を起こす。
失われたものだけが、静かに増えていく。
オリアナは、変わらず凍らせたままだった。
思い出す前に動き、考える前に身支度を整える。
呼吸の深さを一定に保つ。
揺れたら、割れる。
割れたら、立っていられない。
だから今日も、同じ顔で起きた。
同じ手順で服を着て、廊下へ出る。
ただ一つ違うのは、向かう場所だけだった。
王政庁舎への招集。
伝令の言葉はそれだけで、理由も要件も告げられなかった。それでも、この呼び出しが日常の延長ではないことは分かる。
王の名が変わった。
クリスタと呼ばれていた少女は、いまはヒストリア・レイスとして王座にある。
あの日から、顔を合わせる機会はなかった。
彼女はもう、簡単に会える場所にはいない。
オリアナは歩きながら、指先に力を入れた。
薄く張った氷の上を踏み抜かないように進むみたいに。
*
王政庁舎へ向かう途中、足取りがわずかに遅くなる。
会うだけだ。
ただ顔を見るだけ。
それなのに、体の内側が落ち着かない。
護衛兵に案内され、静かな廊下で待たされる。窓から差し込む光が、磨かれた床の上に白く落ちていた。
遠くで布の擦れる音がして、続いて足音が近づく。
扉が開く。
一瞬、言葉が出なかった。
そこに立っていたのは、確かに女王だった。
簡素な衣服。
飾り気のない姿。
それでも、彼女の周りだけ空気が少し違っていた。護衛兵は自然に一歩引き、誰も不用意には近づかない。
だが。
「……オリアナ」
呼ばれた瞬間、その空気がほどけた。
ヒストリアだった。
変わらない声。
変わらない呼び方。
「……ヒストリア」
名を呼ぶと、彼女は少しだけ笑った。
昔と同じ、控えめな笑い方だった。
張りつめていたものが、指先からわずかに抜けていく。
「久しぶり」
「……うん」
言葉はそれだけだった。
沈黙が落ちる。
だが気まずさはない。
隣に立つ距離と、同じくらいの呼吸の速さが、何も言わなくても残っていた。
ヒストリアが小さく息を吐く。
「みんな、変わったって言うんだ」
視線は窓の外に向いたままだった。
「私も変わらなきゃって思うけど……」
言葉が途切れる。
オリアナは何も言わず、ただ隣に立っていた。窓の外で風に揺れた木の影が、床の上を細く動いている。
やがてヒストリアがこちらを見る。
「……でも、こうしてると少し楽」
その言葉に、胸の奥が静かに揺れる。
「私も」
短く答える。
それ以上の言葉はいらなかった。
護衛の気配が遠くで動く。
ヒストリアがわずかに声を落とした。
「壁の外に行くって、聞いた?」
「……まだ」
「もうすぐだと思う」
その言い方は、女王のそれだった。
低く、静かで、もう誰かに守られる側の声ではない。
けれど次の瞬間。
「気をつけてね」
ただの友人の声に戻る。
オリアナは頷いた。
ヒストリアがふと手を伸ばす。
袖に触れかけた指先が、ほんのわずかに迷った。結局、その手は布に触れないまま下ろされる。
オリアナも、その手を見なかったことにした。
「……また来て」
「うん」
扉が閉まる。
廊下に残った空気が、少しだけ温かかった。
*
庁舎を出ると、外気が思ったより硬かった。
石畳の匂いが鼻を掠める。
馬の蹄の音が通りを渡り、衛兵が歩くたび、金具が小さく擦れた。
現実に戻される。
それでも、胸の奥のどこかがわずかに楽だった。さっきまでより息が深く入ることが、今はもう珍しい。
石段を下りる途中で、視線が引っかかった。
壁にもたれて腕を組んでいる人影がある。
兵団服に、短い髪。
見慣れた輪郭なのに、少しだけ雰囲気が違った。
「……女王様と会ってきたのか?」
ジャンだった。
以前より声が低い。
軽口の形は残っているのに、その調子は少し薄い。
オリアナは一瞬だけ迷ってから言う。
「……ヒストリアだよ」
ジャンはわずかに目を細めた。
それから、小さく笑う。
「……だな」
それだけで、空気が少し軽くなる。
二人で並んで歩き出す。
しばらく無言だった。
石畳に、二人分の足音だけが続く。
ジャンがぽつりと言う。
「……変わったな」
「ヒストリア?」
「いや」
そこで言葉を切る。
オリアナは横目で見る。
ジャンは前を向いたままだった。
「色々だよ」
それ以上説明しない。
以前なら、もう一言くらい余計なことを足していたかもしれない。けれどジャンは口を閉じたまま、石畳の先を見ている。
オリアナも聞かなかった。
聞けば、何かが変わる気がした。
風が吹く。
ジャンが視線を逸らしたまま言う。
「……お前は変わんねぇな」
責める声じゃない。
確かめるみたいな声だった。
オリアナは答えない。
答えられない。
しばらくして、ジャンが肩をすくめた。
「まぁいい」
それで終わりだった。
ジャンはそれ以上、何も言わない。足音だけがしばらく並んで続いた。
兵舎へ戻る道すがら、オリアナは何度も薄い氷を踏んでいる感覚を思い出した。
ヒストリアの、袖に触れかけた手。
ジャンの、「変わったな」のあとに落ちた沈黙。
どれも、言葉になる前の形のまま残っている。
自分も同じだ。
変わらないふりをしている。
変わらないように凍らせている。
それでも、時間は勝手に進む。
補給の動きが早くなり、兵士の顔つきが硬くなる。外へ行くという現実が、毎日少しずつ近づいていた。
*
灯りが落ちるころ、寝息が増えていく。
誰かが寝返りを打ち、布が小さく擦れた。
窓の外では、夜の風が壁に当たっている。
それでも眠りは、すぐには来なかった。
オリアナは天井を見ていた。
眠れば夢が来る。
選べない。止められない。
ただ、朝になると分かる。
何かが通り過ぎたあとだけが残る。
胸の奥に、触れられた痕みたいな痛みがあった。
言葉の形を持たない感情が、冷えたまま沈んでいる。
(……外へ行く)
ヒストリアの声が、遅れて胸に落ちる。
女王としての声。
その直後に重なった、ただの友人の声。
気をつけてね。
その温度だけが、凍った胸の奥を小さく叩いた。
(……変わらないものがある)
頼りすぎれば、崩れる。
捨てきれば、壊れる。
オリアナは目を閉じた。
*
目が覚めたとき、身体だけが重かった。
眠ったはずなのに、どこも休まっていない。喉が乾いていて、肩がわずかに軋む。
何かを見ていた気がする。
けれど、形は思い出せない。
ただ、冷たい余韻だけが体の内側に残っていた。
兵団のジャケットを羽織り、廊下へ出る。
足取りはいつも通りだった。
呼吸も整っている。
それでも身体のどこかが、まだ夜の中にある。
朝の食堂は、すでに人の気配で満ちていた。
焼けたパンの匂いがして、器から立つ湯気が朝の光に白く揺れている。低く交わされる声の奥で、少しだけ明るい声が聞こえた。
サシャだった。
パンを片手に、向かいの兵士と何か言葉を交わしている。小さく笑う声は抑えられているのに、どこか弾む調子だけが浮いていた。
視線が合う。
「あ、オリアナ」
パンを持ったまま、こちらへ歩いてくる。
「おはようございます。……あの」
少し言いにくそうに眉を寄せる。
「昨晩、うなされてましたよ」
一瞬、意味が分からない。
「……うなされて?」
「はい。なんか……戦ってるみたいな声で」
言葉を選ぶように、そっと付け足す。
背筋がひやりとした。
(……覚えてない)
指先に、わずかに力が入る。
「……そう」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
反射みたいに答える。
サシャは口を開きかけて、すぐに閉じた。
代わりに、手にしていたパンを少し持ち上げる。
「……ちゃんと食べないと、もちませんからね」
小さく笑う。すぐに「じゃあ」と軽く頭を下げて、自分の席へ戻っていった。
周囲のざわめきが戻ってくる。
器の触れ合う音や、低い話し声が、少しずつ耳に入り始めた。
オリアナは立ったまま、しばらく動かなかった。
胸の奥に残ったものだけが、静かに消えずにいた。
やがて、食堂の空気がわずかに変わる。
入口のほうで人の流れが止まり、誰かの名が低く呼ばれた。ざわめきが小さく波のように広がっていく。
伝令兵だった。
紙束を抱え、名前を確かめながら何人かに声をかけている。呼ばれた兵は短く返事をし、その場で何かを告げられていた。
補充や再編、配置転換といった断片的な言葉だけが耳に入る。
オリアナは視線を落とす。
自分とは関係のない話だと思った。
だが次の瞬間。
「……オリアナ・シュトルツ」
名前を呼ばれた。
顔を上げる。
伝令兵が一歩近づく。
「後ほど、本部へ出頭せよとのことです」
理由は告げられない。
時間だけが簡潔に伝えられる。
それだけ言うと、伝令はすぐ次の名を呼びに去っていった。
食堂はすぐに元の流れへ戻っていった。
誰かが笑い、器が鳴り、呼び出された名前だけがオリアナの中に残る。
オリアナはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
本部への呼び出し。
理由を告げられないこと。
さっき耳にした再編の噂。
ばらばらだったものが、体の内側でひとつの線になっていく。
胸の奥の氷が、わずかに軋む。
(……また、何かが動く)
それだけ理解して、思考を止める。
考えすぎない。
決まる前に揺れない。
オリアナは静かに踵を返した。
まだ知らない方向へ向かうみたいに。
…To be continued