【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第27話
窓の外は薄い灰色だった。
兵舎の廊下だけがやけに明るい。
血と馬の汗と鉄の匂いが、
洗っても落ちない泥みたいに染みついている。
オリアナは顔を洗った。
冷たい水が頬を打つ。
指で目の下をなぞると、皮膚が少し熱い。
昨夜の痕が、まだ残っている。
鏡の中の自分は、何もない顔をしていた。
泣いた痕はあるのに、泣いた記憶が薄い。
胸の奥だけが、濡れたまま固まっている。
(……今日も、兵士でいる)
そう決める。
決めるというより、命令する。
ボタンを上まで留める。
兵団のジャケットを羽織る。
ブーツの紐をきつく引く。
それだけで、まだ立っていられた。
*
廊下の角を曲がったところで、足が止まった。
壁際に、ひとり座っている。
膝を抱え、背中を丸めている。
朝の光が当たっているのに、影が濃い。
喉の奥まで、昔の呼び名が上がってくる。
「……ク──」
音になる直前で、飲み込む。
ほんのわずかに息を整えてから、言い直す。
「……ヒストリア」
相手の肩が小さく揺れた。
ゆっくり顔が上がる。目が赤い。
「……うん」
返事は小さかった。
けれど、その一言だけで空気がわずかに緩む。
言葉は続かない。
慰めもない。
それでも、息は少しだけ楽だった。
短い沈黙が落ちる。
ヒストリアの視線が一度だけ揺れ、すぐに伏せられる。
オリアナも、それ以上は踏み込まない。
ただ隣に立つ。
それだけでよかった。
(……ユミルのことは言わない)
言葉にした瞬間、何かが崩れる気がした。
彼女も、自分も。
だから触れない。
まだ触れられない。
静かな廊下に、二人の呼吸だけが重なっていた。
「……おい」
低い声が、廊下の奥から近づいてきた。
ジャンだった。
ヒストリアの肩がわずかに強張る。
それからオリアナを見る。
言葉にしないまま、ほんの一瞬だけ視線が揺れた。
「……私、行くね」
小さく言って立ち上がる。
オリアナにだけ軽く頷き、足音を立てないように廊下の奥へ消えていった。
残された空気が、少しだけ重くなる。
ジャンが目の前で止まった。
一度だけ顔を見て、視線がすぐ目元に落ちる。
赤い。わずかに腫れている。
ジャンは何も言わない。
見たことを、そのまま胸の奥にしまうみたいに。
オリアナが先に口を開いた。
「……昨日は」
声が少し掠れる。
「嫌な言い方して、ごめん……」
それだけだった。
言い訳も理由もない。
ジャンの眉が動いた。
怒りではなく、戸惑いに近い表情。
「……別に」
短く言って、息を吐く。
少し視線を外したまま、小さく続けた。
「……謝るタイプじゃねぇだろ、お前」
返事はない。
沈黙だけが落ちる。
ジャンはそれ以上触れず、ポケットを探った。
取り出した封筒は、角が少し丸くなっている。
「これ。お前宛て」
「……?」
「預かってた。渡しそびれてた」
封筒の表に、拙い文字。
——ルーカス・シュトルツ。
ジャンが読み上げて、わずかに首を傾げる。
「弟か?」
「……うん」
胸の奥で、小さく何かが沈んだ。
冷えた水の底に石が落ちるみたいに。
ジャンはすぐには手を離さない。
封筒を差し出したまま、少しだけ迷う。
「……読めよ」
命令じゃない。
背中を押す声だった。
オリアナは受け取る。
紙の感触だけが、やけに現実を引き戻す。
「……ありがとう」
ジャンは頷いた。
それ以上は何も言わなかった。
*
食堂の匂いが、やけに濃い。
煮込みの湯気。油の熱。焼けたパン。
温かいはずなのに、どれも遠い。
スプーンを持ったまま、手が止まる。
口まで運ぶ距離が、妙に長い。
腹は鳴らない。
喉だけが乾いている。
パンをちぎる指先だけが動く。
ちぎれた欠片が、皿の上に落ちる。
金属が触れ合う小さな音。
その瞬間、視界がわずかに揺れた。
熱。
衝撃。
何かが叫ぶ声。
息が浅くなる。
オリアナは一度、目を閉じた。
(……動け)
それだけ言う。
パンを口に入れる。
噛む。
味は分からない。
封筒は、まだ開けない。
指先で触れれば、そこだけが温かい。
いまは、触れない。
*
午後の光が傾くにつれて、兵舎の空気がざわめき始めた。
廊下を行き来する足音。
呼び合う声。
運ばれていく装備の匂い。
食堂の隅で水を飲んでいたオリアナは、入口のざわめきに顔を上げた。
ミカサが、エレンとアルミンのそばにいる。
一瞬だけ、目が合う。
言葉はない。
ただ、確かめるみたいな視線。
時間が薄くなる。
オリアナは反射で視線を落とした。
喉の奥が、わずかに固くなる。
それ以上、見ない。
そのとき、隣に気配が立った。
「……聞いたか?」
ジャンだった。
「……何を」
「リヴァイ兵長の班。決まった」
オリアナの指が、コップの縁を強く押さえる。
「エレン、ミカサ、アルミン、サシャ、コニー、俺。……それと、ヒストリア」
言葉が胸に落ちる。
息が、少しだけ通る。
「……そうなんだ」
それだけ返す。
ジャンが一瞬こちらを見る。
何か言いかけて、やめる。
「……明日には出るらしい。
ここ離れて、しばらく身を隠すってさ」
「……うん」
遠くへ行く。
それだけで、胸の奥の張りがわずかに緩む。
ジャンが視線を逸らしたまま言った。
「……お前も、ちゃんと食えよ」
ぶっきらぼうな声。
オリアナは頷いた。
それで十分だった。
*
夜。灯りは弱い。
誰かの寝息が重なって、部屋の空気がぬるい。
オリアナはベッドに腰を下ろし、制服の内側から封筒を出した。
指先が、少し遅れて震える。
しばらく見てから、封を切った。
紙の擦れる音。
中の便箋は一枚だけだった。
文字は大きく、ところどころ歪んでいる。
——姉さんへ
その一行で、胸の奥がきゅっと縮んだ。
姉さんへ
ぼくは元気です。
姉さんはちゃんとごはん食べてますか。
村はしずかです。
このまえ川で魚がとれました。
ぼくは強くなります。
だから、姉さんも帰ってきてください。
ルカ
読み終えても、しばらく視線が動かなかった。
紙の上に、指を置く。
まだ乾ききっていないみたいな温度がある。
食卓の音。
小さな足音。
呼ばれる声。
遠いはずのものが、すぐ近くにある。
便箋をそっと折る。
折り目を指でなぞる。
破れないように、慎重に。
封筒を枕の下へ入れると、そこだけがわずかに温かい。
目を閉じる。
胸の奥の冷たさは、まだ消えない。
それでも、便箋の温かさだけが残っていた。
消さないように。
オリアナは静かに呼吸を整えた。
夜は深く、凍ったまま朝へ向かっていく。
…To be continued
凍結の朝
朝は、何事もなかったように来た。窓の外は薄い灰色だった。
兵舎の廊下だけがやけに明るい。
血と馬の汗と鉄の匂いが、
洗っても落ちない泥みたいに染みついている。
オリアナは顔を洗った。
冷たい水が頬を打つ。
指で目の下をなぞると、皮膚が少し熱い。
昨夜の痕が、まだ残っている。
鏡の中の自分は、何もない顔をしていた。
泣いた痕はあるのに、泣いた記憶が薄い。
胸の奥だけが、濡れたまま固まっている。
(……今日も、兵士でいる)
そう決める。
決めるというより、命令する。
ボタンを上まで留める。
兵団のジャケットを羽織る。
ブーツの紐をきつく引く。
それだけで、まだ立っていられた。
*
廊下の角を曲がったところで、足が止まった。
壁際に、ひとり座っている。
膝を抱え、背中を丸めている。
朝の光が当たっているのに、影が濃い。
喉の奥まで、昔の呼び名が上がってくる。
「……ク──」
音になる直前で、飲み込む。
ほんのわずかに息を整えてから、言い直す。
「……ヒストリア」
相手の肩が小さく揺れた。
ゆっくり顔が上がる。目が赤い。
「……うん」
返事は小さかった。
けれど、その一言だけで空気がわずかに緩む。
言葉は続かない。
慰めもない。
それでも、息は少しだけ楽だった。
短い沈黙が落ちる。
ヒストリアの視線が一度だけ揺れ、すぐに伏せられる。
オリアナも、それ以上は踏み込まない。
ただ隣に立つ。
それだけでよかった。
(……ユミルのことは言わない)
言葉にした瞬間、何かが崩れる気がした。
彼女も、自分も。
だから触れない。
まだ触れられない。
静かな廊下に、二人の呼吸だけが重なっていた。
「……おい」
低い声が、廊下の奥から近づいてきた。
ジャンだった。
ヒストリアの肩がわずかに強張る。
それからオリアナを見る。
言葉にしないまま、ほんの一瞬だけ視線が揺れた。
「……私、行くね」
小さく言って立ち上がる。
オリアナにだけ軽く頷き、足音を立てないように廊下の奥へ消えていった。
残された空気が、少しだけ重くなる。
ジャンが目の前で止まった。
一度だけ顔を見て、視線がすぐ目元に落ちる。
赤い。わずかに腫れている。
ジャンは何も言わない。
見たことを、そのまま胸の奥にしまうみたいに。
オリアナが先に口を開いた。
「……昨日は」
声が少し掠れる。
「嫌な言い方して、ごめん……」
それだけだった。
言い訳も理由もない。
ジャンの眉が動いた。
怒りではなく、戸惑いに近い表情。
「……別に」
短く言って、息を吐く。
少し視線を外したまま、小さく続けた。
「……謝るタイプじゃねぇだろ、お前」
返事はない。
沈黙だけが落ちる。
ジャンはそれ以上触れず、ポケットを探った。
取り出した封筒は、角が少し丸くなっている。
「これ。お前宛て」
「……?」
「預かってた。渡しそびれてた」
封筒の表に、拙い文字。
——ルーカス・シュトルツ。
ジャンが読み上げて、わずかに首を傾げる。
「弟か?」
「……うん」
胸の奥で、小さく何かが沈んだ。
冷えた水の底に石が落ちるみたいに。
ジャンはすぐには手を離さない。
封筒を差し出したまま、少しだけ迷う。
「……読めよ」
命令じゃない。
背中を押す声だった。
オリアナは受け取る。
紙の感触だけが、やけに現実を引き戻す。
「……ありがとう」
ジャンは頷いた。
それ以上は何も言わなかった。
*
食堂の匂いが、やけに濃い。
煮込みの湯気。油の熱。焼けたパン。
温かいはずなのに、どれも遠い。
スプーンを持ったまま、手が止まる。
口まで運ぶ距離が、妙に長い。
腹は鳴らない。
喉だけが乾いている。
パンをちぎる指先だけが動く。
ちぎれた欠片が、皿の上に落ちる。
金属が触れ合う小さな音。
その瞬間、視界がわずかに揺れた。
熱。
衝撃。
何かが叫ぶ声。
息が浅くなる。
オリアナは一度、目を閉じた。
(……動け)
それだけ言う。
パンを口に入れる。
噛む。
味は分からない。
封筒は、まだ開けない。
指先で触れれば、そこだけが温かい。
いまは、触れない。
*
午後の光が傾くにつれて、兵舎の空気がざわめき始めた。
廊下を行き来する足音。
呼び合う声。
運ばれていく装備の匂い。
食堂の隅で水を飲んでいたオリアナは、入口のざわめきに顔を上げた。
ミカサが、エレンとアルミンのそばにいる。
一瞬だけ、目が合う。
言葉はない。
ただ、確かめるみたいな視線。
時間が薄くなる。
オリアナは反射で視線を落とした。
喉の奥が、わずかに固くなる。
それ以上、見ない。
そのとき、隣に気配が立った。
「……聞いたか?」
ジャンだった。
「……何を」
「リヴァイ兵長の班。決まった」
オリアナの指が、コップの縁を強く押さえる。
「エレン、ミカサ、アルミン、サシャ、コニー、俺。……それと、ヒストリア」
言葉が胸に落ちる。
息が、少しだけ通る。
「……そうなんだ」
それだけ返す。
ジャンが一瞬こちらを見る。
何か言いかけて、やめる。
「……明日には出るらしい。
ここ離れて、しばらく身を隠すってさ」
「……うん」
遠くへ行く。
それだけで、胸の奥の張りがわずかに緩む。
ジャンが視線を逸らしたまま言った。
「……お前も、ちゃんと食えよ」
ぶっきらぼうな声。
オリアナは頷いた。
それで十分だった。
*
夜。灯りは弱い。
誰かの寝息が重なって、部屋の空気がぬるい。
オリアナはベッドに腰を下ろし、制服の内側から封筒を出した。
指先が、少し遅れて震える。
しばらく見てから、封を切った。
紙の擦れる音。
中の便箋は一枚だけだった。
文字は大きく、ところどころ歪んでいる。
——姉さんへ
その一行で、胸の奥がきゅっと縮んだ。
姉さんへ
ぼくは元気です。
姉さんはちゃんとごはん食べてますか。
村はしずかです。
このまえ川で魚がとれました。
ぼくは強くなります。
だから、姉さんも帰ってきてください。
ルカ
読み終えても、しばらく視線が動かなかった。
紙の上に、指を置く。
まだ乾ききっていないみたいな温度がある。
食卓の音。
小さな足音。
呼ばれる声。
遠いはずのものが、すぐ近くにある。
便箋をそっと折る。
折り目を指でなぞる。
破れないように、慎重に。
封筒を枕の下へ入れると、そこだけがわずかに温かい。
目を閉じる。
胸の奥の冷たさは、まだ消えない。
それでも、便箋の温かさだけが残っていた。
消さないように。
オリアナは静かに呼吸を整えた。
夜は深く、凍ったまま朝へ向かっていく。
…To be continued