【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第26話
馬の汗。血の匂い。蒸気の湿り気。
それらが混ざり、兵舎の廊下にまで染み込んでいる。
オリアナは自分の手を見た。
洗ったはずなのに、まだ汚れている気がした。
(……終わってない)
取り返したのは、エレンだけだ。
ユミルは自ら去った。
そして——彼らは、消えていない。
「オリアナ」
呼ばれても、返事が少し遅れる。
遅れて声が出る。
「……はい」
周囲は騒がしいのに、どこか遠い。
自分だけ、薄い膜の向こう側に立たされている。
壁上での爆風。
巨人の群れ。
折れた隊列。
落馬の衝撃。
そして——あの声。
「頼む……誰か……お願いだ……」
あの叫びは、まだ胸の奥で反響している。
息を吸うたび、そこが軋んだ。
(考えるな)
言い聞かせる。
命令する。
そうしないと、体が止まる。
オリアナは装備置き場へ向かった。
刃を拭く。ワイヤーを巻く。皮ベルトを整える。
指先の作業だけに集中していれば、まだ立てる。
兵舎の空気は疲労で重い。
だが、重いのに——静かだった。
誰も話さない。
誰も、誰の名前も出さない。
言葉にした瞬間、崩れるから。
オリアナも同じだった。
崩れないために、何も言わない。
*
夜が更けても、身体は眠り方を思い出せなかった。
布団に入って目を閉じても、暗闇が来ない。
代わりに、白い蒸気が浮かぶ。爆風が戻る。耳が熱で塞がる。
目を開いても現実が薄い。
閉じても地獄が来る。
呼吸を数える。
一度、吸う。
二度、吐く。
数えながら、頭のどこかで分かっていた。
眠れない。
恐怖だけじゃない。
——受け取ってしまったからだ。
「誰か、僕らを見つけてくれ……」
その言葉を、オリアナは受け取ってしまった。
受け取ったくせに、何もできない。
胸が苦しくて、声が出ない。
涙も出ない。
ただ、内側のどこかが固まったまま、動かない。
(……兵士でいる)
そう決めた。
決めるしかない。
*
昼の兵舎は静かだった。
戦いの後の疲労が、空気の底に沈んでいる。
工具の音だけが響く。
金属が擦れる音。油の匂い。布の乾いた感触。
オリアナは黙々と装備を整えていた。
動きに無駄がない。
整然としている。
整いすぎている。
作業は正確なのに、そこに“人”がいない。
しばらくして。
「……お前さ」
低い声が落ちた。
ジャンだった。
オリアナは顔を上げない。
工具の向きを変え、刃の縁を拭く。
「無理すんなよ」
手が止まった。
一瞬、呼吸も止まる。
「……なにが」
平坦な声。
自分の声が、冷たく聞こえた。
ジャンの眉が寄る。苛立ちと焦りが混ざる。
「何がじゃねぇだろ」
近づいてくる気配。
それが、怖い。
「お前、あの日からずっとその顔だぞ」
沈黙。
返す言葉が見つからない。
というより——返したくない。
言葉にしたら、薄い膜が破れる。
ジャンが言う。
「泣きたいなら泣けよ」
その一言で、空気が凍った。
オリアナの肩がわずかに揺れる。
揺れたのに、顔は動かない。
「……泣く理由がない」
嘘だった。
自分でも分かるほど空虚な音。
ジャンが一歩近づく。
「理由ならあるだろ」
「お前は──」
瞬間。
「関係ない!!」
遮る声が、鋭く飛んだ。
自分の声が、刃みたいに響いてしまったことに、遅れて気づく。
気づいた瞬間、胸の奥に罪悪感が刺さる。
オリアナは振り向いた。
目だけが強い。
でも、その奥は空洞だ。
「ジャンには関係ない」
ジャンが言葉を失う。
何かを言えば壊れる、と直感した顔をする。
そして、苦く息を吐く。
「……そうかよ」
吐き捨てるように言って、踵を返しかけた。
——でも、背を向ける直前。
小さく、低く。
「……無理すんな」
その声だけは、優しかった。
ジャンが去る。
足音が遠ざかる。
オリアナは、握っていた布に力が入りすぎていることに気づいた。
指が震えている。
(……なんであんな言い方した)
心配してくれただけだ。
分かっている。
分かっているのに、弾き返した。
(……ごめん)
声にしない。
声にできない。
謝る言葉すら、今は膜を破るから。
ジャンが去ったあと、しばらくして。
静かな足音が近づいた。
静かすぎて、気づくのが遅れた。
「……オリアナ」
アルミンだった。
疲労の影が残る顔。目は冴えている。
「さっきの、聞こえちゃったんだけど」
責める声じゃない。
ただ事実を置く声。
オリアナは否定も肯定もせず、作業を続けた。
頷く代わりに、刃の汚れをもう一度拭く。
アルミンは少しだけ沈黙して、隣に立った。
無理に近づかない距離。
「君、今日……ちゃんと食べた?」
質問が唐突すぎて、返事が遅れる。
「……食べた」
多分。
記憶が曖昧だ。
アルミンはそれ以上追及しなかった。
その代わり、ぽつりと言う。
「優しいって、いいことだよ」
オリアナの手が止まる。
「優しい」という言葉が、今は痛い。
アルミンは続ける。
「でも、戦場だと……優しさは、君を壊す」
静かな声。
なのに逃げ場がない。
「君は、感じるのが早い。人の痛みに、先に触れてしまう」
「だから、今みたいに……切るしかなくなる」
胸の奥が冷える。
自分がしていることを、言い当てられる。
「切ってる間は、止まらない。でも——」
アルミンは目を伏せた。
「切り続けたら、君が君じゃなくなる」
言葉が、床に落ちる。
オリアナは何も言えない。
否定も肯定もできない。
アルミンは責めない。
慰めもしない。
ただ、こちらが気づいてしまう言葉を置いていく。
「……たぶん、君は間違えてないって思おうとしてる」
オリアナは息を呑む。
「正しい判断をして、正しい感情を持って、正しい兵士でいようとしてる」
でも——、とアルミンは言わない。
言わないのに、続きが分かってしまう。
正しさだけじゃ、耐えられない。
アルミンは一歩引いた。
「今日は、眠れそう?」
問いではなく、確認みたいな声。
オリアナは答えられなかった。
答えないことで、答えになった。
アルミンはそれ以上言わず、去った。
背中が遠ざかる。
残ったのは、言葉だけだ。
“切り続けたら、君が君じゃなくなる”
胸の奥が、じわじわと痛む。
*
その夜も、眠れなかった。
目を閉じると浮かぶ。
血。叫び。巨人。
そして——彼の声。
「だッ……誰が!!
人なんか殺したいと!!思うんだ!!」
胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。
呼吸が浅くなる。心臓が強く跳ねる。
(……やめて)
止めたいのに止まらない。
考えるな、と命令しても身体のほうが先に反応する。
彼の声。
あの震えた声。
ふいに、食堂の記憶が割り込む。
無表情で歩くアニ。
その背中を、無意識に目で追っていたベルトルト。
すぐ逸らされた視線。曖昧な咳払い。
——あの時の違和感。
胸の奥に残っていた、理由の分からないざわめき。
(……そうか)
今になって分かる。
あの視線には、理由があった。
ただ見ていただけじゃない。
気にかけるような、確かめるような——
目を離せない人を見る目だった。
“女型の巨人はアニだった”。
その事実が、記憶の中の光景と重なる。
同じ側の人間だったから。
仲間だったから。
——あるいは、それ以上だったのかもしれない。
確かめようはない。
もう、確かめられない。
それでも一つだけ、静かに理解してしまう。
(私は──)
最初から、彼の視線の先にはいなかった。
その事実が、胸の奥にゆっくり沈んだ。
痛みはあるのに、怒りにはならない。
ただ重く、底へ沈んでいく。
なのに。
浮かぶのは、やっぱり彼の顔だった。
どうして。
どうして、こんなに苦しいのか。
どうして、呼吸ができないのか。
どうして、あの声が離れないのか。
(……なんで)
答えを探そうとした、その瞬間だった。
——理性が、切れた。
理由もなく、涙が溢れた。
音もなく。
声もなく。
ただ頬を伝って落ちていく。
呼吸が詰まる。
胸が締め付けられる。
言葉にならないまま、感情だけが押し寄せる。
止められない。
頭より先に、言葉が浮かぶ。
(あの声が)
あの声が好きだった。
優しくて、遠慮がちで、
でも必死に誰かを守ろうとする声。
(あの目が)
少し伏し目がちな、あの優しい目。
不安そうなのに、誰よりも人を気遣う目。
(あの手が)
大きな手。
雪山で差し出してくれた手。
塔で庇ってくれた背中。
次々に浮かぶ。
笑った顔。
目を逸らす癖。
名前を呼ぶ声。
隣に立つだけで、少し安心できたこと。
止まらない。
記憶が、感情が、言葉が、溢れ続ける。
胸の奥から、どうしようもない真実が押し上げられる。
(——好き)
息が止まる。
(好きだった)
言葉になった瞬間、涙がさらに溢れた。
好きだった。
ずっと。
気づかないふりをしていただけで、
とっくに、取り返しがつかないほど。
胸が痛い。
呼吸ができない。
身体が震える。
彼が敵だと分かっている。
仲間を殺したと知っている。
それでも。
それでも好きだった。
——その事実が、あまりにも重すぎた。
そのとき。
遅れて、理性が戻ってきた。
(……だめだ)
一気に血の気が引く。
このままでは壊れる。
このままでは戦えない。
このままでは仲間の前に立てない。
理解したら終わる。
感じ続けたら、自分が崩れる。
(……止めろ)
必死に命令する。
涙を拭う。
呼吸を整える。
胸の奥の言葉を押し込める。
(考えるな……)
好きだったという事実ごと。
彼の声ごと。
全部、沈める。
壊れないために。
オリアナは、目を閉じた。
暗闇の中で、まだ胸が痛む。
痛みは消えない。
消えないからこそ、分かってしまう。
恋は、消えるものじゃない。
消えないまま、
明日の朝も来てしまう。
そして自分は、また兵士の顔をしなければならない。
(……どうして、こんな)
声にならないまま、喉が震えた。
涙はもう止まった。
止まったのに、胸の奥は濡れたままだった。
眠れない夜が、ゆっくりと朝へ向かっていく。
オリアナはその気配を、ただ黙って聞いていた。
…To be continued
氷の底で知る
壁へ戻ったあとも、空気はまだ焦げたままだった。馬の汗。血の匂い。蒸気の湿り気。
それらが混ざり、兵舎の廊下にまで染み込んでいる。
オリアナは自分の手を見た。
洗ったはずなのに、まだ汚れている気がした。
(……終わってない)
取り返したのは、エレンだけだ。
ユミルは自ら去った。
そして——彼らは、消えていない。
「オリアナ」
呼ばれても、返事が少し遅れる。
遅れて声が出る。
「……はい」
周囲は騒がしいのに、どこか遠い。
自分だけ、薄い膜の向こう側に立たされている。
壁上での爆風。
巨人の群れ。
折れた隊列。
落馬の衝撃。
そして——あの声。
「頼む……誰か……お願いだ……」
あの叫びは、まだ胸の奥で反響している。
息を吸うたび、そこが軋んだ。
(考えるな)
言い聞かせる。
命令する。
そうしないと、体が止まる。
オリアナは装備置き場へ向かった。
刃を拭く。ワイヤーを巻く。皮ベルトを整える。
指先の作業だけに集中していれば、まだ立てる。
兵舎の空気は疲労で重い。
だが、重いのに——静かだった。
誰も話さない。
誰も、誰の名前も出さない。
言葉にした瞬間、崩れるから。
オリアナも同じだった。
崩れないために、何も言わない。
*
夜が更けても、身体は眠り方を思い出せなかった。
布団に入って目を閉じても、暗闇が来ない。
代わりに、白い蒸気が浮かぶ。爆風が戻る。耳が熱で塞がる。
目を開いても現実が薄い。
閉じても地獄が来る。
呼吸を数える。
一度、吸う。
二度、吐く。
数えながら、頭のどこかで分かっていた。
眠れない。
恐怖だけじゃない。
——受け取ってしまったからだ。
「誰か、僕らを見つけてくれ……」
その言葉を、オリアナは受け取ってしまった。
受け取ったくせに、何もできない。
胸が苦しくて、声が出ない。
涙も出ない。
ただ、内側のどこかが固まったまま、動かない。
(……兵士でいる)
そう決めた。
決めるしかない。
*
昼の兵舎は静かだった。
戦いの後の疲労が、空気の底に沈んでいる。
工具の音だけが響く。
金属が擦れる音。油の匂い。布の乾いた感触。
オリアナは黙々と装備を整えていた。
動きに無駄がない。
整然としている。
整いすぎている。
作業は正確なのに、そこに“人”がいない。
しばらくして。
「……お前さ」
低い声が落ちた。
ジャンだった。
オリアナは顔を上げない。
工具の向きを変え、刃の縁を拭く。
「無理すんなよ」
手が止まった。
一瞬、呼吸も止まる。
「……なにが」
平坦な声。
自分の声が、冷たく聞こえた。
ジャンの眉が寄る。苛立ちと焦りが混ざる。
「何がじゃねぇだろ」
近づいてくる気配。
それが、怖い。
「お前、あの日からずっとその顔だぞ」
沈黙。
返す言葉が見つからない。
というより——返したくない。
言葉にしたら、薄い膜が破れる。
ジャンが言う。
「泣きたいなら泣けよ」
その一言で、空気が凍った。
オリアナの肩がわずかに揺れる。
揺れたのに、顔は動かない。
「……泣く理由がない」
嘘だった。
自分でも分かるほど空虚な音。
ジャンが一歩近づく。
「理由ならあるだろ」
「お前は──」
瞬間。
「関係ない!!」
遮る声が、鋭く飛んだ。
自分の声が、刃みたいに響いてしまったことに、遅れて気づく。
気づいた瞬間、胸の奥に罪悪感が刺さる。
オリアナは振り向いた。
目だけが強い。
でも、その奥は空洞だ。
「ジャンには関係ない」
ジャンが言葉を失う。
何かを言えば壊れる、と直感した顔をする。
そして、苦く息を吐く。
「……そうかよ」
吐き捨てるように言って、踵を返しかけた。
——でも、背を向ける直前。
小さく、低く。
「……無理すんな」
その声だけは、優しかった。
ジャンが去る。
足音が遠ざかる。
オリアナは、握っていた布に力が入りすぎていることに気づいた。
指が震えている。
(……なんであんな言い方した)
心配してくれただけだ。
分かっている。
分かっているのに、弾き返した。
(……ごめん)
声にしない。
声にできない。
謝る言葉すら、今は膜を破るから。
ジャンが去ったあと、しばらくして。
静かな足音が近づいた。
静かすぎて、気づくのが遅れた。
「……オリアナ」
アルミンだった。
疲労の影が残る顔。目は冴えている。
「さっきの、聞こえちゃったんだけど」
責める声じゃない。
ただ事実を置く声。
オリアナは否定も肯定もせず、作業を続けた。
頷く代わりに、刃の汚れをもう一度拭く。
アルミンは少しだけ沈黙して、隣に立った。
無理に近づかない距離。
「君、今日……ちゃんと食べた?」
質問が唐突すぎて、返事が遅れる。
「……食べた」
多分。
記憶が曖昧だ。
アルミンはそれ以上追及しなかった。
その代わり、ぽつりと言う。
「優しいって、いいことだよ」
オリアナの手が止まる。
「優しい」という言葉が、今は痛い。
アルミンは続ける。
「でも、戦場だと……優しさは、君を壊す」
静かな声。
なのに逃げ場がない。
「君は、感じるのが早い。人の痛みに、先に触れてしまう」
「だから、今みたいに……切るしかなくなる」
胸の奥が冷える。
自分がしていることを、言い当てられる。
「切ってる間は、止まらない。でも——」
アルミンは目を伏せた。
「切り続けたら、君が君じゃなくなる」
言葉が、床に落ちる。
オリアナは何も言えない。
否定も肯定もできない。
アルミンは責めない。
慰めもしない。
ただ、こちらが気づいてしまう言葉を置いていく。
「……たぶん、君は間違えてないって思おうとしてる」
オリアナは息を呑む。
「正しい判断をして、正しい感情を持って、正しい兵士でいようとしてる」
でも——、とアルミンは言わない。
言わないのに、続きが分かってしまう。
正しさだけじゃ、耐えられない。
アルミンは一歩引いた。
「今日は、眠れそう?」
問いではなく、確認みたいな声。
オリアナは答えられなかった。
答えないことで、答えになった。
アルミンはそれ以上言わず、去った。
背中が遠ざかる。
残ったのは、言葉だけだ。
“切り続けたら、君が君じゃなくなる”
胸の奥が、じわじわと痛む。
*
その夜も、眠れなかった。
目を閉じると浮かぶ。
血。叫び。巨人。
そして——彼の声。
「だッ……誰が!!
人なんか殺したいと!!思うんだ!!」
胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。
呼吸が浅くなる。心臓が強く跳ねる。
(……やめて)
止めたいのに止まらない。
考えるな、と命令しても身体のほうが先に反応する。
彼の声。
あの震えた声。
ふいに、食堂の記憶が割り込む。
無表情で歩くアニ。
その背中を、無意識に目で追っていたベルトルト。
すぐ逸らされた視線。曖昧な咳払い。
——あの時の違和感。
胸の奥に残っていた、理由の分からないざわめき。
(……そうか)
今になって分かる。
あの視線には、理由があった。
ただ見ていただけじゃない。
気にかけるような、確かめるような——
目を離せない人を見る目だった。
“女型の巨人はアニだった”。
その事実が、記憶の中の光景と重なる。
同じ側の人間だったから。
仲間だったから。
——あるいは、それ以上だったのかもしれない。
確かめようはない。
もう、確かめられない。
それでも一つだけ、静かに理解してしまう。
(私は──)
最初から、彼の視線の先にはいなかった。
その事実が、胸の奥にゆっくり沈んだ。
痛みはあるのに、怒りにはならない。
ただ重く、底へ沈んでいく。
なのに。
浮かぶのは、やっぱり彼の顔だった。
どうして。
どうして、こんなに苦しいのか。
どうして、呼吸ができないのか。
どうして、あの声が離れないのか。
(……なんで)
答えを探そうとした、その瞬間だった。
——理性が、切れた。
理由もなく、涙が溢れた。
音もなく。
声もなく。
ただ頬を伝って落ちていく。
呼吸が詰まる。
胸が締め付けられる。
言葉にならないまま、感情だけが押し寄せる。
止められない。
頭より先に、言葉が浮かぶ。
(あの声が)
あの声が好きだった。
優しくて、遠慮がちで、
でも必死に誰かを守ろうとする声。
(あの目が)
少し伏し目がちな、あの優しい目。
不安そうなのに、誰よりも人を気遣う目。
(あの手が)
大きな手。
雪山で差し出してくれた手。
塔で庇ってくれた背中。
次々に浮かぶ。
笑った顔。
目を逸らす癖。
名前を呼ぶ声。
隣に立つだけで、少し安心できたこと。
止まらない。
記憶が、感情が、言葉が、溢れ続ける。
胸の奥から、どうしようもない真実が押し上げられる。
(——好き)
息が止まる。
(好きだった)
言葉になった瞬間、涙がさらに溢れた。
好きだった。
ずっと。
気づかないふりをしていただけで、
とっくに、取り返しがつかないほど。
胸が痛い。
呼吸ができない。
身体が震える。
彼が敵だと分かっている。
仲間を殺したと知っている。
それでも。
それでも好きだった。
——その事実が、あまりにも重すぎた。
そのとき。
遅れて、理性が戻ってきた。
(……だめだ)
一気に血の気が引く。
このままでは壊れる。
このままでは戦えない。
このままでは仲間の前に立てない。
理解したら終わる。
感じ続けたら、自分が崩れる。
(……止めろ)
必死に命令する。
涙を拭う。
呼吸を整える。
胸の奥の言葉を押し込める。
(考えるな……)
好きだったという事実ごと。
彼の声ごと。
全部、沈める。
壊れないために。
オリアナは、目を閉じた。
暗闇の中で、まだ胸が痛む。
痛みは消えない。
消えないからこそ、分かってしまう。
恋は、消えるものじゃない。
消えないまま、
明日の朝も来てしまう。
そして自分は、また兵士の顔をしなければならない。
(……どうして、こんな)
声にならないまま、喉が震えた。
涙はもう止まった。
止まったのに、胸の奥は濡れたままだった。
眠れない夜が、ゆっくりと朝へ向かっていく。
オリアナはその気配を、ただ黙って聞いていた。
…To be continued