【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
第25話
馬の蹄が土を刻み、風を裂く音が耳の横を抜けていく。点々と上がる信煙弾は、空に細い線を引きながら、進むべき方向だけを示していた。
追っている。
追わなければならない。
それだけが、命令として身体に残っている。
オリアナは手綱を握ったまま、前だけを見ていた。
視界の端で、巨大樹の森が近づく。
幹の列が、壁のように迫ってくる。
(……エレンとユミルを取り戻す)
声にしない。
声にしたら、別の名前がこぼれる気がした。
内側は、まだひび割れたままだった。割れたところから何かが滲み出しそうで、意識を狭める。
指先に力を入れる。
手綱の革がきしむ。
それだけで、いまは十分だった。
森の入口に、巨人が数体いる。
信煙弾が連なり、隊列がわずかに揺れる。巨人の不規則な動きと、人間の規則がぶつかって、空気がざわつく。
遠く、森の奥で閃光が走った。
巨人化の光だと分かった瞬間、胸が一度、強く跳ねた。
次の瞬間、エルヴィン団長の声が森に響く。
「総員散開!!エレンを見つけ出し、奪還せよ!!」
命令は、空気を変える。索敵陣形がほどけ、兵がそれぞれの方向へ飛び出す。
森の入口で、悲鳴が上がった。
機動に不慣れな憲兵が、巨人に喰われる。
見ない。
見ると、足が止まる。
オリアナは馬を捨て、立体機動装置で木へアンカーを打った。ワイヤーが張り、身体が宙へ引き上げられる。
森の匂いが濃くなる。湿った葉と樹皮の匂いの奥に、血の匂いが混ざっていた。
(……探す)
何を。
誰を。
言葉にしないまま、森の奥へ進んだ。
森の奥から、叫び声がした。
人の声ではない。
巨人の声だった。
木々の間を抜けて、巨大な影が見えた。
枝を掴み、幹にしがみつくようにしている。
ユミルの巨人だった。
「……ユミル……!」
クリスタの声が、すぐ近くで響いた。
振り向くと、クリスタが木から木へ飛んでいる。
顔が白い。必死に、笑おうとしている。
「ユミル!!よかった……無事だったんだね!?」
その瞬間だった。
ユミルの巨人が、口を開いた。
あまりにも自然に。
躊躇も迷いもなく。
ぱくり、と。
クリスタの身体が、巨人の口に消える。
世界が一秒止まった。
「——っ」
喉の奥で息が詰まる。
意味が結ばれない。
あの子が喰われた?
いま?
目の前で?
「クリスタ!!」
誰かの叫びが重なる。
ワイヤーの音が一斉に鳴り、兵が追いすがる。
オリアナも身体が勝手に動いた。
考える前に。
命令より早く。
でも、心が追いつかない。
(……ユミルが)
味方が。
いつも一緒にいた友達が。
言葉が形になる前に、ユミルの巨人が木々を抜け、森の外へ向かって跳躍した。
追うしかない。
森を抜けた先は、草原だった。
風が強い。
視界が開ける。
そこで見えたのは、草原を走り去る鎧の巨人の後ろ姿だった。
その肩に、エレンがいる。
そして、もう一つ。
ユミルの巨人が、丸まるようにして背負われていた。
その上、鎧の肩にしがみつく人影。
立体機動装置をつけた、人の形。
(……ベルトルト)
内側が、またひび割れる。
割れ目から、息が漏れそうになる。
背後からハンネスの声が飛んだ。
「止まるな!!馬を使って追うぞ!!」
散開していた兵が、馬へ戻る。
草を裂く音が重なり、隊列が再び一本になる。
オリアナも馬に飛び乗った。
身体は追えている。
でも、心が遅れてくる。
本当に、ベルトルトなのか。
見間違いじゃないのか。
あの時の爆風と蒸気の中で、見えたものは。
否定のための言葉が浮かぶ前に、現実が速度で迫ってくる。
ジャンの声が後ろから聞こえた。
「追いつけない速度じゃない!間に合うぞ!」
ミカサが前の方で言った。
声が冷たい。
「今度は……躊躇うことなく奴らを、必ず殺す」
その言葉が、胸の奥を刺した。
「私たちの邪魔をするなら……ユミルもその例外じゃない」
息が詰まる。
例外じゃない。
そうだ。
敵は敵。
取り返す。奪い返す。
それだけ。
分かっているのに。
“例外じゃない”と断言されると、何かが壊れそうになる。
射程圏内に入った。
立体機動装置の音が一斉に鳴る。
兵が空へ飛び、鎧の体へアンカーを打ち込む。
風が頬を切る。
心臓が喉に近い。
鎧へ近づくほど、視線が勝手に上を探す。
肩。
その上の、人影。
ベルトルトはエレンを背負うようにしていた。
必死にしがみつき、前を向いている。
その姿が、知らないものに見える。
知らないのに、知っている。
雪山の訓練。
補給倉庫。
古城の夜。
壁の上で手を掴んだ感触。
全部が、同じ人の輪郭に重なってしまう。
「——っ」
呼吸が浅くなる。
息が続かない。
ユミルの巨人が、飛んできた兵のワイヤーを掴み、乱暴に引き剥がした。兵が地面に落下する。
ミカサが迷わずユミルの巨人の目を斬った。
ユミルの巨人が絶叫し、身をよじる。
ミカサはすぐ体勢を変え、鎧の肩へ飛ぶ。
ベルトルトへ。
刃が、届く。
その直前。
「ライナー!!守ってくれ!!」
ベルトルトの声が割れた。
鎧の手が、ベルトルトとエレンを包む。
刃が弾かれ、火花のように光る。
ユミルの巨人がミカサに腕を振り下ろす。
ミカサは避けながら、再び斬りかかろうとした。
その前に、クリスタが飛び出した。
喰われたはずなのに、そこにいる。
「待ってミカサ!!」
クリスタはユミルを庇うように、手を伸ばした。
声が震えている。
「ユミルを殺さないで!!」
「……それはユミル次第でしょ!?どうする!?私は邪魔する者を殺すだけ!」
ミカサの声に焦りが滲む。
それでもクリスタは必死に叫ぶ。ライナーたちに従わないとユミルが殺されると。
そこへ、ジャン、コニー、アルミンが飛び込む。
オリアナもワイヤーを射出し、鎧の体に飛び乗った。
叫びが重なる。
「ベルトルト……返して!」
「なぁ嘘だろベルトルト?ライナー?今までずっと……俺たちのことを騙してたのかよ……」
「全部嘘だったのかよ……!?」
オリアナは、声が出なかった。
名前を呼ぶなら、きっと出る。
でも、それは許されない気がした。
喉の奥で言葉が押し込まれたまま、目だけが、鎧の手を見ている。
「なぁ!?お前ら……お前らは、今まで何考えてたんだ!?」
コニーの声は怒りというより、崩れそうな悲鳴に近かった。
「そんなの、分からなくてもいい」
ミカサが冷たく吐き捨てる。
「こいつの首を刎ねることだけに集中して。一瞬でも躊躇すれば、もうエレンは取り返せない」
声は冷たいまま揺れない。
殺気のこもった、刃のように鋭い。
「こいつらは、人類の害。それで十分」
“人類の害”。
オリアナは、そこで初めて自分の心臓の音を聞いた。
早い。
痛い。
息を吸っても吸っても足りない。
鎧の掌に隠れて、姿は見えない。
それでも、言葉になる前の沈黙だけが伝わってきた。空気が、ほんの少し重くなる。
知っている気がした。
怖い時や、耐える時。
言葉を飲み込む時の、あの気配。
けれど、違う。
これは、耐えるための沈黙じゃない。
その沈黙を裂くように、ベルトルトが叫んだ。
「だッ……誰が!!人なんか殺したいと!!思うんだ!!」
その瞬間、オリアナの呼吸が止まった。
音が遠のく。
視界が一度、狭くなる。
蓋をしていたものに、ひびが入る。
いや。もう入っていた。
そこを、今、こじ開けられたような気がした。
「誰が好きでこんなこと!!こんなことをしたいと思うんだよ!!」
心臓が、強く跳ねる。
彼の本心に触れた気がした。
触れてはいけないところに、触れてしまった。
「人から恨まれて、殺されても当然のことをした!!取り返しのつかないことを……!!」
不意に、ユミルの言葉が過った。
訓練兵時代の、何気ない会話。
「あいつ、なんか抱えてる顔してるだろ」
ずっと、彼に感じていた影。
「……怖いよ、時々」
ベルトルトとした、あの夜の会話。
どこか遠い目をして、寂しそうにしていた。
古城で感じたあの違和感。
「あの時の……」という声。
壁の上で見た、青い顔。
点だったものが、勝手に繋がる。
「でも……僕らは罪を受け入れきれなかった……。兵士を演じてる間だけは……少しだけ楽だった……」
息が詰まる。
苦しさが、伝わってくる。
言葉が、血の塊みたいに重い。
「確かにみんな騙した……。けど、すべてが嘘じゃない!!」
嘘じゃない。
その言葉を、信じたいと思ってしまう。
信じたら、全てが壊れるのに。
思い出が、勝手に蘇る。
塔で、引き寄せられた腕。
補給倉庫で、静かに目を合わせた瞬間。
雪山で、何も言わず隣にいた背。
「本当に仲間だと思ってたよ!!」
救いの言葉みたいに聞こえてしまう。
本当だとしたら。
あの優しい目も。
あの大きな手も。
守ってくれたことも。
全部が、嘘じゃないのだとしたら。
オリアナの中で、何かが崩れる。
ベルトルトの声が震える。
「僕らに……謝る資格なんてあるわけない……。
けど……誰か……」
剣を握る手が震えた。
呼吸が浅くなる。息が足りない。
「頼む……誰か……お願いだ……」
声が、胸を締めつける。
涙が出るわけじゃない。
怒りが湧くわけでもない。
ただ、苦しい。
「誰か、僕らを見つけてくれ……」
その一言で、胸の奥の何かが、勝手にほどけた。
理解したい。
分かりたい。
今すぐ、あの声の方へ行きたい。
激しい衝動が体を駆け抜ける。
——やめろ……!!
理性が叫ぶ。
許すな、と別の声が噛みつく。
それを理解したら、
ナナバは。
マルコは。
あの夜に消えたものは、どうなる。
「許せない」と断じるための言葉が追いつく前に、「分かってしまう」が先に立ち上がってしまう。
心が裂ける。
声が出ない。
名前だけでも呼びたいのに、喉が動かない。
(……息が……)
息が、足りない。
「ベルトルト。エレンを返して」
ミカサの声が落ちる。
その声は静かだが、迷いがない。
ベルトルトは一瞬だけ顔を歪め、すぐに言った。
掠れた声で。
「……駄目だ。できない」
そして、どこか自分に言い聞かせるみたいに続けた。
「誰かがやらなくちゃいけないんだよ……。誰かが……自分の手を血で染めないと……」
その直後だった。
地鳴りのような足音が来た。
エルヴィン団長が、巨人の大群を引き連れて、鎧の前に向かってきている。狂気みたいな速度で、地面が揺れる。
ハンネスが叫んだ。
「お前ら!!今すぐ飛べ!!」
命令が刺さる。
考える余裕が奪われる。
外側から、無理やり現実へ引き戻される。
(——いまは動け)
オリアナは動いた。
ワイヤーを打ち、地面に飛ぶ。
馬を拾い、距離を取る。
息が乱れる。
巨人の群れが鎧に群がり、噛みつく。
巨体が大群に飲み込まれ、足が止まった。
総員突撃の号令。
兵が飛び込む。
だが巨人が多すぎて、次々にやられる。
エルヴィン団長の腕が喰われた。
血が飛ぶ。
それでも団長は叫ぶ。
「進め!!」
オリアナは、巨人を避けるのに精一杯だった。
鎧へ近づけない。
視界の端で、何かが起きているのが見えるのに、追えない。
混乱の奥で、ベルトルトが叫んだように聞こえた。風のせいか、血の鼓動のせいか。
でも、その言葉だけは耳に残った。
「悪魔の末裔が!!」
悪魔。
誰が、誰を。
意味が結ばれる前に、次の音が来た。
金属音。
切りつける影。
遠くで、エレンが落下した。
ミカサが受け止める。
その瞬間、撤退命令が落ちた。
「総員撤退!!」
命令が、世界を一つにまとめる。
オリアナは馬を走らせながら、無意識に振り返った。
遠くで、ベルトルトが宙吊りになっているのが見えた。ワイヤーが張り、身体が引かれている。
「……あ」
一瞬、目が合ったような気がした。
世界から音が消える。
それでも馬は走る。
どんどん距離は遠くなる。
突然、衝撃が地面を揺らした。
鎧が体から巨人を引き剥がし、走る隊列に向かって投げつけた。
空から巨体が落ちる衝撃で、馬が跳ねる。
兵が吹き飛ばされる。
落馬し、喰われる。
オリアナは必死に回避した。
だが次の瞬間、視界の上から影が落ちた。
巨人だった。
落下の衝撃が地面を叩き、馬が崩れた。
オリアナも投げ出される。
背中が地面に当たり、息が抜けた。
痛みが遅れて走る。
顔を上げると、巨人がこちらに向かってくる。
(……まずい)
身体が起き上がらない。
足が言うことを聞かない。
死を覚悟しかけた、その時。
巨人たちの動きが変わった。
全ての巨人が、別の一体へ向かって走り出す。
まるで、呼ばれたみたいに。
(……なに)
理由を考える前に、動ける兵が一斉に馬へ戻る。
遠くで、叫びが響いた。
エレンの声。
巨人たちが、今度は鎧の方へ流れていく。
エルヴィン団長の声が追い打ちをかけた。
「この機を逃すな!撤退せよ!!」
走る。
走るしかない。
オリアナは馬に引き上げられ、痛む身体のまま手綱を握った。
視界が揺れる。息が苦しい。
ふと、振り返りたくなる。
振り返ったら、終わる気がした。
でも、視界の端で見えてしまった。
巨人が群がっている。
悲鳴が聞こえた気がした。
風のせいかもしれない。
でも、確かに胸が反応した。
そして。
ユミルの巨人が、クリスタの前に立っていた。
何か言葉を交わしたように見えた。
クリスタは真顔のまま、目だけが揺れていた。
次の瞬間、ユミルの巨人は、鎧の方へ走っていった。
ベルトルトのいる方へ。
迷いがなかった。
体の内側が、冷たく沈む。
(……そっちへ)
ユミルが、行った。
そして自分は──
振り返る余裕もなく、走るしかなかった。
*
壁が見えた。
生き残った者だけが、そこへ戻っていく。
誰かが泣いている。
誰かが怒鳴っている。
誰かが、頭を抱え震えている。
オリアナは、ただ息をしていた。
痛みはある。でも、それよりも、胸の中がひどく騒がしい。
ベルトルトの叫びが、反復する。
「誰が人なんか殺したいと思うんだ」
「すべてが嘘じゃない」
「本当に仲間だと思ってた」
受け取ってしまった。
「誰か僕らを見つけてくれ」
受け取った時点で、もう戻れない。
理解したい衝動が、まだ指先に残っている。
手を伸ばしたい感覚が、消えない。
でも、それを許したら、自分が壊れる。
そして壊れたら、仲間を危険にする。
迷惑になる。足を引っ張る。
だから。
オリアナは息を吐いた。
吐いた息が震える。
(……閉じろ)
胸の奥にある扉を、力で押し戻すみたいに。
理解しようとする自分を、押し込める。
感じようとする自分を、押し込める。
そうしないと、生きられない。
オリアナは視線を前へ戻した。
壁の中では、命令が飛び交っている。
次に動くことだけを求められる。
そこでなら、兵士として立てる。
壊れずにいられる。
胸の奥で、最後に一行だけ残る。
(……見つけてしまった)
それを握り潰すように、オリアナは指先に力を入れた。
…To be continued
叫びの残響
長距離索敵陣形は、嫌になるほど整然としていた。馬の蹄が土を刻み、風を裂く音が耳の横を抜けていく。点々と上がる信煙弾は、空に細い線を引きながら、進むべき方向だけを示していた。
追っている。
追わなければならない。
それだけが、命令として身体に残っている。
オリアナは手綱を握ったまま、前だけを見ていた。
視界の端で、巨大樹の森が近づく。
幹の列が、壁のように迫ってくる。
(……エレンとユミルを取り戻す)
声にしない。
声にしたら、別の名前がこぼれる気がした。
内側は、まだひび割れたままだった。割れたところから何かが滲み出しそうで、意識を狭める。
指先に力を入れる。
手綱の革がきしむ。
それだけで、いまは十分だった。
森の入口に、巨人が数体いる。
信煙弾が連なり、隊列がわずかに揺れる。巨人の不規則な動きと、人間の規則がぶつかって、空気がざわつく。
遠く、森の奥で閃光が走った。
巨人化の光だと分かった瞬間、胸が一度、強く跳ねた。
次の瞬間、エルヴィン団長の声が森に響く。
「総員散開!!エレンを見つけ出し、奪還せよ!!」
命令は、空気を変える。索敵陣形がほどけ、兵がそれぞれの方向へ飛び出す。
森の入口で、悲鳴が上がった。
機動に不慣れな憲兵が、巨人に喰われる。
見ない。
見ると、足が止まる。
オリアナは馬を捨て、立体機動装置で木へアンカーを打った。ワイヤーが張り、身体が宙へ引き上げられる。
森の匂いが濃くなる。湿った葉と樹皮の匂いの奥に、血の匂いが混ざっていた。
(……探す)
何を。
誰を。
言葉にしないまま、森の奥へ進んだ。
森の奥から、叫び声がした。
人の声ではない。
巨人の声だった。
木々の間を抜けて、巨大な影が見えた。
枝を掴み、幹にしがみつくようにしている。
ユミルの巨人だった。
「……ユミル……!」
クリスタの声が、すぐ近くで響いた。
振り向くと、クリスタが木から木へ飛んでいる。
顔が白い。必死に、笑おうとしている。
「ユミル!!よかった……無事だったんだね!?」
その瞬間だった。
ユミルの巨人が、口を開いた。
あまりにも自然に。
躊躇も迷いもなく。
ぱくり、と。
クリスタの身体が、巨人の口に消える。
世界が一秒止まった。
「——っ」
喉の奥で息が詰まる。
意味が結ばれない。
あの子が喰われた?
いま?
目の前で?
「クリスタ!!」
誰かの叫びが重なる。
ワイヤーの音が一斉に鳴り、兵が追いすがる。
オリアナも身体が勝手に動いた。
考える前に。
命令より早く。
でも、心が追いつかない。
(……ユミルが)
味方が。
いつも一緒にいた友達が。
言葉が形になる前に、ユミルの巨人が木々を抜け、森の外へ向かって跳躍した。
追うしかない。
森を抜けた先は、草原だった。
風が強い。
視界が開ける。
そこで見えたのは、草原を走り去る鎧の巨人の後ろ姿だった。
その肩に、エレンがいる。
そして、もう一つ。
ユミルの巨人が、丸まるようにして背負われていた。
その上、鎧の肩にしがみつく人影。
立体機動装置をつけた、人の形。
(……ベルトルト)
内側が、またひび割れる。
割れ目から、息が漏れそうになる。
背後からハンネスの声が飛んだ。
「止まるな!!馬を使って追うぞ!!」
散開していた兵が、馬へ戻る。
草を裂く音が重なり、隊列が再び一本になる。
オリアナも馬に飛び乗った。
身体は追えている。
でも、心が遅れてくる。
本当に、ベルトルトなのか。
見間違いじゃないのか。
あの時の爆風と蒸気の中で、見えたものは。
否定のための言葉が浮かぶ前に、現実が速度で迫ってくる。
ジャンの声が後ろから聞こえた。
「追いつけない速度じゃない!間に合うぞ!」
ミカサが前の方で言った。
声が冷たい。
「今度は……躊躇うことなく奴らを、必ず殺す」
その言葉が、胸の奥を刺した。
「私たちの邪魔をするなら……ユミルもその例外じゃない」
息が詰まる。
例外じゃない。
そうだ。
敵は敵。
取り返す。奪い返す。
それだけ。
分かっているのに。
“例外じゃない”と断言されると、何かが壊れそうになる。
射程圏内に入った。
立体機動装置の音が一斉に鳴る。
兵が空へ飛び、鎧の体へアンカーを打ち込む。
風が頬を切る。
心臓が喉に近い。
鎧へ近づくほど、視線が勝手に上を探す。
肩。
その上の、人影。
ベルトルトはエレンを背負うようにしていた。
必死にしがみつき、前を向いている。
その姿が、知らないものに見える。
知らないのに、知っている。
雪山の訓練。
補給倉庫。
古城の夜。
壁の上で手を掴んだ感触。
全部が、同じ人の輪郭に重なってしまう。
「——っ」
呼吸が浅くなる。
息が続かない。
ユミルの巨人が、飛んできた兵のワイヤーを掴み、乱暴に引き剥がした。兵が地面に落下する。
ミカサが迷わずユミルの巨人の目を斬った。
ユミルの巨人が絶叫し、身をよじる。
ミカサはすぐ体勢を変え、鎧の肩へ飛ぶ。
ベルトルトへ。
刃が、届く。
その直前。
「ライナー!!守ってくれ!!」
ベルトルトの声が割れた。
鎧の手が、ベルトルトとエレンを包む。
刃が弾かれ、火花のように光る。
ユミルの巨人がミカサに腕を振り下ろす。
ミカサは避けながら、再び斬りかかろうとした。
その前に、クリスタが飛び出した。
喰われたはずなのに、そこにいる。
「待ってミカサ!!」
クリスタはユミルを庇うように、手を伸ばした。
声が震えている。
「ユミルを殺さないで!!」
「……それはユミル次第でしょ!?どうする!?私は邪魔する者を殺すだけ!」
ミカサの声に焦りが滲む。
それでもクリスタは必死に叫ぶ。ライナーたちに従わないとユミルが殺されると。
そこへ、ジャン、コニー、アルミンが飛び込む。
オリアナもワイヤーを射出し、鎧の体に飛び乗った。
叫びが重なる。
「ベルトルト……返して!」
「なぁ嘘だろベルトルト?ライナー?今までずっと……俺たちのことを騙してたのかよ……」
「全部嘘だったのかよ……!?」
オリアナは、声が出なかった。
名前を呼ぶなら、きっと出る。
でも、それは許されない気がした。
喉の奥で言葉が押し込まれたまま、目だけが、鎧の手を見ている。
「なぁ!?お前ら……お前らは、今まで何考えてたんだ!?」
コニーの声は怒りというより、崩れそうな悲鳴に近かった。
「そんなの、分からなくてもいい」
ミカサが冷たく吐き捨てる。
「こいつの首を刎ねることだけに集中して。一瞬でも躊躇すれば、もうエレンは取り返せない」
声は冷たいまま揺れない。
殺気のこもった、刃のように鋭い。
「こいつらは、人類の害。それで十分」
“人類の害”。
オリアナは、そこで初めて自分の心臓の音を聞いた。
早い。
痛い。
息を吸っても吸っても足りない。
鎧の掌に隠れて、姿は見えない。
それでも、言葉になる前の沈黙だけが伝わってきた。空気が、ほんの少し重くなる。
知っている気がした。
怖い時や、耐える時。
言葉を飲み込む時の、あの気配。
けれど、違う。
これは、耐えるための沈黙じゃない。
その沈黙を裂くように、ベルトルトが叫んだ。
「だッ……誰が!!人なんか殺したいと!!思うんだ!!」
その瞬間、オリアナの呼吸が止まった。
音が遠のく。
視界が一度、狭くなる。
蓋をしていたものに、ひびが入る。
いや。もう入っていた。
そこを、今、こじ開けられたような気がした。
「誰が好きでこんなこと!!こんなことをしたいと思うんだよ!!」
心臓が、強く跳ねる。
彼の本心に触れた気がした。
触れてはいけないところに、触れてしまった。
「人から恨まれて、殺されても当然のことをした!!取り返しのつかないことを……!!」
不意に、ユミルの言葉が過った。
訓練兵時代の、何気ない会話。
「あいつ、なんか抱えてる顔してるだろ」
ずっと、彼に感じていた影。
「……怖いよ、時々」
ベルトルトとした、あの夜の会話。
どこか遠い目をして、寂しそうにしていた。
古城で感じたあの違和感。
「あの時の……」という声。
壁の上で見た、青い顔。
点だったものが、勝手に繋がる。
「でも……僕らは罪を受け入れきれなかった……。兵士を演じてる間だけは……少しだけ楽だった……」
息が詰まる。
苦しさが、伝わってくる。
言葉が、血の塊みたいに重い。
「確かにみんな騙した……。けど、すべてが嘘じゃない!!」
嘘じゃない。
その言葉を、信じたいと思ってしまう。
信じたら、全てが壊れるのに。
思い出が、勝手に蘇る。
塔で、引き寄せられた腕。
補給倉庫で、静かに目を合わせた瞬間。
雪山で、何も言わず隣にいた背。
「本当に仲間だと思ってたよ!!」
救いの言葉みたいに聞こえてしまう。
本当だとしたら。
あの優しい目も。
あの大きな手も。
守ってくれたことも。
全部が、嘘じゃないのだとしたら。
オリアナの中で、何かが崩れる。
ベルトルトの声が震える。
「僕らに……謝る資格なんてあるわけない……。
けど……誰か……」
剣を握る手が震えた。
呼吸が浅くなる。息が足りない。
「頼む……誰か……お願いだ……」
声が、胸を締めつける。
涙が出るわけじゃない。
怒りが湧くわけでもない。
ただ、苦しい。
「誰か、僕らを見つけてくれ……」
その一言で、胸の奥の何かが、勝手にほどけた。
理解したい。
分かりたい。
今すぐ、あの声の方へ行きたい。
激しい衝動が体を駆け抜ける。
——やめろ……!!
理性が叫ぶ。
許すな、と別の声が噛みつく。
それを理解したら、
ナナバは。
マルコは。
あの夜に消えたものは、どうなる。
「許せない」と断じるための言葉が追いつく前に、「分かってしまう」が先に立ち上がってしまう。
心が裂ける。
声が出ない。
名前だけでも呼びたいのに、喉が動かない。
(……息が……)
息が、足りない。
「ベルトルト。エレンを返して」
ミカサの声が落ちる。
その声は静かだが、迷いがない。
ベルトルトは一瞬だけ顔を歪め、すぐに言った。
掠れた声で。
「……駄目だ。できない」
そして、どこか自分に言い聞かせるみたいに続けた。
「誰かがやらなくちゃいけないんだよ……。誰かが……自分の手を血で染めないと……」
その直後だった。
地鳴りのような足音が来た。
エルヴィン団長が、巨人の大群を引き連れて、鎧の前に向かってきている。狂気みたいな速度で、地面が揺れる。
ハンネスが叫んだ。
「お前ら!!今すぐ飛べ!!」
命令が刺さる。
考える余裕が奪われる。
外側から、無理やり現実へ引き戻される。
(——いまは動け)
オリアナは動いた。
ワイヤーを打ち、地面に飛ぶ。
馬を拾い、距離を取る。
息が乱れる。
巨人の群れが鎧に群がり、噛みつく。
巨体が大群に飲み込まれ、足が止まった。
総員突撃の号令。
兵が飛び込む。
だが巨人が多すぎて、次々にやられる。
エルヴィン団長の腕が喰われた。
血が飛ぶ。
それでも団長は叫ぶ。
「進め!!」
オリアナは、巨人を避けるのに精一杯だった。
鎧へ近づけない。
視界の端で、何かが起きているのが見えるのに、追えない。
混乱の奥で、ベルトルトが叫んだように聞こえた。風のせいか、血の鼓動のせいか。
でも、その言葉だけは耳に残った。
「悪魔の末裔が!!」
悪魔。
誰が、誰を。
意味が結ばれる前に、次の音が来た。
金属音。
切りつける影。
遠くで、エレンが落下した。
ミカサが受け止める。
その瞬間、撤退命令が落ちた。
「総員撤退!!」
命令が、世界を一つにまとめる。
オリアナは馬を走らせながら、無意識に振り返った。
遠くで、ベルトルトが宙吊りになっているのが見えた。ワイヤーが張り、身体が引かれている。
「……あ」
一瞬、目が合ったような気がした。
世界から音が消える。
それでも馬は走る。
どんどん距離は遠くなる。
突然、衝撃が地面を揺らした。
鎧が体から巨人を引き剥がし、走る隊列に向かって投げつけた。
空から巨体が落ちる衝撃で、馬が跳ねる。
兵が吹き飛ばされる。
落馬し、喰われる。
オリアナは必死に回避した。
だが次の瞬間、視界の上から影が落ちた。
巨人だった。
落下の衝撃が地面を叩き、馬が崩れた。
オリアナも投げ出される。
背中が地面に当たり、息が抜けた。
痛みが遅れて走る。
顔を上げると、巨人がこちらに向かってくる。
(……まずい)
身体が起き上がらない。
足が言うことを聞かない。
死を覚悟しかけた、その時。
巨人たちの動きが変わった。
全ての巨人が、別の一体へ向かって走り出す。
まるで、呼ばれたみたいに。
(……なに)
理由を考える前に、動ける兵が一斉に馬へ戻る。
遠くで、叫びが響いた。
エレンの声。
巨人たちが、今度は鎧の方へ流れていく。
エルヴィン団長の声が追い打ちをかけた。
「この機を逃すな!撤退せよ!!」
走る。
走るしかない。
オリアナは馬に引き上げられ、痛む身体のまま手綱を握った。
視界が揺れる。息が苦しい。
ふと、振り返りたくなる。
振り返ったら、終わる気がした。
でも、視界の端で見えてしまった。
巨人が群がっている。
悲鳴が聞こえた気がした。
風のせいかもしれない。
でも、確かに胸が反応した。
そして。
ユミルの巨人が、クリスタの前に立っていた。
何か言葉を交わしたように見えた。
クリスタは真顔のまま、目だけが揺れていた。
次の瞬間、ユミルの巨人は、鎧の方へ走っていった。
ベルトルトのいる方へ。
迷いがなかった。
体の内側が、冷たく沈む。
(……そっちへ)
ユミルが、行った。
そして自分は──
振り返る余裕もなく、走るしかなかった。
*
壁が見えた。
生き残った者だけが、そこへ戻っていく。
誰かが泣いている。
誰かが怒鳴っている。
誰かが、頭を抱え震えている。
オリアナは、ただ息をしていた。
痛みはある。でも、それよりも、胸の中がひどく騒がしい。
ベルトルトの叫びが、反復する。
「誰が人なんか殺したいと思うんだ」
「すべてが嘘じゃない」
「本当に仲間だと思ってた」
受け取ってしまった。
「誰か僕らを見つけてくれ」
受け取った時点で、もう戻れない。
理解したい衝動が、まだ指先に残っている。
手を伸ばしたい感覚が、消えない。
でも、それを許したら、自分が壊れる。
そして壊れたら、仲間を危険にする。
迷惑になる。足を引っ張る。
だから。
オリアナは息を吐いた。
吐いた息が震える。
(……閉じろ)
胸の奥にある扉を、力で押し戻すみたいに。
理解しようとする自分を、押し込める。
感じようとする自分を、押し込める。
そうしないと、生きられない。
オリアナは視線を前へ戻した。
壁の中では、命令が飛び交っている。
次に動くことだけを求められる。
そこでなら、兵士として立てる。
壊れずにいられる。
胸の奥で、最後に一行だけ残る。
(……見つけてしまった)
それを握り潰すように、オリアナは指先に力を入れた。
…To be continued