【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第37話
膝をついた瞬間、肋の奥が鈍く軋む。
制服の下の包帯が、息をするたびわずかに擦れた。
王城の広間は静まり返っていた。
高い天井から差し込む光が、磨かれた石床に白く落ちていた。
壁際に並ぶ者たちも、身じろぎ一つしない。
視界の先には、エレンの背中があった。
同じ場所に並んでいるのに、その背中だけが少し遠く見える。
やがて足音が近づいた。
やわらかい靴底が石を静かに打ち、ゆっくりと一定の速さでこちらへ近づいてくる。
視界の端に白い裾が入り、女王が一人ずつの前を歩いていくのが分かった。
金属の触れる小さな音がして、一人、また一人と勲章が首にかけられていく。
広間には、足音と金属の音だけが続いていた。
オリアナは床に視線を落としたまま、浅く息をしていた。胸を広げると、そこが引きつる。
耳の奥では、細い音が鳴っていた。
高く、薄い音。
遠くへ行くほど細くなるのに、消えない。
足音が止まる。
影が、目の前に落ちた。
首元に冷たいものが触れ、金属の重みが鎖骨の上に乗った。わずかに身体が揺れただけで、胸の奥が軋む。
差し出される手。
オリアナは視線を落とし、その甲に唇を触れさせた。皮膚は白く、ひどく静かだった。
それで終わる。
女王の足音は、もう次の兵士の前へ移っていた。
儀式は何事もなかったように続いていく。
オリアナは跪いたまま、目を閉じた。
勲章の重さが、妙に馴染まない。
英雄。
凱旋。
そういう言葉から、一番遠い場所に自分がいる気がした。
あの場で、自分は何をした。
仲間を救ったわけでもない。
班を守ったわけでもない。
ただ、感情に足を取られた。
一歩違えば、もっと多くのものを壊していた。
その感覚だけが、まだ身体の奥に残っている。
首元の金属が、冷たかった。
*
兵舎へ戻ると、廊下は妙に広く見えた。
足音が壁に反射して、少し遅れて返ってくる。開かない扉が増えた廊下は、ひどく静かだった。
食堂の入口で、オリアナは一度足を止めた。
机の上には新聞が広がり、何人かの兵士がその周りに立っている。ざわめきは小さいが、張りついて離れない種類のものだった。
「……悪魔の民族、か」
誰かが低く言う。
「俺たちのこと、だろ」
「壁の外に国があるって……本当なのか」
乾いた音を立てて紙がめくられる。
オリアナは何も言わず、その脇を通り過ぎた。
視界の端に、大きな見出しだけが入る。
壁の外には世界がある。
人類は滅んでいない。
マーレ。
ユミルの民。
悪魔の民族。
言葉だけが並んでいる。
どれも重いはずなのに、まだうまく落ちてこなかった。
食堂の中央で、フロックが紙面を睨んでいた。
「……じゃあ結局」
低い声だった。
「俺たちは最初から、世界中を敵に回してたってことか」
誰もすぐには答えない。
「まだ、そうと決まったわけじゃ」
別の兵が言いかける。
フロックは新聞を指で叩いた。
「決まってんだろ」
顔を上げる。
目だけが、妙に乾いている。
「向こうは俺たちを悪魔って呼んでる」
誰もすぐには声を出さなかった。
その言葉だけが、食堂の空気に残る。
悪魔。
胸の奥が小さく軋む。
風の強い平原。
馬の蹄の音。
巨人の影。
その中で、あの声が蘇る。
——悪魔の末裔が。
同じ血を持つはずなのに。
そう思ったところで、思考が止まる。
それ以上は進まない。
オリアナは手近な席に座り、新聞の端へ視線を落とした。
文字は並んでいる。だが、読むというより、ただ見ているだけだった。
耳の奥で、細い耳鳴りが続いている。
遠くで誰かが椅子を引く音がして、それが少し遅れて届いた。
「……お前」
顔を上げる。
ジャンが立っていた。
食堂のざわめきの中でも、その声だけは近い。
ジャンは一度、新聞の端へ視線を落とした。
「無理して普通にしてんだろ」
オリアナは新聞から目を離した。
「……してない」
「そうかよ」
ジャンはそれ以上言わなかった。
言わないまま向かいの席に腰を下ろし、新聞の端を一度だけ見てから視線を外した。
「……でも」
小さく息を吐く。
「顔色は、最悪だぞ」
オリアナは答えなかった。
返す言葉が見つからない。
見つからないまま、首元の勲章の重みだけが残る。
ジャンも、それ以上は踏み込まない。
食堂のざわめきは続いていた。
空席は埋まらないままだった。
*
その日の夕方、呼び出しを受けて王城へ向かった。
女王の私室は静かだった。
窓から差す光が白い机を照らし、そのそばでヒストリアが窓辺に立っている。
王冠はない。
飾りも少ない。
それでも、前より少しだけ遠かった。
「……来てくれてありがとう」
「……うん」
短い言葉だけが落ちる。
テーブルの上には、封の切られた手紙が置かれていた。紙には何度も開いた跡がある。
ヒストリアはそれに目を落とし、指先でそっと押さえた。その指が、ほんのわずかに震えている。
「ユミルから」
声は静かだった。
オリアナは黙って立っている。
「自分で選んだって、書いてあった」
ヒストリアは一度、唇を結ぶ。
「後悔してないって」
風が、薄いカーテンを揺らした。
オリアナは手紙を見た。
だが、文字を読もうとはしなかった。
ユミルの顔が浮かぶ。
古城の夜。
噛みつくような言い方。
その奥にあった、あの子だけに向く目。
「……そう」
出たのは、それだけだった。
ヒストリアは笑わない。
泣きもしない。
ただ、小さく頷く。
「……うん」
言葉は少ない。
それでも、そこにある痛みの種類だけは分かった。
ヒストリアが手紙をそっと畳む。
丁寧すぎる手つきだった。
「オリアナ」
「なに?」
「……生きててくれて、よかった」
オリアナは少しだけ目を伏せた。
その言葉に、すぐ返せるものがない。
やがて、ゆっくりと言う。
「……ヒストリアも」
それで十分だった。
窓の外は晴れている。
城の中だけが、ひどく静かだった。
*
兵舎の灯りはもうほとんど消えていた。
部屋の中は暗く、窓の外からは風の音だけが入ってくる。
オリアナは一人、椅子に座っていた。
机の上には分解工具と、使われないままの油差し、きちんと整えられた布が置かれていた。
そこに、誰かの癖が残っていた。
モブリットの声が浮かぶ。
ハンジの早口も。
班員たちの笑い声も。
訓練場の朝。
装置の部品。
食堂の夕方。
実験帰りの風。
そこへ行けば、次に何をすればいいか分かった。
黙っていても、そこにいてよかった。
いつの間にか、そういう場所になっていた。
(……もう、ない)
オリアナは机の上の工具に手を伸ばしかけて、止めた。触れてしまえば、また思い出す。
静かな部屋の中で、呼吸だけが続く。
ふと、弟の顔が浮かぶ。
「また帰ってきてね」
小さな手を振っていた。
父はその横にいた。
腕を組んだまま、何も言わない。
帰る場所がある。
そう思ったところで、オリアナは目を閉じた。
仲間のために。
家族のために。
(……兵士でいる)
次に戦場へ出る時。
もう同じことは起こさない。
胸の奥に沈んでいるものには触れない。
もっと奥へ沈める。
風が窓を鳴らす。
耳の奥の音は、まだ消えなかった。
*
季節がいくつか過ぎた。
冬の名残は、もうほとんど消えていた。
壁の外の雪は溶け、枯れていた草の間から新しい芽が伸びている。
風に揺れる若い葉は、まだ淡い色をしていた。
この一年で、巨人の数は大きく減り、調査兵団の壁外調査も少しずつ距離を伸ばしていた。
そして今日。
六年ぶりに、ウォール・マリアの外へ出た。
馬を降りた兵士たちが一斉に前を向き、その先に青い帯を見つけた。
最初は空かと思った。
だが違う。
地平の上に、もう一つの青がある。
誰もすぐには動かなかった。
風だけが、草を揺らす。
「……海だ」
アルミンの声だった。
次の瞬間、空気がほどけた。
「なんだこれ……!すげー!!」
コニーが真っ先に駆け出し、サシャも笑いながら続く。
靴を脱ぐ音がして、水を蹴る音とはしゃぐ声が重なった。
「冷てぇ!!」
「しょっぱいです!!」
笑い声に、砕ける波と風の音が混ざる。
ジャンが遅れて砂浜へ下りる。
「おい、待てって……」
言い終わる前に足を取られ、水が跳ねた。
「うわっ!?」
コニーとサシャの笑い声がさらに大きくなる。
その少し向こうで、ミカサがアルミンのそばにいる。アルミンは海を見たまま、子供みたいな顔で立っていた。
もっと遠く、波打ち際にエレンの姿があった。
皆とは少し離れて、海の向こうを見ている。
その横顔は、ここからではよく見えない。
オリアナは砂浜の端に立ったまま、動かなかった。
風が強く、海の匂いがする。
仲間たちの声は聞こえているのに、どこか遠かった。
波の音も、笑い声も、水の跳ねる音も、全部が薄い膜を一枚挟んだ向こう側にあるみたいだった。
「オリアナー!」
サシャがこちらを振り向き、両手を大きく振っている。
「早く来てくださいよー!」
コニーも続く。
「冷たいけど気持ちいいぞー!」
オリアナは小さく手を上げた。
それだけだった。
サシャは笑う。
コニーもまた水を蹴る。
ジャンだけが、一度こちらを見た。
何か言いそうになって、言わない。
すぐに視線を外す。
オリアナは海を見た。
水平線。
その向こうに、世界がある。
国があって、人がいて、戦争がある。
ここまで来る前から、もう始まっていたもの。
六年前。
壁が破られたあの瞬間から。
耳の奥で、細い音が鳴る。
遠くの戦場みたいに、消えない。
煙。
瓦礫。
蒸気。
その向こうに、一瞬だけ浮かぶ顔。
(……ベルトルト)
オリアナは目を閉じた。
思考を切る。
風が吹く。
砂が足元を流れていく。
オリアナはゆっくり目を開ける。
海ではなく、笑い声のする方を見た。
仲間たちがいる。
水を蹴って、くだらないことで騒いでいる。びしょ濡れのジャンが何か怒鳴っていて、サシャが笑っている。
その光景を、しばらく見た。
耳の奥では、まだ音が鳴っている。
それでも。
オリアナは一歩、前へ出た。
仲間の方へ。
目の前には海がある。
その向こうには世界がある。
戦いは終わっていない。
それでも、足は止まらなかった。
波の音が続く。
風が吹く。
仲間たちの声が、少しだけ近づいた。
第二章・完
海の向こう
石段は冷たかった。膝をついた瞬間、肋の奥が鈍く軋む。
制服の下の包帯が、息をするたびわずかに擦れた。
王城の広間は静まり返っていた。
高い天井から差し込む光が、磨かれた石床に白く落ちていた。
壁際に並ぶ者たちも、身じろぎ一つしない。
視界の先には、エレンの背中があった。
同じ場所に並んでいるのに、その背中だけが少し遠く見える。
やがて足音が近づいた。
やわらかい靴底が石を静かに打ち、ゆっくりと一定の速さでこちらへ近づいてくる。
視界の端に白い裾が入り、女王が一人ずつの前を歩いていくのが分かった。
金属の触れる小さな音がして、一人、また一人と勲章が首にかけられていく。
広間には、足音と金属の音だけが続いていた。
オリアナは床に視線を落としたまま、浅く息をしていた。胸を広げると、そこが引きつる。
耳の奥では、細い音が鳴っていた。
高く、薄い音。
遠くへ行くほど細くなるのに、消えない。
足音が止まる。
影が、目の前に落ちた。
首元に冷たいものが触れ、金属の重みが鎖骨の上に乗った。わずかに身体が揺れただけで、胸の奥が軋む。
差し出される手。
オリアナは視線を落とし、その甲に唇を触れさせた。皮膚は白く、ひどく静かだった。
それで終わる。
女王の足音は、もう次の兵士の前へ移っていた。
儀式は何事もなかったように続いていく。
オリアナは跪いたまま、目を閉じた。
勲章の重さが、妙に馴染まない。
英雄。
凱旋。
そういう言葉から、一番遠い場所に自分がいる気がした。
あの場で、自分は何をした。
仲間を救ったわけでもない。
班を守ったわけでもない。
ただ、感情に足を取られた。
一歩違えば、もっと多くのものを壊していた。
その感覚だけが、まだ身体の奥に残っている。
首元の金属が、冷たかった。
*
兵舎へ戻ると、廊下は妙に広く見えた。
足音が壁に反射して、少し遅れて返ってくる。開かない扉が増えた廊下は、ひどく静かだった。
食堂の入口で、オリアナは一度足を止めた。
机の上には新聞が広がり、何人かの兵士がその周りに立っている。ざわめきは小さいが、張りついて離れない種類のものだった。
「……悪魔の民族、か」
誰かが低く言う。
「俺たちのこと、だろ」
「壁の外に国があるって……本当なのか」
乾いた音を立てて紙がめくられる。
オリアナは何も言わず、その脇を通り過ぎた。
視界の端に、大きな見出しだけが入る。
壁の外には世界がある。
人類は滅んでいない。
マーレ。
ユミルの民。
悪魔の民族。
言葉だけが並んでいる。
どれも重いはずなのに、まだうまく落ちてこなかった。
食堂の中央で、フロックが紙面を睨んでいた。
「……じゃあ結局」
低い声だった。
「俺たちは最初から、世界中を敵に回してたってことか」
誰もすぐには答えない。
「まだ、そうと決まったわけじゃ」
別の兵が言いかける。
フロックは新聞を指で叩いた。
「決まってんだろ」
顔を上げる。
目だけが、妙に乾いている。
「向こうは俺たちを悪魔って呼んでる」
誰もすぐには声を出さなかった。
その言葉だけが、食堂の空気に残る。
悪魔。
胸の奥が小さく軋む。
風の強い平原。
馬の蹄の音。
巨人の影。
その中で、あの声が蘇る。
——悪魔の末裔が。
同じ血を持つはずなのに。
そう思ったところで、思考が止まる。
それ以上は進まない。
オリアナは手近な席に座り、新聞の端へ視線を落とした。
文字は並んでいる。だが、読むというより、ただ見ているだけだった。
耳の奥で、細い耳鳴りが続いている。
遠くで誰かが椅子を引く音がして、それが少し遅れて届いた。
「……お前」
顔を上げる。
ジャンが立っていた。
食堂のざわめきの中でも、その声だけは近い。
ジャンは一度、新聞の端へ視線を落とした。
「無理して普通にしてんだろ」
オリアナは新聞から目を離した。
「……してない」
「そうかよ」
ジャンはそれ以上言わなかった。
言わないまま向かいの席に腰を下ろし、新聞の端を一度だけ見てから視線を外した。
「……でも」
小さく息を吐く。
「顔色は、最悪だぞ」
オリアナは答えなかった。
返す言葉が見つからない。
見つからないまま、首元の勲章の重みだけが残る。
ジャンも、それ以上は踏み込まない。
食堂のざわめきは続いていた。
空席は埋まらないままだった。
*
その日の夕方、呼び出しを受けて王城へ向かった。
女王の私室は静かだった。
窓から差す光が白い机を照らし、そのそばでヒストリアが窓辺に立っている。
王冠はない。
飾りも少ない。
それでも、前より少しだけ遠かった。
「……来てくれてありがとう」
「……うん」
短い言葉だけが落ちる。
テーブルの上には、封の切られた手紙が置かれていた。紙には何度も開いた跡がある。
ヒストリアはそれに目を落とし、指先でそっと押さえた。その指が、ほんのわずかに震えている。
「ユミルから」
声は静かだった。
オリアナは黙って立っている。
「自分で選んだって、書いてあった」
ヒストリアは一度、唇を結ぶ。
「後悔してないって」
風が、薄いカーテンを揺らした。
オリアナは手紙を見た。
だが、文字を読もうとはしなかった。
ユミルの顔が浮かぶ。
古城の夜。
噛みつくような言い方。
その奥にあった、あの子だけに向く目。
「……そう」
出たのは、それだけだった。
ヒストリアは笑わない。
泣きもしない。
ただ、小さく頷く。
「……うん」
言葉は少ない。
それでも、そこにある痛みの種類だけは分かった。
ヒストリアが手紙をそっと畳む。
丁寧すぎる手つきだった。
「オリアナ」
「なに?」
「……生きててくれて、よかった」
オリアナは少しだけ目を伏せた。
その言葉に、すぐ返せるものがない。
やがて、ゆっくりと言う。
「……ヒストリアも」
それで十分だった。
窓の外は晴れている。
城の中だけが、ひどく静かだった。
*
兵舎の灯りはもうほとんど消えていた。
部屋の中は暗く、窓の外からは風の音だけが入ってくる。
オリアナは一人、椅子に座っていた。
机の上には分解工具と、使われないままの油差し、きちんと整えられた布が置かれていた。
そこに、誰かの癖が残っていた。
モブリットの声が浮かぶ。
ハンジの早口も。
班員たちの笑い声も。
訓練場の朝。
装置の部品。
食堂の夕方。
実験帰りの風。
そこへ行けば、次に何をすればいいか分かった。
黙っていても、そこにいてよかった。
いつの間にか、そういう場所になっていた。
(……もう、ない)
オリアナは机の上の工具に手を伸ばしかけて、止めた。触れてしまえば、また思い出す。
静かな部屋の中で、呼吸だけが続く。
ふと、弟の顔が浮かぶ。
「また帰ってきてね」
小さな手を振っていた。
父はその横にいた。
腕を組んだまま、何も言わない。
帰る場所がある。
そう思ったところで、オリアナは目を閉じた。
仲間のために。
家族のために。
(……兵士でいる)
次に戦場へ出る時。
もう同じことは起こさない。
胸の奥に沈んでいるものには触れない。
もっと奥へ沈める。
風が窓を鳴らす。
耳の奥の音は、まだ消えなかった。
*
季節がいくつか過ぎた。
冬の名残は、もうほとんど消えていた。
壁の外の雪は溶け、枯れていた草の間から新しい芽が伸びている。
風に揺れる若い葉は、まだ淡い色をしていた。
この一年で、巨人の数は大きく減り、調査兵団の壁外調査も少しずつ距離を伸ばしていた。
そして今日。
六年ぶりに、ウォール・マリアの外へ出た。
馬を降りた兵士たちが一斉に前を向き、その先に青い帯を見つけた。
最初は空かと思った。
だが違う。
地平の上に、もう一つの青がある。
誰もすぐには動かなかった。
風だけが、草を揺らす。
「……海だ」
アルミンの声だった。
次の瞬間、空気がほどけた。
「なんだこれ……!すげー!!」
コニーが真っ先に駆け出し、サシャも笑いながら続く。
靴を脱ぐ音がして、水を蹴る音とはしゃぐ声が重なった。
「冷てぇ!!」
「しょっぱいです!!」
笑い声に、砕ける波と風の音が混ざる。
ジャンが遅れて砂浜へ下りる。
「おい、待てって……」
言い終わる前に足を取られ、水が跳ねた。
「うわっ!?」
コニーとサシャの笑い声がさらに大きくなる。
その少し向こうで、ミカサがアルミンのそばにいる。アルミンは海を見たまま、子供みたいな顔で立っていた。
もっと遠く、波打ち際にエレンの姿があった。
皆とは少し離れて、海の向こうを見ている。
その横顔は、ここからではよく見えない。
オリアナは砂浜の端に立ったまま、動かなかった。
風が強く、海の匂いがする。
仲間たちの声は聞こえているのに、どこか遠かった。
波の音も、笑い声も、水の跳ねる音も、全部が薄い膜を一枚挟んだ向こう側にあるみたいだった。
「オリアナー!」
サシャがこちらを振り向き、両手を大きく振っている。
「早く来てくださいよー!」
コニーも続く。
「冷たいけど気持ちいいぞー!」
オリアナは小さく手を上げた。
それだけだった。
サシャは笑う。
コニーもまた水を蹴る。
ジャンだけが、一度こちらを見た。
何か言いそうになって、言わない。
すぐに視線を外す。
オリアナは海を見た。
水平線。
その向こうに、世界がある。
国があって、人がいて、戦争がある。
ここまで来る前から、もう始まっていたもの。
六年前。
壁が破られたあの瞬間から。
耳の奥で、細い音が鳴る。
遠くの戦場みたいに、消えない。
煙。
瓦礫。
蒸気。
その向こうに、一瞬だけ浮かぶ顔。
(……ベルトルト)
オリアナは目を閉じた。
思考を切る。
風が吹く。
砂が足元を流れていく。
オリアナはゆっくり目を開ける。
海ではなく、笑い声のする方を見た。
仲間たちがいる。
水を蹴って、くだらないことで騒いでいる。びしょ濡れのジャンが何か怒鳴っていて、サシャが笑っている。
その光景を、しばらく見た。
耳の奥では、まだ音が鳴っている。
それでも。
オリアナは一歩、前へ出た。
仲間の方へ。
目の前には海がある。
その向こうには世界がある。
戦いは終わっていない。
それでも、足は止まらなかった。
波の音が続く。
風が吹く。
仲間たちの声が、少しだけ近づいた。
第二章・完
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