【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第36話
船は静かに揺れていた。
夜の海を渡る音だけが、絶えず船腹の下で鳴っている。波が当たるたび、濡れた木が低く軋み、狭い船室の中には塩の匂いと血の匂いがこもっていた。
ベルトルトは横たわったまま、目を開けていた。
開けていた、はずだった。
天井の暗がりが見えているのに、次の瞬間にはもう何も分からなくなる。
意識が浮いて、沈む。
蒸気。
吹き飛ぶ屋根。
燃える建物。
見下ろした街は、ひどく小さかった。
兵士も、瓦礫も、人影も、熱の向こうで少しずつ形を失っていく。
それでも、刃だけは見えた。
白く閃いて、蒸気の中を縫うように迫ってくる。
そこまでは覚えている。
だが、その先になると急に輪郭が崩れる。
炎の白さ。
焼けた空気。
視界の端をかすめる立体機動の影。
そして。
「——ベルトルト!!」
その声だけが、妙にはっきり残っていた。
暗い船室の中で、ベルトルトの指先がわずかに動く。
あの声が届いた瞬間、自分は振り返った。
振り返ってしまった。
そこから先を思い出そうとすると、頭の奥が鈍く重くなる。何かが引っかかっているのに、掴もうとした途端、指の間から沈んでいく。
船が揺れた。
近くで、布が擦れる音がする。低い声が一度だけ聞こえたが、意味は聞き取れなかった。
もう一度、意識が浮いたとき、視界の端に金髪が見えた。
ライナーだった。
横たわったまま、動かない。
四肢から蒸気が上がり、顔色も悪い。呼吸に合わせて、胸だけがかすかに上下していた。
その姿が見えた次の瞬間、もう視界は暗く落ちていた。
船の中は静かだった。
壁の中で過ごした時間が、暗がりの底から途切れ途切れに浮かぶ。
訓練兵の制服。
見慣れた兵舎の廊下。
何でもない顔で交わした言葉。
嘘の上に、また嘘を重ねてきた。
見つけられないまま、手を伸ばし続けてきた。
それでも、今度こそ終わると思っていた。
もう迷わないつもりだった。
なのに。
「——ベルトルト!!」
また、その声が蘇る。
胸の奥が、鈍く揺れた。
そこで思考が止まる。
彼女の声だった。
そう考えるより先に分かる。
分かるのに、そこから先へ進めない。
目を閉じる。
意識が沈む。
*
次に目を開けたとき、光が変わっていた。
朝だった。
港は静かで、空も海も白く冷えて見えた。
ベルトルトは甲板の船縁近くに座らされていた。背後から兵が肩を支えている。
指も、脚も、形だけならもう戻っている。
それでも、立てなかった。
少し重心をずらすだけで、身体の芯がそのまま崩れ落ちそうになる。
視線を上げる。
甲板の向こうで、ライナーが抱え起こされていた。まだ自分では立てないらしい。
さらにその奥で、ジークは何事もなかったように普通に立っていた。
ピークはその隣で、軍港の方を見ている。表情までは分からない。
短い命令が飛ぶ。
兵たちの動きに無駄はない。
誰も声をかけない。
誰も顔色を変えない。
潮の匂いに、薬品の匂いが混じっていた。
戻ってきたのだと分かる。
残っているものが、ほとんどないことも。
始祖は奪えなかった。
壁の中で過ごした時間。
嘘の上に重ねた五年。
マルセルは最初にいなくなった。
アニも、置いてきた。
そして——
自分も、ライナーも、この有様だった。
それでも最後までやるつもりだった。
切り捨てるべきものは、もう決めていたはずだった。
なのに。
最後の瞬間に振り返った。
彼女の声に。
その事実だけが、遅れて胸の内側に沈んでいく。
兵に支えられたまま、ベルトルトは目を閉じた。
*
次に意識が浮いたとき、白い天井があった。
医務室だった。
乾いた白さだった。
船の暗さとも、戦場の熱とも違う。
鼻の奥に薬品の匂いが残っている。
皮膚の下では、まだ熱がじんわりと続いていた。
ベルトルトはしばらく、瞬きもせず天井を見ていた。
部屋は静かで、廊下の向こうの足音と、どこかで水の落ちる音だけがかすかに聞こえた。
それだけなのに、頭の中では別の音が消えない。
蒸気の噴き上がる音。
屋根の崩れる音。
焼ける空気の唸り。
熱の向こうで、街の形が歪んで見える。
兵士は小さく、声も届かない。ただ、動きと刃だけが異様にはっきりしていた。
その中で、ひとつだけ鮮明なものがある。
自分の名前を呼ぶ声だった。
あの瞬間。
動きが止まった。
手も。
意識も。
その場に立っていたはずの何もかもが。
彼女は死んだと思っていた。
爆発の中にいた。
蒸気の下にいた。
あの場所に残って、生きていられるはずがないと。
そう思っていた。
だから、見なかった。
探さなかった。
そこに残すべきものだと、そう思い込もうとしていた。
なのに。
生きていた。
血を流しながら、壊れた屋根の上で、それでも自分の名前を呼んだ。
その瞬間、生きていてよかったと、思ってしまった。
そう思った直後、胸の奥がすっと冷えた。
喉の奥が強く軋む。
何をしているんだ、と。
遅れてその言葉が浮かぶ。
もう迷わないつもりだった。
そう決めたはずだった。
なのに。
最後の瞬間に振り返った。
街を焼いて、人を殺して、仲間を失って、それでも最後に残ったのがそれだった。
始祖も奪えなかった。
マルセルの死も、アニを置いてきたことも、何ひとつ埋まらないままここまで来た。
そのくせ。
最後の最後で、自分は。
彼女が生きていたことに安堵した。
胃のあたりが、ひどく冷えた。
そんなものを抱く資格は、最初からどこにもない。
目を閉じる。
夜の石段が浮かぶ。
冷えた空気。
消え入りそうな声。
「ここに、いて」
制服の裾を掴んでいた指。
次に浮かぶのは、もっと近い距離だった。
確かめるように触れた手。
言い切れず落ちた声。
「……ここで……終わりなの……?」
胸の奥が軋む。
彼女はずっと、何も言わない自分を見ていた。
隠したままの自分を、そのまま信じていた。
自分は。
そこまで思ったところで、思考が止まる。
僕は――
続かない。
最低だ、
という言葉すら浮かばない。
失ったものも。
置いてきたものも。
あの声に反応した自分も。
何から考えればいいのか分からない。
全部が、途中で落ちていく。
昔、押し込めたはずの感覚だけが、形を変えて戻ってくる。
彼女の隣にいていい人間じゃない。
信じられていい人間じゃない。
名前を呼ばれて、振り返っていい人間じゃない。
喉の奥が焼ける。
けれど、その先へ進めない。
責める言葉も、悔いる言葉も、うまく形にならなかった。
体の内側で、いくつものものがぶつかる。
マルセルの死。
アニを残したこと。
積み重ねた五年。
彼女の声。
どれも沈みきらないまま、ただ重なっていく。
何もまとまらない。
何一つ、言葉にならない。
ベルトルトは天井を見たまま、ただ息をしていた。
吸って、吐く。
それだけが続く。
どれだけそうしていたのか分からない。
やがて、一つの言葉だけが残った。
(……僕は、戦士だ)
声にはならない。
その言葉だけが、意識の底に沈む。
それ以上は、考えなくていい。
考えたら、駄目だった。
マルセルの顔が浮かぶ。
アニの背中が浮かぶ。
ライナーの傷だらけの姿が浮かぶ。
壁の中の時間が浮かぶ。
その全部の上に、彼女の呼ぶ声だけが重なる。
——僕は、戦士だ。
その言葉だけを、意識の底で繰り返す。
空っぽのまま。
何も伴わないまま。
窓の外の光が落ちていく。
部屋は静かだった。
ベルトルトは目を閉じる。
意識がまた沈んでいく。
最後に浮かんだのは、姿ではなかった。
「ベルトルト」
呼ばれた名前だけが、暗い底まで沈まず残った。
…To be continued
底に残るもの
side - ベルトルト
船は静かに揺れていた。
夜の海を渡る音だけが、絶えず船腹の下で鳴っている。波が当たるたび、濡れた木が低く軋み、狭い船室の中には塩の匂いと血の匂いがこもっていた。
ベルトルトは横たわったまま、目を開けていた。
開けていた、はずだった。
天井の暗がりが見えているのに、次の瞬間にはもう何も分からなくなる。
意識が浮いて、沈む。
蒸気。
吹き飛ぶ屋根。
燃える建物。
見下ろした街は、ひどく小さかった。
兵士も、瓦礫も、人影も、熱の向こうで少しずつ形を失っていく。
それでも、刃だけは見えた。
白く閃いて、蒸気の中を縫うように迫ってくる。
そこまでは覚えている。
だが、その先になると急に輪郭が崩れる。
炎の白さ。
焼けた空気。
視界の端をかすめる立体機動の影。
そして。
「——ベルトルト!!」
その声だけが、妙にはっきり残っていた。
暗い船室の中で、ベルトルトの指先がわずかに動く。
あの声が届いた瞬間、自分は振り返った。
振り返ってしまった。
そこから先を思い出そうとすると、頭の奥が鈍く重くなる。何かが引っかかっているのに、掴もうとした途端、指の間から沈んでいく。
船が揺れた。
近くで、布が擦れる音がする。低い声が一度だけ聞こえたが、意味は聞き取れなかった。
もう一度、意識が浮いたとき、視界の端に金髪が見えた。
ライナーだった。
横たわったまま、動かない。
四肢から蒸気が上がり、顔色も悪い。呼吸に合わせて、胸だけがかすかに上下していた。
その姿が見えた次の瞬間、もう視界は暗く落ちていた。
船の中は静かだった。
壁の中で過ごした時間が、暗がりの底から途切れ途切れに浮かぶ。
訓練兵の制服。
見慣れた兵舎の廊下。
何でもない顔で交わした言葉。
嘘の上に、また嘘を重ねてきた。
見つけられないまま、手を伸ばし続けてきた。
それでも、今度こそ終わると思っていた。
もう迷わないつもりだった。
なのに。
「——ベルトルト!!」
また、その声が蘇る。
胸の奥が、鈍く揺れた。
そこで思考が止まる。
彼女の声だった。
そう考えるより先に分かる。
分かるのに、そこから先へ進めない。
目を閉じる。
意識が沈む。
*
次に目を開けたとき、光が変わっていた。
朝だった。
港は静かで、空も海も白く冷えて見えた。
ベルトルトは甲板の船縁近くに座らされていた。背後から兵が肩を支えている。
指も、脚も、形だけならもう戻っている。
それでも、立てなかった。
少し重心をずらすだけで、身体の芯がそのまま崩れ落ちそうになる。
視線を上げる。
甲板の向こうで、ライナーが抱え起こされていた。まだ自分では立てないらしい。
さらにその奥で、ジークは何事もなかったように普通に立っていた。
ピークはその隣で、軍港の方を見ている。表情までは分からない。
短い命令が飛ぶ。
兵たちの動きに無駄はない。
誰も声をかけない。
誰も顔色を変えない。
潮の匂いに、薬品の匂いが混じっていた。
戻ってきたのだと分かる。
残っているものが、ほとんどないことも。
始祖は奪えなかった。
壁の中で過ごした時間。
嘘の上に重ねた五年。
マルセルは最初にいなくなった。
アニも、置いてきた。
そして——
自分も、ライナーも、この有様だった。
それでも最後までやるつもりだった。
切り捨てるべきものは、もう決めていたはずだった。
なのに。
最後の瞬間に振り返った。
彼女の声に。
その事実だけが、遅れて胸の内側に沈んでいく。
兵に支えられたまま、ベルトルトは目を閉じた。
*
次に意識が浮いたとき、白い天井があった。
医務室だった。
乾いた白さだった。
船の暗さとも、戦場の熱とも違う。
鼻の奥に薬品の匂いが残っている。
皮膚の下では、まだ熱がじんわりと続いていた。
ベルトルトはしばらく、瞬きもせず天井を見ていた。
部屋は静かで、廊下の向こうの足音と、どこかで水の落ちる音だけがかすかに聞こえた。
それだけなのに、頭の中では別の音が消えない。
蒸気の噴き上がる音。
屋根の崩れる音。
焼ける空気の唸り。
熱の向こうで、街の形が歪んで見える。
兵士は小さく、声も届かない。ただ、動きと刃だけが異様にはっきりしていた。
その中で、ひとつだけ鮮明なものがある。
自分の名前を呼ぶ声だった。
あの瞬間。
動きが止まった。
手も。
意識も。
その場に立っていたはずの何もかもが。
彼女は死んだと思っていた。
爆発の中にいた。
蒸気の下にいた。
あの場所に残って、生きていられるはずがないと。
そう思っていた。
だから、見なかった。
探さなかった。
そこに残すべきものだと、そう思い込もうとしていた。
なのに。
生きていた。
血を流しながら、壊れた屋根の上で、それでも自分の名前を呼んだ。
その瞬間、生きていてよかったと、思ってしまった。
そう思った直後、胸の奥がすっと冷えた。
喉の奥が強く軋む。
何をしているんだ、と。
遅れてその言葉が浮かぶ。
もう迷わないつもりだった。
そう決めたはずだった。
なのに。
最後の瞬間に振り返った。
街を焼いて、人を殺して、仲間を失って、それでも最後に残ったのがそれだった。
始祖も奪えなかった。
マルセルの死も、アニを置いてきたことも、何ひとつ埋まらないままここまで来た。
そのくせ。
最後の最後で、自分は。
彼女が生きていたことに安堵した。
胃のあたりが、ひどく冷えた。
そんなものを抱く資格は、最初からどこにもない。
目を閉じる。
夜の石段が浮かぶ。
冷えた空気。
消え入りそうな声。
「ここに、いて」
制服の裾を掴んでいた指。
次に浮かぶのは、もっと近い距離だった。
確かめるように触れた手。
言い切れず落ちた声。
「……ここで……終わりなの……?」
胸の奥が軋む。
彼女はずっと、何も言わない自分を見ていた。
隠したままの自分を、そのまま信じていた。
自分は。
そこまで思ったところで、思考が止まる。
僕は――
続かない。
最低だ、
という言葉すら浮かばない。
失ったものも。
置いてきたものも。
あの声に反応した自分も。
何から考えればいいのか分からない。
全部が、途中で落ちていく。
昔、押し込めたはずの感覚だけが、形を変えて戻ってくる。
彼女の隣にいていい人間じゃない。
信じられていい人間じゃない。
名前を呼ばれて、振り返っていい人間じゃない。
喉の奥が焼ける。
けれど、その先へ進めない。
責める言葉も、悔いる言葉も、うまく形にならなかった。
体の内側で、いくつものものがぶつかる。
マルセルの死。
アニを残したこと。
積み重ねた五年。
彼女の声。
どれも沈みきらないまま、ただ重なっていく。
何もまとまらない。
何一つ、言葉にならない。
ベルトルトは天井を見たまま、ただ息をしていた。
吸って、吐く。
それだけが続く。
どれだけそうしていたのか分からない。
やがて、一つの言葉だけが残った。
(……僕は、戦士だ)
声にはならない。
その言葉だけが、意識の底に沈む。
それ以上は、考えなくていい。
考えたら、駄目だった。
マルセルの顔が浮かぶ。
アニの背中が浮かぶ。
ライナーの傷だらけの姿が浮かぶ。
壁の中の時間が浮かぶ。
その全部の上に、彼女の呼ぶ声だけが重なる。
——僕は、戦士だ。
その言葉だけを、意識の底で繰り返す。
空っぽのまま。
何も伴わないまま。
窓の外の光が落ちていく。
部屋は静かだった。
ベルトルトは目を閉じる。
意識がまた沈んでいく。
最後に浮かんだのは、姿ではなかった。
「ベルトルト」
呼ばれた名前だけが、暗い底まで沈まず残った。
…To be continued