【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第24話
壁の下は白い。
蒸気が、熱が、視界を奪っている。
空気が焼けて、喉の奥がひりつく。
遠くで、金属音。
ワイヤー。
誰かの怒鳴り声。
——鎧の巨人と、エレンの巨人が組み合っているのが見えた。
押さえ込む。殴る。
地面が揺れるたび、壁上の足元まで震えが伝わる。
その少し奥。
超大型巨人は、壁上から動かない。
ただ、蒸気を吐き続けている。
近づけない。
誰も近づけない。
(……熱い)
息を吸うたび肺が痛む。
目が乾いて、瞬きが追いつかない。
次の瞬間。
超大型巨人が——落ちた。
音が遅れて追いかけてくる。
地面が砕ける。
爆ぜる。
衝撃が空気を押し潰し、壁上まで叩きつけた。
爆風。
身体が浮く。
足元が消える。
石壁に叩きつけられ、肺の空気が一瞬で押し出された。
誰かが壁から吹き飛ばされる影が見えた。
白。
熱。
視界が焼ける。
壁上の空気が歪み、世界が溶けた。
何も聞こえない。
音が消える。
(……何が)
何が起きてる。
地面に伏せたまま、動けない。
呼吸だけが勝手に荒れる。
一度、吸う。
二度、吐く。
指が震える。
石を掴んでいないと、まだ飛ばされそうだった。
蒸気が薄れるまで、どれくらい経ったのか分からない。
時間の感覚が切れている。
やがて——白が、わずかにほどける。
だが誰も動かない。
壁上には倒れた兵が転がり、
呻き声だけが断続的に響いていた。
下を見れば、さらに酷い。
土煙と瓦礫。
ほとんど壊滅している。
戦場は止まっていた。
誰も追えない。
追う余力がない。
その静止した視界の奥で——
見えた。
立体機動装置の影。
蒸気の向こうを、人の姿が飛ぶ。
ユミルを抱えている。
その影が鎧の巨人に飛び乗り、
ゆっくりと距離を取っていく。
誰も動かない。
止める者もいない。
止められない。
(……ベルトルト)
名前が喉の奥で引っかかった。
声にできない。
口を開けない。
ただ見ていた。
見てしまった。
遠ざかる背。
鎧の巨人の巨大な輪郭。
抱えられたユミル。
胸の奥が、ゆっくりと沈む。
(……攫われた)
その言葉だけが、遅れて胸に落ちた。
それから、ようやく。
誰かが動き始めた。
倒れていた兵が起き上がる。
呻き声が増える。
指示の声が、かすかに戻る。
壁上の空気が、ゆっくり動き出した。
その頃にはもう、
鎧の巨人の背は遠かった。
止められる距離じゃなかった。
*
壁上の後方では、負傷兵の手当が続いていた。
包帯。
水。
運ばれる担架。
誰もが忙しく動いているのに、時間だけが薄い。
自分だけが、薄い膜の向こうにいるみたいだった。
気づいた時には、コニーが目の前にいた。
「おい、行くぞ」
呼びかけられた声が、耳に届くのに遅れる。
(……え?)
視線を動かすのにも、ひと呼吸かかる。
「……オリアナ?」
コニーの眉が寄る。
「お前……大丈夫か?」
返事を探すのに時間がかかる。
口が動かない。
喉が乾いて、舌が貼りついている。
「……大丈夫」
出た声が、自分のものに聞こえなかった。
コニーは納得していない顔をした。
その横に、クリスタが立っていた。
白い顔。
唇が青い。
それでも、こちらを見ている。
何か言いかけて——飲み込んだみたいに、ただ小さく首を振る。
(……クリスタ)
ユミル。
ユミルが——連れていかれた。
クリスタの目の奥が、まだそこに置き去りになっている。
それでも彼女は、オリアナの様子を見てしまう。
見て、痛そうにする。
言葉はない。
でも、友達の顔だった。
「おい、返事が遅いんだよ」
コニーが少し声を荒げた。
「お前さっきから、なんかおかしいぞ」
「……」
反論が浮かばない。
浮かばないまま、目だけが周囲を探してしまう。
——いない。
ここに、いない。
あの背は、もう見えない。
胸の奥が、ひび割れて音を立てない。
「……お前、大丈夫か!?」
コニーが半歩近づく。
その時。
壁の縁から、人影が現れた。
ワイヤーの音。
よろめくように、壁上へ上がってくる影。
——アルミンだった。
蒸気と砂にまみれた顔。呼吸が荒い。
上がりきったところで膝をつき、片手で壁を掴んだ。
「アルミン!」
コニーが呼ぶ。
アルミンは顔を上げ、コニーに短く頷きかけて——視線が止まった。
壁上に倒れている影。
ミカサだった。
「……ミカサ」
アルミンが駆け寄る。
呼びかける。
肩に手を置く。
反応がない。
アルミンの喉が、短く鳴った。
次の瞬間、彼は周囲を見回し——そして、こちらを見る。
視線が、オリアナの顔に止まる。
一瞬だけ、何かを理解した目。
(……やめて)
分かるな。
今、分かるな。
でもアルミンは、目を逸らさなかった。
「……オリアナ」
名前を呼ばれる。
それだけで、胸の奥が揺れる。
アルミンは立ち上がり、近づいてきた。
歩き方が少しぎこちない。
足元がふらついている。
それでも、こちらへ来る。
「……ここにいたんだね」
淡々とした声だった。
落ち着かせるための声。
コニーが焦ったように言う。
「なあ、アルミン、こいつさ……返事もしねぇし、なんか変なんだ」
クリスタが口を開いた。
「……オリアナ、さっきから……」
言葉が続かない。
言えないことを抱えたまま、目を伏せる。
アルミンは、ほんの少しだけ息を吐いた。
そして、オリアナの目を見て言った。
「……聞いて」
短い言葉。
それだけで、逃げ場がなくなる。
オリアナは何も言えない。
ただ、頷くこともできないまま立っていた。
アルミンは、必要なことだけを切り出すように話し始めた。
「爆発のあと、鎧の巨人がエレンを押さえ込んだ」
一文ずつ。
切るように。
「エレンは項ごと、鎧の巨人に齧り取られた」
胸の奥が、ひゅっと冷える。
現実が、言葉になって落ちてくる。
「そのあと……超大型巨人の残骸から、ベルトルトが出てきた」
——きた。
その名前だけで、視界が狭くなる。
アルミンの声は変わらない。
変わらないから、余計に刺さる。
「ユミルを抱えて、鎧の巨人に飛び乗った。
……二人とも、連れていった」
空気が止まる。
コニーが、かすれた声を漏らす。
「……ちょっと待てよ」
喉が震えている。
「今……ベルトルトって言ったか?
じゃあ……ライナーは……?」
アルミンは一瞬だけ言葉を選ぶように沈黙した。
「……鎧の巨人はライナーだ。
超大型巨人は、ベルトルトだった」
言葉が、はっきり落ちる。
「……嘘だろ……」
コニーの声が崩れる。
「あいつらが……敵……?」
言葉が震えている。
まだ信じたくない声。
オリアナの喉が、ひりつく。
違う、と言いたい。
でも、何が違うのか分からない。
ベルトルトは血を流していた。
苦しんでいた。
叫んでいた。
それなのに、巨人になった。
そして——去っていった。
(……嘘だ)
胸の奥が、ぐらぐらする。
アルミンが続ける。
「……それと、女型の巨人はアニだった。
今は地下で拘束されている。水晶化していて接触はできない」
アニ。
その名前が落ちた瞬間、
オリアナの胸の奥で何かが静かに沈んだ。
あの三人は、最初から同じ側にいた。
コニーとクリスタの顔が引き攣る。
「そんな……」
「どういうことだよ……!?もう訳わかんねぇよ……」
アルミンはほんの少しだけ黙り、
オリアナをまっすぐ見て静かな声で言った。
「君がどう感じてもいい」
一瞬、呼吸が戻る。
許される気がした。
でもすぐに、次が来る。
「でも……事実は変わらない」
静かで、冷たい声。
「今は、エレンとユミルを取り戻す。それだけ」
その言葉が、オリアナの中の何かを押し潰した。
それだけ。
それだけしか、許されない。
思考を切る。
感情を閉じる。
今は——動け。
命令だけを残す。
オリアナは、口を開いた。
何か言おうとして。
——声が出なかった。
喉が塞がったみたいに、息だけが漏れる。
アルミンはそれを見て、少しだけ目を伏せた。
「……大丈夫」
言い切らない。
断定しない。
ただ、置くように言う。
「動ける。君は」
それは励ましには聞こえなかった。
信頼とも違う。
命令みたいだった。
だから、オリアナは頷いた。
頷くしかなかった。
*
その後は、作業が続いた。
負傷者の搬送は終わり、
手当の段階に移っていた。
包帯の布の感触。
血の匂い。
水の重さ。
手は動く。
頭は遠い。
(……考えるな)
考えたら、壊れる。
意識を狭める。
目の前の動作だけに。
結ぶ。
拭く。
運ぶ。
それだけを繰り返していれば、
まだ立っていられた。
いつの間にか、着替えの指示が回った。
戦闘服へ。
装備を整えろ。
オリアナも従った。
服のボタンを留める指が震える。
革のベルトが硬い。
手がうまく動かない。
それでも、締めた。
締めないと、立てない。
*
どれくらい経ったのか分からない。
陽が傾いていた。
担架の列は途切れ、
怒鳴り声は消え、
残ったのは指示の声だけだった。
オリアナは、黙々と装備の点検をしていた。
刃を拭き、ワイヤーを巻き直す。
手は動く。
考えなくていい作業だけを選ぶ。
少し離れた場所で、ざわめきがあった。
誰かが名を呼ぶ声。
嗚咽を噛み殺す音。
すぐに静まる。
オリアナは顔を上げなかった。
音は聞こえている。
でも、意味に変換しない。
(……今は、動く)
しばらくして、壁上は静かになった。
誰も走らない。
怒鳴り声もない。
兵は壁の縁や石の上に座り込み、
ただ、遠くを見ていた。
追えない。
団長の到着を待つしかない。
そして——
速い足音が、こちらへ向かってくる。
迷いのない歩幅。
地面を踏み抜くみたいな圧。
オリアナは、ようやく顔を上げる。
「オリアナ」
ミカサの声だった。
目が赤い。
だが、涙はもうない。
揺れていたはずの何かが、
内側で固まっている。
炎を押し込めた顔だった。
ミカサはオリアナをじっと見た。
何かを確認する目。
そして、言った。
「……さっき」
喉が詰まる。
「ライナーとベルトルトを斬った時」
ミカサはそこで言葉を切った。
視線だけが、外れない。
「あなた、ベルトルトって叫んだ」
空気が、凍る。
周囲の音が遠のく。
金属音も、指示も、全部薄くなる。
オリアナは否定しようとして——言葉が出ない。
ミカサの目が細くなる。
「……何か特別な感情でもあるの?」
言葉が、刃みたいに落ちる。
オリアナの胸の奥が、ひび割れる。
違う、と言えない。
違うのかどうか、自分でも分からない。
ミカサは続けた。
「今は、エレンを取り戻すことだけを考えて。
それ以外は、いらない」
——いらない。
その一言で、内側が冷える。
言い返したい。
でも、声が出ない。
出たとしても、言い返す言葉がない。
オリアナは、短く息を吐いた。
吐いた息が震えた。
「……分かった」
絞り出すみたいに言う。
ミカサは、それ以上何も言わず踵を返した。
背中が遠ざかる。
刺されたのに、血は出ない。
代わりに、息ができなくなる。
(……迷惑になる)
自分の揺れが、
誰かを巻き込むかもしれない。
そう思った。
だから——
(考えるな)
もう、考えるな。
*
少しして、壁上に振動が走った。
蹄が石を叩く。
乾いた音が続く。
騎馬の列が、こちらへ駆けてくる。
装備が鳴る。
手綱が引かれ、先頭の馬が速度を落とす。
エルヴィン団長たちが合流した。
その中に、ジャンがいた。
視線が一瞬だけ合う。
ジャンは何も言わない。
ただ、オリアナの顔を見て——ほんの僅かに眉を動かした。
分かった、という顔だった。
でも、声はかけない。
オリアナは視線を外した。
今、言葉を交わしたら、
多分、立てなくなる。
誰もが、同じ方向を見ていた。
命令が降りる。
「エレン奪還作戦を開始する」
それだけで、世界が再び動き出す。
人の流れが整う。
装備が確認される。
隊列が組まれる。
オリアナも、その中に入る。
体は動く。
動ける。
命令なら動ける。
心は、どこか遠い場所に置いてきたみたいに空っぽだ。
(……取り戻す)
エレンを。
ユミルを。
——ベルトルトを、とは言えない。
考えない。
考えたら壊れる。
だから、目の前だけを見る。
足を出す。
ワイヤーを確かめる。
刃の重さを確かめる。
生きるための動作を、淡々と繰り返す。
コニーが、ぽつりと言った。
「……まだ、信じられねぇよ」
声が震えている。
怒りじゃない。
恐怖でもない。
「……なんでだよ」
ただ、現実を拒む声。
オリアナは答えなかった。
答えられない。
代わりに、前を見る。
前だけを見ていれば、
まだ、壊れずに済む気がした。
——日が傾いても、胸の奥は冷えたままだった。
今はただ、
ひび割れたままの沈黙の中で、
命令だけが、オリアナを歩かせていた。
…To be continued
ひび割れた沈黙
爆風の余韻が、まだ空気に残っていた。壁の下は白い。
蒸気が、熱が、視界を奪っている。
空気が焼けて、喉の奥がひりつく。
遠くで、金属音。
ワイヤー。
誰かの怒鳴り声。
——鎧の巨人と、エレンの巨人が組み合っているのが見えた。
押さえ込む。殴る。
地面が揺れるたび、壁上の足元まで震えが伝わる。
その少し奥。
超大型巨人は、壁上から動かない。
ただ、蒸気を吐き続けている。
近づけない。
誰も近づけない。
(……熱い)
息を吸うたび肺が痛む。
目が乾いて、瞬きが追いつかない。
次の瞬間。
超大型巨人が——落ちた。
音が遅れて追いかけてくる。
地面が砕ける。
爆ぜる。
衝撃が空気を押し潰し、壁上まで叩きつけた。
爆風。
身体が浮く。
足元が消える。
石壁に叩きつけられ、肺の空気が一瞬で押し出された。
誰かが壁から吹き飛ばされる影が見えた。
白。
熱。
視界が焼ける。
壁上の空気が歪み、世界が溶けた。
何も聞こえない。
音が消える。
(……何が)
何が起きてる。
地面に伏せたまま、動けない。
呼吸だけが勝手に荒れる。
一度、吸う。
二度、吐く。
指が震える。
石を掴んでいないと、まだ飛ばされそうだった。
蒸気が薄れるまで、どれくらい経ったのか分からない。
時間の感覚が切れている。
やがて——白が、わずかにほどける。
だが誰も動かない。
壁上には倒れた兵が転がり、
呻き声だけが断続的に響いていた。
下を見れば、さらに酷い。
土煙と瓦礫。
ほとんど壊滅している。
戦場は止まっていた。
誰も追えない。
追う余力がない。
その静止した視界の奥で——
見えた。
立体機動装置の影。
蒸気の向こうを、人の姿が飛ぶ。
ユミルを抱えている。
その影が鎧の巨人に飛び乗り、
ゆっくりと距離を取っていく。
誰も動かない。
止める者もいない。
止められない。
(……ベルトルト)
名前が喉の奥で引っかかった。
声にできない。
口を開けない。
ただ見ていた。
見てしまった。
遠ざかる背。
鎧の巨人の巨大な輪郭。
抱えられたユミル。
胸の奥が、ゆっくりと沈む。
(……攫われた)
その言葉だけが、遅れて胸に落ちた。
それから、ようやく。
誰かが動き始めた。
倒れていた兵が起き上がる。
呻き声が増える。
指示の声が、かすかに戻る。
壁上の空気が、ゆっくり動き出した。
その頃にはもう、
鎧の巨人の背は遠かった。
止められる距離じゃなかった。
*
壁上の後方では、負傷兵の手当が続いていた。
包帯。
水。
運ばれる担架。
誰もが忙しく動いているのに、時間だけが薄い。
自分だけが、薄い膜の向こうにいるみたいだった。
気づいた時には、コニーが目の前にいた。
「おい、行くぞ」
呼びかけられた声が、耳に届くのに遅れる。
(……え?)
視線を動かすのにも、ひと呼吸かかる。
「……オリアナ?」
コニーの眉が寄る。
「お前……大丈夫か?」
返事を探すのに時間がかかる。
口が動かない。
喉が乾いて、舌が貼りついている。
「……大丈夫」
出た声が、自分のものに聞こえなかった。
コニーは納得していない顔をした。
その横に、クリスタが立っていた。
白い顔。
唇が青い。
それでも、こちらを見ている。
何か言いかけて——飲み込んだみたいに、ただ小さく首を振る。
(……クリスタ)
ユミル。
ユミルが——連れていかれた。
クリスタの目の奥が、まだそこに置き去りになっている。
それでも彼女は、オリアナの様子を見てしまう。
見て、痛そうにする。
言葉はない。
でも、友達の顔だった。
「おい、返事が遅いんだよ」
コニーが少し声を荒げた。
「お前さっきから、なんかおかしいぞ」
「……」
反論が浮かばない。
浮かばないまま、目だけが周囲を探してしまう。
——いない。
ここに、いない。
あの背は、もう見えない。
胸の奥が、ひび割れて音を立てない。
「……お前、大丈夫か!?」
コニーが半歩近づく。
その時。
壁の縁から、人影が現れた。
ワイヤーの音。
よろめくように、壁上へ上がってくる影。
——アルミンだった。
蒸気と砂にまみれた顔。呼吸が荒い。
上がりきったところで膝をつき、片手で壁を掴んだ。
「アルミン!」
コニーが呼ぶ。
アルミンは顔を上げ、コニーに短く頷きかけて——視線が止まった。
壁上に倒れている影。
ミカサだった。
「……ミカサ」
アルミンが駆け寄る。
呼びかける。
肩に手を置く。
反応がない。
アルミンの喉が、短く鳴った。
次の瞬間、彼は周囲を見回し——そして、こちらを見る。
視線が、オリアナの顔に止まる。
一瞬だけ、何かを理解した目。
(……やめて)
分かるな。
今、分かるな。
でもアルミンは、目を逸らさなかった。
「……オリアナ」
名前を呼ばれる。
それだけで、胸の奥が揺れる。
アルミンは立ち上がり、近づいてきた。
歩き方が少しぎこちない。
足元がふらついている。
それでも、こちらへ来る。
「……ここにいたんだね」
淡々とした声だった。
落ち着かせるための声。
コニーが焦ったように言う。
「なあ、アルミン、こいつさ……返事もしねぇし、なんか変なんだ」
クリスタが口を開いた。
「……オリアナ、さっきから……」
言葉が続かない。
言えないことを抱えたまま、目を伏せる。
アルミンは、ほんの少しだけ息を吐いた。
そして、オリアナの目を見て言った。
「……聞いて」
短い言葉。
それだけで、逃げ場がなくなる。
オリアナは何も言えない。
ただ、頷くこともできないまま立っていた。
アルミンは、必要なことだけを切り出すように話し始めた。
「爆発のあと、鎧の巨人がエレンを押さえ込んだ」
一文ずつ。
切るように。
「エレンは項ごと、鎧の巨人に齧り取られた」
胸の奥が、ひゅっと冷える。
現実が、言葉になって落ちてくる。
「そのあと……超大型巨人の残骸から、ベルトルトが出てきた」
——きた。
その名前だけで、視界が狭くなる。
アルミンの声は変わらない。
変わらないから、余計に刺さる。
「ユミルを抱えて、鎧の巨人に飛び乗った。
……二人とも、連れていった」
空気が止まる。
コニーが、かすれた声を漏らす。
「……ちょっと待てよ」
喉が震えている。
「今……ベルトルトって言ったか?
じゃあ……ライナーは……?」
アルミンは一瞬だけ言葉を選ぶように沈黙した。
「……鎧の巨人はライナーだ。
超大型巨人は、ベルトルトだった」
言葉が、はっきり落ちる。
「……嘘だろ……」
コニーの声が崩れる。
「あいつらが……敵……?」
言葉が震えている。
まだ信じたくない声。
オリアナの喉が、ひりつく。
違う、と言いたい。
でも、何が違うのか分からない。
ベルトルトは血を流していた。
苦しんでいた。
叫んでいた。
それなのに、巨人になった。
そして——去っていった。
(……嘘だ)
胸の奥が、ぐらぐらする。
アルミンが続ける。
「……それと、女型の巨人はアニだった。
今は地下で拘束されている。水晶化していて接触はできない」
アニ。
その名前が落ちた瞬間、
オリアナの胸の奥で何かが静かに沈んだ。
あの三人は、最初から同じ側にいた。
コニーとクリスタの顔が引き攣る。
「そんな……」
「どういうことだよ……!?もう訳わかんねぇよ……」
アルミンはほんの少しだけ黙り、
オリアナをまっすぐ見て静かな声で言った。
「君がどう感じてもいい」
一瞬、呼吸が戻る。
許される気がした。
でもすぐに、次が来る。
「でも……事実は変わらない」
静かで、冷たい声。
「今は、エレンとユミルを取り戻す。それだけ」
その言葉が、オリアナの中の何かを押し潰した。
それだけ。
それだけしか、許されない。
思考を切る。
感情を閉じる。
今は——動け。
命令だけを残す。
オリアナは、口を開いた。
何か言おうとして。
——声が出なかった。
喉が塞がったみたいに、息だけが漏れる。
アルミンはそれを見て、少しだけ目を伏せた。
「……大丈夫」
言い切らない。
断定しない。
ただ、置くように言う。
「動ける。君は」
それは励ましには聞こえなかった。
信頼とも違う。
命令みたいだった。
だから、オリアナは頷いた。
頷くしかなかった。
*
その後は、作業が続いた。
負傷者の搬送は終わり、
手当の段階に移っていた。
包帯の布の感触。
血の匂い。
水の重さ。
手は動く。
頭は遠い。
(……考えるな)
考えたら、壊れる。
意識を狭める。
目の前の動作だけに。
結ぶ。
拭く。
運ぶ。
それだけを繰り返していれば、
まだ立っていられた。
いつの間にか、着替えの指示が回った。
戦闘服へ。
装備を整えろ。
オリアナも従った。
服のボタンを留める指が震える。
革のベルトが硬い。
手がうまく動かない。
それでも、締めた。
締めないと、立てない。
*
どれくらい経ったのか分からない。
陽が傾いていた。
担架の列は途切れ、
怒鳴り声は消え、
残ったのは指示の声だけだった。
オリアナは、黙々と装備の点検をしていた。
刃を拭き、ワイヤーを巻き直す。
手は動く。
考えなくていい作業だけを選ぶ。
少し離れた場所で、ざわめきがあった。
誰かが名を呼ぶ声。
嗚咽を噛み殺す音。
すぐに静まる。
オリアナは顔を上げなかった。
音は聞こえている。
でも、意味に変換しない。
(……今は、動く)
しばらくして、壁上は静かになった。
誰も走らない。
怒鳴り声もない。
兵は壁の縁や石の上に座り込み、
ただ、遠くを見ていた。
追えない。
団長の到着を待つしかない。
そして——
速い足音が、こちらへ向かってくる。
迷いのない歩幅。
地面を踏み抜くみたいな圧。
オリアナは、ようやく顔を上げる。
「オリアナ」
ミカサの声だった。
目が赤い。
だが、涙はもうない。
揺れていたはずの何かが、
内側で固まっている。
炎を押し込めた顔だった。
ミカサはオリアナをじっと見た。
何かを確認する目。
そして、言った。
「……さっき」
喉が詰まる。
「ライナーとベルトルトを斬った時」
ミカサはそこで言葉を切った。
視線だけが、外れない。
「あなた、ベルトルトって叫んだ」
空気が、凍る。
周囲の音が遠のく。
金属音も、指示も、全部薄くなる。
オリアナは否定しようとして——言葉が出ない。
ミカサの目が細くなる。
「……何か特別な感情でもあるの?」
言葉が、刃みたいに落ちる。
オリアナの胸の奥が、ひび割れる。
違う、と言えない。
違うのかどうか、自分でも分からない。
ミカサは続けた。
「今は、エレンを取り戻すことだけを考えて。
それ以外は、いらない」
——いらない。
その一言で、内側が冷える。
言い返したい。
でも、声が出ない。
出たとしても、言い返す言葉がない。
オリアナは、短く息を吐いた。
吐いた息が震えた。
「……分かった」
絞り出すみたいに言う。
ミカサは、それ以上何も言わず踵を返した。
背中が遠ざかる。
刺されたのに、血は出ない。
代わりに、息ができなくなる。
(……迷惑になる)
自分の揺れが、
誰かを巻き込むかもしれない。
そう思った。
だから——
(考えるな)
もう、考えるな。
*
少しして、壁上に振動が走った。
蹄が石を叩く。
乾いた音が続く。
騎馬の列が、こちらへ駆けてくる。
装備が鳴る。
手綱が引かれ、先頭の馬が速度を落とす。
エルヴィン団長たちが合流した。
その中に、ジャンがいた。
視線が一瞬だけ合う。
ジャンは何も言わない。
ただ、オリアナの顔を見て——ほんの僅かに眉を動かした。
分かった、という顔だった。
でも、声はかけない。
オリアナは視線を外した。
今、言葉を交わしたら、
多分、立てなくなる。
誰もが、同じ方向を見ていた。
命令が降りる。
「エレン奪還作戦を開始する」
それだけで、世界が再び動き出す。
人の流れが整う。
装備が確認される。
隊列が組まれる。
オリアナも、その中に入る。
体は動く。
動ける。
命令なら動ける。
心は、どこか遠い場所に置いてきたみたいに空っぽだ。
(……取り戻す)
エレンを。
ユミルを。
——ベルトルトを、とは言えない。
考えない。
考えたら壊れる。
だから、目の前だけを見る。
足を出す。
ワイヤーを確かめる。
刃の重さを確かめる。
生きるための動作を、淡々と繰り返す。
コニーが、ぽつりと言った。
「……まだ、信じられねぇよ」
声が震えている。
怒りじゃない。
恐怖でもない。
「……なんでだよ」
ただ、現実を拒む声。
オリアナは答えなかった。
答えられない。
代わりに、前を見る。
前だけを見ていれば、
まだ、壊れずに済む気がした。
——日が傾いても、胸の奥は冷えたままだった。
今はただ、
ひび割れたままの沈黙の中で、
命令だけが、オリアナを歩かせていた。
…To be continued