【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第23話
夜の冷たさはまだ残っている。
血の匂いは薄れず、土と蒸気と、焦げた匂いに鉄の気配が混ざっていた。
オリアナは壁の縁に手を置き、指先の感覚を確かめた。震えは止まらない。
身体のどこかが痛いのに、その痛みだけが少し遅れている。
(……生きてる)
その事実が、現実よりも軽い。
軽すぎて、掴めない。
巨人の背から飛び降りた衝撃。
仲間の叫び。
立体機動の音。
誰かに引き上げられる感覚。
その全てが、一枚の薄い膜を挟んで遠い。
壁の内側に設けられた簡易のリフトが軋み、上がってくる。担架がいくつか運ばれ、そのあとに遅れて、数人がよろめくように壁の上へ上がった。
オリアナは、ふと視線を向ける。
そこに、ベルトルトがいた。
壁の上へ足を掛ける動きはいつもより不格好で、息は浅く、顔色も青かった。
喉の奥が、かすかに鳴っているのが分かった。
オリアナは反射で手を差し出していた。
「……っ」
ベルトルトが一瞬だけ目を上げる。
目が合いかけて、逸れた。
それでも彼は、その手を掴んだ。
指先が冷たい。
握る力が、妙に強い。
オリアナは引き上げる。
自分の体重の乗った手の感覚が、現実を少しだけ戻した。
「……大丈夫?」
声が出たことに、自分で驚いた。
思ったより掠れている。
ベルトルトは息を吸い、吐く。
それから、短く頷いた。
「……うん。……なんとか」
その返答も、いつもより小さい。
彼は一歩壁の上へ出て、風に煽られながら体勢を整えた。
オリアナは言葉を探す。
あの瞬間。
塔が崩れる瞬間。
背後から来た力。
引き寄せられた感覚。
(……言わなきゃ)
今は、ただ確かめたかった。
彼がここにいることを。
「さっきは……」
唇が乾く。
「……ありがとう。塔が崩れる時……庇ってくれて」
ベルトルトの肩が、わずかに揺れた。
返事がすぐに来ない。
風の音だけが、二人の間を通り抜けた。
(……聞きたいことは、他にもあるのに)
彼は目を逸らしたまま、喉の奥で何かを詰まらせるように息を吐く。
「……とっさに、動いただけだよ」
自分に言い聞かせるみたいな声だった。
オリアナはそれ以上言えなかった。
胸の奥に、あの小さな声が沈んでいる。
“あの時の……”
聞いた。
確かに聞いた。
だが、それを掘り返す余裕がない。
(今は……)
今は、生きていることの確認で精一杯だった。
ベルトルトが、風の向こうを見た。
その視線の先で、担架が引き上げられている。
ユミルだった。
担架の周りには人が集まり、ざわめきが波のように広がっていく。
巨人だった者を見る空気が、そこにあった。
オリアナは自然に足が動いていた。
ベルトルトの隣を離れ、担架の方へ近づく。
ユミルは、白布の下で動かない。
血の匂いが濃い。
右側にあるはずのものが、そこにはなかった。
クリスタが膝をつき、担架の脇に張り付いていた。顔は真っ白で、目だけが必死に何かを追っている。
ハンジが屈み込んで、状況を見ている。
周囲の兵は、まだ警戒を解かない。
ユミルを見る目には、助けられた仲間を見るものと、巨人だった者を見るものが混ざっていた。
クリスタが声を震わせる。
「ユミルは……味方です。……私たちを助けました。だから……!」
言葉が途中で詰まる。
泣く余裕すら奪われている顔だった。
オリアナは担架の反対側に膝をつく。
指先で布の端を掴みかけて、止めた。
見るのが怖い、というより、今見たら、もう「生きてて良かった」と思えなくなる気がした。
(ユミルは……私たちを助けた)
助けた。
助けたのに。
死んだ者は戻らない。
(ナナバさん……)
静かな声。
迷いのない判断。
あの夜、確かにそこにいた背中が浮かぶ。
「新兵は下がっていろ」
そう言って前に出た人が、もういない。
名前が浮かんだ瞬間、胸の奥が沈んだ。
息が詰まる。
守られる側のまま、何もできなかった。
無力感が、内側から骨を削る。
誰かの死が、ただ起きたこととして流れていくのが耐えられない。
オリアナは、膝の上で手を握りしめた。
爪が皮膚に食い込む。
(忘れたくない。でも……)
今は、覚えていることすら苦しい。
遠くで声が上がった。
壁上の別の場所だ。
オリアナが顔を上げると、少し離れた所に人だかりができていた。
ライナーとベルトルト、エレン、アルミンがそこにいる。
距離があり、何を話しているのかは聞こえない。
ライナーは、頭を抱えているように見えた。
肩が落ち、体が重そうだ。
その隣で、ベルトルトが何かを言っている。
声までは届かないが、口元だけが動いていた。
少し焦っているようにも、興奮しているようにも見えた。
(……どうしたの)
オリアナの中の違和感が、また小さく疼いた。
だが、その違和感に形を与える前に、別のざわめきが壁上を走った。
*
駐屯兵団の先遣隊が到着した。
馬と装備の音が壁上に広がり、指揮の声が飛び交う。その騒がしさの中に、伝達が落ちた。
「穴がどこにもない」
空気が変わった。
一瞬で、全員の呼吸が揃わなくなる。
「……は?」
誰かが声を漏らした。
怒りにも恐怖にも届かない、空虚な音だった。
「嘘だろ……」
穴がない。
巨人が壁内にいるのに。
意味が繋がらないまま、現実だけが押し寄せてくる。
一度トロスト区へ戻り、待機する案が出た。
その場にいた兵たちが動き始め、オリアナも流れに従って歩き出す。
膝が笑っていた。
足首がぐらつく。
そのとき、背後で誰かが立ち止まった気配がした。
オリアナは反射で振り返る。
ライナーが、エレンを呼び止めている。
距離があって、言葉は聞こえない。
それでも、空気の質が変わったのは分かった。
ベルトルトは困惑したような顔をしていた。
一瞬、何かを止めようとするように動き、すぐに視線を揺らした。
周囲の兵の視線が、そこへ集まっていく。
誰も近寄らない。
近寄れない空気だった。
(……何)
体の内側が冷える。
エレンが何かを言ったあと、ライナーの表情が明らかに変わった。
クリスタが巻いた包帯を外している。
その行動も、壁上に広がる異様な空気も、何かがおかしかった。
胸の奥のざわめきが強くなる。
次の瞬間。
ライナーが、大きな声を上げた。
「勝負は今!!ここで決める!!」
その声は、壁上の空気を切り裂いた。
オリアナの思考が、そこで止まる。
金属音。
ワイヤーが弾ける音。
ミカサが、飛んだ。
速い。
視界が追いつかない。
刃が閃き、ライナーに斬撃が入る。
さらに、間髪入れず。
ベルトルトにも、斬撃。
血が飛び散った。
音が消えた。
血が空中でほどけるのが、やけにゆっくり見えた。
ベルトルトが後ろへ倒れる。
「——っ」
息が止まる。
声が出ない。
ミカサが上から押さえ込む。
「エレン!!逃げて!!」
叫びながら、刃を突き立てようとする。
刃先が、喉元へ落ちる。
ベルトルトの顔が恐怖と痛みに歪み、引き攣れた悲鳴が漏れた。
「うああぁ……ッ!!」
その声で、オリアナの身体が弾かれたように動いた。考えるより先に、足が地を蹴る。
「——ベルトルト!!」
叫びが喉から飛び出した。
自分の声が自分のものじゃないみたいに大きい。
何が起きたのか理解できない。
突っ込む。
ただ、身体が前へ出る。
距離がある。
人の背が、邪魔をする。
前にいた兵も、後ろの兵も、全員が一斉に動き出した。
敵か味方かも分からないまま、ただ何かが起きたことだけが、異様な流れになって壁上に広がっていく。
オリアナは走る。
血。
倒れた体。
刃。
ミカサの殺気。
(なんで……っ)
なんで、ミカサが。
なんで、ベルトルトが血を流して。
(守らなきゃ──)
守らなきゃ、という本能だけが先に来る。
理由は後から追いつくはずだった。
追いつく前に。
世界が、裂けた。
音より先に、光が弾けた。
轟音。
爆風。
熱。
目の前が白くなる。
空気が燃える。
オリアナの体が宙に浮いた。
背中を殴られたような衝撃で、息が肺から押し出される。
視界の端で、巨大な影が立ち上がる。
蒸気と熱と圧が、一気に押し寄せた。
超大型巨人だった。
(……え)
そんなはずが、ない。
理解が拒否する。
思考が追いつかない。
あれは、巨人。
巨人は、敵。
でも。
さっきまで、ベルトルトがそこにいた。
血を流して、苦しんで。
(……違う、違う)
何が起きてるのか、分からない。
分からないまま、身体が落ちる。
その瞬間、誰かの腕がオリアナを支えた。
強い力で抱え込まれる。
近くで、怒鳴り声が飛んだ。
「全員ッ、壁から跳べ!!」
ハンジの声だった。
直後、身体が壁の外へ投げ出される。
巨大な腕が振り下ろされる。
壁上を叩きつけ、爆風とともに瓦礫が降り注ぐ。
風が裂け、胃が浮き、視界が反転する。
落ちる。
その刹那、衝撃が止まった。
先輩兵がアンカーを打ち込んでいた。
金属音が鳴り、ワイヤーが張る。
身体が強く引き戻され、空中で揺れる。
先輩兵の腕に抱えられたまま、壁面に吊られていた。
息が戻らない。
心臓だけが暴れている。
「大丈夫か!」
誰かの声。
返事ができない。
ただ、目だけが壁上を探してしまう。
(ベルトルト……)
どこ。
どこにいる。
血が。
あの人が苦しんでる。
助けなきゃいけないのに。
巨人の蒸気に、視界が滲む。
何も見えない。
見えないのに、探す。
信じない。
信じたくない。
血を流してた。
倒れてた。
苦しんでた。
それなのに。
(……嘘だ)
否定が、遅れて胸に落ちる。
その否定のせいで、余計に苦しくなる。
先輩兵がワイヤーを巻き取り、壁上へ戻る。
オリアナは半ば引きずられるようにして、先ほどより後方に降ろされた。
*
オリアナは息を吸った。
吸ったはずなのに、空気が入らない。
立ち上がろうとして、膝が折れた。
周囲では、命令と叫び声と金属音がぶつかり合っていた。それらは意味を持たないまま、ただ耳の奥で割れていく。
(……なにが)
なにが起きた。
誰が敵で、誰が味方で。
どうしてベルトルトが。
正しい理解が追いつく前に、感情だけが暴れる。
探したい。
走りたい。
止めたい。
触れたい、守りたいという衝動まで、遅れて込み上げてくる。
全部が同時に湧いて、全部が叶わない。
オリアナは口を開いた。
名前を呼ぼうとして。
声が出なかった。
喉が塞がったみたいに、息だけが漏れる。
視界の向こうに、超大型の影が動く。
熱が波みたいに押し寄せる。
(……終わってない)
終わっていない。
何も終わっていない。
足元がなくなるような感覚だけがあった。
終わっていないと分かるからこそ、身体が冷えていく。
オリアナは、震える指を強く握る。
ベルトルトを探す目だけが、諦めない。
認めない。
認めたくない。
でも、見てしまった。
血。
刃。
巨人。
爆風。
その全部が、同じ一本の線に繋がろうとしている。
オリアナは唇を噛んだ。
血の味がした。
(ベルトルト──)
悲鳴を上げたいのに、声が出ない。
感情がまとまらず、涙も出ない。
ただ、胸の奥だけが叫んでいる。
(お願い、違って)
違っていて。
まだ、ここにいて。
夜明けの光は、残酷なほど明るかった。
…To be continued
崩れた世界
壁の上は、風が強かった。夜の冷たさはまだ残っている。
血の匂いは薄れず、土と蒸気と、焦げた匂いに鉄の気配が混ざっていた。
オリアナは壁の縁に手を置き、指先の感覚を確かめた。震えは止まらない。
身体のどこかが痛いのに、その痛みだけが少し遅れている。
(……生きてる)
その事実が、現実よりも軽い。
軽すぎて、掴めない。
巨人の背から飛び降りた衝撃。
仲間の叫び。
立体機動の音。
誰かに引き上げられる感覚。
その全てが、一枚の薄い膜を挟んで遠い。
壁の内側に設けられた簡易のリフトが軋み、上がってくる。担架がいくつか運ばれ、そのあとに遅れて、数人がよろめくように壁の上へ上がった。
オリアナは、ふと視線を向ける。
そこに、ベルトルトがいた。
壁の上へ足を掛ける動きはいつもより不格好で、息は浅く、顔色も青かった。
喉の奥が、かすかに鳴っているのが分かった。
オリアナは反射で手を差し出していた。
「……っ」
ベルトルトが一瞬だけ目を上げる。
目が合いかけて、逸れた。
それでも彼は、その手を掴んだ。
指先が冷たい。
握る力が、妙に強い。
オリアナは引き上げる。
自分の体重の乗った手の感覚が、現実を少しだけ戻した。
「……大丈夫?」
声が出たことに、自分で驚いた。
思ったより掠れている。
ベルトルトは息を吸い、吐く。
それから、短く頷いた。
「……うん。……なんとか」
その返答も、いつもより小さい。
彼は一歩壁の上へ出て、風に煽られながら体勢を整えた。
オリアナは言葉を探す。
あの瞬間。
塔が崩れる瞬間。
背後から来た力。
引き寄せられた感覚。
(……言わなきゃ)
今は、ただ確かめたかった。
彼がここにいることを。
「さっきは……」
唇が乾く。
「……ありがとう。塔が崩れる時……庇ってくれて」
ベルトルトの肩が、わずかに揺れた。
返事がすぐに来ない。
風の音だけが、二人の間を通り抜けた。
(……聞きたいことは、他にもあるのに)
彼は目を逸らしたまま、喉の奥で何かを詰まらせるように息を吐く。
「……とっさに、動いただけだよ」
自分に言い聞かせるみたいな声だった。
オリアナはそれ以上言えなかった。
胸の奥に、あの小さな声が沈んでいる。
“あの時の……”
聞いた。
確かに聞いた。
だが、それを掘り返す余裕がない。
(今は……)
今は、生きていることの確認で精一杯だった。
ベルトルトが、風の向こうを見た。
その視線の先で、担架が引き上げられている。
ユミルだった。
担架の周りには人が集まり、ざわめきが波のように広がっていく。
巨人だった者を見る空気が、そこにあった。
オリアナは自然に足が動いていた。
ベルトルトの隣を離れ、担架の方へ近づく。
ユミルは、白布の下で動かない。
血の匂いが濃い。
右側にあるはずのものが、そこにはなかった。
クリスタが膝をつき、担架の脇に張り付いていた。顔は真っ白で、目だけが必死に何かを追っている。
ハンジが屈み込んで、状況を見ている。
周囲の兵は、まだ警戒を解かない。
ユミルを見る目には、助けられた仲間を見るものと、巨人だった者を見るものが混ざっていた。
クリスタが声を震わせる。
「ユミルは……味方です。……私たちを助けました。だから……!」
言葉が途中で詰まる。
泣く余裕すら奪われている顔だった。
オリアナは担架の反対側に膝をつく。
指先で布の端を掴みかけて、止めた。
見るのが怖い、というより、今見たら、もう「生きてて良かった」と思えなくなる気がした。
(ユミルは……私たちを助けた)
助けた。
助けたのに。
死んだ者は戻らない。
(ナナバさん……)
静かな声。
迷いのない判断。
あの夜、確かにそこにいた背中が浮かぶ。
「新兵は下がっていろ」
そう言って前に出た人が、もういない。
名前が浮かんだ瞬間、胸の奥が沈んだ。
息が詰まる。
守られる側のまま、何もできなかった。
無力感が、内側から骨を削る。
誰かの死が、ただ起きたこととして流れていくのが耐えられない。
オリアナは、膝の上で手を握りしめた。
爪が皮膚に食い込む。
(忘れたくない。でも……)
今は、覚えていることすら苦しい。
遠くで声が上がった。
壁上の別の場所だ。
オリアナが顔を上げると、少し離れた所に人だかりができていた。
ライナーとベルトルト、エレン、アルミンがそこにいる。
距離があり、何を話しているのかは聞こえない。
ライナーは、頭を抱えているように見えた。
肩が落ち、体が重そうだ。
その隣で、ベルトルトが何かを言っている。
声までは届かないが、口元だけが動いていた。
少し焦っているようにも、興奮しているようにも見えた。
(……どうしたの)
オリアナの中の違和感が、また小さく疼いた。
だが、その違和感に形を与える前に、別のざわめきが壁上を走った。
*
駐屯兵団の先遣隊が到着した。
馬と装備の音が壁上に広がり、指揮の声が飛び交う。その騒がしさの中に、伝達が落ちた。
「穴がどこにもない」
空気が変わった。
一瞬で、全員の呼吸が揃わなくなる。
「……は?」
誰かが声を漏らした。
怒りにも恐怖にも届かない、空虚な音だった。
「嘘だろ……」
穴がない。
巨人が壁内にいるのに。
意味が繋がらないまま、現実だけが押し寄せてくる。
一度トロスト区へ戻り、待機する案が出た。
その場にいた兵たちが動き始め、オリアナも流れに従って歩き出す。
膝が笑っていた。
足首がぐらつく。
そのとき、背後で誰かが立ち止まった気配がした。
オリアナは反射で振り返る。
ライナーが、エレンを呼び止めている。
距離があって、言葉は聞こえない。
それでも、空気の質が変わったのは分かった。
ベルトルトは困惑したような顔をしていた。
一瞬、何かを止めようとするように動き、すぐに視線を揺らした。
周囲の兵の視線が、そこへ集まっていく。
誰も近寄らない。
近寄れない空気だった。
(……何)
体の内側が冷える。
エレンが何かを言ったあと、ライナーの表情が明らかに変わった。
クリスタが巻いた包帯を外している。
その行動も、壁上に広がる異様な空気も、何かがおかしかった。
胸の奥のざわめきが強くなる。
次の瞬間。
ライナーが、大きな声を上げた。
「勝負は今!!ここで決める!!」
その声は、壁上の空気を切り裂いた。
オリアナの思考が、そこで止まる。
金属音。
ワイヤーが弾ける音。
ミカサが、飛んだ。
速い。
視界が追いつかない。
刃が閃き、ライナーに斬撃が入る。
さらに、間髪入れず。
ベルトルトにも、斬撃。
血が飛び散った。
音が消えた。
血が空中でほどけるのが、やけにゆっくり見えた。
ベルトルトが後ろへ倒れる。
「——っ」
息が止まる。
声が出ない。
ミカサが上から押さえ込む。
「エレン!!逃げて!!」
叫びながら、刃を突き立てようとする。
刃先が、喉元へ落ちる。
ベルトルトの顔が恐怖と痛みに歪み、引き攣れた悲鳴が漏れた。
「うああぁ……ッ!!」
その声で、オリアナの身体が弾かれたように動いた。考えるより先に、足が地を蹴る。
「——ベルトルト!!」
叫びが喉から飛び出した。
自分の声が自分のものじゃないみたいに大きい。
何が起きたのか理解できない。
突っ込む。
ただ、身体が前へ出る。
距離がある。
人の背が、邪魔をする。
前にいた兵も、後ろの兵も、全員が一斉に動き出した。
敵か味方かも分からないまま、ただ何かが起きたことだけが、異様な流れになって壁上に広がっていく。
オリアナは走る。
血。
倒れた体。
刃。
ミカサの殺気。
(なんで……っ)
なんで、ミカサが。
なんで、ベルトルトが血を流して。
(守らなきゃ──)
守らなきゃ、という本能だけが先に来る。
理由は後から追いつくはずだった。
追いつく前に。
世界が、裂けた。
音より先に、光が弾けた。
轟音。
爆風。
熱。
目の前が白くなる。
空気が燃える。
オリアナの体が宙に浮いた。
背中を殴られたような衝撃で、息が肺から押し出される。
視界の端で、巨大な影が立ち上がる。
蒸気と熱と圧が、一気に押し寄せた。
超大型巨人だった。
(……え)
そんなはずが、ない。
理解が拒否する。
思考が追いつかない。
あれは、巨人。
巨人は、敵。
でも。
さっきまで、ベルトルトがそこにいた。
血を流して、苦しんで。
(……違う、違う)
何が起きてるのか、分からない。
分からないまま、身体が落ちる。
その瞬間、誰かの腕がオリアナを支えた。
強い力で抱え込まれる。
近くで、怒鳴り声が飛んだ。
「全員ッ、壁から跳べ!!」
ハンジの声だった。
直後、身体が壁の外へ投げ出される。
巨大な腕が振り下ろされる。
壁上を叩きつけ、爆風とともに瓦礫が降り注ぐ。
風が裂け、胃が浮き、視界が反転する。
落ちる。
その刹那、衝撃が止まった。
先輩兵がアンカーを打ち込んでいた。
金属音が鳴り、ワイヤーが張る。
身体が強く引き戻され、空中で揺れる。
先輩兵の腕に抱えられたまま、壁面に吊られていた。
息が戻らない。
心臓だけが暴れている。
「大丈夫か!」
誰かの声。
返事ができない。
ただ、目だけが壁上を探してしまう。
(ベルトルト……)
どこ。
どこにいる。
血が。
あの人が苦しんでる。
助けなきゃいけないのに。
巨人の蒸気に、視界が滲む。
何も見えない。
見えないのに、探す。
信じない。
信じたくない。
血を流してた。
倒れてた。
苦しんでた。
それなのに。
(……嘘だ)
否定が、遅れて胸に落ちる。
その否定のせいで、余計に苦しくなる。
先輩兵がワイヤーを巻き取り、壁上へ戻る。
オリアナは半ば引きずられるようにして、先ほどより後方に降ろされた。
*
オリアナは息を吸った。
吸ったはずなのに、空気が入らない。
立ち上がろうとして、膝が折れた。
周囲では、命令と叫び声と金属音がぶつかり合っていた。それらは意味を持たないまま、ただ耳の奥で割れていく。
(……なにが)
なにが起きた。
誰が敵で、誰が味方で。
どうしてベルトルトが。
正しい理解が追いつく前に、感情だけが暴れる。
探したい。
走りたい。
止めたい。
触れたい、守りたいという衝動まで、遅れて込み上げてくる。
全部が同時に湧いて、全部が叶わない。
オリアナは口を開いた。
名前を呼ぼうとして。
声が出なかった。
喉が塞がったみたいに、息だけが漏れる。
視界の向こうに、超大型の影が動く。
熱が波みたいに押し寄せる。
(……終わってない)
終わっていない。
何も終わっていない。
足元がなくなるような感覚だけがあった。
終わっていないと分かるからこそ、身体が冷えていく。
オリアナは、震える指を強く握る。
ベルトルトを探す目だけが、諦めない。
認めない。
認めたくない。
でも、見てしまった。
血。
刃。
巨人。
爆風。
その全部が、同じ一本の線に繋がろうとしている。
オリアナは唇を噛んだ。
血の味がした。
(ベルトルト──)
悲鳴を上げたいのに、声が出ない。
感情がまとまらず、涙も出ない。
ただ、胸の奥だけが叫んでいる。
(お願い、違って)
違っていて。
まだ、ここにいて。
夜明けの光は、残酷なほど明るかった。
…To be continued