【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第19話
厩舎の空気は、乾いた藁の匂いで満ちていた。
壁外調査から二日。
表向きには、兵舎の時間はもう日常へ戻り始めている。
だが、戻っていないものが確かにあった。
ベルトルトは干し草の束を抱えながら、無意識に周囲へ視線を巡らせた。
薄暗い通路には馬房が並び、藁を踏む乾いた音と、水桶を運ぶ兵士の足音が静かに混じっていた。
異常はない。
監視の気配も、今のところは感じない。
それでも、どこか静かすぎた。
ふいに、通路の向こうを担架が一つ横切った。
白布に覆われた輪郭が、視界の端を静かに過ぎていく。
ベルトルトは視線を落とし、手元の作業に戻った。
決められた量を馬房に入れ、手早く均す。
単純な作業だった。
考えなくても、体が勝手に動く。
それでも、内側の張り詰めだけはどうしても抜けなかった。
(……アニ)
思考が、そこへ落ちる。
巨大樹の森。
幹を震わせた、あの鈍い砲音。
そして、耳の奥にかすかな残響がよみがえった。
甲高く、空気を裂く、あの咆哮。
(……無事、なのか)
確証はない。
確認する術もない。
奥歯の内側に、じわりと力がこもる。
手が、ほんのわずかに止まりかけた。
「——ベルトルト?」
すぐ後ろから、控えめな声がした。
振り向くと、オリアナが少しだけ首を傾げてこちらを見ていた。
「……あ」
いつも通りの距離。
いつも通りの表情。
なのに、すぐに言葉が出てこない。
「……大丈夫?」
彼女の声は柔らかかった。
探るようでも、責めるようでもない。ただ、まっすぐこちらを見ている。
「……え?」
自分でも分かるほど、間の抜けた返事だった。
オリアナの瞳が、ほんの少しだけ揺れる。
「なにか、……考えごと?」
核心に触れられた気がして、背筋が冷えた。
(まずい)
反射的に、言葉を整える。
「……別に。……いや、なんでもない」
少しだけ、声が硬い。
言い終えた瞬間、空気がわずかに遠のいた気がした。
オリアナの視線が、ほんの一瞬だけ伏せられる。
「……そう」
小さな返事。
それだけなのに。
鈍い棘のようなものが、胸に残った。
何か言うべきか、一瞬だけ迷う。
けれど、別の焦りがせり上がってくる。
アニの行方。
森で途切れた作戦。
静かすぎる兵舎の空気。
意識が、そちらへ引き戻された。
今じゃない。
ベルトルトは、ごく自然な動作を装って視線を外した。
「じゃあ、また後で」
それだけ言って、歩き出す。
背後で、オリアナが小さく息を呑む気配がした。
気づかないふりをした。
振り返らない。
振り返る余裕が、なかった。
*
「……ふーん」
間延びした声が、横から落ちてきた。
ベルトルトは、わずかに視線を動かす。
ユミルが、壁に肩を預けてこちらを見ていた。
いつもの、底の読めない目だった。
「別に、って顔じゃなかったけどな」
軽い口調。
だが、視線だけが鋭い。
ベルトルトは肩をすくめる。
「……気のせいだよ」
「そうか?」
ユミルは、くつりと喉を鳴らした。
それから、少しだけ声を落とす。
「平気な顔してたけどな」
ベルトルトは何も言わない。
「……オリアナのやつ、ちょっと寂しそうだったぞ」
心臓が跳ねた。
一瞬だけ、思考が空白になる。
言葉が出ない。
だが次の瞬間、ベルトルトはゆっくりと息を吐いた。
「……考えすぎだよ」
声は、驚くほど平坦だった。
ユミルは数秒、こちらを眺めていたが、やがて興味を失ったように肩をすくめる。
「ま、いいけどな」
足音が遠ざかる。
一人、取り残される。
(……寂しそう)
その言葉だけが、妙に耳に残った。
胸の奥に、わずかな痛みが走る。
けれど。
(……今は)
ゆっくりと目を閉じる。
思考を、強引に切り替える。
今は、それどころじゃない。
アニの安否。
作戦の行方。
次に来るであろう動き。
考えるべきことをひとつずつ並べ直し、神経をもう一度張り直す。
目を開ける頃には、呼吸はすでに整っていた。
表情も、声も。
いつものベルトルトに戻っている。
少なくとも、外からは。
遠くで、兵舎の鐘が鳴った。
静かな日常が、何事もなかったかのように流れていく。
ベルトルトは干し草の残りを抱え直し、歩き出した。藁を踏む足音と乾いた匂い、低く鳴る馬の声が、変わらずそこにあった。
変わらないはずなのに、どこかで小さく軋む音がしていた。
それが何の音なのか、まだ分からなかった。
…To be continued
余白の軋み
side - ベルトルト
厩舎の空気は、乾いた藁の匂いで満ちていた。
壁外調査から二日。
表向きには、兵舎の時間はもう日常へ戻り始めている。
だが、戻っていないものが確かにあった。
ベルトルトは干し草の束を抱えながら、無意識に周囲へ視線を巡らせた。
薄暗い通路には馬房が並び、藁を踏む乾いた音と、水桶を運ぶ兵士の足音が静かに混じっていた。
異常はない。
監視の気配も、今のところは感じない。
それでも、どこか静かすぎた。
ふいに、通路の向こうを担架が一つ横切った。
白布に覆われた輪郭が、視界の端を静かに過ぎていく。
ベルトルトは視線を落とし、手元の作業に戻った。
決められた量を馬房に入れ、手早く均す。
単純な作業だった。
考えなくても、体が勝手に動く。
それでも、内側の張り詰めだけはどうしても抜けなかった。
(……アニ)
思考が、そこへ落ちる。
巨大樹の森。
幹を震わせた、あの鈍い砲音。
そして、耳の奥にかすかな残響がよみがえった。
甲高く、空気を裂く、あの咆哮。
(……無事、なのか)
確証はない。
確認する術もない。
奥歯の内側に、じわりと力がこもる。
手が、ほんのわずかに止まりかけた。
「——ベルトルト?」
すぐ後ろから、控えめな声がした。
振り向くと、オリアナが少しだけ首を傾げてこちらを見ていた。
「……あ」
いつも通りの距離。
いつも通りの表情。
なのに、すぐに言葉が出てこない。
「……大丈夫?」
彼女の声は柔らかかった。
探るようでも、責めるようでもない。ただ、まっすぐこちらを見ている。
「……え?」
自分でも分かるほど、間の抜けた返事だった。
オリアナの瞳が、ほんの少しだけ揺れる。
「なにか、……考えごと?」
核心に触れられた気がして、背筋が冷えた。
(まずい)
反射的に、言葉を整える。
「……別に。……いや、なんでもない」
少しだけ、声が硬い。
言い終えた瞬間、空気がわずかに遠のいた気がした。
オリアナの視線が、ほんの一瞬だけ伏せられる。
「……そう」
小さな返事。
それだけなのに。
鈍い棘のようなものが、胸に残った。
何か言うべきか、一瞬だけ迷う。
けれど、別の焦りがせり上がってくる。
アニの行方。
森で途切れた作戦。
静かすぎる兵舎の空気。
意識が、そちらへ引き戻された。
今じゃない。
ベルトルトは、ごく自然な動作を装って視線を外した。
「じゃあ、また後で」
それだけ言って、歩き出す。
背後で、オリアナが小さく息を呑む気配がした。
気づかないふりをした。
振り返らない。
振り返る余裕が、なかった。
*
「……ふーん」
間延びした声が、横から落ちてきた。
ベルトルトは、わずかに視線を動かす。
ユミルが、壁に肩を預けてこちらを見ていた。
いつもの、底の読めない目だった。
「別に、って顔じゃなかったけどな」
軽い口調。
だが、視線だけが鋭い。
ベルトルトは肩をすくめる。
「……気のせいだよ」
「そうか?」
ユミルは、くつりと喉を鳴らした。
それから、少しだけ声を落とす。
「平気な顔してたけどな」
ベルトルトは何も言わない。
「……オリアナのやつ、ちょっと寂しそうだったぞ」
心臓が跳ねた。
一瞬だけ、思考が空白になる。
言葉が出ない。
だが次の瞬間、ベルトルトはゆっくりと息を吐いた。
「……考えすぎだよ」
声は、驚くほど平坦だった。
ユミルは数秒、こちらを眺めていたが、やがて興味を失ったように肩をすくめる。
「ま、いいけどな」
足音が遠ざかる。
一人、取り残される。
(……寂しそう)
その言葉だけが、妙に耳に残った。
胸の奥に、わずかな痛みが走る。
けれど。
(……今は)
ゆっくりと目を閉じる。
思考を、強引に切り替える。
今は、それどころじゃない。
アニの安否。
作戦の行方。
次に来るであろう動き。
考えるべきことをひとつずつ並べ直し、神経をもう一度張り直す。
目を開ける頃には、呼吸はすでに整っていた。
表情も、声も。
いつものベルトルトに戻っている。
少なくとも、外からは。
遠くで、兵舎の鐘が鳴った。
静かな日常が、何事もなかったかのように流れていく。
ベルトルトは干し草の残りを抱え直し、歩き出した。藁を踏む足音と乾いた匂い、低く鳴る馬の声が、変わらずそこにあった。
変わらないはずなのに、どこかで小さく軋む音がしていた。
それが何の音なのか、まだ分からなかった。
…To be continued