【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第16話
調査兵団本部の中庭には、すでに整列の気配が満ちている。
馬が吐く白い息、革具の擦れる乾いた音、低く抑えられた号令が、薄い朝の空気に混じっていた。
第57回壁外調査。
その名が告げられた瞬間から、兵舎の空気は少しずつ変わっていた。
調査兵団に配属されてから一ヶ月。
長距離索敵陣形の反復も、立体機動の連携確認も、すべてはこの日のために積み重ねられてきた。
それが今、訓練ではなく実戦へ移ろうとしている。
オリアナは手綱を握り直し、小さく息を整えた。
そこにあるのは、恐怖だけではない。
張り詰めた緊張と、わずかな高揚。そして、それらを無理に押し均したような静かな覚悟。
前列に立つ指揮官の腕が、静かに振り下ろされる。
「——前進!」
低く通る号令が、中庭に響いた。
次の瞬間、無数の蹄が一斉に石畳を打ち、調査兵団の隊列はカラネス区の壁門へ向けて動き出した。
*
隊列は壁門を抜け、外へと流れ出した。
門外に広がっていたのは、放棄された旧市街地だった。崩れかけた建物の影のあいだを、馬列が一気に駆け抜けていく。
前方では、すでに援護班が展開していた。
鋼の刃が閃き、瓦礫の向こうで巨人のうなりが短く途切れる。
援護班が進路を切り開き、遠征主力は速度を緩めることなく、その脇を駆け抜けた。
石畳が途切れた瞬間、視界が一気に開ける。
朝靄の残る平原と乾いた大地が、壁の外へどこまでも広がっていた。
壁の内側とは、空気の重さが明らかに違っている。
やがて、長距離索敵陣形が展開される。
両翼の先頭には経験のある兵士たち。
新兵であるオリアナたちは、そのやや内側、指示通りの位置に馬を走らせていた。
蹄の音が、一定のリズムで大地を打つ。
訓練で何度も叩き込まれた配置。
視線の配り方。
煙弾の確認。
すべては、教本どおりに動いている。
(……順調、だ)
そう思ったのは、オリアナだけではなかっただろう。
右翼から上がる煙弾。
前衛から後衛へ、途切れずに繋がっていく信号。
まるで、精密に噛み合った歯車のように。
*
風が、少しだけ強くなっていた。
単調な進軍の中、草原と遠くの地平線が視界の端を流れていく。時折上がる煙弾の赤と緑だけが、整った陣形の中で淡く色を変えていた。
隣を走る兵士たちも、必要以上に口を開かない。
声を出せば、かえって緊張が浮き彫りになると知っているかのようだった。
オリアナは、わずかに前方へ視線を送った。
少し離れた位置に、ベルトルトの背中が見える。
隊列としては、ごく自然な距離だった。
けれど。
(……)
あの夜以降、ここ数日は言葉を交わす機会がほとんどなかった。
意識しないようにしても、ふとした瞬間に思い出してしまう。
覆いかぶさるような影。
強く引かれた腕の感触。
オリアナは小さく息を吐き、前方へ意識を戻した。
今は、それどころじゃない。
そう言い聞かせるように、手綱を握り直した。
*
進軍は、しばらくのあいだ何事もなく続いた。
煙弾の間隔も、隊列の流れも、乱れはない。
ナナバの班から飛ぶ指示も、いつも通り的確で無駄がなかった。
すべてが、予定通りに進んでいる。
そう思えるだけの秩序が、まだそこにはあった。
最初の違和感は、ほんの些細なものだった。
右翼側の空に、黒の煙弾が上がった。
一本。
間を置いて、もう一本。
(……黒?)
オリアナが眉を寄せる。
奇行種発見を示す色だ。
だが、煙の上がり方がどこか鈍い。
本来なら、外縁から内側へ、もっと整然と連鎖するはずの信号が、ほんのわずかに噛み合っていない。
遅れている。
そう感じたのは、気のせいかもしれない。
実際、次の信号は正常に上がり、隊列そのものにも、まだ目立った乱れはなかった。
周囲の誰も、声を上げていない。
隊列は、何事もなかったかのように前へ進み続けている。
それでも、胸の内に細い棘のような感覚が残った。
*
風向きが、わずかに変わる。
遠くで、伝令の馬が一騎、隊列の間を縫って走り抜けていった。
その速度が、明らかに速い。
砂煙を鋭く引き裂き、一直線にナナバのもとへ向かっている。
(……え)
違和感が、はっきりと形を帯びた。
前方で、ナナバが視線を上げる。
伝令が馬上のまま何かを告げ、彼女の表情がほんの一瞬だけ硬くなった。
それは、瞬きほどの変化だった。
だが、オリアナの背筋に冷たいものが走る。
ナナバはすぐに顔を戻し、何事もなかったように前方を見据えた。
隊列に動揺はない。煙弾も、蹄の音も、陣形も、表面上はすべて整っている。
それでも、オリアナの中に残った棘だけは消えなかった。
風が、草原を低く撫でていく。
誰もまだ、口には出さない。
蹄のリズムは変わらないまま、隊列はさらに先へ進んでいった。
…To be continued
張り詰めた出立
夜明けの空気は、まだ冷たかった。調査兵団本部の中庭には、すでに整列の気配が満ちている。
馬が吐く白い息、革具の擦れる乾いた音、低く抑えられた号令が、薄い朝の空気に混じっていた。
第57回壁外調査。
その名が告げられた瞬間から、兵舎の空気は少しずつ変わっていた。
調査兵団に配属されてから一ヶ月。
長距離索敵陣形の反復も、立体機動の連携確認も、すべてはこの日のために積み重ねられてきた。
それが今、訓練ではなく実戦へ移ろうとしている。
オリアナは手綱を握り直し、小さく息を整えた。
そこにあるのは、恐怖だけではない。
張り詰めた緊張と、わずかな高揚。そして、それらを無理に押し均したような静かな覚悟。
前列に立つ指揮官の腕が、静かに振り下ろされる。
「——前進!」
低く通る号令が、中庭に響いた。
次の瞬間、無数の蹄が一斉に石畳を打ち、調査兵団の隊列はカラネス区の壁門へ向けて動き出した。
*
隊列は壁門を抜け、外へと流れ出した。
門外に広がっていたのは、放棄された旧市街地だった。崩れかけた建物の影のあいだを、馬列が一気に駆け抜けていく。
前方では、すでに援護班が展開していた。
鋼の刃が閃き、瓦礫の向こうで巨人のうなりが短く途切れる。
援護班が進路を切り開き、遠征主力は速度を緩めることなく、その脇を駆け抜けた。
石畳が途切れた瞬間、視界が一気に開ける。
朝靄の残る平原と乾いた大地が、壁の外へどこまでも広がっていた。
壁の内側とは、空気の重さが明らかに違っている。
やがて、長距離索敵陣形が展開される。
両翼の先頭には経験のある兵士たち。
新兵であるオリアナたちは、そのやや内側、指示通りの位置に馬を走らせていた。
蹄の音が、一定のリズムで大地を打つ。
訓練で何度も叩き込まれた配置。
視線の配り方。
煙弾の確認。
すべては、教本どおりに動いている。
(……順調、だ)
そう思ったのは、オリアナだけではなかっただろう。
右翼から上がる煙弾。
前衛から後衛へ、途切れずに繋がっていく信号。
まるで、精密に噛み合った歯車のように。
*
風が、少しだけ強くなっていた。
単調な進軍の中、草原と遠くの地平線が視界の端を流れていく。時折上がる煙弾の赤と緑だけが、整った陣形の中で淡く色を変えていた。
隣を走る兵士たちも、必要以上に口を開かない。
声を出せば、かえって緊張が浮き彫りになると知っているかのようだった。
オリアナは、わずかに前方へ視線を送った。
少し離れた位置に、ベルトルトの背中が見える。
隊列としては、ごく自然な距離だった。
けれど。
(……)
あの夜以降、ここ数日は言葉を交わす機会がほとんどなかった。
意識しないようにしても、ふとした瞬間に思い出してしまう。
覆いかぶさるような影。
強く引かれた腕の感触。
オリアナは小さく息を吐き、前方へ意識を戻した。
今は、それどころじゃない。
そう言い聞かせるように、手綱を握り直した。
*
進軍は、しばらくのあいだ何事もなく続いた。
煙弾の間隔も、隊列の流れも、乱れはない。
ナナバの班から飛ぶ指示も、いつも通り的確で無駄がなかった。
すべてが、予定通りに進んでいる。
そう思えるだけの秩序が、まだそこにはあった。
最初の違和感は、ほんの些細なものだった。
右翼側の空に、黒の煙弾が上がった。
一本。
間を置いて、もう一本。
(……黒?)
オリアナが眉を寄せる。
奇行種発見を示す色だ。
だが、煙の上がり方がどこか鈍い。
本来なら、外縁から内側へ、もっと整然と連鎖するはずの信号が、ほんのわずかに噛み合っていない。
遅れている。
そう感じたのは、気のせいかもしれない。
実際、次の信号は正常に上がり、隊列そのものにも、まだ目立った乱れはなかった。
周囲の誰も、声を上げていない。
隊列は、何事もなかったかのように前へ進み続けている。
それでも、胸の内に細い棘のような感覚が残った。
*
風向きが、わずかに変わる。
遠くで、伝令の馬が一騎、隊列の間を縫って走り抜けていった。
その速度が、明らかに速い。
砂煙を鋭く引き裂き、一直線にナナバのもとへ向かっている。
(……え)
違和感が、はっきりと形を帯びた。
前方で、ナナバが視線を上げる。
伝令が馬上のまま何かを告げ、彼女の表情がほんの一瞬だけ硬くなった。
それは、瞬きほどの変化だった。
だが、オリアナの背筋に冷たいものが走る。
ナナバはすぐに顔を戻し、何事もなかったように前方を見据えた。
隊列に動揺はない。煙弾も、蹄の音も、陣形も、表面上はすべて整っている。
それでも、オリアナの中に残った棘だけは消えなかった。
風が、草原を低く撫でていく。
誰もまだ、口には出さない。
蹄のリズムは変わらないまま、隊列はさらに先へ進んでいった。
…To be continued