【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
第14話
次の壁外調査まで、あと三週間。
新兵である彼らに課されているのは、長距離索敵陣形を身体に叩き込むことだった。
陣形図を暗記し、配置を復唱し、馬上での位置確認を繰り返す。
訓練兵時代の立体機動とは違い、ここで求められるのは個人の速さではなく、隊として正確に動くための精度だった。
正直に言えば、オリアナの身体の奥にはまだ疲労が残っていた。
トロスト区奪還戦。
あの日から、まだそれほど時間は経っていない。
それでも調査兵団は立ち止まらない。
オリアナも、止まるつもりはなかった。
午前の座学が終わり、午後は馬場での陣形確認訓練に移った。
ナナバの的確で容赦のない指示が飛ぶ中、オリアナは自分の持ち場を何度も往復した。
「オリアナ、左翼警戒の間隔が広い」
「……はい!」
短く返事をして、位置を修正する。
息は上がる。
けれど、嫌な感覚ではなかった。
ここでは、やるべきことが明確だ。
だから、余計なことを考えずに済む。
*
訓練が一段落した頃、ナナバに呼び止められた。
「オリアナ、補給倉庫の整理を手伝ってくれ」
「了解です」
即答すると、ナナバは手元の名簿に目を落とした。
「……それと、ベルトルト」
少し離れた位置にいた彼が、ぴくりと反応する。
「お前も行け。人手がいる」
「……はい」
低い返事。
それだけだった。
特別なことじゃない。
ただの作業の割り当て。
そう、オリアナは思った。
*
足音が、石床に乾いた音を落としていた。
ほんの少し前までは、こうして隣に並ぶことに特別な意識なんてなかった。
けれど。
(……あれ)
オリアナは、そっと視線を向ける。
ベルトルトは、前を向いたままだった。
以前なら、一度くらいは目が合っていた気がする。
でも今は、一度もこちらを見ない。
(……疲れてる、だけかな)
それ以上、深くは考えなかった。
補給倉庫の扉を開けると、乾いた木と油の匂いが流れ出してきた。
中は思ったよりも雑然としていた。
壁際には木箱が積まれ、棚には記録束や未整理の備品が詰め込まれている。
「上の段、僕がやるよ」
ベルトルトが低く言った。
「うん」
オリアナは棚の下側に回り、それぞれ黙々と作業を始めた。
木箱を持ち上げて位置を揃え、記号を確認して並べ直す。単純だが、集中力のいる作業だった。
しばらく、倉庫には物音だけが響いていた。
不意に、上の棚から小さな音がした。
視界の端で、木箱がこちらへ傾く。
直後。
ガタンッ!
上段の木箱が、縁から滑り落ちた。
「っ、あ──」
言い切るより早く、影が落ちてくる。
考えるより先に、オリアナの身体が強張った。
その瞬間。
強い力で、肩口を横へ引かれた。
視界が、大きく揺れる。
覆いかぶさる影が落ちる。
体勢が崩れ、オリアナは尻もちをついた。
けれど床に倒れ込む寸前、肩を掴まれたまま、引き寄せられた方向へ傾いていた。
ドサドサッ!!
木箱が、さっきまでオリアナが屈んでいた床を直撃した。木片と埃が、空中に舞う。
尻もちをついた痛みが、遅れて腰に響いた。
近い。
息が触れそうな距離だった。
庇うように覆いかぶさったまま、ベルトルトの腕がオリアナの肩を強く引き寄せて止まっている。
顔が、あまりにも近い。
(……え)
時間の感覚が、わずかに止まった。
ベルトルトの瞳が、真正面からこちらを見ていた。見開かれたまま、動かない。
呼吸が浅い。
まるで、本人の方が追いついていないみたいだった。
(……どうして)
音が、消えた。
三秒。
それくらいの、やけに長い静止。
空気だけが、張り詰めていく。
ベルトルトの瞳が、わずかに揺れた。
次の瞬間、肩を掴む力がふっと緩む。
「……ごめん」
低い声。
それだけ言って、彼は一歩、距離を取った。
オリアナは、まだ動けなかった。
胸のあたりが、少しだけ騒がしい。
助けられた。
それは、分かる。
でも。
(……なんで、あんな顔)
ベルトルトはもう、いつもの静かな表情に戻っていた。
視線も、合わない。
床に散らばった木箱を見下ろしながら、淡々と口を開く。
「……片付けよう」
「……うん」
それ以上、何も言えなかった。
作業は、すぐに再開された。
木箱を拾い、散らばった備品を積み直す。
さっきまでのことが、まるで何もなかったみたいに。
けれど。
オリアナの指先には、まださっきの感触が残っている気がした。
強く引かれた肩。
近すぎた距離。
そして、一瞬だけ見せた、あの表情。
(……気のせい、かな)
自分の中で、小さく打ち消す。
まだ、うまく整理できない。
ただ、ほんのわずかに。
落ち着かないものだけが、胸の内に残っていた。
*
倉庫を出る頃には、空は少しだけ傾き始めていた。
廊下に出ると、ベルトルトはまた一歩分だけ距離を取って歩いた。
以前と同じはずなのに、なぜかほんの少しだけ遠く感じる。
(……何だろう)
答えは出ない。
ただ、強く引かれた肩の感触と、あの一瞬の表情だけが、胸の内に小さく残っていた。
…To be continued
わずかな齟齬
調査兵団に配属されて、十日ほどが過ぎていた。次の壁外調査まで、あと三週間。
新兵である彼らに課されているのは、長距離索敵陣形を身体に叩き込むことだった。
陣形図を暗記し、配置を復唱し、馬上での位置確認を繰り返す。
訓練兵時代の立体機動とは違い、ここで求められるのは個人の速さではなく、隊として正確に動くための精度だった。
正直に言えば、オリアナの身体の奥にはまだ疲労が残っていた。
トロスト区奪還戦。
あの日から、まだそれほど時間は経っていない。
それでも調査兵団は立ち止まらない。
オリアナも、止まるつもりはなかった。
午前の座学が終わり、午後は馬場での陣形確認訓練に移った。
ナナバの的確で容赦のない指示が飛ぶ中、オリアナは自分の持ち場を何度も往復した。
「オリアナ、左翼警戒の間隔が広い」
「……はい!」
短く返事をして、位置を修正する。
息は上がる。
けれど、嫌な感覚ではなかった。
ここでは、やるべきことが明確だ。
だから、余計なことを考えずに済む。
*
訓練が一段落した頃、ナナバに呼び止められた。
「オリアナ、補給倉庫の整理を手伝ってくれ」
「了解です」
即答すると、ナナバは手元の名簿に目を落とした。
「……それと、ベルトルト」
少し離れた位置にいた彼が、ぴくりと反応する。
「お前も行け。人手がいる」
「……はい」
低い返事。
それだけだった。
特別なことじゃない。
ただの作業の割り当て。
そう、オリアナは思った。
*
足音が、石床に乾いた音を落としていた。
ほんの少し前までは、こうして隣に並ぶことに特別な意識なんてなかった。
けれど。
(……あれ)
オリアナは、そっと視線を向ける。
ベルトルトは、前を向いたままだった。
以前なら、一度くらいは目が合っていた気がする。
でも今は、一度もこちらを見ない。
(……疲れてる、だけかな)
それ以上、深くは考えなかった。
補給倉庫の扉を開けると、乾いた木と油の匂いが流れ出してきた。
中は思ったよりも雑然としていた。
壁際には木箱が積まれ、棚には記録束や未整理の備品が詰め込まれている。
「上の段、僕がやるよ」
ベルトルトが低く言った。
「うん」
オリアナは棚の下側に回り、それぞれ黙々と作業を始めた。
木箱を持ち上げて位置を揃え、記号を確認して並べ直す。単純だが、集中力のいる作業だった。
しばらく、倉庫には物音だけが響いていた。
不意に、上の棚から小さな音がした。
視界の端で、木箱がこちらへ傾く。
直後。
ガタンッ!
上段の木箱が、縁から滑り落ちた。
「っ、あ──」
言い切るより早く、影が落ちてくる。
考えるより先に、オリアナの身体が強張った。
その瞬間。
強い力で、肩口を横へ引かれた。
視界が、大きく揺れる。
覆いかぶさる影が落ちる。
体勢が崩れ、オリアナは尻もちをついた。
けれど床に倒れ込む寸前、肩を掴まれたまま、引き寄せられた方向へ傾いていた。
ドサドサッ!!
木箱が、さっきまでオリアナが屈んでいた床を直撃した。木片と埃が、空中に舞う。
尻もちをついた痛みが、遅れて腰に響いた。
近い。
息が触れそうな距離だった。
庇うように覆いかぶさったまま、ベルトルトの腕がオリアナの肩を強く引き寄せて止まっている。
顔が、あまりにも近い。
(……え)
時間の感覚が、わずかに止まった。
ベルトルトの瞳が、真正面からこちらを見ていた。見開かれたまま、動かない。
呼吸が浅い。
まるで、本人の方が追いついていないみたいだった。
(……どうして)
音が、消えた。
三秒。
それくらいの、やけに長い静止。
空気だけが、張り詰めていく。
ベルトルトの瞳が、わずかに揺れた。
次の瞬間、肩を掴む力がふっと緩む。
「……ごめん」
低い声。
それだけ言って、彼は一歩、距離を取った。
オリアナは、まだ動けなかった。
胸のあたりが、少しだけ騒がしい。
助けられた。
それは、分かる。
でも。
(……なんで、あんな顔)
ベルトルトはもう、いつもの静かな表情に戻っていた。
視線も、合わない。
床に散らばった木箱を見下ろしながら、淡々と口を開く。
「……片付けよう」
「……うん」
それ以上、何も言えなかった。
作業は、すぐに再開された。
木箱を拾い、散らばった備品を積み直す。
さっきまでのことが、まるで何もなかったみたいに。
けれど。
オリアナの指先には、まださっきの感触が残っている気がした。
強く引かれた肩。
近すぎた距離。
そして、一瞬だけ見せた、あの表情。
(……気のせい、かな)
自分の中で、小さく打ち消す。
まだ、うまく整理できない。
ただ、ほんのわずかに。
落ち着かないものだけが、胸の内に残っていた。
*
倉庫を出る頃には、空は少しだけ傾き始めていた。
廊下に出ると、ベルトルトはまた一歩分だけ距離を取って歩いた。
以前と同じはずなのに、なぜかほんの少しだけ遠く感じる。
(……何だろう)
答えは出ない。
ただ、強く引かれた肩の感触と、あの一瞬の表情だけが、胸の内に小さく残っていた。
…To be continued