【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第13話
トロスト区奪還作戦から数日。街には日常が戻りつつあったが、空気の底にはまだ焦げた匂いが沈んでいる。
兵舎裏の給水場で、オリアナは金属のカップに水を満たしながら小さく息を吐いた。
(……少し、静かになった)
あれほど続いていた死体処理も、ようやく一段落している。
肩の力が抜けかけて、けれど完全には緩まない。
まだ、何かが喉の奥に引っかかっているようだった。
「……オリアナ」
背後から、低い声。
振り向くと、ベルトルトが立っていた。
手には、同じように水の入ったカップ。
「疲れてるだろ」
静かな声音だった。
「……少しだけ」
答えながら、視線がふと彼の指先に落ちる。
長い指が、カップを包むように持っている。
その手がわずかに強張っているのに気づいて、胸の内が小さく揺れた。
(……この人も、同じだ)
平静に見えて、誰もがまだ戦場の中にいる。
そして。
(……なんでだろ)
彼が近くにいると、呼吸が少しだけしやすい気がした。
自分でも理由は分からないまま、オリアナは視線をそっと逸らす。
少しの沈黙。
遠くで、補修中の槌音が響いていた。コン、コン、と規則的な音が、妙に現実へ引き戻してくる。
「……人が巨人になれるなんて」
気づけば、口から零れていた。
ベルトルトの肩が、ほんのわずかに揺れる。
「驚いたよね」
ベルトルトは口を開きかけて、止まった。
「……え?」
わずかに遅れて返る声に、オリアナは首を傾げる。
「エレンのこと」
深く考えたわけじゃない。ただ、頭の隅に残っていたものが、そのまま言葉になっただけだった。
ベルトルトは、すぐには答えなかった。
ほんの一瞬。
呼吸が止まったような間がある。
けれど次には、いつもの静かな表情に戻っていた。
「……ああ。そうだね」
短い返答。
オリアナは、カップの縁に指を添えた。
今の間が何だったのかは、分からない。
けれど、聞き返すにはあまりにも小さすぎた。
給水場の向こうで、同期たちの声が聞こえる。
コニーとサシャが、何か言い合っていた。
「明日だぞ、明日!」
「分かってますよ……」
兵科選択の話題だった。
胸の奥が、ひくりと揺れる。
(……明日)
分かっていたはずなのに、改めて突きつけられると呼吸がわずかに浅くなる。
視線を上げた先。
兵舎の外れを、調査兵団の外套を翻した一団が横切っていくのが見えた。
「エレンは調査兵団に入ったらしいぞ」
その一団を横目で見ながら、コニーが呟いたのが聞こえた。
(本当に調査兵団に……)
オリアナの指先が、わずかに止まる。
もう自分たちとは違う場所にいるのだと、胸の奥がゆっくり沈む。
「……オリアナ」
隣で、ベルトルトが低く呼ぶ。
「明日、だね」
穏やかな声。けれどその奥に、言葉にならない緊張が滲んでいた。
オリアナは、少しだけ黙る。
指先が、まだわずかに冷たい。
(調査兵団なんて……)
正気じゃない。
頭では、はっきり分かっている。
壁の外は、死地だ。
それでも。
炎の前に立った日のことが、ジャンの震える声が、ピクシス司令の言葉が、胸の奥で静かに重なっていく。
そして。
(……逃げたく、ない)
理由をうまく言葉にできないまま、その感情だけが静かに残った。
ゆっくりと、息を吸う。
「……まだ、決めきれてない」
正直な声だった。
完全な覚悟なんて、まだどこにもない。
それでも、オリアナは前を向いた。
「でも——」
一瞬だけ、言葉を探す。
無意識に、隣に立つ彼の存在を感じながら。
「逃げるつもりは、ないよ」
静かな風が吹き抜ける。
ベルトルトは、何も言わなかった。
ただ、ほんのわずかに、握っていた指の力が強くなる。
その変化に気づいて、オリアナの胸が小さく跳ねた。
理由は、まだ分からない。
空は、薄く灰色に曇っている。
明日になれば、それぞれの道が決まる。
オリアナは静かに目を伏せた。
まだ完全な覚悟はない。
それでも、逃げないと決めた気持ちだけは、もう消えなかった。
——そして翌日。
彼女は、調査兵団の列に立っていた。
…To be continued
揺らぎの選択
石畳に残る煤の色は、まだ完全には消えていなかった。トロスト区奪還作戦から数日。街には日常が戻りつつあったが、空気の底にはまだ焦げた匂いが沈んでいる。
兵舎裏の給水場で、オリアナは金属のカップに水を満たしながら小さく息を吐いた。
(……少し、静かになった)
あれほど続いていた死体処理も、ようやく一段落している。
肩の力が抜けかけて、けれど完全には緩まない。
まだ、何かが喉の奥に引っかかっているようだった。
「……オリアナ」
背後から、低い声。
振り向くと、ベルトルトが立っていた。
手には、同じように水の入ったカップ。
「疲れてるだろ」
静かな声音だった。
「……少しだけ」
答えながら、視線がふと彼の指先に落ちる。
長い指が、カップを包むように持っている。
その手がわずかに強張っているのに気づいて、胸の内が小さく揺れた。
(……この人も、同じだ)
平静に見えて、誰もがまだ戦場の中にいる。
そして。
(……なんでだろ)
彼が近くにいると、呼吸が少しだけしやすい気がした。
自分でも理由は分からないまま、オリアナは視線をそっと逸らす。
少しの沈黙。
遠くで、補修中の槌音が響いていた。コン、コン、と規則的な音が、妙に現実へ引き戻してくる。
「……人が巨人になれるなんて」
気づけば、口から零れていた。
ベルトルトの肩が、ほんのわずかに揺れる。
「驚いたよね」
ベルトルトは口を開きかけて、止まった。
「……え?」
わずかに遅れて返る声に、オリアナは首を傾げる。
「エレンのこと」
深く考えたわけじゃない。ただ、頭の隅に残っていたものが、そのまま言葉になっただけだった。
ベルトルトは、すぐには答えなかった。
ほんの一瞬。
呼吸が止まったような間がある。
けれど次には、いつもの静かな表情に戻っていた。
「……ああ。そうだね」
短い返答。
オリアナは、カップの縁に指を添えた。
今の間が何だったのかは、分からない。
けれど、聞き返すにはあまりにも小さすぎた。
給水場の向こうで、同期たちの声が聞こえる。
コニーとサシャが、何か言い合っていた。
「明日だぞ、明日!」
「分かってますよ……」
兵科選択の話題だった。
胸の奥が、ひくりと揺れる。
(……明日)
分かっていたはずなのに、改めて突きつけられると呼吸がわずかに浅くなる。
視線を上げた先。
兵舎の外れを、調査兵団の外套を翻した一団が横切っていくのが見えた。
「エレンは調査兵団に入ったらしいぞ」
その一団を横目で見ながら、コニーが呟いたのが聞こえた。
(本当に調査兵団に……)
オリアナの指先が、わずかに止まる。
もう自分たちとは違う場所にいるのだと、胸の奥がゆっくり沈む。
「……オリアナ」
隣で、ベルトルトが低く呼ぶ。
「明日、だね」
穏やかな声。けれどその奥に、言葉にならない緊張が滲んでいた。
オリアナは、少しだけ黙る。
指先が、まだわずかに冷たい。
(調査兵団なんて……)
正気じゃない。
頭では、はっきり分かっている。
壁の外は、死地だ。
それでも。
炎の前に立った日のことが、ジャンの震える声が、ピクシス司令の言葉が、胸の奥で静かに重なっていく。
そして。
(……逃げたく、ない)
理由をうまく言葉にできないまま、その感情だけが静かに残った。
ゆっくりと、息を吸う。
「……まだ、決めきれてない」
正直な声だった。
完全な覚悟なんて、まだどこにもない。
それでも、オリアナは前を向いた。
「でも——」
一瞬だけ、言葉を探す。
無意識に、隣に立つ彼の存在を感じながら。
「逃げるつもりは、ないよ」
静かな風が吹き抜ける。
ベルトルトは、何も言わなかった。
ただ、ほんのわずかに、握っていた指の力が強くなる。
その変化に気づいて、オリアナの胸が小さく跳ねた。
理由は、まだ分からない。
空は、薄く灰色に曇っている。
明日になれば、それぞれの道が決まる。
オリアナは静かに目を伏せた。
まだ完全な覚悟はない。
それでも、逃げないと決めた気持ちだけは、もう消えなかった。
——そして翌日。
彼女は、調査兵団の列に立っていた。
…To be continued