【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第10話
装備を片付けながら、ジャンが声を張り上げる。
「お前ら、もう配属兵科は決めたのか?」
その一言で、空気がわずかに変わる。
コニーが「俺はモテるとこがいい」と笑い、サシャが「お肉が安定して食べられる兵団はどこですかね」と真顔で聞き返す。
「お前はまず食い物から離れろよ」
ジャンが呆れたように言うと、隣にいたマルコが小さく笑った。
「でも、配属先で生活が変わるのは本当だよね」
その穏やかな声に、少しだけ空気が落ち着く。
いつも通りのやり取りだった。
けれど、その奥には、これまでとは違う響きがある。
卒業。
その言葉が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
調査兵団に行きたいと言う者。
憲兵団を目指すと胸を張る者。
それぞれが、それぞれの未来を口にする。
オリアナは黙って、みんなの横顔を見ていた。
笑いながら話すコニー。
真剣に腕を組むジャン。
その隣で、穏やかに相槌を打つマルコ。
パンを抱えたまま、話を聞いているサシャ。
その少し後ろに、ベルトルトがいた。
大きな体なのに、いつものように半歩引いた場所に立っている。誰かの未来の話に小さく頷きながら、自分のことは何も言わない。
——みんな、それぞれの道に進むんだ。
ふと、そんな当たり前のことを思う。
自分の順位は、だいたい分かっている。
手が届く場所と、届かない場所も。
遠くを目指す人たちの声を聞きながら、胸の奥で静かに思う。
自分は、遠くへ行く人ではない。
誰かを救うためでも、英雄になるためでもない。
ただ、生きるためにここへ来た。
家族の顔が浮かぶ。
狭い家の食卓。
空腹をごまかす弟の笑顔。
自分は、現実の中で生き延びられる場所を選ぶ。
それでいい。
そう思っているのに。
なぜか、胸の奥がざわついた。
*
寮へ戻る途中、隣に並ぶ足音がひとつ増えた。
「今日は調子、良かったね」
振り向かなくても分かる声だった。
「そうかな。ベルトルトのほうが安定してた」
他愛ない会話。
いつもと変わらないやり取り。
夕暮れの光が長く影を落とし、砂を踏む音だけが静かに響く。
少し沈黙が続く。
彼が、ぽつりと聞いた。
「……どこに行くか、もう決めてる?」
心臓が、ひとつ強く打つ。
「まだ、なんとなく」
嘘ではない。
でも、本当の全部でもない。
(……私は、生き延びられる場所を選ぶ)
それが最初からの目的だった。
遠い理想より、確かな現実。
そのはずなのに。
「ベルトルトは?」
そう聞き返した瞬間、ひどく落ち着かなくなる。
もし彼が、もっと遠くを選んだら。
隣を歩くこの時間も、当たり前じゃなくなる。
「僕は……」
彼は一瞬だけ視線を逸らした。
何かを言いかけて、やめる。
その沈黙が、やけに長く感じた。
答えを聞きたいと思った。けれど、聞いてしまえば、何かが決まってしまう気もした。
隣を歩く足音が、いつもより遠く聞こえる。
すぐ横にいるのに。
手を伸ばせば届きそうな距離なのに。
まだ何も変わっていないはずなのに、もう少しずつ離れていくような気がした。
*
食堂はいつも通り騒がしかった。
サシャがパンを追加で取ろうとして叱られ、コニーがそれをからかい、ジャンが皮肉を飛ばす。
笑い声が弾ける。
その輪の中に、ベルトルトもいる。
少し控えめに笑いながら。
何も変わらない光景。
温かくて、安心できて、ずっと続くと思っていた時間。
でも、今日だけは違った。
配属先が違えば、会う回数も減る。
「また明日」が、いつか言えなくなる日が来る。
その想像が、胸の奥に小さなひびを入れる。
これが当たり前じゃなくなるなんて、考えたこともなかったのに。
*
その夜、オリアナは寮の外階段に腰を下ろしていた。
昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
窓から漏れる灯りが、地面に淡く落ちる。
遠くで誰かの笑い声がして、すぐに消えた。
冷たい夜気が頬を撫で、訓練で火照った体をゆっくり冷ましていく。
今日一日を思い返す。
進路の話。
仲間の笑い声。
夕暮れの帰り道。
そして、隣を歩いた時間。
少し前なら、何でもない一日だった。
訓練をして、食事をして、誰かが騒いで、誰かが笑う。明日も同じように顔を合わせるのだと、何の疑いもなく思っていた。
けれど、その全部に終わりがあるのだと気づいた途端、見慣れたものまで違って見えた。
——私は、自分の進む場所をもう決めている。
それは特別な選択じゃない。
誰かに誇れる夢でもない。
ただ、生きるための選択。
それでいいと思っていた。
ずっと。
でも。
もし彼が、別の道を選んだら。
もう、こうして並んで歩くことも、何気なく話すことも、なくなるのかもしれない。
胸の奥が、きゅっと縮む。
ただの同期のはずなのに。
どうして、こんなことを考えてしまうのだろう。
夜空を見上げる。
答えは、まだ分からない。
でも確かに、名前のつかない何かが、そこにある。
この時間は、永遠じゃない。
だからこそ、こんなにも胸が痛む。
第一章・完
続かない時間
夕方の訓練場は、いつもより少しだけ静かだった。装備を片付けながら、ジャンが声を張り上げる。
「お前ら、もう配属兵科は決めたのか?」
その一言で、空気がわずかに変わる。
コニーが「俺はモテるとこがいい」と笑い、サシャが「お肉が安定して食べられる兵団はどこですかね」と真顔で聞き返す。
「お前はまず食い物から離れろよ」
ジャンが呆れたように言うと、隣にいたマルコが小さく笑った。
「でも、配属先で生活が変わるのは本当だよね」
その穏やかな声に、少しだけ空気が落ち着く。
いつも通りのやり取りだった。
けれど、その奥には、これまでとは違う響きがある。
卒業。
その言葉が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
調査兵団に行きたいと言う者。
憲兵団を目指すと胸を張る者。
それぞれが、それぞれの未来を口にする。
オリアナは黙って、みんなの横顔を見ていた。
笑いながら話すコニー。
真剣に腕を組むジャン。
その隣で、穏やかに相槌を打つマルコ。
パンを抱えたまま、話を聞いているサシャ。
その少し後ろに、ベルトルトがいた。
大きな体なのに、いつものように半歩引いた場所に立っている。誰かの未来の話に小さく頷きながら、自分のことは何も言わない。
——みんな、それぞれの道に進むんだ。
ふと、そんな当たり前のことを思う。
自分の順位は、だいたい分かっている。
手が届く場所と、届かない場所も。
遠くを目指す人たちの声を聞きながら、胸の奥で静かに思う。
自分は、遠くへ行く人ではない。
誰かを救うためでも、英雄になるためでもない。
ただ、生きるためにここへ来た。
家族の顔が浮かぶ。
狭い家の食卓。
空腹をごまかす弟の笑顔。
自分は、現実の中で生き延びられる場所を選ぶ。
それでいい。
そう思っているのに。
なぜか、胸の奥がざわついた。
*
寮へ戻る途中、隣に並ぶ足音がひとつ増えた。
「今日は調子、良かったね」
振り向かなくても分かる声だった。
「そうかな。ベルトルトのほうが安定してた」
他愛ない会話。
いつもと変わらないやり取り。
夕暮れの光が長く影を落とし、砂を踏む音だけが静かに響く。
少し沈黙が続く。
彼が、ぽつりと聞いた。
「……どこに行くか、もう決めてる?」
心臓が、ひとつ強く打つ。
「まだ、なんとなく」
嘘ではない。
でも、本当の全部でもない。
(……私は、生き延びられる場所を選ぶ)
それが最初からの目的だった。
遠い理想より、確かな現実。
そのはずなのに。
「ベルトルトは?」
そう聞き返した瞬間、ひどく落ち着かなくなる。
もし彼が、もっと遠くを選んだら。
隣を歩くこの時間も、当たり前じゃなくなる。
「僕は……」
彼は一瞬だけ視線を逸らした。
何かを言いかけて、やめる。
その沈黙が、やけに長く感じた。
答えを聞きたいと思った。けれど、聞いてしまえば、何かが決まってしまう気もした。
隣を歩く足音が、いつもより遠く聞こえる。
すぐ横にいるのに。
手を伸ばせば届きそうな距離なのに。
まだ何も変わっていないはずなのに、もう少しずつ離れていくような気がした。
*
食堂はいつも通り騒がしかった。
サシャがパンを追加で取ろうとして叱られ、コニーがそれをからかい、ジャンが皮肉を飛ばす。
笑い声が弾ける。
その輪の中に、ベルトルトもいる。
少し控えめに笑いながら。
何も変わらない光景。
温かくて、安心できて、ずっと続くと思っていた時間。
でも、今日だけは違った。
配属先が違えば、会う回数も減る。
「また明日」が、いつか言えなくなる日が来る。
その想像が、胸の奥に小さなひびを入れる。
これが当たり前じゃなくなるなんて、考えたこともなかったのに。
*
その夜、オリアナは寮の外階段に腰を下ろしていた。
昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
窓から漏れる灯りが、地面に淡く落ちる。
遠くで誰かの笑い声がして、すぐに消えた。
冷たい夜気が頬を撫で、訓練で火照った体をゆっくり冷ましていく。
今日一日を思い返す。
進路の話。
仲間の笑い声。
夕暮れの帰り道。
そして、隣を歩いた時間。
少し前なら、何でもない一日だった。
訓練をして、食事をして、誰かが騒いで、誰かが笑う。明日も同じように顔を合わせるのだと、何の疑いもなく思っていた。
けれど、その全部に終わりがあるのだと気づいた途端、見慣れたものまで違って見えた。
——私は、自分の進む場所をもう決めている。
それは特別な選択じゃない。
誰かに誇れる夢でもない。
ただ、生きるための選択。
それでいいと思っていた。
ずっと。
でも。
もし彼が、別の道を選んだら。
もう、こうして並んで歩くことも、何気なく話すことも、なくなるのかもしれない。
胸の奥が、きゅっと縮む。
ただの同期のはずなのに。
どうして、こんなことを考えてしまうのだろう。
夜空を見上げる。
答えは、まだ分からない。
でも確かに、名前のつかない何かが、そこにある。
この時間は、永遠じゃない。
だからこそ、こんなにも胸が痛む。
第一章・完