【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第8話
雪を踏むたび、靴底が軋む音が静かな山に響いた。
吹きつける風は冷たく、頬に刺さる。息を吸うたび、肺の奥まで冷えた空気が入り込んでくる。
訓練兵たちは列を整え、声をかけ合いながら斜面を登っていた。木々の間を抜けると、遠くに連なる山の稜線が白く光っている。
重い装備が肩に食い込み、疲労が少しずつ身体に沈んでいく。
ベルトルトは列の中ほどにいた。
視線が、無意識に少し後方へ向く。
オリアナが歩いている。
歩幅はいつもより小さく、足取りも少し遅れていた。
(……少し、きつそうだ)
そう思った直後、すぐに打ち消す。
誰だって、こういう時はある。
自分が気にすることじゃない。
声をかけるべきか、迷った。
手を差し伸べるべきではない。
そう思うたび、身体だけがその場に縫いとめられる。けれど、目は離せなかった。
雪面に足を取られ、オリアナが小さく膝をつく。
その瞬間、考えるより先に、体が動いていた。
「大丈夫か?」
手を伸ばし、彼女の腕を支えて体勢を戻す。
目が合った。
ほんの一瞬、オリアナは少しだけ笑った。
「……ありがとう」
声は小さかった。
けれど、そこには確かな温度があった。
ベルトルトはすぐに手を引いた。
それでも、触れた感覚だけが、手のひらに残る。
列に戻ると、自分でも気づかないうちに、歩く速度を少し落としていた。
前に出すぎないように。
けれど、離れすぎないように。
雪の感触。
足音。
息の白さ。
そのすべてが、彼女の動きと重なっているような気がした。
どうして、放っておけなかったのだろう。
考えようとしても、答えは出ない。
ただ、気づいた時には手を伸ばしていた。
それだけは、はっきりしていた。
*
休憩のため、少し開けた斜面で足を止めた。
訓練兵たちはそれぞれ雪の上に腰を下ろし、凍えた手をこすり合わせていた。
オリアナも雪を払い、息を整えながら腰を下ろす。
その横顔は少し疲れていたが、彼女は何でもないように小さく笑った。
その表情を見て、ベルトルトの胸がわずかに跳ねる。
「寒いな……」
口から出たのは、ただの感想だった。
「うん……風も強いし」
オリアナの声は、雪と冷たい空気の中で、少し柔らかく聞こえた。
二人の間に、短い沈黙が流れる。
何かを話したかったわけではない。
けれど、離れたいとも思わなかった。
手を雪の上についた時、指先がほんの少し近づいた。
触れたわけではない。
それでも、さっき残った温度を思い出してしまう。
ベルトルトは手袋の中で指を握り込み、視線を雪面に落とした。
——これ以上近づいてはいけない。
そんな言葉だけが、意識の片隅に浮かぶ。
この平穏は、いつか壊すことになる。
だから、目の前の温もりを掴もうとしてはいけない。
分かっているはずだった。
それでも、さっき彼女が膝をついた瞬間、自分は迷わなかった。
*
列に戻り、山を下る。
雪は柔らかく、歩くたびに淡い音を立てた。
夕陽が斜面を朱色に染め、長い影を落としていく。
オリアナが、少し足を滑らせる。
ベルトルトは反射的に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
彼女はすぐに足元を立て直し、何事もなかったようにこちらを見て、小さく頷く。
「大丈夫」
そう言われて、ベルトルトはゆっくり手を下ろした。
無言のまま、また歩き出す。
助けなくてもいい場面だった。
けれど、体が先に動きかけた。
そのことだけが、しばらく頭から離れなかった。
*
その夜、山小屋の床に広げた寝袋の中で、ベルトルトは目を開けていた。
板張りの天井は低く、隙間風がどこかで小さく鳴っている。周りでは、疲れ切った訓練兵たちの寝息が重なっていた。
昼間の光景が、何度も脳裏に戻ってくる。
膝をついた彼女。
伸ばした自分の手。
触れた体温。
雪の白さ。
体が勝手に動いた。
理由は分からない。
けれど、分からないままではいられない気もしていた。
小さな窓の向こうで、月明かりが雪の上に落ちている。その白さだけが、暗い山小屋の中にぼんやりと浮かんで見えた。
——僕は、この感情を持ってはいけない。
そう言い聞かせても、手のひらに残った感覚は消えなかった。
消えないまま、何度も思い出してしまう。
雪に足を取られた彼女を見た瞬間。
考えるより先に、手を伸ばしていたことを。
放っておけなかった。
ただ、それだけだった。
胸の奥に残った微かな感覚は、夜の雪のように静かで、けれど確かにそこにあった。
…To be continued
溶ける境界
side - ベルトルト
雪を踏むたび、靴底が軋む音が静かな山に響いた。
吹きつける風は冷たく、頬に刺さる。息を吸うたび、肺の奥まで冷えた空気が入り込んでくる。
訓練兵たちは列を整え、声をかけ合いながら斜面を登っていた。木々の間を抜けると、遠くに連なる山の稜線が白く光っている。
重い装備が肩に食い込み、疲労が少しずつ身体に沈んでいく。
ベルトルトは列の中ほどにいた。
視線が、無意識に少し後方へ向く。
オリアナが歩いている。
歩幅はいつもより小さく、足取りも少し遅れていた。
(……少し、きつそうだ)
そう思った直後、すぐに打ち消す。
誰だって、こういう時はある。
自分が気にすることじゃない。
声をかけるべきか、迷った。
手を差し伸べるべきではない。
そう思うたび、身体だけがその場に縫いとめられる。けれど、目は離せなかった。
雪面に足を取られ、オリアナが小さく膝をつく。
その瞬間、考えるより先に、体が動いていた。
「大丈夫か?」
手を伸ばし、彼女の腕を支えて体勢を戻す。
目が合った。
ほんの一瞬、オリアナは少しだけ笑った。
「……ありがとう」
声は小さかった。
けれど、そこには確かな温度があった。
ベルトルトはすぐに手を引いた。
それでも、触れた感覚だけが、手のひらに残る。
列に戻ると、自分でも気づかないうちに、歩く速度を少し落としていた。
前に出すぎないように。
けれど、離れすぎないように。
雪の感触。
足音。
息の白さ。
そのすべてが、彼女の動きと重なっているような気がした。
どうして、放っておけなかったのだろう。
考えようとしても、答えは出ない。
ただ、気づいた時には手を伸ばしていた。
それだけは、はっきりしていた。
*
休憩のため、少し開けた斜面で足を止めた。
訓練兵たちはそれぞれ雪の上に腰を下ろし、凍えた手をこすり合わせていた。
オリアナも雪を払い、息を整えながら腰を下ろす。
その横顔は少し疲れていたが、彼女は何でもないように小さく笑った。
その表情を見て、ベルトルトの胸がわずかに跳ねる。
「寒いな……」
口から出たのは、ただの感想だった。
「うん……風も強いし」
オリアナの声は、雪と冷たい空気の中で、少し柔らかく聞こえた。
二人の間に、短い沈黙が流れる。
何かを話したかったわけではない。
けれど、離れたいとも思わなかった。
手を雪の上についた時、指先がほんの少し近づいた。
触れたわけではない。
それでも、さっき残った温度を思い出してしまう。
ベルトルトは手袋の中で指を握り込み、視線を雪面に落とした。
——これ以上近づいてはいけない。
そんな言葉だけが、意識の片隅に浮かぶ。
この平穏は、いつか壊すことになる。
だから、目の前の温もりを掴もうとしてはいけない。
分かっているはずだった。
それでも、さっき彼女が膝をついた瞬間、自分は迷わなかった。
*
列に戻り、山を下る。
雪は柔らかく、歩くたびに淡い音を立てた。
夕陽が斜面を朱色に染め、長い影を落としていく。
オリアナが、少し足を滑らせる。
ベルトルトは反射的に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
彼女はすぐに足元を立て直し、何事もなかったようにこちらを見て、小さく頷く。
「大丈夫」
そう言われて、ベルトルトはゆっくり手を下ろした。
無言のまま、また歩き出す。
助けなくてもいい場面だった。
けれど、体が先に動きかけた。
そのことだけが、しばらく頭から離れなかった。
*
その夜、山小屋の床に広げた寝袋の中で、ベルトルトは目を開けていた。
板張りの天井は低く、隙間風がどこかで小さく鳴っている。周りでは、疲れ切った訓練兵たちの寝息が重なっていた。
昼間の光景が、何度も脳裏に戻ってくる。
膝をついた彼女。
伸ばした自分の手。
触れた体温。
雪の白さ。
体が勝手に動いた。
理由は分からない。
けれど、分からないままではいられない気もしていた。
小さな窓の向こうで、月明かりが雪の上に落ちている。その白さだけが、暗い山小屋の中にぼんやりと浮かんで見えた。
——僕は、この感情を持ってはいけない。
そう言い聞かせても、手のひらに残った感覚は消えなかった。
消えないまま、何度も思い出してしまう。
雪に足を取られた彼女を見た瞬間。
考えるより先に、手を伸ばしていたことを。
放っておけなかった。
ただ、それだけだった。
胸の奥に残った微かな感覚は、夜の雪のように静かで、けれど確かにそこにあった。
…To be continued