【長編】境界を越えて、 君に会いにいく。
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第7話
夕暮れの光が、訓練場の砂埃に溶け込んでいた。
低く傾いた太陽が、古い木製の装備や散らばったロープに、淡い橙色を落としている。
片付けを終えた訓練兵たちは、小走りで寮の方へ戻っていった。
日が落ちる前に食堂へ向かいたいのだろう。
残ったのは、少し冷えた風と、木々の葉が揺れる音だけだった。
ベルトルトは、オリアナと並んで残っていた。
誰もいない訓練場で、彼女が荷物を整える様子を、気づけば目で追っている。
「今日もライナーは無茶してたな」
何気なく言うと、オリアナが小さく笑った。
「いつものことだね」
ほんの軽い笑い声だった。
それだけで、胸のあたりが少し緩む。
普段なら、気にも留めないような一瞬。
けれど今は、その笑い声だけが、夕方の静けさの中にやけに残った。
どうして、こんなふうに感じるのだろう。
彼女といると、息がしやすい。
ただの同期なのに。
二人の間に、小さな沈黙が生まれる。
片付けの手を止めるわけでもない。
何かを話さなければいけないわけでもない。
ただ、同じ場所にいる。
それだけなのに、落ち着かなかった。
風が髪を揺らし、指先に触れる冷気がわずかに痛い。
手を伸ばせば届きそうで、けれど触れることはない距離。その近さだけで、心臓が少しだけ早くなる。
荷物をまとめようとして、二人が同じロープに手を伸ばした。
その時、ベルトルトの手とオリアナの手が、ほんの一瞬触れた。
「……ごめん、今の」
彼女は何事もなかったように、自然に笑った。
その瞬間、指先に残った温度だけが、妙にはっきりした。
手が触れただけだ。
それだけのはずなのに、心臓の音が耳の奥で響く。
ベルトルトは思わず目を逸らした。
頭の片隅で、言葉になりかけたものが立ち上がる。
——僕は、彼女のことを。
いや、違う。
考える前に、打ち消した。
今、そんなことを考えるべきじゃない。
そんなものを、自分が持っていいはずがない。
心の隅に、暗い影が差し込む。
片付けを終え、並んで歩く帰り道。
夕焼けが道を赤く染め、二人の影を長く地面に伸ばしていた。
会話は少なかった。
それでも、沈黙は苦しくない。
むしろ、その静けさが心地よかった。
このまま、ずっと一緒に歩けたら。
ふと、そんなことが頭をよぎる。
班も、場所も、明日も。何も変わらないまま、彼女と同じ方へ歩いていく未来。
すぐに、足元が冷えた。
だめだ。
そんな未来はない。
(……僕は、いずれこの世界を壊す側になる)
その現実が、夕焼けの向こうに強く立ちはだかる。
胸の奥が、ゆっくりと締めつけられた。
*
寮に戻ると、静かな夜が待っていた。
ベッドに横たわり、天井を見つめる。
昼間の出来事が、何度も頭に戻ってきた。
笑った声。
触れた手の温度。
隣を歩いた時間。
どれも、消そうとするほど鮮明になる。
(僕は、彼女に──)
そこまで考えて、また止めた。
違う。
胸の奥で膨らみかけたものを、押さえ込む。
理屈はすぐに現実を呼び戻す。
自分は、この世界を壊す側の人間だ。
いつか、彼女を殺す側になるかもしれない。
目を閉じると、別の光景が浮かぶ。
炎に包まれた街。
逃げ惑う人々。
泣き叫ぶ声。
ライナーの厳しい表情。
アニの何も映さない目。
それなのに、さっきのオリアナの笑い声が、まだ耳に残っている。
どうして、あの声を思い出してしまうんだろう。
どうして、あの時だけ、息がしやすかったんだろう。
窓の外を見る。
夜の静けさの中で、木々の影がわずかに揺れていた。何も語らず、ただそこにある。
彼女に何を期待しているんだ。
許されるはずがないのに。
ベルトルトは、小さく息を吐いた。
肩から力が抜けても、指先に残った感覚だけは消えなかった。
心の奥で芽生えかけたものに、まだ名前はつけられない。
つけてはいけない。
——僕たちは、ここに居ていい人間じゃない。
胸に手を当て、ベルトルトは目を閉じた。
彼女の笑顔が、手の感触が、歩いた距離が、夜の静けさの中で何度も蘇る。
思い出すたびに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
考えてはいけないことが、夜の底に沈まず、いつまでも残っていた。
…To be continued
触れぬ気配
side - ベルトルト
夕暮れの光が、訓練場の砂埃に溶け込んでいた。
低く傾いた太陽が、古い木製の装備や散らばったロープに、淡い橙色を落としている。
片付けを終えた訓練兵たちは、小走りで寮の方へ戻っていった。
日が落ちる前に食堂へ向かいたいのだろう。
残ったのは、少し冷えた風と、木々の葉が揺れる音だけだった。
ベルトルトは、オリアナと並んで残っていた。
誰もいない訓練場で、彼女が荷物を整える様子を、気づけば目で追っている。
「今日もライナーは無茶してたな」
何気なく言うと、オリアナが小さく笑った。
「いつものことだね」
ほんの軽い笑い声だった。
それだけで、胸のあたりが少し緩む。
普段なら、気にも留めないような一瞬。
けれど今は、その笑い声だけが、夕方の静けさの中にやけに残った。
どうして、こんなふうに感じるのだろう。
彼女といると、息がしやすい。
ただの同期なのに。
二人の間に、小さな沈黙が生まれる。
片付けの手を止めるわけでもない。
何かを話さなければいけないわけでもない。
ただ、同じ場所にいる。
それだけなのに、落ち着かなかった。
風が髪を揺らし、指先に触れる冷気がわずかに痛い。
手を伸ばせば届きそうで、けれど触れることはない距離。その近さだけで、心臓が少しだけ早くなる。
荷物をまとめようとして、二人が同じロープに手を伸ばした。
その時、ベルトルトの手とオリアナの手が、ほんの一瞬触れた。
「……ごめん、今の」
彼女は何事もなかったように、自然に笑った。
その瞬間、指先に残った温度だけが、妙にはっきりした。
手が触れただけだ。
それだけのはずなのに、心臓の音が耳の奥で響く。
ベルトルトは思わず目を逸らした。
頭の片隅で、言葉になりかけたものが立ち上がる。
——僕は、彼女のことを。
いや、違う。
考える前に、打ち消した。
今、そんなことを考えるべきじゃない。
そんなものを、自分が持っていいはずがない。
心の隅に、暗い影が差し込む。
片付けを終え、並んで歩く帰り道。
夕焼けが道を赤く染め、二人の影を長く地面に伸ばしていた。
会話は少なかった。
それでも、沈黙は苦しくない。
むしろ、その静けさが心地よかった。
このまま、ずっと一緒に歩けたら。
ふと、そんなことが頭をよぎる。
班も、場所も、明日も。何も変わらないまま、彼女と同じ方へ歩いていく未来。
すぐに、足元が冷えた。
だめだ。
そんな未来はない。
(……僕は、いずれこの世界を壊す側になる)
その現実が、夕焼けの向こうに強く立ちはだかる。
胸の奥が、ゆっくりと締めつけられた。
*
寮に戻ると、静かな夜が待っていた。
ベッドに横たわり、天井を見つめる。
昼間の出来事が、何度も頭に戻ってきた。
笑った声。
触れた手の温度。
隣を歩いた時間。
どれも、消そうとするほど鮮明になる。
(僕は、彼女に──)
そこまで考えて、また止めた。
違う。
胸の奥で膨らみかけたものを、押さえ込む。
理屈はすぐに現実を呼び戻す。
自分は、この世界を壊す側の人間だ。
いつか、彼女を殺す側になるかもしれない。
目を閉じると、別の光景が浮かぶ。
炎に包まれた街。
逃げ惑う人々。
泣き叫ぶ声。
ライナーの厳しい表情。
アニの何も映さない目。
それなのに、さっきのオリアナの笑い声が、まだ耳に残っている。
どうして、あの声を思い出してしまうんだろう。
どうして、あの時だけ、息がしやすかったんだろう。
窓の外を見る。
夜の静けさの中で、木々の影がわずかに揺れていた。何も語らず、ただそこにある。
彼女に何を期待しているんだ。
許されるはずがないのに。
ベルトルトは、小さく息を吐いた。
肩から力が抜けても、指先に残った感覚だけは消えなかった。
心の奥で芽生えかけたものに、まだ名前はつけられない。
つけてはいけない。
——僕たちは、ここに居ていい人間じゃない。
胸に手を当て、ベルトルトは目を閉じた。
彼女の笑顔が、手の感触が、歩いた距離が、夜の静けさの中で何度も蘇る。
思い出すたびに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
考えてはいけないことが、夜の底に沈まず、いつまでも残っていた。
…To be continued