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かつて、言葉や文化は散り散りで、ただそれだけの理由で人々は争っていた。
世界は神々の正しい力により、飢えや災害とは無縁だった。
ただ人々の言葉の混乱から起こる争いが、人を苦しめていた。
しかし、ある青年の開いた教えの家――今で言う学校が、その連鎖を少しずつ変えていった。
青年は聡明だが、何より彼の師である魔女の助けが大きい。
ある出来事を皮切りに、教えの家は“教義学術振興会”と名を変えて、神の教えと教育を普及する組織となった。
「――とまあ、教会の成り立ちぐらいは知っておろう」
「ええ、まあ……」
滔々と語りだしたかと思えば、それは教会の設立理念だった。
争いのなき世のために教育を。教祖にして誠実なる騎士ゲオルギオスの思想は、キサラも共感し賛成している。
「まあ問題はそれ以降だ」
ゲオルギオスは奇跡の力を持っていた。その奇跡を真似しようと、信徒の一派が画策した。
さる魔女を贄に、新たに神を生み出そうとしたのだ。
「そんな、畏れ多い……」
「しかし驚いたことに、理論は間違いではなかった。世界の構造も単純なものだ」
宗主は獣を見る。威嚇に剥き出される牙をものともせず、どこか自嘲めいた笑みを見せる。
「魔女の死を拒否する思いと、世界の死を呑み新たに生み出す構造が矛盾し、神ではなくただ無意義な力の塊を発生させた」
宗主は獣を指差した。
「力は十と一の意識を持ち、うち九つはゲオルギオスが世界に還した。その残りが餓えた獣、ウリディシムだ」
「ま、待ってください。なぜ教祖は獣を残されたのですか?」
「全てを終える前にだな、怒り狂う魔女らの奸計により、当時の国王に謀反の疑いありとして処刑された。
愚かしいとはまさに魔女どもを指すだろうよ」
ええと、とキサラは必死に頭を廻らせ、聞いたことを整理する。
「つまるところ、教会がここを管理していたのは封印を守るためで、よりによってウッコ神が、それを解いてしまった、と」
「封印に関しては、吾の管理にしよう。もう神になど頼らぬ。
さて次は汝だ。汝は吾の元へ戻り、何を成したいのだ?」
逡巡したが、宗主が促すのを見て、キサラはゆっくりと口を開く。
「僕は、家族の元に帰りたいです」
「至って凡庸な、しかし困難な願いだな」
「ここに来る道中、魔女に会いました。そして森に、結界が張られていると聞きました」
結界を張り、キサラを森に閉じ込めているのは、他ならぬ宗主だろう。しかしキサラは、それを糾弾しない。
「宗主、僕は人の体ではないのでしょう?
ですが貴方は元に戻す方法を知っているはず。でなければ、僕の前に現れない」
宗主は笑い、歓迎するように両手を広げた。
「聡明で結構。汝には神域に行ってもらう」
「神域……」
神々のおわす地。古来より様々な名をつけられた、伝承上のみにある場所。
しかし、餓えた獣も神も実在しているのだ。神の世界があっても不思議ではない。
「神域とは現世の裏側、魂ともいえる側面だ。そこで獣を昇華せよ」
「昇華……?」
「そうとも。我らは無から有へと流れる、ひとつの線だ。どのような生物も、いずれは熱的な死を迎える。これは神だろうが世界だろうが抗えぬ」
宗主は手首から銀の連なる輪を外し、示す。
「しかし獣は、どの生命発生条件も満たしていない。現象ですらない。線ではなく、無から有へ、有から無へと繰り返す円だ。
つまりは死がない」
力を込め、銀の輪を千切る。
「かつてゲオルギオスは自らの身体を媒介に、力を大地に還した。それと同じことをせよとは言わないが、昇華さえすれば汝は家族の元へ帰ることができよう」
キサラは力強く頷き、行きますと即答した。
わずかな可能性でもあるならば、それにかけるべきだ。
「どうすれば、神域へ赴けるのですか?」
「普通は夢を媒介に神で接続するが、汝はそのままいけるだろうよ。この森は、神域と地続きになっている」
「宗主は、どうされるのです?」
「吾は神域に行けぬ。ここで待とうぞ」
獣に導いてもらうよう助言され、キサラは獣に向き合う。
連れて行ってくれないかと言うと、獣はひとつ鳴き、キサラの襟を咥えて後方に投げ、背に乗せた。
「うおっ、わ」
躊躇の間も与えず、獣は疾駆する。
森の奥、教会が閉ざし、何人も踏み入らぬ地へと。
突如発生した霧で視界が霞む。日の光は木々に閉ざされ、薄暗い森は不安を増大させる。
屈み、獣毛を掴む。森が鬱蒼としているのに対し、不思議と枝などがぶつかることはなかった。
いかほど走ったろうか。そう長くはないはずだが、風は宵の冷たさを孕んでいる。
獣が飛び出した。そこはもう、キサラの知る森ではなかった。
「なっ、あ、信じられない!」
絶壁、否、恐ろしく深い崖だった。岩場には細い滝がいくつもつたい、底は濃い霧で確認できない。
落ちる、とキサラは恐怖したが、意外にも獣は平然と宙を走る。
獣の歩んだ跡には青い光の屑が、まるで儚い流星のように舞っては消える。
周囲は夜だ。空を仰げば、青星が追従し、さらにそれよりずっと巨大な星がキサラ達を照らす。
「っこれが……神域」
幻想的で原始的。夢か現かの判断に迷う。
世界中を探しても、こんなに深い渓谷はないが、風の感触も滝の水音もあまりに現実的だ。
驚きにあちらこちらを見渡すキサラに、何者かが声をかける。
『そうだ、これが神域。世の魂』
若さを滲ませる、低い男声。
キサラは声の主を探したが、しばらくしてようやく、正体を見つけた。
「まさか、餓えた獣、お前か!?」
『そうだとも。やっとまともに意思の疎通がはかれて喜ばしいな』
獣の口が動いているわけではない。
そもそも、獣は自らの霊質でキサラの一部を変えた。その際にキサラの意識を取り込んで、霊質の交換を行った。
つまりは身体的に同一であるといえる。神域においてその真価は発揮され、会話が可能となった。
「こ、これからどうすればいいの? そもそも、どこへ行けばよいのか……」
『まずは状況を把握し、ここに慣れるべきだ。落ち着ける場所を探す』
キサラは唸った。獣の知能は、少年が思っているよりよほど高い。あの英知の炎を喰ったからなのか、それとも、元より聡明なのか――
獣は首を上げ、滝の流れに逆らうように、崖を登る。
中腹に一本の巨木が横ばいに生えていた。獣は音もなく降り立ち、キサラをそつと降ろしてやる。
が、あまりの高さに怯えたキサラは、獣から離れようとはしない。
獣は慰めるように少年の顔を舐め、ゆっくりと身体を横たえる。
『落ちてもすぐに拾ってやる。怖がるな』
「む、むり。ていうか、舐めないで」
押し問答を続けていると、崖の岩を蹴って落ちてくる影があった。
まるで山羊のごとく軽やかに。されどもその下半身は馬。
宗主の使いだろうか、と思いきや、馬の首に当たる部分には、人間の上半身が生えていた。
半人半馬の怪物は、キサラ達の目の前に着地。衝撃に木がしなり、大きく揺れる。
「今度は何っ?」
「はじめての神域はどうだい、少年」
「ハナニヤ! 何故ここに」
ハナニヤは相変わらず、飄々と蝗を食いながら答える。
「魔女だからさ。魔女は神と共存し、その力を行使するのだ」
怪物は喉の奥で嗤い、尾を振る。その尾っぽは蠍のもので、毒針に金の王冠を引っ掛けていた。
魔女は神の力を利用し、様々な呪いを使っている。
神を信仰する教会と、神と共に在る魔女。同じものを信じているはずというに、故に溝は深いのか。
「少年、神域は複雑怪奇。子どもが遊ぶ場所ではないのだ。さっさとお帰り」
キサラは頑として首を横に振る。
「僕はここで、獣を昇華する。そうすれば家族に会えるから」
ハナニヤは大いに笑った。馬の背を叩き、ひいひいと苦しげに呼吸しながら。
「それはそれは! 奇跡を起こすようなものだ。昇華の方法を、お前は知っているのかね」
「そ、れは……」
「方法など、魔女にもわからん。宗主はお前を贄にしようとしているのではないか?
忌々しい。葦弥騨とはいえ、子どもに業を負わせるとは」
ハナニヤいまだ、キサラを魔女側に置くことを諦めてはいない。
誘いの言葉を、少年は払いて、獣の毛を掴む。
「だったら僕は、誰も信用しない。この獣を利用して、自分だけでやる」
宗主もハナニヤも、自分らだけの利権しか頭にない。教会と魔女の争いに巻き込まれるのはごめんだ。
またウッコも、キサラよりも宗主の願いを優先していることに気づいた。どちらにせよ、信用に値しない。
原因こそが解決の糸口とは、実に皮肉であるが、キサラはもはや躊躇しなかった。
「だからハナニヤ、僕らにはもう協力はいらない」
獣は少年を背に乗せ、颯爽と崖を上がって行った。
ハナニヤは嘆息し、馬の腹を蹴る。半人半馬の怪物がようやく、口を開く。
『よいのか、追わずして』
「若いというのはいいが、愚かだ。少しは大人の言うことも聞くべきなのだ。そうは思わないか?」
『知らんわ。もう切断するぞ、裁定者が目覚める』
崖を登りきると、そこは水溜まりだった。
ただし果てしなく延々と続く、まるで大海の如き。
浅い水面は夜空を映し、どちらが天地か、混乱させるほどに美しい。
キサラは神域の壮観にため息をつきながらも、違和感があった。
動物や虫の鳴き声、気配が一切無い。
大自然の姿をしながらも、神域とはその実、生物などいない静寂の世界だった。
不安になったキサラが、獣毛をきつく握ると、獣は脚を止めて少年を背から降ろした。
『どうした。何を恐れている』
「……どうして僕を喰ったの?」
獣は唸り、どこか気まずそうに顔を背ける。
キサラは鼻先を掴み、自らの方を向かせた。獣が呟くように答える。
『俺は長いこと餓えていた』
「うん」
『腹が減るわけでもなし、何に餓えたのかは知らない。だがあの英知の炎を喰らい、少し理解した。自らの在り方というものを』
「在り方……。いやそもそも、どうして英知の炎を喰った?」
獣は腰を落とし、少年に鼻先を近付ける。
獣の生暖かい吐息は、いやに生臭いが、キサラは慣れたものか、離れたりはしなかった。
『火を喰えば、ひとまず生きるに足る知恵を得ると、俺を解放した奴に言われた』
「ウッコ神に?」
『いいや“凍った黒薔薇”という者だ。自らの火に苛まれる俺を哀れだと言って、封印を解いた』
恐らくは、神の名だろう。
何を思い、忌々しい化物を解放したか。今は知るすべもない。
『俺は望まれない存在だ。教会も神もどんな人間も、俺を恐れ彼方に追いやる。
しかし、俺が何をしたというのだろうかな。いっそ殺してくれさえすればいいが、それも叶わん』
「罪悪が欲しくて、僕を喰ったんだ」
『それもある。お前が俺を許さないのは承知の上で、死をくれるならばそれでいい。
だが不思議と、お前といると餓えない』
獣のいう“餓え”というものはよくわからないでいたが、キサラはどこか自分と共通する部分を見つけた。
「葦弥騨の民を知っている?とても古い民で、教会より昔からある」
『一般的な知識としては。お前自身も含むな』
「葦弥騨は昔、大きな戦争の原因になることをしたんだ。
ベリオールっていう、信仰心の深い民も巻き込んで、最後には聖ゲオルギオスに伏されて縮小したんだって。
葦弥騨は、未だに他の民族から嫌われてる……今の王様の慈悲があるからいいけど」
『なるほどつまり、お前の家族は人質か』
葦弥騨の文化解明交流など、所詮は表向き。
実際には葦弥騨法務を仕切る一家の分家を国が人質にとり、歯向かわぬよう監視し、その力を削ぎ落としていく。
教会はその間に入り、森の管理をさせると同時、外界とほとんど切り離して、キサラたちの行き場を失くした。
「葦弥騨って、わかる? “悪しき野に追われる堕した民”っていう意味なんだよ。本来の民の名前は、なくなっちゃったんだ」
獣の首元の毛を掴み、キサラは震える声を絞り出す。
「世界は……僕たちに優しくないよねぇ……」
キサラの涙を舐め取った獣は、再び少年を背に乗せ歩く。
「ねえ、ええと、ウリディシム?」
『それは魔女どもが勝手につけた名だ。やめてくれ』
「じゃあ、なんて呼べばいい?」
『お前の好きなように呼べばいい。名とは存在。お前のつけた名を、俺は受け入れたい』
キサラは唸り、しばし考えた。ただの野良犬につけるのとは違うのだ。
「えっと、
名をつけられた獣は、とても嬉しそうに鳴いた。尻尾を振り、上機嫌に歩く。
『天狗か、いいぞ、気に入った』
天翔る姿そのままに。遠吠えは星の墜落の轟音のように。黒い獣毛に映える青い眼は、眩く煌めく青星。
「ねえ、天狗はどうして、僕のそばに……ううん、味方になるの? 喰ったから? 罪悪感?」
宗主も神も魔女も、キサラを利用しようとするばかり。そんな中で、天狗だけは、キサラのそばにいた。
『そうだな、それもあるが……。強いて言うなら、お前が好きだからだ』
「……えっ?」
脈絡のない好意の示しに、キサラは動揺した。慌てて意味のないことをまくし立てる。
「あ、いやなんていうかその……無し無し! 今の無しっ」
『……』
やつ当りぎみに天狗の背を叩く。獣は不満げに唸り、しかし文句は言わなかった。
つと、何もない虚空より、黄色い羽が落ちてきた。
キサラの掌に収まってしまうほどに小さな羽は、雨足が強まるように、その数を増やす。
異変に気づいた天狗が走りだす。されどもそれに逃れうる者などいない。
世界が黄金に染まる。否、前も見えないほどの
襲われることはないが、圧倒的な物量に、キサラたちは恐慌を起こす。
「なっなにこれっ!」
天狗は吠え立て、蒼い火を吐く。それでも金糸雀は燃えず、いっこうにその数を増やすばかりだった。
キサラは緋色の空間で、荒野に立っていた。椅子に座っていた。
対面に誰かが座っていた。白髪の艶やかな男が座っていた。折れた角をキサラに渡した。キサラは拒否した。男は深紅の眼を光らせ、角をキサラの心臓に突き立てた。
心臓は血を流し続けた。周りの葦弥騨の民は皆、角を刺されていた。痛々しいが、誰にも抜けなかった。
けれどもキサラの心臓は、獣が食べた。血がとまり、獣の心臓を共有した。
「……うう」
ひどく頭が痛む。おまけに寒い。
苦労して起き上がると、そこは雪原だった。しかも少し吹雪いている。
キサラは運良く、小高い丘にいた。周囲を見渡せば雪山で、かなりの斜面があった。
「天狗ー! 天狗、どこぉー?」
『喚く元気はあるようだな』
厳格な印象を与える、低い男の声。
声の方を向くと、そこには白い大きなペリカンがいた。
キサラは怪訝な顔で、鵜に近づく。
「ええと、貴方は……神様?」
『そう呼ぶ者もいるな。貴様が裁定者の覚醒に巻き込まれていたが故に保護したが……貴様はこの地で何をしている』
滑稽な見た目で、ふてぶてしい発言をするペリカンに、キサラは少し可愛いなと思った。
気を取り直し、お礼を言ってから、自らの身に起きた説明をする。
『なるほど、確かに我らの不手際、謝罪しよう』
「で、ええと……天狗、獣を見ていませんか?」
ペリカンは長い嘴で彼方を示す。
『あすこにて暴走し、手がつけられないでいた。ついて来い』
丘を下り、狭い洞窟に入る。雪を払いながら進むと、奥に天狗がいた。
だが無残にも、自らの陰火に焼かれ、身を悶えさせている。
「天狗!」
キサラは思わず飛び出し、素手で蒼い火に触れ、払った。
青白い炎は刺すように冷たく、手は見る間に凍傷を負う。
『……ッ! キサ、ラ……やめろ、俺から離れろ!』
「嫌! やだっ!」
恐らくは混乱の末、金糸雀に吐いた火が燃え移ったのだろう。
天狗は死ぬこともできず、痛みに苛まれるばかりだった。
そんな哀れな存在を見捨てたくはない。それにキサラを殺したとはいえ、天狗は唯一の味方だった。
好意を向けた者を無碍にするほど、キサラは冷酷ではない。
しかしこのままでは、キサラは無事では済まない。天狗はもがき、地を蹴って走る。
「待っ……天狗!」
少年の悲願に応じたか、ペリカンが獣の尾をくわえて止めた。
鵜がさらに口を大きく開くと、陰火はペリカンの喉袋に吸い込まれていった。
『勝手に動くな』
「あ、ありがとう、ございます……」
神の力を見たキサラは、下手に逆らってはならないと感じた。
『冷静になったか』
「はい……」
天狗をなんとかなだめ、キサラはその場に座った。獣の毛が暖かく、無意識に擦り寄る。
「あの、貴方は天狗を昇華する方法を知っていますか?」
『昇華しろ、とは……まさか教会のあの男が言ったのか』
「宗主のことでしたら、そうです」
ペリカンはしばし黙り、金の眼で獣を見た。
『“満たされる紅の杯”の力……そして“緋に侵食する荒野”の欠片……。
そうだな、裁定者にこちらから願い上げよう』
「裁定者……?」
『我らを統率し、神域を形づくる者。今、この雪山も裁定者の夢だ』
いわく、裁定者が眠り、夢を見るごとに神域は変化していく。
あの金糸雀の大群は、裁定者が目覚め、また眠る時、世界の更新が行われていたという証。
神域を形づくるということは、現世をも変化させることを指す。
餓えた獣を世界に還すには、裁定者に獣の存在を根本から変えてもらう他ない。
「その裁定者は、どこにいるんですかっ?」
ようやく希望が見えた。だが色めき立つキサラを遮るように、天狗は唸る。
『待て、悪いが気が変わった』
「え……」
『その裁定者、キサラを俺から切り離すことも、俺を殺すことも容易なわけだ』
天狗が発した言葉に、キサラは驚き、呼吸が止まった。
『ならば、力の塊である俺は、神になることも可能なはずだ』
当然ながら、鵜は怒りに鳴いた。
『貴様、生半可な知識を得て世界を知ったつもりか!
神の怒りを買っても、天狗は諦めなかった。強固な意思に、キサラは圧倒されるばかりだ。
『ならば俺はなんだ? 世界に除け者にされるならばまだしも、自由意思を持つことすら叶わないというのか!』
「天狗っ、どうしたんだ急に……」
『俺は実に脆弱だ。俺自身だけでなく、小さな子ども一人守れない』
『その子ども害したのは貴様だろう』
獣は臨戦態勢に入った。腰を低くし、牙をむく。
『俺はキサラを守らねばならない。世の悪意から、人の差別から。それはいずれ、俺の餓えを満たすだろう』
キサラは獣の想いを汲み取り、涙を滲ませた。誰も省みない自身を、同じく忌み嫌われた化物だけが愛してくれた。
憎悪よりも情が勝り、キサラは矛盾する内心に混乱する。
どちらを優先すればいいのか。家族も天狗も、今や双方失いたくない。
『そうか……ならば』
ペリカンが本来の姿を見せた。
三重の光輪を戴く、全身を鋼鉄鎧に包んだ騎士。
騎士は腰の長剣を抜き、天狗に向けた。
『貴様の動きを止め、裁定者の元まで連れて行く。後に然るべき処置をとり、世界に秩序を取り戻す』
動きは天狗が早かった。爪と牙を剥いて飛びかかり、巨体を活かして圧倒する。
その物量と、野性的な猛攻は剣では捌けず、騎士は洞窟の外まで後退する。
洞窟内ではキサラを巻き込みかねないため、ようやく蒼い炎を騎士に向けて吐いた。
しかしその行為は、大きな間違いだった。
『――貴様、我輩の化身が火を飲んだことを見なかったのか?』
騎士の剣が、赤い火を纏う。軽く凪げば、陰火は見る間に赤く染まり、騎士の動作に従う。
『我輩は文明の火を司る。蝋燭のようにか弱い種火であったな』
不利を悟った天狗は、高らかに遠吠えをした。
雪山に響く叫びに、宵に煌めく青星が反応し、より一層輝きを増した。
凄まじい轟音と共に、一筋の閃光が夜空を裂く。
青白い光が地表に降り、地面を砕く。
雪山は崩落し、雪崩を起こした。
天狗はキサラを背に、破砕した岩場を蹴って態勢を整える。
「てっ天狗! 今のはなに? まるで星が降ったような、あの力は!」
『お前が与えた名だ。名は存在、名は生命。俺はその名を持って、新しい力を得た』
とんでもないことをしてしまった、とキサラはぞっとした。
山を崩壊させるほどの力を持つ化物を、この先どう扱えばよいのか。
騎士は光輪から三対の光翼を展開し、飛行することで崩落に巻き込まれずに済んだ。
そして神域を破壊するほどの威力を見て、キサラ以上に危険視した。
『力の制御ができていないのか……まずいな』
騎士は光翼の速度を上げ、炎纏う剣を構える。次の流星が来る前に、なんとしても一撃を与えねば。
その目論見を当然、天狗は理解しており、再びの遠吠え。
明けが近いのか、空が白んでも青星はまばゆい光を放つ。
「天狗、だめだこんなのっ! 争って得られるものはないよ!」
『たとえ俺が何も得なくとも、俺はお前を守りたいんだ』
青白い光線が降る直前、暁において最も輝く金星が、さらに白熱した。
ぱしん、と軽い音が立ち、あとは静寂のみ。
『鎮まりなさい。不毛ですよ』
舞い降りたのは、一羽の小さなカワセミだった。
『貴方はわたしの金星と同じような力を持つようですね』
騎士は光翼を仕舞い、雪原に着地。翡翠の名を呼んだ。
『“金星の裁き”で相殺したのか――“翡翠の雪ぎ”』
カワセミはすぐに本来の姿を顕した。蛇を体中に這わせた、しかし美しい姿の神だった。
警戒する獣に微笑み、両手を広げてゆっくりと近づく。
『大丈夫ですよ。わたしは貴方がたを害する気はありません。今の攻撃は危険であったため、わたしの力で無効化しただけです』
慈父のような穏やかな声音と、優しい言葉に、天狗は安心して腰を下ろした。キサラも、蛇神は危険ではない気がした。
『大変な目にあいましたね。触れても?』
キサラが蛇を怖がっていることを察してか、神は纏う蛇らを背に隠した。
白く冷たい両手が、キサラの頬を壊れものを扱うように触れる。
見る間に顔や手の凍傷が癒えて、元通りの健康な肌になった。
「ありがとうございます。あの、貴方は……」
名を聞こうとしたが、蛇神の興味は天狗の方に移っていた。
白い手が、獣の首や耳の後ろを撫でる度に、天狗は嬉しそうに鼻を鳴らし、尾を振る。もっと撫でろとばかりに首を押し付ける。
「……天狗」
呆れて名を呼ぶと、天狗は弾かれたように頭を振り、キサラに鼻先をくっつける。
『それで、何用だ“翡翠の雪ぎ”まさか犬を愛でにきたわけでもあるまい』
化身に戻った鵜が、不服そうに促す。蛇神は胸に手を当て、諭す。
『貴方の怒りも解りますが、わたしの金星とほぼ同様の力は、むしろ裁定者の管理下に置くべきです』
鵜は逡巡し、一理ある、とこぼした。
『それに見てください。この子は一度死の淵にいったことにより、あの者の呪縛から解き放たれています』
蛇神は優しく、キサラの頭を撫でた。
他人からの接触を嫌う葦弥騨人だが、不思議と安心した。
『餓えた獣、貴方は我らと同じものになり、その力をもって、この子を人に戻してあげなさい』
それを聞いて、キサラはようやく天狗の意図が解った。
神になれば、キサラを人に戻し、教会や魔女どもから追われて害されることもない。
天狗がこの哀れな存在のまま消滅するよりは、その方がずっといい。
蛇神は、獣の顎を取り、語りかける。
『わたしから貴方に、名を授けましょう。
ショロトル――偉大なる星と炎、愚行を犯さぬよう戒めを』
蛇神は名前でもって、天狗の強力すぎる力を縛りつけた。しばし獣の手綱は、かの神が握ったと言える。
満足げに背を向け、翡翠となった神を、鵜が引きとめる。
『この者らを導くのではないのか』
『それは裁定者守護役である貴方に任せます。わたしはひとつ、思いついたことがあるので』
『思いつき? また妙な兵器でも造る気か』
『いいえ。ショロトルはどうやら、あの子の意識を受け入れて、同質化している様子……。
人が我らの意識を受け入れてようやく、現世に介入できますが、それはまだ不可能。ですがショロトルと同様のことならば、わたしにならできそうです』
カワセミは去ってしまい、裁定者のもとへは鵜が導くと言う。
優しい蛇神がよかったなあと、天狗もキサラも不満に思った。だが文句は言えず、大人しく追随する。
しばし曇り空を飛行する。鵜はそれほど速くは飛べず、天狗は抜かないよう加減して走る。
見下ろすと、雪山は原形をとどめておらず、キサラは改めて天狗の力を痛感した。
つとペリカンが羽ばたき、滑空した。真下には雪渓にできた巨大な割れ目。ペリカンは躊躇なくそこに飛び込んだ。
大きな割れ目は、天狗の巨体さえも豆粒のようなもの。
暗い岩場を落下し、深い谷底は、海だった。
勢いよく水音を立てて沈む。天狗が必死に足をかき、水面に浮上する。
「げほっ……えほえほっ……うう、しょっぱい」
濡れてひっつく衣服と、海水の辛さに顔をしかめる。
天狗が沈まぬようにと懸命に水をかく一方、ペリカンは波間にぷかりと浮いていた。
『行くぞ』
波に煽られ、思うように泳げないというのに、ペリカンはすいすいと進んでしまう。
天狗はむきになり、さらに水を跳ねさせる。
「天狗っ、沈んでる沈んでる!」
『泳ぎはてんで下手だな』
『くっ、そ……のほほんとした見た目で……!』
力づくで沈むことだけは防ぎ、鵜が止まった地点に近づく。
今までと変わらない海域だが、鵜は潜った。
「え、ちょ待っ……!」
息を整える間もなく、天狗も潜水。
透き通る水中は、不思議と眼が痛まず、呼吸も可能だった。
『あれだ』
ペリカンが示す先には、砂地に真っ白い卵が佇んでいた。
人間の子どもほどの大きさがある、妙な威圧感のある卵。
『これが……裁定者だと?』
『正確には、その内にある。人の子よ、触れろ』
鵜の言うとおりに、キサラは卵にそつと手を置いた。
ほのかに暖かく、殻にはどこかやわらかみがある。
いや、柔らかすぎる。手が埋まり、殻を貫通した。
「な、なにこれ」
慌てて手を戻そうとしても抜けない。どころか、何者かに強く手を引かれ、キサラは卵の内に引っ張り込まれた。
卵の内部は、黄色い光に包まれた空間だった。
心臓の鼓動のような律動が聞こえ、まるで胎内を思わせる。
ではいたるところに張り巡らされた糸は、血管だろうか。律動に合わせ、かすかに動く。
とても暖かく、眠気を誘われる。キサラは裁定者を探そうと頭を振った。
『きみ、が……導かれて、来た子』
舌足らずな声をかけられる。白い金糸雀が飛び交い、それは顕れた。
『もっと……近くに』
白磁の肌に、深緑色の長い髪の細身の男が、膝を抱えて眠っていた。
すやすやと寝息をたてているが、この人物以外に裁定者らしき者はいない。
「あなたが、裁定者ですか?」
『どうしたい?』
裁定者はキサラの質問には答えず、ただ用事を聞いた。
「天狗を……“餓えた獣”を、神様にしてほしいんです。
あなたはどうとも思わないのですか?何の罪もない無垢な力が、人からも神からも除け者にされているなんて……」
『……きみはこの世界が、きらい?』
質問に質問で返され、キサラは戸惑う。だが裁定者は黙ったまま、キサラが答えた。
「世界のことなんて、考えたことはありません。けれど今、僕を取り巻くこの状況は不条理なことばかりで、好きじゃないです」
嘘も取り繕いも無しに、キサラは本心のままに言葉を発した。それを裁定者が望んでいるような気がしたからだ。
「でもそう思うなら、自分で変えなくてはならないですよね。今まで両親や姉さんが頼りだったけど、僕は僕の想いで、天狗を神にしてあげたいのです」
裁定者はかすかに頷き、認めた。
『きみの……変える意思は……つよい。きっと……――クの……そして、葦、弥騨の……希望の星に、なる』
一部が聞き取れなかったが、了承はしてもらえるらしい。
いつの間にか、天狗がキサラの近くに来ていた。
『キサラ! 無事だったか』
「天狗。うん、それより……」
白い金糸雀が主に集い、裁定者はうっすらと眼を開く。黄金の瞳が、キサラを見る。
『なまえ……おしえて』
「きさらです。守崎、
『新たな希望……その名をもとに、生み出そう』
裁定者の体が光り、金糸雀が一羽、天狗に向かって飛び、吸い込まれる。
『“蒼き流星”――青星、断絶、対抗を司れ』
天狗の組成が変えられ、獣から人に近い姿となる。
灰色の髪をした、若い男の姿。肘から先や、耳朶は狼の名残があり、尾も残る。
鉄の轡をはめ、口元からは牙と青白い火がちらちらと覗く。
頭部に一対二本の角を生やし、眼は血が凝ったように紅い。
「……天狗……すご」
『力が漲る……今までの不安定さがない。すごいぞ、この身体は。さらに色々とできそうだ。どうだキサラ』
「かっこいいよ。びっくりした」
『かっこいいかっ。そうかそうか』
天狗は満悦な表情でキサラを抱きしめ、轡を外して少年の顔を舐めた。
行動は獣そのままで、キサラは困惑した。だが嫌な気分ではない。
『あの蛇神との約束だ。早くお前を人間にしてやらねば……現世に戻るぞ』
家族と再び暮らせる願いが、現実をおびてきた。キサラは力いっぱい頷き、裁定者の方を向く。
「あの、ありがとうございました――」
裁定者の異変に気づくのが、あまりに遅すぎた。
深緑の髪は黒く、眠たげな黄金の眼は、冷酷な深紅に染まっている。
『人ともいえぬ半端者と、我が眷属風情が、この領域に入ること一切赦さぬ』
言動がもはや別人で、キサラは硬直した。
そも、あの人畜無害そうな眠っているだけの者が“裁定者”と呼ばれていることが疑問だった。
となれば本来、裁定者とされるのは、目の前にいる人物ではなかろうか。
裁定者は細長い腕を広げる。黄色の金糸雀が、二人に殺到した。
ばちん、と耳元で鳴ったかと思えば、そこは現世の見慣れた森だった。
全ては夢だったのかと思うほどあっという間の出来事で、キサラはしばらく座ったままぼんやりとしていた。
『キサラ、どうした』
天狗の声に振り向くと、地面に紅い眼の
神の特徴を思い出し、キサラは隼に手を伸ばす。
「……天狗?」
『そうだが、この化身の姿は慣れんな……やはり獣の方が馴染む』
「うん、僕もそう思う」
裁定者がキサラを強制的に神域から切断したのを、天狗がなんとか保護し、森に戻ってきた。
キサラは隼を抱き上げて立ち、宗主を探す。
「天狗、今までありがとう」
『……ああ』
「嫌なことしかなかったけど、これでよかったって、今なら思える」
『そうだな』
どこか浮かない天狗を疑問に思いつつも、しばらく歩くと、そう苦労せず宗主を見つけた。
「宗主! 戻りました」
「そうか戻ったか」
車椅子を動かし、振り返る男の手には、短剣が握られていた。
危機を察知してキサラの腕から飛び出す隼に、宗主の投擲した短剣が刺さった。
「天狗!」
鎖で拘束され、隼は地べたにもがく。
キサラは慌てて近づき、短剣を苦労して抜く。
「そんな……血が止まらない……!」
今までどんな外傷もたちまちに再生してきたというのに、短剣の傷はどうあっても癒えなかった。
キサラが傷口を手でふさぎながらも、宗主を睨む。相手はせせら笑い、揶揄した。
「なんだその目は? 汝は獣を憎んでいるのだろう?」
「そうでした……けど、今は違う。僕は天狗を赦す!」
「汝の家族は吾が手の内ぞ。それを渡せ小僧。吾が管理してやる」
宗主は残酷な選択を迫った。家族を取り戻して天狗を捨てるか、天狗を助けて家族のもとには帰らずに逃げるか。
「決断しろ希新。でなくば汝はどこへも往けぬ」
キサラは隼を抱えて、ゆっくりと宗主に近づく。
隼は全てを受け入れた眼で、穏やかにキサラを見つめていた。少年の手が、隼の首を優しく撫でる。
宗主が微笑し、手を伸ばす。キサラはかがみ、隼を渡す、と見せかけ、隼の体で隠した短剣を、宗主の胸に突き立てた。
男の胸から、ごぷりと赤黒い血が溢れる。宗主のつけるきつい香水と混ざり、異臭が鼻をさす。
「くく……やはり葦弥騨だな……獣、なんぞに、依存した、か」
「あ……あ」
「いい、だろう……汝は、宵の道を、往け……」
それを最後に、宗主は事切れた。鎖と車椅子が幻のように消え、死体が残った。
天狗はキサラを胸に抱き、疾駆した。宗主の死体から離れるために。
「ああっ……どうしよう、どうしよう天狗……!」
『落ち着け、大丈夫だ。俺がついている』
自らの選択を、キサラは後悔し泣いた。教会の、それも主を殺してしまったのだ。家族との再会の道は、閉ざされた。
天狗はキサラの血塗れの手を舐め、諭した。
『俺は嬉しいぞ。お前が家族よりも俺を選んでくれたことが。
キサラ、森で共に生きよう』
キサラは首を横に振った。共に生きることはできても、共に死ぬことはできない。
何よりそのうち、宗主を失った教会に、キサラは捕らえられる。その先にあるのは何か。家族も裁かれ、そして葦弥騨も――
「ごめん、ごめん天狗……でももう駄目だ。逃げる先なんて無い。もう、僕を喰い殺して……!」
『馬鹿を言うな……!』
絶望に打ちひしがれ、泣き止まない少年に、天狗は途方に暮れた。
つと、枝葉をかき分け近寄る音。
ハナニヤだった。天狗は警戒を少しだけ解き、だがキサラを離したりはしない。
「まさか神になるとは。お前たちの勇気を評しよう」
『何の用だ、腐敗の魔女』
「見ていたさ。宗主を害すとはやるじゃあないか。奴を傷つけられるのは人間だけなのだ」
いずれ来る恐怖に怯えるキサラに、ハナニヤはある提案をした。
「魔女というものを教えてやろう」
「……?」
「かつては魔女も人間だった。だが複雑な、そうお前のような者が神と接触し、様々な事情を経て、魔女となる選択をする」
ハナニヤは言った。魔女とは神と共に在る者だと。その言葉に、キサラは魅了された。
「人間が、神の力の源である角を一部、その身に入れてな、子を生すのだ。その子が魔女だ。
その契約は神が死ぬまで途切れず、魔女は人ではなくなるが故に神と共に在るしかない。いわば魂の婚姻だ」
キサラは普通の人間と同じように死ぬるが、肉体は次代に繋ぎ、魂は天狗と共に在り続ける。
「天狗……」
『キサラ、お前が決めろ』
「ただし」
キサラの言葉を遮り、ハナニヤは真剣な面持ちで魔女の払うべき代償を話す。
「一点、身体に何らかの呪いを。そして魔女の始祖となったからには、神にさえその契約は解除できん。
それらを解消するには、魔王に従う他ない」
「……魔王?」
その名の通り、魔を率いる王であろうか。そしてそんな者の存在を、キサラは知らない。
「欠けゆく月の導き手とも。いつか世に降臨する何者かだ。
魔女はいつ生まれるもかわからぬ、魔王への忠誠を余儀なくされる」
しばしの沈黙。魔女になるということは、神を自らのためだけに生かすということ。意思が食い違えば、長く苦しむことになる。
キサラは考えあぐね、天狗をちらと見る。全てを受け入れる覚悟など、とうの昔にできているのだ。天狗は微笑し頷いた。
「天狗……僕と、いてくれる?」
『ああ。元より、そのつもりだ』
教会に追われるならば、それに対抗できるだけの力を得ればよい。
二人はあえて宵闇を往く道を選び、歩き出した。
キサラは化物を昇華した聖人となり、天狗の魔女の始祖となった。
ウッコは森の奥に置いた、黒い棺の前に立った。
宗主の死体から回収した宝石類を、棺の蓋に置く。がたん、と内側から蓋が開く。
中から出てきたのは、年端もいかぬ少年だった。溶液に漬かった裸体は、そこかしこに縫い後がある。
『具合はどうかね』
「良くはない。少し若すぎたな」
少年は宝石を握り、唱える。簡易的な衣服が、体を包んだ。
『もう少し、優しく導くべきじゃの』
「ふふん、悪役もこれで悪くない。それに葦弥騨というのは、あそこまで追い詰めねば動かぬ」
少年は立ち上がり、棺から出る。手を差し出し、呼びかける。
「セメイル、ラスイル」
沈黙に笑い、少年は自嘲ぎみに言った。
「やはり無駄か。魔王が必要だな」
指輪をはめ、手を振るう。顕れた車椅子に座る。
「まだ終わりではない。あと一体……忌まれし森のムシュフシュがいる。“成就した藍”よ、奴らを頼んだぞ」
『うむ。いいだろう、扉開けた者よ』
少年は――宗主は車椅子を進め、空を仰ぐ。
夜空には青星が爛々と輝き、森を、世界を照らす。
宗主は手を掲げ、星を掴むように握り締めた。
「まだだ……まだ終われない。私の罪が終わるまで。だがもうすぐだ……」
軋む腕で懸命に車椅子を進める。腐った身体は、すえた臭いをあげる。
彼の途は、未だ終わりが見えなかった。或いは、終わりなどないのやも知れぬ。
「獣の姿にもなれるんだね」
『ああ、意外と柔軟性はあるようだ』
天狗の背に乗り、キサラはかつて家族と暮らしていた家に来た。
神域に行っている間、かなりの時間が経っていたのか、ずいぶん埃っぽい。
もうこの家には、誰も帰ってこない。家族は教会の本部で暮らすであろう。
生活の名残はそのままだった。次の日に着るはずだった服、父の日記、母の裁縫道具、姉の髪飾り。
二度とは戻らぬもの。否、キサラは捨てたのだ。そして天狗を手に入れた。
聖堂の、天狗が破壊した壁も放置されていた。
「これ、直せば住めるかなあ」
『ここに住むのか』
「森に慣れるまでは。ねえ、いいよね」
『ああ、かまわん』
赤黒い血の跡に落ちた花。色んな花を混ぜた花冠は、結局姉に送れぬまま。
その一部、野薔薇の花弁を摘み、キサラは破壊された聖堂から空を眺めた。
空が徐々に白み始める。夜明けが来るのだ。
青星は宙に在り続け、闇の世界を美しく飾り、照らす。
呪われた、新しい希望とともに――。
完了
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