1

 
 鬱蒼とした広大な森林。白き樹海とも呼ばれるその地は、一部の採伐場を除き、立ち入りが制限されている。

 制限地区の取り締まりを兼ね、採伐場管理をする教会の支部が建っていた。

「姉さん、今日は静かだね」

 もうすぐ青年の域に入る頃の、大人しそうな少年が、洗濯篭を持つ姉に話しかけた。

「森はいつも静かよ。今日はお客様もいないし」

 どちらも身なりは清潔で、胸には木製の聖印をつけている。
 敬謙な教会の信徒であり、姉弟は両親と共に、この地で暮らしていた。

「だって、鳥のさえずりもない。ちょっとおかしいよ」

「んー……そうね。でもとりあえず、洗濯物を干すのを手伝って」

 遊んでばかりいることに釘を刺され、少年は摘んでいた花を地面に置いた。

 この時、鳥はおろか、虫の鳴く音すらしないことに気づく者はいなかった。






 支部には、規模は小さいが司祭寮と、祈りと教えの場である聖堂がある。

 夕食の後、祈りを捧げるために、家族は聖堂に集まる。

 父親は本を何冊か出し、それを聖堂中央の火にくべた。

 この儀式は、神前に食べ物を捧げる行為と同じ。書物を燃やし、その知識を神に奉じているのだ。

 英知の炎は、少年が知る限り、二百冊を越える本を燃やしてきた。

 思えば、この知識はどんな神に捧げているのだろうか。
 司祭である両親は知っているだろうか。

 祈りの時間が終わり、両親が聖堂を軽く掃除しはじめた。

 姉が部屋に戻る前に、昼に作った花冠を渡したかった。年頃というのに、お洒落をさせてあげられないと、母が嘆いていたからだ。
 
 
「姉さん――」

 その時、カラスのけたたましい鳴き声が響いた。

 何だ、と周囲を見る。聖堂がみしりと歪み、祭壇の後ろの壁が破られた。

 両親を助けなくては思うのに、二人は全く動けなかった。

 聖堂を破壊したのは、巨大な四足獣だった。

 見た目は狼のそれに類似しているが、とにかく桁違いにでかい。
 獣は鳴き声を上げ、自分の存在を誇示した。

「う……餓えた獣」

 父親の言葉に、二人は愕然とした。
 それはお伽話のように聞かされた。森には神が封じた怪物がおり、そのために人は森の奥に立ち入ってはならないという、教訓。

 獣はしばらく周囲を見渡してはいたが、奉じの火を見つけ、口を開いた。

 あッ、と思う間もない。獣は炎を食べてしまった。
 自らが燃えるでもなく、ごくりと喉を鳴らし、火を呑みこんだ。

 しかし、それを嘆く暇は無い。とにかく逃げなければ。
 少年は姉の腕を掴む。二人とも震えていたが、少しずつ、足を動かす。

 獣が遠吠えをした。凄まじい音量に、思わず耳を押さえる。

 嫌な予感がした少年は、姉を突き飛ばした。

 振り向けば、獣の涎に塗れた口腔が、少年の目前にあった。

 不思議と、姉の悲鳴が遠い。

 獣臭さと、胸を貫く牙の固さ。そして吐き出す血の熱さを感じ、少年の意識は閉ざされた。

 サヨナキドリの美しい声が、彼らを慰めるように反響した。
 

 
 夜も明けきらぬ頃、被害を受けた聖堂に、馬車が続々とやって来た。
 全て聖印が印されており、教会のものとわかる。

 家族三人は教会騎士らに保護され、被害現場は立入禁止となった。

 わずかな明かりで淡々と仕事をする騎士らを見て、両親は恐れた。
 早々に来てくれたのは有り難いが、それにしたって早すぎる。
 まだ近くの村にも、助けを求めていないのだ。
 まるで、教会はこうなる事を想定して――

「やってくれたな」

 邪推は、ふてぶてしい声に遮られた。

 車椅子に乗った壮年の男が、皮肉げに口元を歪め、聖堂を見ている。

 首飾り、腕輪、指輪、耳輪と、成金のような装飾品の数々。
 だが胸に光る白金製の聖印を認め、両親は平伏す。

「宗主さま……!」

「うむ。無事で何より……でもないな」

 血に濡れ俯く娘を見て、宗主はため息をついた。娘は花を手放そうとせず、呼吸も荒い。

「誰の血だ?」

「宗主さま、私の息子を――キサラを、どうかお救い下さい!」

 聞けば、キサラという男児が獣に食われ、森の奥にさらわれたという。

「どうか……遺体だけでも……」

 さすがに同情した騎士が、安心させるように、両親の肩を叩く。

 宗主は頷き、命じた。

「これより、この地区は封鎖する。その者らは本部にて聴取と保護を。娘は……病院だな」
 

 
 両親は騎士に連れられ、大人しく馬車に乗る。自分にはどうにもできない事を、理解しきっていた。

 娘は騎士に触れられると、悲鳴を上げ、動かすことができない。

 宗主は娘の頭を掴み、声なき声で何事か唱えた。
 すると娘は、気絶したように眠りに落ちた。

「運べ」

 騎士は一礼し、娘を丁重に抱えた。

 被害者を乗せた馬車のみ、先に出発した。
 宗主は足元の木箱を蹴った。木箱には、鎖ががんじがらめに縛りつけられている。

「何がしたかったのだ、汝は」

 木箱の中には、獣の封印を解いた張本人が入っている。
 何度尋ねても、木箱の中身は答えない。

 このまま砕いてしまってもよかったが、宗主は腑に落ちない物があった。

「一旦、本部に置いておこう。われの部屋ならば、力を失った者なぞ、恐るるに足りず」

 騎士は命じられた通り、木箱を馬車に運び込む。重さはそうでもないらしい。

 宗主は車椅子を進め、聖堂に入った。
 木片が車輪に引っ掛かるが、気にせず祭壇まで行く。

「英知の火を食うとは――せっかく燃やし続けたのに」

 宗主は悪態をつき、車椅子を戻す。

 聖堂に残った血痕。そこに人差し指から抜き取った、柘榴石の指輪を落とす。

「まずは様子見だな」
 



 
 湿った土と、草の匂い。
 そして特有の、獣臭さ。


 ぼやけた意識をなんとか払い、少年――キサラは目覚めた。

 周囲は木々が立ち並び、その枝葉は日の光を隠す。

 夢でも見ているのか。キサラは仰向けのまま、自分の身体を触る。

 何故か法衣は大きく破けており、赤黒い染みが付着していた。

 それを見たキサラは全てを思い出し、猛烈に吐いた。

 何度も胃液を吐き下し、ようやくまともに呼吸ができたころ、額に湿った何かが当たる。

 ふんふん、という息遣いと、次いでやってきたざらりとした感触とぬめり。獣臭さ。

 キサラは恐怖のあまり、悲鳴さえ出なかった。


 自分を噛み殺したはずの、餓えた獣が眼前にいた。
 どころか、顔を何度も舐めてくる。

 再び吐き気を催し、えづくが、もう戻すものもない。

 つと、獣がキサラの襟首をくわえて運ぶ。

「やっ……離し、離してえっ」

 抵抗は無駄に終わり、キサラは大木の根本にある泉にほうり込まれた。

「ぶはっ……うう」

 泉は浅瀬だ。慌てて出る。

 温暖な気候だから良い、というものではない。キサラはもぞもぞと法衣を脱ぎ、苦労して水を絞った。

 たしかに嘔吐物まみれよりは良いが、それでも構わず、獣はキサラの体を舐めた。

「やめて、舐めないで!」

 強く言うと、意外にも獣は舌を出すのを止めた。

 かわりに、ぴすぴす鼻を鳴らし、顔を寄せてくる。

 
 噛まれると予想して言ったというのに、あまりにも意外だった。

 むしろキサラは自棄になっており、殺されるならばそれでもよい、とさえ考えていた。

「もう……わけわかんないよぉ……」

 法衣を頭から被り、獣を視界に入れないようにする。

 冷えと心細さから守るように、キサラは膝を抱え込んだ。

「父さん、母さん……姉さん」


 獣が唸る。
 身を固くし、獣を見るが、あらぬ方向を向いていた。

 まさか助けが、と思ったが、キサラは獣以上の怪異を見ることになった。

 森の奥から、木片を寄り合わせ、雄鹿の形をしたモノが近づいてくる。

 音もなく走り、叫ぶ暇もなくキサラを木枝の角で掬い上げ、背に乗せた。

「ひ、いや、いやあ!」

 刺や枝で肌を切り、キサラはわけもわからず悲鳴を上げる。

 だが鹿はお構いなしに、森を駆ける。
 獣の怒りの咆哮が、遠巻きに聞こえた。




 しばらく走りぬけ、鹿が獣から逃げ切った時、キサラの身体に異変が起きた。

「あ、か……う」

 鼓動が不自然に脈動し、呼吸がうまくできない。
 助けを求めるように、必死に口を開閉するが、この森には誰もいないのだ。

 全身が痺れたように動かない。体が傾き、地面に落ちたが、それを痛む余裕はなかった。

 鹿は停止し、困ったようにキサラの周囲を巡る。
 
 
 キサラの呼吸が止まりかけた時、ついに獣が追いついた!

 同時に、不自然な脈動が止み、呼吸が正常に戻る。

 獣は大きく吠えたて、鹿を噛み砕いた。
 さらに口腔から青い炎を吐き出し、木片を残らず消し炭にする。

 キサラが灰と煙に咳込むと、獣はそちらに駆け寄り、少年の体に鼻を押し付ける。

 炎は燃え広がることなく、鹿だけを灰にした。

 その光景を恐ろしく思いながらも、キサラは目を離すことができなかった。 


 一方獣は、この柔い体をどうくわえて運ぶべきか、思案していた。
 そんな時、場違いに呑気な声がかかった。

『おんやまあ、こりゃ驚いた』

 キサラの膝元に、一羽の鴨がいた。
 見た目は最も普通なのだが、人の言葉で話す限り、やはり異常だ。

『魔女でもないし……こういった状態は初めて見たの』

 キサラが思わず後ずさると、鴨は独り言を止め、文字通り姿を変えた。

 子供の背丈ほどもある、大きな石斧を抱えた、背の低い老人だ。長い毛の眉や髭で、表情はわかりにくいが、その黄金の瞳は、慈悲深い光を宿している。

 老人が人ではない証に、頭部から二対四本の角が生えていた。

『儂はこの森の生態を管理していての。人々はウッコと呼ぶ』

 ウッコは少年に握手を求めようとするが、それを阻むように獣が唸る。

『何もせんわい……いやさっきの鹿はすまなかったの。あれ儂の』

 やたら人懐こいウッコに、キサラは少しずつ落ち着いてきた。

『さて……どこから話すべきかの。これは獣を封印し直すだけではすまんぞい』

 ウッコが少年の身体に手をかざすと、みるみるうちに傷が塞がる。
 奇跡と呼ぶに相応しい技を見せた老人。人間でないことは確かだが、では何かと、キサラは問いた。

「あの……あなたは」

『人の子は儂らを、精霊だ竜だ神だ呼ぶが、どれが正しいのかね』

 あっさりと人外を称したウッコ。しかし納得はいくし、キサラには少々、思い当たる節があった。
 この老人は、伝承にある、獣を封じた神ではあるまいか。

 キサラは縋るしかなかった。こんな所で、獣に怯える状況は耐えられない。
 しかしウッコは、言葉を濁した。

『何せの、おぬしは特殊な状況にあるようじゃ……』

「……とにかく、なんとか、ならない、ですか」

 ウッコは考えるそぶりを見せた後、何を思ったか鴨の姿に変態した。

『ちいと他の連中の知識が必要だの。待っておれ――大丈夫、必ずや戻る』

 そのまま鴨は、森の奥へと飛んで行った。
 キサラは追いかけようと立ち上がるが、獣に押さえ込まれる。

 片足で地面に押さえ付けられ、傷はないものの、キサラはそれだけで恐怖により動けない。

「もう……やだぁ」

 頭を抱え、うずくまるキサラ。
 獣はくうんと切なげに鳴き、キサラの髪に鼻を押し付ける。

 その行動が、さらにキサラの恐怖を助長させているとは、獣は気づかない。
 

 
 いつの間に眠ってしまったのか。
 キサラはくしゃみをひとつ。洟をすすり、ようやく風邪を引いたことに気付いた。

 半裸で、しかも濡れたまま地面で眠れば当然か。

「……うっ」

 おまけに、獣が寄り添い寝ている。
 ごわごわとした毛は確かに暖かいが、独特の臭いには、いまだ慣れない。

 キサラが動いたことにより、獣も起きだす。あるいは、眠っていないのだろう。

「……さむい」

 夜の森は恐ろしいほど暗く、否応なしに孤独を突き付けられる。

 家族を思い出し、キサラは再び泣き出した。

(誰か、誰かお願い……助けてよう……!)


 折しも、その願いは叶えられた。

 地面を疾走する、何かの音が聞こえる。それは蹄の音だが、キサラはあいにくと、それを知らない。

 一日のうちに、少年はいくつの怪奇を見ただろう。

 闇の中、青く輝く、巨大なものがキサラに向かってくる。

 それが青ざめた馬と判明した時、キサラは悲鳴を上げた。

 獣が尾を振り、飛び掛かる寸前、馬が停止する。

 馬には頭絡とうらくが着けられている。この大きさは間違いなく軍馬であり、キサラは圧倒された。

 馬上の人物が、キサラに向かって言い放った。
 法衣を着た、壮年の男だった。
 
「キサラ・モリサキだな」

 教会の法衣。ついに助けが来た、とキサラは歓喜した。

「はい、そうです!」

 しかと答え、近付こうとした時、男は絶望的な返答をした。

「なるほどなるほど。さてどうしてくれようか」

 しかし獣はお構いなしに、青ざめた馬に噛み付く。
 馬からは血も臓物も出ない。代わりに、ばきりばきりと壊れる音が響く。

 男は馬から飛び降り、右手親指から、緑玉石の指輪を外す。

 指輪を宙に投げ、声なき声で唱えた。

『我がために争え! 堅固なる殻を砕き、魔術を打ち払え、ヤコブ!』

 指輪が輝き、深緑の獅子が形作れる。

 キサラは理解した。先ほどの馬も、この獅子も、宝石でできているのだと。

 獣と獅子がぶつかり合う。

 獣が蒼い炎を吐き出すと、獅子はさらに燃え広がる緑の炎を吹いた。
 凄まじい臭気を放つ緑の炎は、たちまち獣を取り囲む。
 男は大きく笑い、獣を嘲るように言った。

「吾の火は、汝とは違い、この森を燃やすぞ。抵抗を止めれば仕舞ってやらんこともない」

 舞い上がる灰と煙に、キサラが咳込む。
 獣は忌ま忌ましげに、床に伏せた。

 唸る獣などどこ吹く風で、男は獅子を消す。
 そしていつの間に用意していた、車椅子に座った。

「さて、キサラ。よく生きていたな。嬉しいぞ。男なのが残念だがな」

 こんな状況でも楽しげに笑う男に、キサラは返事ができない。

 男が木枝を集め、火を点す。
 炎の暖かさに安堵し、キサラはもう一度、男を見た。

「あの、貴方は……」

 何者か、と問い掛けたことを、キサラは後悔した。

 男の胸に光る、白金の聖印。
 問う必要もない。それを身につけることができるのは、この世においてただ一人。

 教会の長。宗主である証。

「そ、宗主……」

「うむ。宗主様とか、偉大なる宗主御大とか、素晴らしい教会指導者さまとか、好きに呼ぶがよい」

「……宗主、あの、僕はどうなる、でしょうか。それに……家族は」

「この餓鬼め……。汝の処遇は、追い追い決めよう。家族は全員無事だ。安心せい」

 精神が崩壊した、姉の話はしなかった。
 キサラはひどく安堵し、涙目で感謝を述べた。

「まあ、あれだ。汝にはしばらく、ここにいてもらう」

 宗主は黒パンや干し肉。水をキサラに渡した。

 それらを見たキサラは空腹と、喉の乾きを覚え、口にした。

 人間に会えたことと、家族の無事の確認が、キサラの生きるための欲を蘇らせた。

「食いながら聞け。その獣のことだ」

 キサラが頷くと、宗主は語り始めた。

「その獣は、教会が発足したばかりの頃にできたものだ。餓えた獣――魔女らはウリディシムと呼んでいる」


 
 キサラが食事を終えたことを確認すると、宗主は着替えを寄越した。
 下着も含めた簡素な衣服は、確かにありがたいが、キサラはおずおずと宗主を見る。
 話を進めたい宗主はしばらく待ったが、服を手に動かないキサラを見て、ようやく気付いた。

「……ああ、肌を見られるのを厭うのか。面倒な」

 車椅子を動かし、宗主は背を向ける。

 キサラは葦弥騨あしやだと呼ばれる古い民だ。
 白い髪に、白い肌、黒い瞳。他民族に比べて小柄な体躯と、若々しい見目を特徴とする。

 特殊な方言と文化を持ち、その解明と交流のために、キサラの家族は故郷を離れて、教会に入っている。
 葦弥騨の民は貞節に厳しく、男女の差なく、婚前の若者は肌の露出を嫌がる。

「――終わりました」

 乱れた白髪を整え、キサラは深く礼をした。
 やたら礼儀正しく、物静かであるのも、葦弥騨人の特徴だ。
 宗主は振り向き、改めてキサラの様子を確認した。

「外傷は無いようだな」

「はい、ないです」

 だがキサラが先ほどまで着ていた法衣は、血に染まり、大きく裂けていた。

 宗主は裂けた布地を撫でた。
 もしもこの傷を負ったならば、キサラは確実に死んでいる。
 それでもキサラは、無傷で生きていた。
 そして獣が、やたらとキサラに纏わり付く様子。

「餓えた獣。汝、あの英知の炎を喰ったろう」
 
 獣は宗主に耳を向けるのみで、首を巡らせようとはしない。
 それでも構わず、宗主は続けた。

「あの火はあらゆる知識の集合体。実験に過ぎなかったが……獣よ、実は言葉がわかるだろう」

 肯定の意か、獣が尾を一度だけ振る。

 犬の口は、人の言葉を話すには向かない。
 そのため喋ることは無かったが、キサラたちの話していることは理解していた。

「……生意気な獣よ」

 話を戻そうとキサラの方を見れば、少年は正座したまま、こくりこくりと船を漕いでいる。

 宗主は密かに、催眠効果のある香を焚いていた。それが効いたらしい。

 衝撃的な事件ばかりで、ろくに睡眠も取れないのでは、今後に支障が出る。思春期の青少年を、やたら刺激してはならない。

「もうよい、眠れ。吾は此処にいてやる」

 毛布を投げつける。

 キサラは獣や周囲を拒絶するように毛布に包まり、寝息を立てた。

 獣は寂しげに鳴き、毛布に鼻を押し付けるが、諦めてキサラの隣に伏せた。






 宗主が夜空を見上げると、闇夜には星が瞬いていた。

 その内でも、一際輝く青い星があった。
 青き星は、獣と少年を照らし続ける。

 宗主は――男は、青星に手を伸ばし、まるで胡桃の殻を砕くかの如く、握り締めた。


 
 湿った空気が、肌に纏わり付く。
 濡れた土と草と、けだものの匂いが、キサラの鼻を刺激する。

「……ふ」

 獣がキサラの顔をしきりに舐め、起きろと催促する。キサラはそれを手で払い、獣の唾液を拭いつ起き上がった。

「ふはああ……」

 みっともない欠伸が見られぬよう、毛布で顔を隠す。本当は顔を洗いたいが、贅沢は言えない。

 何せ此処は、人知を越えた神秘の森。化け物と神とが、やすやすと実在してしまうのだから。

「挨拶は無しか?」

 約束通り、宗主はいた。
 小刀で山桃の皮を剥き、種をくり抜いていた。

「……おはよう、ございます」

「本日もよしなに。食え」

 木の器に盛られた山桃が、キサラに渡される。
 几帳面に切り分けられた果実に、宗主の人となりが見れた。

「……あ、りがと、ございます」

 口の端から果汁が零れる度、獣がそれを舐める。
 その行為を止めさせるのに、キサラは苦労した。

「や、舐めないでってばあ」

「くうん」

 今にも食われそうなキサラだが、獣はそんなそぶりは見せない。

 狼は本来、群れを成す。格下の者に、ああいった行動はしない。

「……つがいか。ははは、気持ち悪い」


 
 キサラが食事を終えると、ようやくこの事件に関する話が始まった。

「というか、キサラ。お前はこちらの言語がわからぬだろう」

「あ……はい。ごめんなさい」

 話し方がやたらたどたどしいのは、そのためだ。

 葦弥騨の方言はかなり特殊で、文字と言語の統一を推進する教会は、故にキサラたちと交流していたのだ。

 それでも子供ながらに、会話を成せていた方だ。
 宗主は怒ることはせず、むしろ褒める。そして葦弥騨の言葉に切り替えた。

「あー……久々に使うな。おかしい箇所があったら言え」

「いえ、完璧です。さすがですね」

 褒められ、宗主はふふん、と鼻を鳴らした。意外と単純らしい。

「それで宗主……餓えた獣とは、何です?僕はいつ、家族と会えるのでしょう」

 少年の切実な願いに、宗主は残酷な答えを寄越した。

「なあ、驚いて泣くなよ――汝は、獣の牙を心臓にたてられ、死んでいた」

「……生きていますよ、僕は」

「では何故、傷ひとつなく、吾と話している?」

 その答えを、キサラは出せなかった。まさか物語りに出てくるような、幽霊にでもなってしまったのか。

 宗主は柘榴石の指輪を外し、地面に投げた。
 柘榴石はたちまち犬の姿を形作り、従順に宗主の足元に座る。

「真実を表す石に、汝の血を探らせたが、堂々巡りでな。別の手で、こうして見つけたが……」


 
 柘榴石の犬を仕舞い、宗主は続ける。

「どうも汝は、人でありつつも、人ではないようだ。
それが判明するまで、この森からは出せぬ」

「そんな……どうかご慈悲を!」

「ならぬ。獣は汝以外に危害を加える。家族を死なせたくなければ、吾の言葉に従え」

 容赦のない命令に、キサラは毛布を手に泣いた。
 それを慰めるように、獣が鼻先を寄せるが、キサラはさらに毛布に顔を埋める。

 泣くなと言ったに、と宗主が苦々しい表情をしていると、ふいに老いた声が降る。

『あ、泣かせたの。無垢な子を泣かせたの』

「“成就した藍”!よりにもよって汝か!」

 飛んで来た鴨を見て、宗主は嘆息し、キサラは希望を見出だす。

「ウッコ神!」

『可哀相に、いじめられたのかい。おーよしよし』

 ウッコは着ている外衣の袖で、キサラの涙を拭いてやる。

「ウッコ神……お願いです、どうか、家族と会わせて下さい」

 老人はうんうんと頷いたが、宗主が待ったをかける。

「ウッコ、汝だろう。獣の封印解除の助力をしたのは」

 え、とキサラはウッコから離れる。なんだこの状況は。頼れる味方というものが、誰もいない。

「こやつは“成就した藍”――雷、天空、呪文、願いを司る。
ゆえに善悪の区別無く、全ての願いを叶える、いわば最高の偽善者だ」

「偽善者とは失礼な。おぬしも見方によっては、偽善者じゃよ」

 神に対し、それを崇めるはずの教会宗主は、とんでもない暴言を吐いていた。

 睨み合う二人を、キサラは止めた。争う場面ではない。

「どうか鎮まりください。僕に指針を賜りくださるのでは、ないのですか」

 神と崇拝者はひとしきり睨み合うた後、ふん、と顔を背けた。

「なれば今は静観せよ。それが吾の願いだ」

『ま、いいかの』

 キサラの願いを打ち捨て、ウッコは新しい願いを叶えた。
 想いなど無視し、機械的に願いを叶え続ける。その姿は確かに、偽善的ですらある。

 故にウッコは、封印を解除した者を助けてしまったし、今もやたらと願い叶えようとする。

 ある意味危険な存在だと、キサラは感じた。

『すまんの。まだ家族には会わせられぬ』

「そんな……」

『それより、他の者から知恵を借りたところ、とんでもないことが判明しての』

 言うべきか迷うウッコを、宗主が促す。今さら、これ以上に衝撃的なことなど、あるものか。

『坊やは獣に喰われた。獣は、坊やの身体を自らの力で再構築し、霊質を共有させているのじゃよ』

「なるほど故に、獣は小僧から離れたがらない」

「一定距離を離れるとの、坊やの身体は保てなくなり、死んでしまう」

 死という単語に、キサラはひどく衝撃を受け、一拍置いてから全身が震えあがる。

「この状況は、終ぞ見たことがない。契約者とも違うようだ……」

『あまりに一方的じゃの。精神波長が合っても、こうはいかぬ』

「うむ。これを“神憑き”と呼ぶか。今度試そうぞ」

 ウッコの鹿がキサラを連れ去った時、キサラはひどい動悸に襲われた。

 それが獣と離れたことによる死の兆候ならば、キサラは呆気なく死んでしまうに違いない。

「そ、そんな……どうして、どうして僕が!」

 混乱に喚くキサラを、獣が慰めるように鼻先を寄せる。

 獣の顔面を叩き、この時初めて、キサラは獣に怒りを向けた。

「お前のせいだっ! 何もかも全て! お前がいなければ、こんな事には……!」

 獣は許しを請うように切なげに鳴くが、少年はそれを否定し、なにもかもを拒む。

「宗主もウッコ神も、何の救いにもならない!何が神だっ、僕らはこんなものを崇め奉っていたのかっ」

 言い切ってから、自分がとんでもない発言をしたとキサラは気づき、青ざめた。

 教会最高指導者と、信仰すべき神に盾突いた。
 宗主は怒りはしなかったが、無表情でキサラを見ている。

 それがかえって恐ろしい。
 自分たち一家が、教会に従属していることを思い出したキサラは、その場から脱兎の如く逃げた。

 あてもなくさ迷うキサラを、従順に獣は追う。
 不思議と、宗主とウッコの追跡は無かった。

 泣き惑う少年を、慰めなくてはと思うのだが、獣はその術を知らない。

 何せ本当に、ただの偶然だったのだ。

 封じられ、自らの火に苛まれ続けた獣は、餓えを充たすがためにキサラを喰った。



 偶然目につき、たまたま喰っただけの子供だが、故に大切にすべきだった。

 獣は餓えていたが、何に餓えているのかは、解らないでいた。



 キサラは泣き腫らした目で、獣を見る。
 この状況に置かれ、ようやく気づいたが、キサラには頼れるものは、この獣しかいない。

 よりによって、自分を殺し、家族から引き離した怨敵が。

「……あ、の」

 勇気を振り絞り、獣に声をかける。
 擦り寄る獣に距離を取り、キサラは言った。

「聖堂は……僕の家はどこ?」

 家に帰れば、家族に会えるかもしれない。微かな望みだけが、キサラを動かす。

 獣は先導した。
 キサラは逡巡するが、家族への想いを止められず、着いて行った。



 獣道すら見当たらぬ、鬱蒼とした森を、狼は迷いなく進む。

 後を追うキサラは、つと不安になった。
 家族と会うのはよいが、こんな状態のキサラを、両親は、姉はどう思うだろうか。

 逆の立場であったならば、キサラは蔑んでいたやも知れぬ。

「あ……!」

 避ける枝葉が割合、減った時、見慣れた木造の屋根が見えた。

 質素だが清潔に保ってきた、我らが家。
 そう何日と離れてはいないが、キサラはひどく懐かしく思った。

 衝動的に走り出すキサラだが、森から出ようとした、その脚は突然止まる。
 
「っ……う」

 進めない。

 これより一歩先に、どうしても進めない。
 キサラ自身の感情の問題ではない。獣でさえ、唸りてその場から動こうとしない。

 目の前には、あれほど渇望した帰るべき家があるというのに。

「ど、して……」

 まるで巨大な壁に阻まれたかのよう。
 キサラは首を何度も振り、踏み込もうとするが、上手くいかなかった。

 少年が途方に暮れた頃、聖堂の方から、陰鬱なる声がした。

「見ぃつけた」

 弾かれたように顔を上げると、無人だった聖堂前に、男が居た。

 赤い髪は伸び放題でぼさぼさ。白い肌とぼろのような服は土にまみれ、腐臭さえ漂わせる。

 不潔というより、腐敗という単語が合致する。そんな男だった。
 赤毛の男は、酒精中毒者のようにふらふらと歩き、キサラに近寄る。
 獣の存在も威嚇も意に介さず、男は親しげに話し掛けた。

「結界だよ。君はここを通れやしない」

 私は通れるがね、と男が森に足を踏み入れた。

「貴方は……」

「ようやく見つけた。ウリディシム――憐れな魂」

 男は獣を見、そう言った。

 キサラは宗主の言葉を思い出す。
『魔女らはウリディシムと呼ぶ』と――

 つと、男はしゃがむ。土をいじり、中から動物の骨を捜し当てた。

 なんとも悍ましい様子に、潔癖なキサラは目を背ける。
 しかしそれは、命取りの行為だった。

「さあ餓えた獣。私がお前の魂を秤にかけてやる、しかと待つ母のもとへ送ってやるぞ」

 警戒していた獣は、強靭なる顎で男の腕を噛み砕き引きちぎる。

「え、やだ、駄目っ!」

 獣の暴挙を止めようと、キサラは獣の毛を引く。

「どうしてそんな事をするのっ!」

「躾のなっていない犬ころめ」

 男が嫌らしく笑うと、もがれたはずの腕が独りでに動く。持っていた骨で獣の口腔を裂いた。

 獣は痛みに唸るが、退がることはなく、蒼い炎を吐いた。

 さしもの男も、これには耐え切れずに引き下がる。

「なんと相性の悪い……」

 キサラは必死の思いで、獣の首を掴み、止めようとした。これ以上、獣の被害者を出してはならない。

 しかして、獣は制止を無視し、腐敗の男に飛び掛かった。

「だが所詮は犬だな。人には勝てない」

 男が残った方の腕を地面に突き入れ、声なき声で唱える。

『我は審判の母にして子である――わたしは夜の幻のうちに見た。見よ、天の四方からの風が大海をかきたてると、四つの大きな獣が海から上がってきた。その形は、おのおの異なり――』

 見る見るうちに地面が盛り上がる。
 土の亀裂から、わずかに白いもの――動物の骨が見えた。

『――見よ、第二の獣は熊のようであった。これはそのからだの一方をあげ、その口の歯の間に、三本の肋骨をくわえていたが、これに向かって「起き上がって、多くの肉を食らえ」と言う声があった』

 地中から出でたるは、動物の骨を寄せ集めた怪物だった。

 木片の鹿や、宝石の獅子よりも巨大で、かつ悍ましい。
 全く化け物の名に相応しいそれを、男は使役する。

 男のように呪いを扱い、人々に災いをもたらす者を、普遍的に魔女と呼ぶ。

 恐怖のあまり、キサラは獣の毛を強く掴む。
 獣は少年を振り払い、骨の怪物に突撃。

 だが獣の爪牙と陰火の敵ではない。
 骨の燃え崩れる様を、ぼうと見ていたキサラは、男の存在を忘れていた。

「あ、ぐっ……」

 卑怯にも、男はキサラの背後にまわり、拘束した。不可思議にも、男の腕は何事もなかったかのように再生していた。

「動くな、ウリディシム」

 今にも飛び掛かりそうな獣を牽制し、男はキサラを人質に取る。

「この子供は、私の手中だ」

 獣が怒りの声を上げる。

 男の妙に冷たい体温と腐臭に、嫌悪したキサラは逃れようともがく。

「やだっ、は、離して!」

(葦弥騨と警戒したが……至って普通の子供だな)

 膂力も無く、特殊な力を持っているわけでもない。されども、獣はやたら子供に執着していると、男は感じた。

「なあ少年、名前を教えてくれるかな? 何、変なことはしない」

 純粋な興味だった。男はなるべく安心させるように笑い、答えを促す。

「き、さら……守崎もりさきの、子です」

「モリサキ……葦弥騨法務のか?」

 キサラは何度も頷いた。

 葦弥騨の法を取り仕切る守崎一族。そのうちキサラの家庭だけが教会に所属している。

 教会との力関係の均衡を保つためであり、キサラ自身も、教会の教えには感心していた。

 
「私は葦弥騨の事情に明るくはないが、君を殺せば確実に怒られるのはわかる」

 私たちも複雑なのだよと言い、男はキサラを離した。

「あ、あの……」

「それより、ウリディシムをば止めてくれないか? 喰われるのはごめんだね」

「止める、て……どうすれば」

「おすわり、とか言ってみればどうか?」

 意地悪く笑う男に不快感を抱きつ、キサラは獣を宥めた。

「お願いだから、おとなしくして……」

 牙を剥き、唸る獣の頭を、キサラは恐る恐る触れる。
 二、三度軽く叩けば、獣は警戒を止め、しかしいつでも突進できる体勢で伏せた。

「やるじゃないか」

 キサラは男から離れ、獣の影に添う。
 誰も彼もがキサラを傷つけ、殺そうとした。
 誰をも信用できないが、だからこそ、人以外に頼った方が良いと判断した。

「……私はハナニヤ。お察しの通り魔女だ」

 攻撃の意は無いことを示すため、ハナニヤは地べたに座り、両手を差し出す。

「この森より、はるか北に位置する国から来た。森の封印が解除されたと聞いてね」

 キサラは頷いた。神、教会、魔女まで関与している。その渦中にただの子供である自分がいるなど、いまだ信じられなかった。

「状況は思ったより複雑なようだ。君はなぜ森にいる? 親御はどうした」

 キサラはぽつりぽつりと、今まであったことを話した。ハナニヤを信用したわけではないが、知り合いですらない関係だからこそ、話して少しでも楽になりたかった。

「なるほど。実に憐れな身の上だ」

 キサラの話を聞いた魔女は、同情するような素振りも見せず、淡泊に言った。

「僕、は家に帰れるの……?」

「そこな聖堂には、誰もいなかったが」

 その事実に、キサラは驚くが、きっと近くの村に避難しているのだろう、と思い直した。

「ふむ、しかし君の話を聞くに、宗主はこの森に居るのだな」

「……恐らくは」

 宗主がいつ、キサラを追ってくるかと、気が気ではなかった。
 だがいまだ、その気配は無い。

 ハナニヤは喉の奥で笑い、キサラに提案した。

「どうだひとつ、私と手を組まないか?」

「……っ」

 獣がキサラを庇うように前に出る。
 キサラとしても、いかにも怪しい魔女なんぞに、心を許す気はない。

「ならば誰に頼るのだ? 卑しいその獣か?」

「卑しいという点は、貴方も同じと思います」

 これは一本取られた、と魔女は下品に笑った。
 暢気な様が、キサラの苛立ちを増幅させる。

「では聞くが、君はこれからどうしようというのだ?」

 唐突な質問に、キサラは答えることができなかった。
 獣と離れ、家族と共に、平穏なる日常を。当たり前のはずのそれが、なにやら難しいことのように思えた。

「恐らくこの先の展開、君の選択ひとつに我々は振り回される」

 魔女に宗主に神。そして“餓えた獣”
 その中心に、ちっぽけな子供は無理矢理立たされた。



 絶え間なく、咳き込む音がする。

 寝ずの番をしていたハナニヤは、そうとキサラに近づく。獣が唸るが、気にとめない。

 獣に寄り添われ、眠る少年は、苦しげに呼吸をしていた。
 決して良いとは言えない環境と、精神的な負担が、キサラの体調を崩した。

 ハナニヤがキサラの額に手を当てると、獣がその手を噛んだ。
 痛がる様子も見せず、魔女は呆れかえる。

「取るわけじゃあない」

 触れられた部分を浄めるように、獣はキサラの額を舐める。

「馬鹿な獣だ。お前に人の体がわかるものか」

 寒気に震えるキサラを見、獣はようやっと判断がついたらしい。キサラからその巨体を離す。

 ハナニヤはキサラの襟元を開き、粗末な布切れで汗を拭うてやる。
 辛そうに咳の止まぬ少年を無理やり起こし、水と薬とを与えた。

 警戒して薬を飲もうとしないキサラに、魔女は不機嫌に説明した。

「いいか。私は病と飢えとを振り撒く魔女だ。転じて、それらの専門家なのだ。
んなもんだから早く飲め。毒にすり替えてもいいのだぞ?」

 押しきられるようにして、キサラは恐る恐る、粉末薬を口に入れた。
 目が覚めるほど苦い。ハナニヤはキサラの鼻と口を押さえ、嚥下を手助けする。

「ぷあっ、はあぁ……苦すぎる」

「早く寝ろ。でなくば生きたままのいなごを口に入れるぞ」

 悪戯っぽい笑みを浮かべる魔女を見て、キサラは服を整え、寝転がる。
 獣がいたわるように寄り添う。ごわつく毛皮だが、暖かさには抗えず、キサラはほんの少し近づく。

 キサラの白い髪に、獣が鼻を押し付ける。その目はどこか、慈愛に満ちているように見えた。



 
 無明。
 ひたすらに果てなき、闇、闇、闇。それは永劫。

 無感動に闇と共に在ったが、青白い光が視界に入る。

 眩い光は、蒼い炎だった。
 その火に焼かれるは、小さな犬。

 子犬は痛ましい悲鳴を上げ、炎から逃れようともがく。
 だが無意味な行為だ。火は子犬の内より出でているのだから。

 手を伸ばし、犬から火を払おうとする。蒼い炎は突き刺さるように冷たく、手は凍えて凍傷を負う。

 払っても叩いても、火は消えない。
 ついに炎は子犬を焼きつくし、ようやく燃え尽きた。



 目を覚ましたキサラは、洟をすすり、起き上がる。
 まだ体調は万全ではないのか、と思いきや、泣いていたことに気づく。

 顔を舐めてくる獣を押し退け、ハナニヤを探す。
 それを察してか、獣が彼方を向いた。

 魔女は地べたに胡座をかき、皮袋にいれた蝗の死骸を貪っていた。
 いつの間にいたやら、禿鷲と会話している。

 キサラの視線に気づいたハナニヤが、食うかと皮袋を寄越す。必死に首を横に振ると、押し付けてはこない。

「具合はどうだ」

「良い、と思います。……ありがとうございました」

 怠さは残るが、病がこんなにも早く治るとは。
 魔女を見直したキサラだが、赤黒い干し肉を与えられ、考えは撤回された。

「まあ私も、いつまでもこんな森にいるつもりはないのだ」

 下品に干し肉を噛み潰し、魔女は言った。

「私はこれから、森にいる宗主に会いに行く。君はどうするね」

 キサラは戸惑い、頭を巡らせる。獣と目が合い、なぜだかしばし見つめあう。

 この化け物と、自らに関して、まだ聞いていないことは山ほどある。家族のもとへ帰るためにも、キサラはもう一度、宗主に接触する必要があった。
 

 
 黒檀の棺に鎖を巻き、木片を寄り合わせた鹿の首に括りつける。
 ウッコが手を振るうと、鹿は棺を軽々と引き、森の南方へと駈けて行った。

『これでよいのかの』

「保険が多いに越したことはない」

 ウッコは不満げに唸り、鴨に変体し飛び立つ。






「う、嘘でしょう……」

 キサラは頭を抱えた。共に宗主を探していたハナニヤが、通りすがったイタチを追いかけてどこかへ行ってしまった。
 いくら呼んでも返事がない。すっかりはぐれた。

「あの人はもう……信じられないっ」

 生真面目な葦弥騨の少年は、ハナニヤの態度をすっかり嫌っていた。
 あんな大人に頼る方が間違いだったのだ。こうなったら自力で探す他ない。

 とはいえ広大な樹海。たった一人を探すというのは至難の業。

 獣は宗主に会うのは反対らしく、キサラを手助けする様子はなかった。

 考えに考え、キサラは閃いた。その場に膝まずき、手を合わせて祈る。

「おお天にましますウッコ神よ。迷える我らを、どうか偉大なる方へと導きたまえ」

『呼んだかの』

「うひゃあ」

 思ったよりも早い降臨に、キサラは驚いた。単に言葉を賜れれば、それでよかったのだが。

「う、ウッコ神。本当に来てくださるとは……」

『願えば儂は来るぞよ。元気そうで何よりじゃの』

 思惑は当たった。キサラは無礼を詫び、宗主に会わせてくれるよう願う。

『よかったよかった。儂もあやつも、おぬしらを待っていたのじゃよ』

「待っていた?」

「全てを知る覚悟ができたならば、来るがよいぞ。
逃げても止めぬ。お主の好きに生きるとよいの」

 キサラは頭を振る。獣に喰われ、家族と離され、少年はどこにも行けない。
 泣いては何も取り戻せない。手を伸ばさねば。

『星を掴むような困難な道を選ぶのじゃな?ならばよし。儂らは坊やに最大限の支援を約束しようの』

 老いた神が先導する。
 しばし歩くと、車椅子に座す男がいた。

「宗主……先日は、大変な無礼を――」

「よい。忘れよ」

 脚を組み換え、宗主は尊大に語る。
 罰を覚悟したキサラは、宗主の寛大さにひどく安堵した。

「汝には知る義務がある。世界を変える資格がある。
さあ語ってくれよう。――吾の罪悪と、憐れなる魂の物語りを」




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