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鬱蒼とした広大な森林。白き樹海とも呼ばれるその地は、一部の採伐場を除き、立ち入りが制限されている。
制限地区の取り締まりを兼ね、採伐場管理をする教会の支部が建っていた。
「姉さん、今日は静かだね」
もうすぐ青年の域に入る頃の、大人しそうな少年が、洗濯篭を持つ姉に話しかけた。
「森はいつも静かよ。今日はお客様もいないし」
どちらも身なりは清潔で、胸には木製の聖印をつけている。
敬謙な教会の信徒であり、姉弟は両親と共に、この地で暮らしていた。
「だって、鳥のさえずりもない。ちょっとおかしいよ」
「んー……そうね。でもとりあえず、洗濯物を干すのを手伝って」
遊んでばかりいることに釘を刺され、少年は摘んでいた花を地面に置いた。
この時、鳥はおろか、虫の鳴く音すらしないことに気づく者はいなかった。
支部には、規模は小さいが司祭寮と、祈りと教えの場である聖堂がある。
夕食の後、祈りを捧げるために、家族は聖堂に集まる。
父親は本を何冊か出し、それを聖堂中央の火にくべた。
この儀式は、神前に食べ物を捧げる行為と同じ。書物を燃やし、その知識を神に奉じているのだ。
英知の炎は、少年が知る限り、二百冊を越える本を燃やしてきた。
思えば、この知識はどんな神に捧げているのだろうか。
司祭である両親は知っているだろうか。
祈りの時間が終わり、両親が聖堂を軽く掃除しはじめた。
姉が部屋に戻る前に、昼に作った花冠を渡したかった。年頃というのに、お洒落をさせてあげられないと、母が嘆いていたからだ。
「姉さん――」
その時、カラスのけたたましい鳴き声が響いた。
何だ、と周囲を見る。聖堂がみしりと歪み、祭壇の後ろの壁が破られた。
両親を助けなくては思うのに、二人は全く動けなかった。
聖堂を破壊したのは、巨大な四足獣だった。
見た目は狼のそれに類似しているが、とにかく桁違いにでかい。
獣は鳴き声を上げ、自分の存在を誇示した。
「う……餓えた獣」
父親の言葉に、二人は愕然とした。
それはお伽話のように聞かされた。森には神が封じた怪物がおり、そのために人は森の奥に立ち入ってはならないという、教訓。
獣はしばらく周囲を見渡してはいたが、奉じの火を見つけ、口を開いた。
あッ、と思う間もない。獣は炎を食べてしまった。
自らが燃えるでもなく、ごくりと喉を鳴らし、火を呑みこんだ。
しかし、それを嘆く暇は無い。とにかく逃げなければ。
少年は姉の腕を掴む。二人とも震えていたが、少しずつ、足を動かす。
獣が遠吠えをした。凄まじい音量に、思わず耳を押さえる。
嫌な予感がした少年は、姉を突き飛ばした。
振り向けば、獣の涎に塗れた口腔が、少年の目前にあった。
不思議と、姉の悲鳴が遠い。
獣臭さと、胸を貫く牙の固さ。そして吐き出す血の熱さを感じ、少年の意識は閉ざされた。
サヨナキドリの美しい声が、彼らを慰めるように反響した。
夜も明けきらぬ頃、被害を受けた聖堂に、馬車が続々とやって来た。
全て聖印が印されており、教会のものとわかる。
家族三人は教会騎士らに保護され、被害現場は立入禁止となった。
わずかな明かりで淡々と仕事をする騎士らを見て、両親は恐れた。
早々に来てくれたのは有り難いが、それにしたって早すぎる。
まだ近くの村にも、助けを求めていないのだ。
まるで、教会はこうなる事を想定して――
「やってくれたな」
邪推は、ふてぶてしい声に遮られた。
車椅子に乗った壮年の男が、皮肉げに口元を歪め、聖堂を見ている。
首飾り、腕輪、指輪、耳輪と、成金のような装飾品の数々。
だが胸に光る白金製の聖印を認め、両親は平伏す。
「宗主さま……!」
「うむ。無事で何より……でもないな」
血に濡れ俯く娘を見て、宗主はため息をついた。娘は花を手放そうとせず、呼吸も荒い。
「誰の血だ?」
「宗主さま、私の息子を――キサラを、どうかお救い下さい!」
聞けば、キサラという男児が獣に食われ、森の奥にさらわれたという。
「どうか……遺体だけでも……」
さすがに同情した騎士が、安心させるように、両親の肩を叩く。
宗主は頷き、命じた。
「これより、この地区は封鎖する。その者らは本部にて聴取と保護を。娘は……病院だな」
両親は騎士に連れられ、大人しく馬車に乗る。自分にはどうにもできない事を、理解しきっていた。
娘は騎士に触れられると、悲鳴を上げ、動かすことができない。
宗主は娘の頭を掴み、声なき声で何事か唱えた。
すると娘は、気絶したように眠りに落ちた。
「運べ」
騎士は一礼し、娘を丁重に抱えた。
被害者を乗せた馬車のみ、先に出発した。
宗主は足元の木箱を蹴った。木箱には、鎖ががんじがらめに縛りつけられている。
「何がしたかったのだ、汝は」
木箱の中には、獣の封印を解いた張本人が入っている。
何度尋ねても、木箱の中身は答えない。
このまま砕いてしまってもよかったが、宗主は腑に落ちない物があった。
「一旦、本部に置いておこう。
騎士は命じられた通り、木箱を馬車に運び込む。重さはそうでもないらしい。
宗主は車椅子を進め、聖堂に入った。
木片が車輪に引っ掛かるが、気にせず祭壇まで行く。
「英知の火を食うとは――せっかく燃やし続けたのに」
宗主は悪態をつき、車椅子を戻す。
聖堂に残った血痕。そこに人差し指から抜き取った、柘榴石の指輪を落とす。
「まずは様子見だな」
湿った土と、草の匂い。
そして特有の、獣臭さ。
ぼやけた意識をなんとか払い、少年――キサラは目覚めた。
周囲は木々が立ち並び、その枝葉は日の光を隠す。
夢でも見ているのか。キサラは仰向けのまま、自分の身体を触る。
何故か法衣は大きく破けており、赤黒い染みが付着していた。
それを見たキサラは全てを思い出し、猛烈に吐いた。
何度も胃液を吐き下し、ようやくまともに呼吸ができたころ、額に湿った何かが当たる。
ふんふん、という息遣いと、次いでやってきたざらりとした感触とぬめり。獣臭さ。
キサラは恐怖のあまり、悲鳴さえ出なかった。
自分を噛み殺したはずの、餓えた獣が眼前にいた。
どころか、顔を何度も舐めてくる。
再び吐き気を催し、えづくが、もう戻すものもない。
つと、獣がキサラの襟首をくわえて運ぶ。
「やっ……離し、離してえっ」
抵抗は無駄に終わり、キサラは大木の根本にある泉にほうり込まれた。
「ぶはっ……うう」
泉は浅瀬だ。慌てて出る。
温暖な気候だから良い、というものではない。キサラはもぞもぞと法衣を脱ぎ、苦労して水を絞った。
たしかに嘔吐物まみれよりは良いが、それでも構わず、獣はキサラの体を舐めた。
「やめて、舐めないで!」
強く言うと、意外にも獣は舌を出すのを止めた。
かわりに、ぴすぴす鼻を鳴らし、顔を寄せてくる。
噛まれると予想して言ったというのに、あまりにも意外だった。
むしろキサラは自棄になっており、殺されるならばそれでもよい、とさえ考えていた。
「もう……わけわかんないよぉ……」
法衣を頭から被り、獣を視界に入れないようにする。
冷えと心細さから守るように、キサラは膝を抱え込んだ。
「父さん、母さん……姉さん」
獣が唸る。
身を固くし、獣を見るが、あらぬ方向を向いていた。
まさか助けが、と思ったが、キサラは獣以上の怪異を見ることになった。
森の奥から、木片を寄り合わせ、雄鹿の形をしたモノが近づいてくる。
音もなく走り、叫ぶ暇もなくキサラを木枝の角で掬い上げ、背に乗せた。
「ひ、いや、いやあ!」
刺や枝で肌を切り、キサラはわけもわからず悲鳴を上げる。
だが鹿はお構いなしに、森を駆ける。
獣の怒りの咆哮が、遠巻きに聞こえた。
しばらく走りぬけ、鹿が獣から逃げ切った時、キサラの身体に異変が起きた。
「あ、か……う」
鼓動が不自然に脈動し、呼吸がうまくできない。
助けを求めるように、必死に口を開閉するが、この森には誰もいないのだ。
全身が痺れたように動かない。体が傾き、地面に落ちたが、それを痛む余裕はなかった。
鹿は停止し、困ったようにキサラの周囲を巡る。
キサラの呼吸が止まりかけた時、ついに獣が追いついた!
同時に、不自然な脈動が止み、呼吸が正常に戻る。
獣は大きく吠えたて、鹿を噛み砕いた。
さらに口腔から青い炎を吐き出し、木片を残らず消し炭にする。
キサラが灰と煙に咳込むと、獣はそちらに駆け寄り、少年の体に鼻を押し付ける。
炎は燃え広がることなく、鹿だけを灰にした。
その光景を恐ろしく思いながらも、キサラは目を離すことができなかった。
一方獣は、この柔い体をどうくわえて運ぶべきか、思案していた。
そんな時、場違いに呑気な声がかかった。
『おんやまあ、こりゃ驚いた』
キサラの膝元に、一羽の鴨がいた。
見た目は最も普通なのだが、人の言葉で話す限り、やはり異常だ。
『魔女でもないし……こういった状態は初めて見たの』
キサラが思わず後ずさると、鴨は独り言を止め、文字通り姿を変えた。
子供の背丈ほどもある、大きな石斧を抱えた、背の低い老人だ。長い毛の眉や髭で、表情はわかりにくいが、その黄金の瞳は、慈悲深い光を宿している。
老人が人ではない証に、頭部から二対四本の角が生えていた。
『儂はこの森の生態を管理していての。人々はウッコと呼ぶ』
ウッコは少年に握手を求めようとするが、それを阻むように獣が唸る。
『何もせんわい……いやさっきの鹿はすまなかったの。あれ儂の』
やたら人懐こいウッコに、キサラは少しずつ落ち着いてきた。
『さて……どこから話すべきかの。これは獣を封印し直すだけではすまんぞい』
ウッコが少年の身体に手をかざすと、みるみるうちに傷が塞がる。
奇跡と呼ぶに相応しい技を見せた老人。人間でないことは確かだが、では何かと、キサラは問いた。
「あの……あなたは」
『人の子は儂らを、精霊だ竜だ神だ呼ぶが、どれが正しいのかね』
あっさりと人外を称したウッコ。しかし納得はいくし、キサラには少々、思い当たる節があった。
この老人は、伝承にある、獣を封じた神ではあるまいか。
キサラは縋るしかなかった。こんな所で、獣に怯える状況は耐えられない。
しかしウッコは、言葉を濁した。
『何せの、おぬしは特殊な状況にあるようじゃ……』
「……とにかく、なんとか、ならない、ですか」
ウッコは考えるそぶりを見せた後、何を思ったか鴨の姿に変態した。
『ちいと他の連中の知識が必要だの。待っておれ――大丈夫、必ずや戻る』
そのまま鴨は、森の奥へと飛んで行った。
キサラは追いかけようと立ち上がるが、獣に押さえ込まれる。
片足で地面に押さえ付けられ、傷はないものの、キサラはそれだけで恐怖により動けない。
「もう……やだぁ」
頭を抱え、うずくまるキサラ。
獣はくうんと切なげに鳴き、キサラの髪に鼻を押し付ける。
その行動が、さらにキサラの恐怖を助長させているとは、獣は気づかない。
いつの間に眠ってしまったのか。
キサラはくしゃみをひとつ。洟をすすり、ようやく風邪を引いたことに気付いた。
半裸で、しかも濡れたまま地面で眠れば当然か。
「……うっ」
おまけに、獣が寄り添い寝ている。
ごわごわとした毛は確かに暖かいが、独特の臭いには、いまだ慣れない。
キサラが動いたことにより、獣も起きだす。あるいは、眠っていないのだろう。
「……さむい」
夜の森は恐ろしいほど暗く、否応なしに孤独を突き付けられる。
家族を思い出し、キサラは再び泣き出した。
(誰か、誰かお願い……助けてよう……!)
折しも、その願いは叶えられた。
地面を疾走する、何かの音が聞こえる。それは蹄の音だが、キサラはあいにくと、それを知らない。
一日のうちに、少年はいくつの怪奇を見ただろう。
闇の中、青く輝く、巨大なものがキサラに向かってくる。
それが青ざめた馬と判明した時、キサラは悲鳴を上げた。
獣が尾を振り、飛び掛かる寸前、馬が停止する。
馬には
馬上の人物が、キサラに向かって言い放った。
法衣を着た、壮年の男だった。
「キサラ・モリサキだな」
教会の法衣。ついに助けが来た、とキサラは歓喜した。
「はい、そうです!」
しかと答え、近付こうとした時、男は絶望的な返答をした。
「なるほどなるほど。さてどうしてくれようか」
しかし獣はお構いなしに、青ざめた馬に噛み付く。
馬からは血も臓物も出ない。代わりに、ばきりばきりと壊れる音が響く。
男は馬から飛び降り、右手親指から、緑玉石の指輪を外す。
指輪を宙に投げ、声なき声で唱えた。
『我がために争え! 堅固なる殻を砕き、魔術を打ち払え、ヤコブ!』
指輪が輝き、深緑の獅子が形作れる。
キサラは理解した。先ほどの馬も、この獅子も、宝石でできているのだと。
獣と獅子がぶつかり合う。
獣が蒼い炎を吐き出すと、獅子はさらに燃え広がる緑の炎を吹いた。
凄まじい臭気を放つ緑の炎は、たちまち獣を取り囲む。
男は大きく笑い、獣を嘲るように言った。
「吾の火は、汝とは違い、この森を燃やすぞ。抵抗を止めれば仕舞ってやらんこともない」
舞い上がる灰と煙に、キサラが咳込む。
獣は忌ま忌ましげに、床に伏せた。
唸る獣などどこ吹く風で、男は獅子を消す。
そしていつの間に用意していた、車椅子に座った。
「さて、キサラ。よく生きていたな。嬉しいぞ。男なのが残念だがな」
こんな状況でも楽しげに笑う男に、キサラは返事ができない。
男が木枝を集め、火を点す。
炎の暖かさに安堵し、キサラはもう一度、男を見た。
「あの、貴方は……」
何者か、と問い掛けたことを、キサラは後悔した。
男の胸に光る、白金の聖印。
問う必要もない。それを身につけることができるのは、この世においてただ一人。
教会の長。宗主である証。
「そ、宗主……」
「うむ。宗主様とか、偉大なる宗主御大とか、素晴らしい教会指導者さまとか、好きに呼ぶがよい」
「……宗主、あの、僕はどうなる、でしょうか。それに……家族は」
「この餓鬼め……。汝の処遇は、追い追い決めよう。家族は全員無事だ。安心せい」
精神が崩壊した、姉の話はしなかった。
キサラはひどく安堵し、涙目で感謝を述べた。
「まあ、あれだ。汝にはしばらく、ここにいてもらう」
宗主は黒パンや干し肉。水をキサラに渡した。
それらを見たキサラは空腹と、喉の乾きを覚え、口にした。
人間に会えたことと、家族の無事の確認が、キサラの生きるための欲を蘇らせた。
「食いながら聞け。その獣のことだ」
キサラが頷くと、宗主は語り始めた。
「その獣は、教会が発足したばかりの頃にできたものだ。餓えた獣――魔女らはウリディシムと呼んでいる」
キサラが食事を終えたことを確認すると、宗主は着替えを寄越した。
下着も含めた簡素な衣服は、確かにありがたいが、キサラはおずおずと宗主を見る。
話を進めたい宗主はしばらく待ったが、服を手に動かないキサラを見て、ようやく気付いた。
「……ああ、肌を見られるのを厭うのか。面倒な」
車椅子を動かし、宗主は背を向ける。
キサラは
白い髪に、白い肌、黒い瞳。他民族に比べて小柄な体躯と、若々しい見目を特徴とする。
特殊な方言と文化を持ち、その解明と交流のために、キサラの家族は故郷を離れて、教会に入っている。
葦弥騨の民は貞節に厳しく、男女の差なく、婚前の若者は肌の露出を嫌がる。
「――終わりました」
乱れた白髪を整え、キサラは深く礼をした。
やたら礼儀正しく、物静かであるのも、葦弥騨人の特徴だ。
宗主は振り向き、改めてキサラの様子を確認した。
「外傷は無いようだな」
「はい、ないです」
だがキサラが先ほどまで着ていた法衣は、血に染まり、大きく裂けていた。
宗主は裂けた布地を撫でた。
もしもこの傷を負ったならば、キサラは確実に死んでいる。
それでもキサラは、無傷で生きていた。
そして獣が、やたらとキサラに纏わり付く様子。
「餓えた獣。汝、あの英知の炎を喰ったろう」
獣は宗主に耳を向けるのみで、首を巡らせようとはしない。
それでも構わず、宗主は続けた。
「あの火はあらゆる知識の集合体。実験に過ぎなかったが……獣よ、実は言葉がわかるだろう」
肯定の意か、獣が尾を一度だけ振る。
犬の口は、人の言葉を話すには向かない。
そのため喋ることは無かったが、キサラたちの話していることは理解していた。
「……生意気な獣よ」
話を戻そうとキサラの方を見れば、少年は正座したまま、こくりこくりと船を漕いでいる。
宗主は密かに、催眠効果のある香を焚いていた。それが効いたらしい。
衝撃的な事件ばかりで、ろくに睡眠も取れないのでは、今後に支障が出る。思春期の青少年を、やたら刺激してはならない。
「もうよい、眠れ。吾は此処にいてやる」
毛布を投げつける。
キサラは獣や周囲を拒絶するように毛布に包まり、寝息を立てた。
獣は寂しげに鳴き、毛布に鼻を押し付けるが、諦めてキサラの隣に伏せた。
宗主が夜空を見上げると、闇夜には星が瞬いていた。
その内でも、一際輝く青い星があった。
青き星は、獣と少年を照らし続ける。
宗主は――男は、青星に手を伸ばし、まるで胡桃の殻を砕くかの如く、握り締めた。
湿った空気が、肌に纏わり付く。
濡れた土と草と、けだものの匂いが、キサラの鼻を刺激する。
「……ふ」
獣がキサラの顔をしきりに舐め、起きろと催促する。キサラはそれを手で払い、獣の唾液を拭いつ起き上がった。
「ふはああ……」
みっともない欠伸が見られぬよう、毛布で顔を隠す。本当は顔を洗いたいが、贅沢は言えない。
何せ此処は、人知を越えた神秘の森。化け物と神とが、やすやすと実在してしまうのだから。
「挨拶は無しか?」
約束通り、宗主はいた。
小刀で山桃の皮を剥き、種をくり抜いていた。
「……おはよう、ございます」
「本日もよしなに。食え」
木の器に盛られた山桃が、キサラに渡される。
几帳面に切り分けられた果実に、宗主の人となりが見れた。
「……あ、りがと、ございます」
口の端から果汁が零れる度、獣がそれを舐める。
その行為を止めさせるのに、キサラは苦労した。
「や、舐めないでってばあ」
「くうん」
今にも食われそうなキサラだが、獣はそんなそぶりは見せない。
狼は本来、群れを成す。格下の者に、ああいった行動はしない。
「……つがいか。ははは、気持ち悪い」
キサラが食事を終えると、ようやくこの事件に関する話が始まった。
「というか、キサラ。お前はこちらの言語がわからぬだろう」
「あ……はい。ごめんなさい」
話し方がやたらたどたどしいのは、そのためだ。
葦弥騨の方言はかなり特殊で、文字と言語の統一を推進する教会は、故にキサラたちと交流していたのだ。
それでも子供ながらに、会話を成せていた方だ。
宗主は怒ることはせず、むしろ褒める。そして葦弥騨の言葉に切り替えた。
「あー……久々に使うな。おかしい箇所があったら言え」
「いえ、完璧です。さすがですね」
褒められ、宗主はふふん、と鼻を鳴らした。意外と単純らしい。
「それで宗主……餓えた獣とは、何です?僕はいつ、家族と会えるのでしょう」
少年の切実な願いに、宗主は残酷な答えを寄越した。
「なあ、驚いて泣くなよ――汝は、獣の牙を心臓にたてられ、死んでいた」
「……生きていますよ、僕は」
「では何故、傷ひとつなく、吾と話している?」
その答えを、キサラは出せなかった。まさか物語りに出てくるような、幽霊にでもなってしまったのか。
宗主は柘榴石の指輪を外し、地面に投げた。
柘榴石はたちまち犬の姿を形作り、従順に宗主の足元に座る。
「真実を表す石に、汝の血を探らせたが、堂々巡りでな。別の手で、こうして見つけたが……」
柘榴石の犬を仕舞い、宗主は続ける。
「どうも汝は、人でありつつも、人ではないようだ。
それが判明するまで、この森からは出せぬ」
「そんな……どうかご慈悲を!」
「ならぬ。獣は汝以外に危害を加える。家族を死なせたくなければ、吾の言葉に従え」
容赦のない命令に、キサラは毛布を手に泣いた。
それを慰めるように、獣が鼻先を寄せるが、キサラはさらに毛布に顔を埋める。
泣くなと言ったに、と宗主が苦々しい表情をしていると、ふいに老いた声が降る。
『あ、泣かせたの。無垢な子を泣かせたの』
「“成就した藍”!よりにもよって汝か!」
飛んで来た鴨を見て、宗主は嘆息し、キサラは希望を見出だす。
「ウッコ神!」
『可哀相に、いじめられたのかい。おーよしよし』
ウッコは着ている外衣の袖で、キサラの涙を拭いてやる。
「ウッコ神……お願いです、どうか、家族と会わせて下さい」
老人はうんうんと頷いたが、宗主が待ったをかける。
「ウッコ、汝だろう。獣の封印解除の助力をしたのは」
え、とキサラはウッコから離れる。なんだこの状況は。頼れる味方というものが、誰もいない。
「こやつは“成就した藍”――雷、天空、呪文、願いを司る。
ゆえに善悪の区別無く、全ての願いを叶える、いわば最高の偽善者だ」
「偽善者とは失礼な。おぬしも見方によっては、偽善者じゃよ」
神に対し、それを崇めるはずの教会宗主は、とんでもない暴言を吐いていた。
睨み合う二人を、キサラは止めた。争う場面ではない。
「どうか鎮まりください。僕に指針を賜りくださるのでは、ないのですか」
神と崇拝者はひとしきり睨み合うた後、ふん、と顔を背けた。
「なれば今は静観せよ。それが吾の願いだ」
『ま、いいかの』
キサラの願いを打ち捨て、ウッコは新しい願いを叶えた。
想いなど無視し、機械的に願いを叶え続ける。その姿は確かに、偽善的ですらある。
故にウッコは、封印を解除した者を助けてしまったし、今もやたらと願い叶えようとする。
ある意味危険な存在だと、キサラは感じた。
『すまんの。まだ家族には会わせられぬ』
「そんな……」
『それより、他の者から知恵を借りたところ、とんでもないことが判明しての』
言うべきか迷うウッコを、宗主が促す。今さら、これ以上に衝撃的なことなど、あるものか。
『坊やは獣に喰われた。獣は、坊やの身体を自らの力で再構築し、霊質を共有させているのじゃよ』
「なるほど故に、獣は小僧から離れたがらない」
「一定距離を離れるとの、坊やの身体は保てなくなり、死んでしまう」
死という単語に、キサラはひどく衝撃を受け、一拍置いてから全身が震えあがる。
「この状況は、終ぞ見たことがない。契約者とも違うようだ……」
『あまりに一方的じゃの。精神波長が合っても、こうはいかぬ』
「うむ。これを“神憑き”と呼ぶか。今度試そうぞ」
ウッコの鹿がキサラを連れ去った時、キサラはひどい動悸に襲われた。
それが獣と離れたことによる死の兆候ならば、キサラは呆気なく死んでしまうに違いない。
「そ、そんな……どうして、どうして僕が!」
混乱に喚くキサラを、獣が慰めるように鼻先を寄せる。
獣の顔面を叩き、この時初めて、キサラは獣に怒りを向けた。
「お前のせいだっ! 何もかも全て! お前がいなければ、こんな事には……!」
獣は許しを請うように切なげに鳴くが、少年はそれを否定し、なにもかもを拒む。
「宗主もウッコ神も、何の救いにもならない!何が神だっ、僕らはこんなものを崇め奉っていたのかっ」
言い切ってから、自分がとんでもない発言をしたとキサラは気づき、青ざめた。
教会最高指導者と、信仰すべき神に盾突いた。
宗主は怒りはしなかったが、無表情でキサラを見ている。
それがかえって恐ろしい。
自分たち一家が、教会に従属していることを思い出したキサラは、その場から脱兎の如く逃げた。
あてもなくさ迷うキサラを、従順に獣は追う。
不思議と、宗主とウッコの追跡は無かった。
泣き惑う少年を、慰めなくてはと思うのだが、獣はその術を知らない。
何せ本当に、ただの偶然だったのだ。
封じられ、自らの火に苛まれ続けた獣は、餓えを充たすがためにキサラを喰った。
偶然目につき、たまたま喰っただけの子供だが、故に大切にすべきだった。
獣は餓えていたが、何に餓えているのかは、解らないでいた。
キサラは泣き腫らした目で、獣を見る。
この状況に置かれ、ようやく気づいたが、キサラには頼れるものは、この獣しかいない。
よりによって、自分を殺し、家族から引き離した怨敵が。
「……あ、の」
勇気を振り絞り、獣に声をかける。
擦り寄る獣に距離を取り、キサラは言った。
「聖堂は……僕の家はどこ?」
家に帰れば、家族に会えるかもしれない。微かな望みだけが、キサラを動かす。
獣は先導した。
キサラは逡巡するが、家族への想いを止められず、着いて行った。
獣道すら見当たらぬ、鬱蒼とした森を、狼は迷いなく進む。
後を追うキサラは、つと不安になった。
家族と会うのはよいが、こんな状態のキサラを、両親は、姉はどう思うだろうか。
逆の立場であったならば、キサラは蔑んでいたやも知れぬ。
「あ……!」
避ける枝葉が割合、減った時、見慣れた木造の屋根が見えた。
質素だが清潔に保ってきた、我らが家。
そう何日と離れてはいないが、キサラはひどく懐かしく思った。
衝動的に走り出すキサラだが、森から出ようとした、その脚は突然止まる。
「っ……う」
進めない。
これより一歩先に、どうしても進めない。
キサラ自身の感情の問題ではない。獣でさえ、唸りてその場から動こうとしない。
目の前には、あれほど渇望した帰るべき家があるというのに。
「ど、して……」
まるで巨大な壁に阻まれたかのよう。
キサラは首を何度も振り、踏み込もうとするが、上手くいかなかった。
少年が途方に暮れた頃、聖堂の方から、陰鬱なる声がした。
「見ぃつけた」
弾かれたように顔を上げると、無人だった聖堂前に、男が居た。
赤い髪は伸び放題でぼさぼさ。白い肌とぼろのような服は土にまみれ、腐臭さえ漂わせる。
不潔というより、腐敗という単語が合致する。そんな男だった。
赤毛の男は、酒精中毒者のようにふらふらと歩き、キサラに近寄る。
獣の存在も威嚇も意に介さず、男は親しげに話し掛けた。
「結界だよ。君はここを通れやしない」
私は通れるがね、と男が森に足を踏み入れた。
「貴方は……」
「ようやく見つけた。ウリディシム――憐れな魂」
男は獣を見、そう言った。
キサラは宗主の言葉を思い出す。
『魔女らはウリディシムと呼ぶ』と――
つと、男はしゃがむ。土をいじり、中から動物の骨を捜し当てた。
なんとも悍ましい様子に、潔癖なキサラは目を背ける。
しかしそれは、命取りの行為だった。
「さあ餓えた獣。私がお前の魂を秤にかけてやる、しかと待つ母のもとへ送ってやるぞ」
警戒していた獣は、強靭なる顎で男の腕を噛み砕き引きちぎる。
「え、やだ、駄目っ!」
獣の暴挙を止めようと、キサラは獣の毛を引く。
「どうしてそんな事をするのっ!」
「躾のなっていない犬ころめ」
男が嫌らしく笑うと、もがれたはずの腕が独りでに動く。持っていた骨で獣の口腔を裂いた。
獣は痛みに唸るが、退がることはなく、蒼い炎を吐いた。
さしもの男も、これには耐え切れずに引き下がる。
「なんと相性の悪い……」
キサラは必死の思いで、獣の首を掴み、止めようとした。これ以上、獣の被害者を出してはならない。
しかして、獣は制止を無視し、腐敗の男に飛び掛かった。
「だが所詮は犬だな。人には勝てない」
男が残った方の腕を地面に突き入れ、声なき声で唱える。
『我は審判の母にして子である――わたしは夜の幻のうちに見た。見よ、天の四方からの風が大海をかきたてると、四つの大きな獣が海から上がってきた。その形は、おのおの異なり――』
見る見るうちに地面が盛り上がる。
土の亀裂から、わずかに白いもの――動物の骨が見えた。
『――見よ、第二の獣は熊のようであった。これはそのからだの一方をあげ、その口の歯の間に、三本の肋骨をくわえていたが、これに向かって「起き上がって、多くの肉を食らえ」と言う声があった』
地中から出でたるは、動物の骨を寄せ集めた怪物だった。
木片の鹿や、宝石の獅子よりも巨大で、かつ悍ましい。
全く化け物の名に相応しいそれを、男は使役する。
男のように呪いを扱い、人々に災いをもたらす者を、普遍的に魔女と呼ぶ。
恐怖のあまり、キサラは獣の毛を強く掴む。
獣は少年を振り払い、骨の怪物に突撃。
だが獣の爪牙と陰火の敵ではない。
骨の燃え崩れる様を、ぼうと見ていたキサラは、男の存在を忘れていた。
「あ、ぐっ……」
卑怯にも、男はキサラの背後にまわり、拘束した。不可思議にも、男の腕は何事もなかったかのように再生していた。
「動くな、ウリディシム」
今にも飛び掛かりそうな獣を牽制し、男はキサラを人質に取る。
「この子供は、私の手中だ」
獣が怒りの声を上げる。
男の妙に冷たい体温と腐臭に、嫌悪したキサラは逃れようともがく。
「やだっ、は、離して!」
(葦弥騨と警戒したが……至って普通の子供だな)
膂力も無く、特殊な力を持っているわけでもない。されども、獣はやたら子供に執着していると、男は感じた。
「なあ少年、名前を教えてくれるかな? 何、変なことはしない」
純粋な興味だった。男はなるべく安心させるように笑い、答えを促す。
「き、さら……
「モリサキ……葦弥騨法務のか?」
キサラは何度も頷いた。
葦弥騨の法を取り仕切る守崎一族。そのうちキサラの家庭だけが教会に所属している。
教会との力関係の均衡を保つためであり、キサラ自身も、教会の教えには感心していた。
「私は葦弥騨の事情に明るくはないが、君を殺せば確実に怒られるのはわかる」
私たちも複雑なのだよと言い、男はキサラを離した。
「あ、あの……」
「それより、ウリディシムをば止めてくれないか? 喰われるのはごめんだね」
「止める、て……どうすれば」
「おすわり、とか言ってみればどうか?」
意地悪く笑う男に不快感を抱きつ、キサラは獣を宥めた。
「お願いだから、おとなしくして……」
牙を剥き、唸る獣の頭を、キサラは恐る恐る触れる。
二、三度軽く叩けば、獣は警戒を止め、しかしいつでも突進できる体勢で伏せた。
「やるじゃないか」
キサラは男から離れ、獣の影に添う。
誰も彼もがキサラを傷つけ、殺そうとした。
誰をも信用できないが、だからこそ、人以外に頼った方が良いと判断した。
「……私はハナニヤ。お察しの通り魔女だ」
攻撃の意は無いことを示すため、ハナニヤは地べたに座り、両手を差し出す。
「この森より、はるか北に位置する国から来た。森の封印が解除されたと聞いてね」
キサラは頷いた。神、教会、魔女まで関与している。その渦中にただの子供である自分がいるなど、いまだ信じられなかった。
「状況は思ったより複雑なようだ。君はなぜ森にいる? 親御はどうした」
キサラはぽつりぽつりと、今まであったことを話した。ハナニヤを信用したわけではないが、知り合いですらない関係だからこそ、話して少しでも楽になりたかった。
「なるほど。実に憐れな身の上だ」
キサラの話を聞いた魔女は、同情するような素振りも見せず、淡泊に言った。
「僕、は家に帰れるの……?」
「そこな聖堂には、誰もいなかったが」
その事実に、キサラは驚くが、きっと近くの村に避難しているのだろう、と思い直した。
「ふむ、しかし君の話を聞くに、宗主はこの森に居るのだな」
「……恐らくは」
宗主がいつ、キサラを追ってくるかと、気が気ではなかった。
だがいまだ、その気配は無い。
ハナニヤは喉の奥で笑い、キサラに提案した。
「どうだひとつ、私と手を組まないか?」
「……っ」
獣がキサラを庇うように前に出る。
キサラとしても、いかにも怪しい魔女なんぞに、心を許す気はない。
「ならば誰に頼るのだ? 卑しいその獣か?」
「卑しいという点は、貴方も同じと思います」
これは一本取られた、と魔女は下品に笑った。
暢気な様が、キサラの苛立ちを増幅させる。
「では聞くが、君はこれからどうしようというのだ?」
唐突な質問に、キサラは答えることができなかった。
獣と離れ、家族と共に、平穏なる日常を。当たり前のはずのそれが、なにやら難しいことのように思えた。
「恐らくこの先の展開、君の選択ひとつに我々は振り回される」
魔女に宗主に神。そして“餓えた獣”
その中心に、ちっぽけな子供は無理矢理立たされた。
絶え間なく、咳き込む音がする。
寝ずの番をしていたハナニヤは、そうとキサラに近づく。獣が唸るが、気にとめない。
獣に寄り添われ、眠る少年は、苦しげに呼吸をしていた。
決して良いとは言えない環境と、精神的な負担が、キサラの体調を崩した。
ハナニヤがキサラの額に手を当てると、獣がその手を噛んだ。
痛がる様子も見せず、魔女は呆れかえる。
「取るわけじゃあない」
触れられた部分を浄めるように、獣はキサラの額を舐める。
「馬鹿な獣だ。お前に人の体がわかるものか」
寒気に震えるキサラを見、獣はようやっと判断がついたらしい。キサラからその巨体を離す。
ハナニヤはキサラの襟元を開き、粗末な布切れで汗を拭うてやる。
辛そうに咳の止まぬ少年を無理やり起こし、水と薬とを与えた。
警戒して薬を飲もうとしないキサラに、魔女は不機嫌に説明した。
「いいか。私は病と飢えとを振り撒く魔女だ。転じて、それらの専門家なのだ。
んなもんだから早く飲め。毒にすり替えてもいいのだぞ?」
押しきられるようにして、キサラは恐る恐る、粉末薬を口に入れた。
目が覚めるほど苦い。ハナニヤはキサラの鼻と口を押さえ、嚥下を手助けする。
「ぷあっ、はあぁ……苦すぎる」
「早く寝ろ。でなくば生きたままの
悪戯っぽい笑みを浮かべる魔女を見て、キサラは服を整え、寝転がる。
獣がいたわるように寄り添う。ごわつく毛皮だが、暖かさには抗えず、キサラはほんの少し近づく。
キサラの白い髪に、獣が鼻を押し付ける。その目はどこか、慈愛に満ちているように見えた。
無明。
ひたすらに果てなき、闇、闇、闇。それは永劫。
無感動に闇と共に在ったが、青白い光が視界に入る。
眩い光は、蒼い炎だった。
その火に焼かれるは、小さな犬。
子犬は痛ましい悲鳴を上げ、炎から逃れようともがく。
だが無意味な行為だ。火は子犬の内より出でているのだから。
手を伸ばし、犬から火を払おうとする。蒼い炎は突き刺さるように冷たく、手は凍えて凍傷を負う。
払っても叩いても、火は消えない。
ついに炎は子犬を焼きつくし、ようやく燃え尽きた。
目を覚ましたキサラは、洟をすすり、起き上がる。
まだ体調は万全ではないのか、と思いきや、泣いていたことに気づく。
顔を舐めてくる獣を押し退け、ハナニヤを探す。
それを察してか、獣が彼方を向いた。
魔女は地べたに胡座をかき、皮袋にいれた蝗の死骸を貪っていた。
いつの間にいたやら、禿鷲と会話している。
キサラの視線に気づいたハナニヤが、食うかと皮袋を寄越す。必死に首を横に振ると、押し付けてはこない。
「具合はどうだ」
「良い、と思います。……ありがとうございました」
怠さは残るが、病がこんなにも早く治るとは。
魔女を見直したキサラだが、赤黒い干し肉を与えられ、考えは撤回された。
「まあ私も、いつまでもこんな森にいるつもりはないのだ」
下品に干し肉を噛み潰し、魔女は言った。
「私はこれから、森にいる宗主に会いに行く。君はどうするね」
キサラは戸惑い、頭を巡らせる。獣と目が合い、なぜだかしばし見つめあう。
この化け物と、自らに関して、まだ聞いていないことは山ほどある。家族のもとへ帰るためにも、キサラはもう一度、宗主に接触する必要があった。
黒檀の棺に鎖を巻き、木片を寄り合わせた鹿の首に括りつける。
ウッコが手を振るうと、鹿は棺を軽々と引き、森の南方へと駈けて行った。
『これでよいのかの』
「保険が多いに越したことはない」
ウッコは不満げに唸り、鴨に変体し飛び立つ。
「う、嘘でしょう……」
キサラは頭を抱えた。共に宗主を探していたハナニヤが、通りすがったイタチを追いかけてどこかへ行ってしまった。
いくら呼んでも返事がない。すっかりはぐれた。
「あの人はもう……信じられないっ」
生真面目な葦弥騨の少年は、ハナニヤの態度をすっかり嫌っていた。
あんな大人に頼る方が間違いだったのだ。こうなったら自力で探す他ない。
とはいえ広大な樹海。たった一人を探すというのは至難の業。
獣は宗主に会うのは反対らしく、キサラを手助けする様子はなかった。
考えに考え、キサラは閃いた。その場に膝まずき、手を合わせて祈る。
「おお天にましますウッコ神よ。迷える我らを、どうか偉大なる方へと導きたまえ」
『呼んだかの』
「うひゃあ」
思ったよりも早い降臨に、キサラは驚いた。単に言葉を賜れれば、それでよかったのだが。
「う、ウッコ神。本当に来てくださるとは……」
『願えば儂は来るぞよ。元気そうで何よりじゃの』
思惑は当たった。キサラは無礼を詫び、宗主に会わせてくれるよう願う。
『よかったよかった。儂もあやつも、おぬしらを待っていたのじゃよ』
「待っていた?」
「全てを知る覚悟ができたならば、来るがよいぞ。
逃げても止めぬ。お主の好きに生きるとよいの」
キサラは頭を振る。獣に喰われ、家族と離され、少年はどこにも行けない。
泣いては何も取り戻せない。手を伸ばさねば。
『星を掴むような困難な道を選ぶのじゃな?ならばよし。儂らは坊やに最大限の支援を約束しようの』
老いた神が先導する。
しばし歩くと、車椅子に座す男がいた。
「宗主……先日は、大変な無礼を――」
「よい。忘れよ」
脚を組み換え、宗主は尊大に語る。
罰を覚悟したキサラは、宗主の寛大さにひどく安堵した。
「汝には知る義務がある。世界を変える資格がある。
さあ語ってくれよう。――吾の罪悪と、憐れなる魂の物語りを」
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