2

 
――フロレンツ、貴方は優しすぎます。そこまでする必要性は、どこにもないでしょう?ありませんよ

――セシル、あなたは必要性だけで私に依存しているのですか? ……今更、聞くまでもないか……

――最近のフロレンツはおかしいです。変です。何かあったのですか?

――……何も問題はありません。わかりました。そこまで言うならば、私は封印の間を貴方の代わりに見張っていましょう

――それは嬉しいです。誰より信頼する貴方ならば、セシルは安心です






 窓はおろか時計もなく、彼の感覚は狂いそうになっていた。
 もし一人きりであったら、とうに発狂していただろう。

 何故か部屋には鍵がかかっており、押しても引いても開かない。

 寝台に拘束されている男に聞いても、何も答えがない。

 食事は一日に二度、部屋に運ばれていた。

 何者かが部屋の掃除や服の洗濯、食事の用意までしている状態。

 そのため、彼には男しか頼るものがないという、非常に不安定な環境にある。

 だが寝台に拘束され、身動きが取れない男の世話をする内、彼はそれに満足を覚えた。

 礼がわりか、頭や頬を撫でられることが年甲斐もなく嬉しく感じ、彼としてはこのままで良くなっていく。

 ぬるま湯のような幸せとはこういう事を指すのだろうか。

 人ではないであろうこの男だが、彼にはあまり関係がなかった。
  
 白部屋は、一人ぼっちで書斎の真ん中に立つ。

 黒い目は虚ろで、どこも見てはいない。

 白部屋は胸元の聖印を握り、声なき声で唱えた。

『――すべての生命の根源。夢見る父の眷属。“白き善き芽"を招聘(しょうへい)す』

――了承した。それで良い

 返答があったかと思えば、書斎の机に、白いからすがいた。

 金の眼をした白鴉はくあがひとつ鳴けば、白部屋はひざまづく。

「顕現していただき、感謝致します。イオスケハ様」

『なんと哀れな姿だ。我らの愛し子』

「……申し訳ございません。この身はイオスケハ様のものというのに」

 わずかに怒りを含む声に、白部屋はさらに頭を下げる。

『お前が悪いわけではないよ。それより、あれをどうすべきか、我の判断でよいかね』

 白鴉は声音を優しいものに変え、顔を上げようとしない白部屋に語りかける。

『……お前は可哀相な子だね』

 白鴉は羽ばたき、風景に溶けるように消えた。

 あの烏こそ、白部屋が仕える善良の神イオスケハ。
 さる南東の民族を守護する、植物と清廉を司るという、非常に素晴らしい存在。

 そんな神の神子だというのだから、白部屋は誇らしくあるべきだ。
  
 白部屋は胸元からもうひとつ、白金製の聖印を出し、握りしめていた象牙製のそれと見比べる。

 裏には、それぞれの持ち主の名が彫られている。

「……フロレンツ、貴方は何をしたのですか……?」






「すみません、何もしてあげられなくて」

 そう言って悲しい顔する青年に、拘束され続ける男は、首を横に振る。

 事実、彼が傍にいればよかった。元来欲というものはあれど、少ないため、男としては満足だ。

 やり直しをしてしまったため、野荊、と呼んでくれなくなったのは寂しいが、いずれまたそうなる。
 いくら記憶を闇に押し込めたとて、本質は絶対に変わらない。

「そういえば、貴方を何と呼べば……」

 それ来た。このやり取りを、さて幾度行ったろうか。

 野荊は白い花びらが可愛らしい、野薔薇の花を示した。

 彼は首を傾げたが、しばし考えた後、口を開く。


「……では、薔薇そうびと」

「!」


 野荊は彼の手首を強く掴み、鋭い目つきで睨みつけた。

 驚きで身動きのとれない彼を、野荊は自身の胸に押し倒す。

「な、なんですかっ」

 こんなことは有り得ない。
 いくら人の思考を操っても、性癖や嗜好までは変えられない。
  
 彼を一旦眠らせ、野荊は気配を探った。

 ここまでできるのは、野荊の力を凌駕し、かつ性質の近い者。
 力の殆どを失った神は、ようやっと、この地を取り巻く環境が変わったことに気付いた。


 急ぎ喉に刺さった短剣を抜く。

「夜が来る。全てを呑み、明日を産む夜が」

『夜は優しい。全てを安寧に眠らせてくれる』

 野荊の声に、全く同じ声が続いた。

 部屋の封印を無視し、いつの間にやら、一人の男がいた。

 野荊と全く同じ顔と身体つき。
 違う所といえば、頭部に立派な角を二本持ち、髪は白く、眼は金であることだ。

 袖に二葉の刺繍が施された、白い絹の服を纏い、男は口を開く。


『久しいな“凍った黒薔薇”』

「遂に来たか“白き善き芽”」

 互いに真の名を呼び合い、しばしの沈黙が訪れる。

 先に動いたのは、白い男であった。

『どこまでも愚か者だな、タウィスカラ。我が片割れ』

「まだ我を片割れと呼んでくれるとは。感動で、出ない涙も出そうな気がするな」

 寝台に拘束されたままの、精一杯の去勢にしか見えないが、実はこの皮肉が、野荊の通常である。

「許可なしに我とこの子の部屋に忍び込むとは。感受性指数が我より低いか、イオスケハ」
  
『何を言う。我が媒体の子を傷つけおって……裁定者の代わりに、我がお前を裁いてやろう』

「確かに傷つけた。だが傷は治癒した。お前に裁かれる謂れはない」

 不毛な会話が途切れ、再び睨み合う二人。
 そこにまた介入者が一人。

「相変わらず、お二方は間に誰かを挟まねば、お話が進みません。進まないです」

 イオスケハの傍らに、呆れた顔をした白部屋が現れる。
 眠る青年に近づこうとするが、どちらの神からも阻まれた。

「近づくな」

『近づいてはならない』


 イオスケハが白部屋を引き寄せ、双方は相対した。

『この島は地形的に、日が常に天にある。太陽を司る者らに許しを得、わざわざ我が来た意味はわかるな? 片割れ』

 夜を司る立場のイオスケハが、この場に顕現するのは、容易ではない。

 それでも、イオスケハの神子がこの地にいるのは、ひとえに悪神タウィスカラを封ずるため。

『愚かな片割れよ。お前はかつて、化物の封印を解き、実際一人の子どもが犠牲になった。故に角を折られた』

「思い出話ならば遠慮するが」

『そして夜なき地に封じられた。にも関わらず、人に害を成すか』

「……なにかと思えば、そんな事か」

 せせら笑うタウィスカラに、善良の神は憤怒した。

『災厄が残した異常な力を起こし、人にけしかけた罪め。
人は我々と、そして世界に不可欠だ。それを傷つけるとは……我はお前とその子を切り離し、お前を完全に消去しよう』
  
 それを聞いたタウィスカラは、残忍な笑みを浮かべた。
 悪神に相応しい、全く酷薄な笑みであった。

「やってみろよ片割れ。我とこの子は、深く深く繋がっている。一心同体なのだ。それを切り離せば……わかるだろう?」

「そ、んなっ……嘘でしょう、フロレンツ!」

 白部屋が懇願するように、彼に呼びかけるが、起きる様子はない。

「力の弱った我だからこそ、この子は我の全てを受け入れた。今や、我はこの子であり、この子は我だ」

 神子は所詮、神の一部を受け入れているに過ぎない。

 彼は非常に長い期間をもって、神とほぼ同調したのだ。

 そのような人間など、前代未聞である。出来ぬ事はなかろうが、まず肉体が耐えきれないのだ。

「ああ、どうすれば……イオスケハ様。タウィスカラを討てば、フロレンツも死んでしまいます」

 白部屋の言うことは、全くその通りであった。

 霊質の奥深く、俗に言う魂が繋がるというのは、イオスケハも初めて見る状態。

 タウィスカラを消しても、繋がりを切り離しても、彼の死は免れない。

『……やってくれたな』

 万が一にでも彼――人の子――を死なせれば、大いなる定めにより、イオスケハは角を折られるだろう。

 角は彼らの重要器官。人々を守護する立場にある神が、力を失うわけにはいかない。
  
 だがそこで諦めては、善神の名が廃る。
 何より、イオスケハは今だこの片割れを赦せないのだ。

 白い手を翻し、雄鹿の角を加工した槍を出す。

 槍を寝台の二人に向け、言い放つ。

『我々の裁定者に考えを頂こう。あの方ならば、お前たちを切り離すことさえ可能だろう』

 野荊は密やかに舌打ちした。
 最も懸念していた、裁定者を出された。

 だが負けじと、野荊も反論する。イオスケハの思惑全てが、上手くいく保証はないのだと。

「はっ。あの目覚めることなきものに、物事を尋ねるだと?
冗談は休み休み言え。カササギに意見を聞いた方が、よほど有意義だ」

 侮辱され、金の眼が鋭さを増す。
 野荊も牽制する。部屋の壁が、野薔薇で埋めつくされていた。

 まったく話の進まない状況に終止符を打ったのは、他でもない、彼であった。

「どうにか、見過ごすわけにはいきませんか? イオスケハ様」

 野荊の腕をゆるりと解き、彼は起き上がる。寝台から下り、イオスケハにひざまづく。

「フロレンツ……」

「セシル、神の前です。慎みなさい」

 頭を下げたまま、心配げな白部屋の言葉を切り捨てた。

「すでにこの身は、タウィスカラのもの。故に、私が死ぬる時は、あれも共に」

『それは、何者かに吹き込まれた故の行為かね』
  
 わずかな希望ともいえる問いに、彼は明確に即答した。

「いいえ。まごうことなき、私の意思に基づく結果です」

 その発言に、白部屋は顔を蒼くし、野荊はそれ見たことか、と嘲笑うた。

「何故、そのような愚かなことを……」

 彼は答えようとはしなかった。代わりに、立ち上がり、白部屋を呼ぶ。

「イオスケハ様、セシルをお借りしてもよろしいでしょうか。積もる話もあるもので」

『良いだろう。我もこの片割れと積もる話が山ほどある』

 一礼し、彼は白部屋の腕を引いて部屋を出た。
 封印はとうに解除されており、あっけなく扉は開いた。

 扉を閉めると同時、耳をつんざく破壊音が聞こえてきた。
 積もる話、というわりには、早くも衝突していた。

 つと、彼が白部屋ことセシルの方を見れば、哀れなほど蒼ざめた顔で、彼の腕に縋っている。

「もう、私はどうすれば良いのか……」

「セシルの部屋に行きましょう。……少し、痩せましたね」

 変わらぬ気遣いの言葉。しかし、それは反ってセシルを悲しませた。
  


 セシルの寝室は、先ほどまで居た部屋と殆ど同じ構造であった。

 この屋敷内にある多くの部屋は、どれも同じようなものだろう。

 二人は並んで寝台に腰掛ける。
 堰を切ったように、セシルが話しはじめた。

「何故ですか! 何故こんな恐ろしい事を!
あなたは私たちを裏切ったのですよ!?」

「罪悪感はあります。それでも、私は成さなければならなかった」

「成す? 何を成すというのです。まさか……タウィスカラの力で、再びの災いを呼ぶというのですか!」

「いいえ。タウィスカラには、そんな力もありません。存在することに殆どの力を入れています。
それに解るでしょう? 私の死は、タウィスカラの滅びも意味します。
あなたにも喜ばしいことではないですか」

 さらりと恐ろしい発言をする彼に、さしものセシルも怯んだ。
 だが引き下がるわけにはいかない。
この事態はいずれ教会に露呈し、セシルも彼も、何らかの懲罰を受けるだろう。

 そしてタウィスカラと契約した彼にいたっては、投獄は免れない。

「フロレンツ……忘れたのですか? 私たちは、タウィスカラが放った餓えた獣から人々を守った聖人、モリサキの系譜なのですよ。
生まれながらの使命を忘れるなんて……正気ですか」
  
 彼はふいに立ち上がり、部屋に設置された窓へ向かう。

 カーテンを開くと、外は夜の闇が広がる。
 眼下は森であり、さらに遠くは、どこまでも海であった。

「餓えた獣を神に昇華した、人類史上初の神憑り、守崎もりさき……。直系ではないにしろ、セシルはその子孫ですから、怒りも当然ですね」

「貴方も、でしょう」

 セシルの反論には答えず、彼は優しい目で夜景を見る。
 そして、唐突に話題を変えた。

「セシル、貴方は生まれた時から完璧でした。容貌、勉学、社交性、司祭としての素質……何もかもが他人とは違う」

 彼はゆっくりとセシルの方を向いた。痛ましい表情で自虐する。

「同じ母から生まれたというのに、何故こんなにも違うのでしょうね」

 思わずセシルは駆け寄り、彼の両肩を掴んだ。
 何が何でも、今の言葉だけは否定しなければ。

「ちがっ、違いなんてありません! 私はあなたで、貴方はわたしです!」

「……私はあなたで、貴方はわたし?」

「そうです。そうですよ。ですから、また共に……」

 彼は恐ろしいほど冷めた目で、セシルを見る。
 やんわりと肩の手を払い、厳しく言い放った。

「ふざけるな。それは神に持っていかれた精神を、私で埋め合わせているだけではないですか」

「なっ……。ちが違います! 違う! セシルは真剣にあなたを愛して――」
  
「その依存傾向……十五の時にイオスケハ様と契約をしてから、全く変わりませんね。私を精神安定の触媒としか見なしていない」

「い、や……嘘です。私が寂しいと言うと、聖印を交換してくれたではありませんか!」

 証拠とばかりに、ふたつの聖印を出すセシル。
 彼はそのうち象牙製のものを取り、面倒臭げに説明した。

「当初は真面目に付き合っていました。セシルの精神を戻せるかと信じ、医療の知識も得た。……けど、もう終わりです」

「……な」

 立て続けの責め立てに、絶望したセシルは床に座り込む。

 今まで共に悪神を封じてきた相棒が、まさか自分を憎んでいたとは。

「どうして……どうしてこんな事に……」

 彼はセシルと同じ目線になるようにしゃがむ。
 そして両の肩に手を乗せ、言い聞かせた。

「もはや私たちは傷つけ合う存在でしかない。私たちは即刻、決別すべきなのです。タウィスカラとイオスケハ様のように」

「……そ、んな……そんなのって……」

 喪心し、言葉も返せないセシル。
 それを放り、彼は立ち上がりて再度、窓の外を見た。

「美しい宵だ。記憶を失って、追い込まれた甲斐があったというものです」

「……まさか、あれは……あの状況は、貴方が仕組んだのですか、フロレンツ!」
  
「ええ。ですが私を後押ししたのは……他でもない、我らが教会指導者です」

 フロレンツが懐から、タウィスカラの喉を貫いていた短剣を出す。

 刃に聖印が彫られたそれは、宗主によって製造された、神に仇なす武器だ。

 刃に触れた霊質を使い手の制御下に置き、時に分解する。霊質で構成される神にとっては、自分の存在そのものを変えてしまう恐ろしいものだ。

 短剣は神子にしか持つことを許されていない。

 セシルは、フロレンツが自分の身内であるから、特別扱いを受けているのだと勘違いをしていた。

「私は私のためだけに動いています。それにあの方が便乗したのです」

「馬鹿な! 宗主に何の利益があると?」

「……さあ、私に、あの方の考えなど」

 それは本音と同時、ごまかしの言葉でもあった。
 本当はタウィスカラを解放せずとも、傍に居られればよかった。

 だが動けば、セシルに対して凄まじい裏切りをすることができると気づいた。

 悪辣非道なる彼を、罰する者はこの場にはいない。





 初めて地下の封印室に入った時、フロレンツには不思議と恐れがなかった。

 セシルの精神安定の媒体として、無理矢理連れて来られ、正直ぐれていた。

 半ばやけくそになっていた彼は、禁じられた部屋に無断で入った。
 どう罰せられようと、もうどうでもいい。セシルだけが必要とされる世界には、いたくはない。
  
「……意外と」

 封印はぞんざいだった。鉄の鎖と錠のみで、セシルから鍵を借りれば簡単に開いた。

 灯火を掲げ、牢屋のような石造りの部屋を照らす。

「……っ」

 部屋の奥に、人体の骨が横たわっていた。

 思わず怯んだが、それも一瞬のこと。ゆっくりと、フロレンツは骨に近づく。

 近くに寄り、膝をつく。骨に触れると、わずかに熱を持っていた。

「何故、そんな姿に甘んじているのですか」

 かつて角があったであろう頭部に触れる。

 フロレンツの声に反応し、災いと魔術の神がその姿を見せる。
 一瞬で筋肉と皮膚をあらわにし、中肉中背の男となった。

 長い黒髪に隠れて表情は伺えないが、深紅の眼は訝しむようにフロレンツを見た。

「タウィスカラ。かつて白き樹海に封じられた獣を放ち、故に角を折られて封印された神」

「何を……」

「何故そんな事を? 意味がないでしょう」

 タウィスカラは黙ったまま。フロレンツはそつと、相手の腕に触れた。

「冷たい……けれど、本当に触れるんですね」

「角を失うと、姿を保てなくなる。基質で補っているだけだ」

 すなわち、タウィスカラは完全に現世に露出し、神域の存在ではなくなったということ。

 それが、獣を放ち、人々を傷つけた神の末路だった。
  
「血管もある……骨も」

 フロレンツはタウィスカラの腕を触り、観察し、その出来に感心した。

「……人の身体に興味が?」

「はい。私は、医師になりたいのです」

「……そうか」

「そうすれば、神子よりもたくさんの人を救えるはずです」

 あるいは、精神をおかしくした神子自身さえも。
 高い志を持つ若者を、タウィスカラは眩しそうに見た。

「せいぜい、励め」

 まさかそんな言葉が出るとは。フロレンツはひどく驚いたが、それはタウィスカラ自身も同じだった。






 フロレンツはしばしば、封印の間に向かうようになった。

 セシルには、様子を見ているだけだと嘘を吐いた。自分のために動いてくれているのだと、セシルは純粋に喜んだ。


「なぜ教会は、死体の解剖を禁ずるのでしょうか。構造を知らないと、治せるものも治せません」

 一部の地域や民族を除き、大陸では土葬と決まっていた。
 葬儀を行うのは、ほとんどの場合教会であり、遺体には司祭とエンバーマー以外は触れてはいけない決まりである。

「……同胞の死体を暴きたがる者はいない」

「それは理解できます。しかし、私と同じ考えの者も、少なくはありません」

 フロレンツは、そこで一旦、言葉を止めた。

「けれど、墓を暴くことなど、私にはできません」
  
 葛藤するフロレンツに、タウィスカラが提案した。
 タウィスカラは、目前の青年が、ひどく自分に似ている、と思った。

「ならば、我の身体をやろう」

 いくら努力をしても、近しい者が優れているせいで、決して日の目を見ることは無い。

 日陰の身でいることを決めても尚、何かを求めずにはいられず、ただ嫉妬と怒りに苛まれる。

 タウィスカラはそれに耐え切れず、封印された獣を解き放ってしまった。

「あなたの、身体……?」

「いくら刻もうが焼こうが、物質を補えば再生できる。解剖にはうってつけだな」

「ば、馬鹿なことを言わないでください!」

「我には痛みがない。心の臓以外は、人と同じ構成であったはずだ」

「う……あ……」

 戸惑うフロレンツに、タウィスカラは語りかける。自分の心を、吐露するごとく。

「お前は、我がやったことを、意味が無いと言ったな」

「……はい」

「無意味では、なかったよ」

 目を閉じ、かつてを思い出す。
 自らの火に焼かれ、く獣。喰われて死ぬる人。
 怒りの表情で、鎗を向けてくる片割れ。

 言い訳も聞かず、角を全て手折る、裁定の者。

「無意味では、なかった……。天には青き星が瞬き、憐れな獣は死に向かう。
我のした事は、酷であろうが、それも世界の導きだ」
  
 それを聞いたフロレンツは、とり憑かれたかのように、タウィスカラを切り刻み、暴き尽くした。

 女性や子供の身体は、墓掘り人夫を買収し、密かに解剖した。

 血管の一本、筋肉一筋に至る全ての肉という肉を把握し、フロレンツは『患部を切開し、病の元を取り除く技術』を確立させた。

 また、点滴、輸血、血液型判別なども開発した。
 しかし、あまりにも野蛮とされ、一般には広まることは無かった。


「……私は、何がしたいのか」

 自嘲げに笑うフロレンツに、タウィスカラは眉を潜めた。

 小刀を持つ手を握る。タウィスカラの手首が切れ、血が滴る。

「諦めるのかね? 長い間、人を研究し、ようやく得た技術というのに」

「結局は、認められなければ意味がありません」

 いいや、とタウィスカラはすぐに否定した。
 小刀をさらに強く握り、さあ開けと促す。

「もう止めましょう。もういいのです……」

「何故かね」

「貴方は、私を通して夢を見たいだけだ」

 それを聞いたタウィスカラは、ばつが悪そうに、苦い表情を見せた。

「ああ、そうさ。いずれ死ぬるならば、その前に、人の子の道具になりたかった」

「……貴方は」

「消滅するまでの長い時を、お前との思い出で過ごそう」

「貴方はどこまで愚かしいのだっ……」

 堪えきれなくなったように、フロレンツが神を罵倒する。
  
「思い出! 思い出だって?
畜生、私はそこまで無意味な存在じゃあない!」

 怒りを小刀に込め、手から腕を浅く切る。
 血のすえた匂いが充満する。

「見ていなさい、タウィスカラ。いずれ、私の技術を認めさせます。私はセシルの影でも、おまけでもないのです」






 あれから、幾年を重ね、フロレンツの提唱した技術は、皮肉にも教会が取り入れた。

 フロレンツは一般の司祭が賜る褒章としては最高位の、象牙製の聖印を持つに至るが、それでも神子セシルの栄光には到底及ばなかった。

「最低だとは思いますが、私は今までの人生で、最高に幸せです」

「裏切り者と、背信者と罵られても、ですか?」

 セシルの縋りつくような声音に、フロレンツはやけに慈悲深い笑みで頷いた。

 手に入れた名声技術、その全てを捨て、たった一人の肉親へ大きな憎悪をぶちまけた。

 もちろん、セシルには何ら罪は無い。
 長年の差別と比較が、フロレンツの何かを壊してしまった。

「こんなのおかしいよ……フロレンツ……狂ってる」

「――狂っているのは貴方と教会です。私を利用し、タウィスカラをただ無意義に封じ、この意味もない封印を子々孫々と続けている」
   




『片割れ、まだ聞こえるかい』

「まだ母の元へは、召されていない」

 イオスケハの持つ雄鹿の角の鎗に腹を貫かれ、野荊はしばし動きを止めていた。

『なあ、今まで大人しく封じられていたというに、何故にこんな真似をする』

 どいつもこいつも、と野荊は溜め息を吐いた。

 神というのは、感情と自由意思が低く、ただ無から有へ流れるひとつの現象だ。

 そんな存在が、生を謳歌する人間の、その真意を理解できるはずもない。

「我を封じるために、人の子を利用するお前には、死ぬまで解らぬさ」

『……利用するに至ったのは、お前が原因だぞ』

「そうだな。だからこそ、後始末は自分でするさ」

 その言葉の意味するところを理解し、イオスケハは鎗を下ろした。

『あの子らの元へ、行かなくてはな』

 イオスケハは白鴉に変体し、虚空へ羽ばたいた。

「……抜いていけよ」

 置いてきぼりをくらった野荊は、苦労して鎗を抜き、自らを拘束する楔を抜いた。

 鎖が床に落ちる。封印は、全て無効となっていた。






 封印の消失を感じ取り、セシルは面を上げた。

「イオスケハ様、なぜ封印を解いたのです……!」

 白鴉が顕れ、セシルの肩に止まる。

 そして厳かに、善良の神イオスケハは宣言した。

『残念だが、契約不履行だ』
  
 契約不履行。その言葉に、セシルは愕然となった。

 それはすなわち、神の力を失うという事に他ならない。

「な、何故! この状況で、貴方は何を言っているのですか!?」

『契約不履行の条件は、我かお前が死んだ時。またはタウィスカラに封印の必要が無くなった時だ』

 フロレンツはタウィスカラの全てを受け入れ、また全てを与えた。

 宗主が与えた短剣は、霊質を操作する。
 それを利用し、フロレンツは自身をタウィスカラをこの世に繋ぎ止める楔と成した。

『タウィスカラはもう、五十年と生きやしない。そして彼の許可なくして、力を行使することもできない』

 凄まじい執念だった。フロレンツは懐から短剣を取り出す。
 刃をセシルに向け、静かに言い放つ。

「詰みです」

「宗主は……っ、宗主は何を考えて……。
私はあの方の指示に従い、何度も記憶を失う貴方を、タウィスカラの傍に置いていたのに!」

「お陰様で、タウィスカラは私のものとなりました」


 少しずつ、少しずつ、彼はセシルを追い詰める。ああ、なんという快感だ!

 区別され、蔑まれた自分が、その対称となった男より優位に立ち、見下しているのだ。

『我の大事な子よ。不本意だが、我は引き下がる。
皮肉だが、あの者は自ら終わらせた。それはお前の自由をも意味する』

「そんな、待って! まだ行かないで!」

『可哀相な子よ、自らのために生きることだ』

 どこまでも自分の役割に忠実な神は、セシルの哀願を無視し、羽ばたいては虚空に消えた。
  
 うなだれるセシルに、フロレンツは何の感情も浮かばない。

 本当に壊すべきはセシルではなく、自分を取り巻いていた環境そのものだ。

 しかしフロレンツはそれに気づかない。

「……さて、あとは」

 セシルが弾かれたように面を上げる。
 騎士は全て本国へ帰途した。唯一の対抗であるイオスケハは、もういない。

 逃げなければ。思考が働いた時には、セシルの頭部は背後から捕らえられていた。

「……タウィスカラ」

 深紅の瞳が、無感情にセシルを見る。
 何をするのだ、と聞く前に、フロレンツが無慈悲な命令を下した。

「野荊。この者の記憶を、喰いなさい」

 イオスケハとタウィスカラは、力の代償に記憶を喰う。

 記憶はふとしたきっかけで戻ることもあるが、普通の人はそれが原因で混乱し、依存や強迫といった、異常な精神状態に陥る。

 フロレンツがそれでも正気を保てたのは、タウィスカラに世話を焼くことで、依存をしていたからだった。

 この作業を持って、フロレンツの復讐は終わる。

「特に私に関する記憶を、全て消すのです」

 セシルは足掻いた。泣き叫んだ。それだけは止めてくれと。

「私から離れても、何をしてもいいですから、お願い! それだけは、それだけはやめてえッ!」

 伸ばされた手を払い、フロレンツは再度命じた。

 愚かしい系譜を絶つために。何より、自身の片割れという楔を断つために。
  
「セシル・クレーエ・二宮にのみや。お前がいたから、私は人々から見向きもされなかった。
お前がいたから、私は出来の悪い子だと、けなされ続けた。
お前がいたから、お前が私の傍に居続けたからだ!」

 タウィスカラがセシルの後頭部に口づける。
 白い青年は気を失い、力なく床に倒れた。


 不思議と、動揺も喜びも無かった。
 ただ虚無が、彼の心を支配していた。それを埋めるのは、タウィスカラ――野荊だ。

「……行きましょう」

「ああ……」

 野荊がフロレンツを、そつと抱き寄せる。
 彼はその冷たい体に、愛おしげに触れた。

 まるで、この者は我が片割れだと主張するように。






 島にある唯一の埠頭。その岸壁には、既に船が横付けされていた。

 久しぶりに当たる夜風の、何と清々しいことか。

 小型の船体には、教会の聖印。
 入り口には、星を見上げる、車椅子の男がいた。

「……宗主」

 呼ばれた男は、静かにフロレンツの方を向く。
 そして不遜に、世間話を始めた。

「みすぼらしいなりをしおって。髪はそいつにやったのか」

「え、ええ……。というより、わざわざ宗主自らおいでになるとは」

「けしかけたのはわれだ。出向くのは当然よ。セシルは館か」

 優雅に脚を組み、宗主は言った。
 全身に様々な宝石の装飾品をつけ、見た目は成金趣味の男である。
 しかし彼こそが、世界最大の宗教思想。教義学術振興会、通称教会を取り纏める、最高指導者だ。
  
 宗主から漂う、香水のきつい匂いに眉を潜めながらも、フロレンツは頷く。

「そうか、ならば結構。――ようやく終わったな」

 宗主が疲れたような息を吐いた。
 たかが力を無くした神を封じるためだけに、何世代も、何人もの神子が孤独な生を此処で過ごしたのだ。

 野荊もそれを知り、大人しくしていた。
 しかし神が角を折られて消滅するまで、一体どれほどの時を要するのか、誰も知らない。

「全く持って、無駄で無意味でしたね」

「いいや、そうでもない」

 フロレンツの虚無的な言葉を、宗主は即刻否定した。

「少なくとも汝らは、無意味ではない」

 それ以上の戯言を聞く気は、フロレンツには無かった。
 懐から短剣と聖印を出し、宗主に渡す。

「こちらはお返しします。今までお世話になりました」

 聖印の返還は、還俗を意味する。
 宗主は象牙製の聖印を見て、皮肉げに笑った。

「教会福祉局の副局長がいなくなると、ちと困るな」

「穴は後任の者でも充分です。施術を記した書も残してきました」

 まだ何か、と聞くフロレンツを、宗主はなだめる。

「汝は素晴らしき努力の天才だ。正直、聖人認定したいくらいでな」

「皮肉ですか」

 そろそろ宗主を海に投げ込みたくなったため、フロレンツは船に乗り込む。
  
「その船は国境付近の港に停まる。あとは好きにせよ。
おすすめは、吾の手が伸びておらぬ大陸北部だ」

「ご指摘感謝します。それでは」

 野荊の皮肉が移ったか。フロレンツは微笑し、船室へと消えた。



 船が錨を上げ、動き出した。
 それを導くように、空が白み始める。
 再びこの地に、永い朝が来た。

 宗主は象牙製の聖印の裏側を見た。
 裏には名前と、誕生年が刻まれている。

「フロレンツ・ナハティガル・二宮……皮肉なものだな」

 双子の神の代理戦争の如く、何もかもが違う双子が、憎み、争い、別れた。

 結局はどちらも理解が足りなかったのだ。
 フロレンツは依存してくるセシルを避け、セシルは野荊に依存するフロレンツを認めなかった。

葦弥騨あしやだの民の依存傾向――他民族の血が混ざっても駄目か」

 宗主は溜め息をつき、しかし思い直して車椅子を進めた。

 もう一人、哀れな双子を回収しなくてはならない――。

「不義の双子よ。しかしそれも、世界の導き――汝らの下した選択だ」



  
 曇天の空から、ちらちらと花びらのごとき白いものが降ってきた。

 細雪だ、と気づいた頃には、お付きの騎士が傘を差しかざしていた。

 何故か、その雪にうたれていたかった彼は、わざと傘を避ける。

「お風邪を召します。セシル様」

 教会審問局局長、セシル・クレーエは悪戯っぽく笑い、騎士を置いて走った。

 まるで子供のお守りだ、と騎士は追いかける。遊ばれている自覚はあるが、セシルは高位司祭で、宗主からの信頼も篤い人物。無下にはできない。


 走っている途中、通行人とぶつかりそうになり、セシルは慌てて避ける。

 申し訳なく会釈をするが、相手は無視した。
 世の中は無情だ、とは思うが、仕方ないとも割り切った。

 外套で顔を隠したその人物は、小夜啼鳥さよなきどりを抱えている。

 ささくれ立つ指が羽毛を撫でる度、応えるように小夜啼鳥は美しい鳴き声を上げた。

 仲むつまじいな、とセシルは少し羨ましがった。
 しかしすぐに忘れ、後続の騎士に追いつかれないよう、さらに足を早める。

 この白い景色を堪能しないなんて、もったいない。
 セシルは笑った。前を向いて。






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