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「……う」
呻き声をあげ、目を覚ます。
残念ながら、何ひとつ見えなかった。
目が見えないのか、と慌てたが、それは違う。ここが日の光とは無縁の場所だからだ。
幸い、自分は夜目が効くらしい。
慣れてくると、自分の手や、周囲が見えてきた。
冷たい石でできた牢屋、だろうか?
しかし格子も、寝台も、便所もない。
ならば空いている倉庫だろうか。それならば説明がつく。
待て。そも自分は、なぜこんな所に?
というよりも、自分とはなんだ?
「……あ、え」
低い声。自分の声。男の声。
全く聞き覚えがない。
思わず、自分の頭に手をやる。刈り上げたような短い髪。切ったばかりか、まだちくちくと痛痒い。
服は、着ている。平民が着る一般的なものだ。下着もある。
いやまて、なぜそこまで解って、自分がわからない?
おろおろ、動き回る。鼠のごとく、壁際に沿って。何かに触れていないと、自分が消えてしまいそうだった。
つと、何かに当たった。壁の突起だろうか。否、わずかに、暖かい。
「……ひっ」
それは、人の死骸だった。もはや骨しかない。
だが見事に全身の骨が残っている。
無惨な死骸は、喉の部分に刺さった短剣により、壁に縫い付けられている。
喉からうなじを貫通するほど強い力で。
一体なにをやらかしたら、こんな目に合うのだ。
「あ、あ……」
怖れおののき、死骸から離れる。
ふと、壁に当たった。
いや、これは扉だ。錆びた取っ手がついている。
「……っ、開かない……」
鎖でがんじがらめにされた扉は、どんなに力をこめても開かない。
とはいえ、死骸と二人きりなどお断りだ。
彼は、しばし考え、決断した。
死骸に近づき、短剣を握る。
不思議と、刀身には錆びはおろか、汚れもない。
これで鎖を断ち切れれば、出れるはずだ。
意外とあっさり、刃は抜けた。
重力に従い、死骸は床に落ちる。
「うわ」
なんとなく申し訳ない気持ちになり、一礼。
急いで短剣を鎖に立てる。
「……っく」
一心不乱に短剣を突き立てる。
そのせいか、気づかなかったのだ。背後の気配に。
ひやりとしたものが、肌に触れる。
金属か。いや、この柔らかさは人だ。
振り向くと、長身の男がいた。長い髪が顔を隠し、表情は伺えない。
いつの間にいたのか。だが恐るべきは、男の喉元から、膨大な血が流れていることだ。
赤く熱く、臭い血が、男の裸体を濡らし、密着した彼にもかかる。
「あ、あ、あ、あああっ」
驚愕と恐怖に動けないでいると、男は短剣を奪った。そして短剣をなんと、自身の喉に深く突き刺した。
突然の自害を見た彼は動けない。
男の流血は止まった。男は、生きていた。
つと、男がノブに触れる。
するとみるみるうちに鎖は錆びて朽ち、鍵の外れる重厚な音がいくつも響いた。
短剣など使わずとも、扉は開いた。
呆然としている彼なぞ尻目に、男は出て行く。
「あ、ま、待って!」
男は振り向くこともなく、ただ行く。
外は清潔な石床の廊下が続いていた。
本当に同じ場所にあるのかと、戸惑うほどに。
明かりは消されているが、壁も天井も豪邸かと思わせるほど良いもので、埃も見当たらない。
きょろきょろと、周囲を見渡しながら歩いていると、男と距離が開けていた。
まだ恐怖心はあるが、今は男しか縋るものがない。
自身の保守的な性格を認識しながら、彼は小走りで追いかけた。
さて、どれほど歩いたろうか。
時刻などわからないため、どうしようもない。
やけに長い廊下を行き、階段を上がり、今度は赤い絨毯が敷かれた、やはり長い廊下を歩いた。今度は明かりが点いていたため、手をかざしながら進んだ。
しばらくすると、白い甲冑鎧の騎士らしき人々が見えた。
騎士たちは壁側にそって対面して並んでいる。
整列に乱れはなく、豪奢な建物と相まって、見惚れてしまう。
だが騎士たちは、裸体の男を見た途端に騒ぎ出し、集まりだした。
すぐさま男を捕らえ、大勢で押さえつける。
男は抵抗することもなく、容易く捕えられる。
「え……ええっ!?」
どうすることもできずに声を上げると、ようやく気づいたように、騎士たちが彼を見る。
「あ、あ」
誰かが何かを言う前に、男が行動を起こした。彼を見て、指を誘うように曲げる。
たったそれだけのことで、強い力で彼の体が引っ張られる。
「いだっ」
がつん、と男に衝突し、密着。
一体何が起こったものやら、どんなに力を込めても離れられない。
「なんだ、こいつは……」
「とりあえず、連れて行くべきでは?」
騎士たちはうろたえながらも、仕事をまっとうするために、彼をも拘束した。
こんな状況で、ここはどこ?私はだれ?なんて聞けるはずもなく。
彼はただ、流されるしかない。騎士らに腕を引かれ、無理矢理に歩かされる。
階段を登り、辟易するほど廊下を歩いてようやっと、目的地に着いたらしい。
騎士たちの動きが止まる。うち一人が、大きな扉をノックした。
「失礼します」
返事も聞かずに開ける。男や彼も入れられた。
そこは書斎だった。
壁を占領する本棚には、分厚い本が並ぶ。
だが書斎机と本棚以外には家具は無く、とても寂しいものだ。
故に、書斎の主に気づくのは時間を要さなかった。
「目覚めたのですね」
男とも、女ともつかぬ容姿と声。
長く白い髪を下ろし、微笑をたたえて彼らを見る。
白い法衣も相まって、なんとも神秘的な人物だった。
白い人は、彼に近づき、挨拶をした。
「はじめまして、になるかもしれません」
「……えと、はじめまして」
なんとも不思議な人だった。血まみれの二人を恐れもせず、慈悲深そうな微笑を向ける。
「わたしのことは
「はっ?」
ウルグァスス、それが自分の名なのだろうか。
あまりに珍妙にすぎて、しっくりこない。
「お気に召さぬようです。それは当然、シロヘヤたんが今思いついた名前だから当然といえば当然なのでしょう」
「……」
美しい見目にそぐわず、言うことはトチ狂っていた。
神秘的な雰囲気は吹き飛び、理解の範疇を超え、白部屋を止める者はいなかった。
「よろしいと思います。よろしいと思います。ではお好きに名乗ることです」
ついには突き放されてしまった。
自分さえも頼ることのできない彼は、ひどく不安になった。
「え、と、というか、ここはどこですか?」
空気を読まない彼の疑問を、だが不快感も出さず、白部屋は答えた。
「この地は、とこしえの朝が支配する小さな島です。シロヘヤたんは神を信奉していますので、この館で住み込みでお仕事中です」
「……し、島」
てっきり、街中を想像していた。
呆然としていると、白部屋がさらなる追い打ちをかける。
「あなた方が目覚めたのならば、シロヘヤたんは報告せねばならないのです。騎士さまたち、命じます」
騎士たちが一斉に、姿勢を正した。
「この二人を二階の寝室に。絶対に出られぬように、鍵は四重に、結界は三重に、封印は二重に」
またも閉じ込めるというのか。しかも男だけではなく、彼までも。
「なっ、なんで!?」
「きっと、あなたがあなた、だからなのです。名前、あるといいですね」
「っ、待って! 私のこと知って――」
二人を取り押さえていた騎士たちが引き払い、書斎には白部屋と幾人かの騎士が残った。
「終わりましたら、このことを本国にお伝えください」
「はっ」
鎧の音をたてながら、一分の隙もない敬礼をする。よく訓練されていた。
「黒の方が目覚めたゆえ、皆さま役立たずの用済みですから、国に帰られますよ。よいことですね」
「……は、恐縮にございます」
白部屋は微笑みを絶やさず、二人が出た扉を見つめる。
「シロヘヤたんは一人で寂しいものです。淋しいものです。……でも」
懐をまさぐり、象牙で造られた聖印を取り出す。
「でも、騎士さまたちに犠牲がなくようございました。この地は白の方の力が届きません」
部屋に入るなり、男は乱暴に寝台に放られ、手首や足首に楔を打ち込まれ、鎖で寝台に繋ぎとめられた。
一方、彼は寝台の傍らにある化粧台の椅子に座らされた。しかも寝台の暴虐が目に入らぬよう、騎士たちが壁になっている。
「……あ、あの」
蚊のなくような声でたずねるが、騎士たちは自分の仕事を全うするだけだった。
やめてくれと、飛び掛かるような行動力は、あいにくと持ち合わせていないらしい。
どうしようかと彼が思案しているうちに、騎士たちは出ていき、部屋の鍵は閉められた。
「……」
錠の落ちる無情な音を聞きながらも、彼は男の心配をしていた。
寝台の天蓋布を開き、戦慄した。
両の手首や足首は丁寧に腱が切られ、楔を打たれたあげく、鎖により身動きが一切とれないようにされていた。
寝台は血まみれだった。鼻をさす臭気に吐き気をこらえるのが精一杯だった。
「どうしてこんな、ひどいこと……」
なにか医療道具はないだろうか?
化粧台の後ろにある扉を開く。
便所と湯浴み場があった。
使われた形跡はほとんど無く、無論、処置に使えそうなものなどない。
とはいえ、気休めに洗面台から布巾を取り、汚れがないかを確かめてあるだけ持ち出す。
部屋に戻り、タンスを探る。簡素だが清潔な服が仕舞われていた。
彼はいくつか取り出し、寝台に拘束されている男に近づく。
血はもう止まっていた。男は痛がるそぶりも見せない。
男が人を超越した存在というのは、彼もとうに受け入れざるを得ない。
だが、それでも尚。それとも無力な自分を否定するかのように。
濡らしたタオルで、血まみれの男の体を拭く。
血に濡れた敷布を苦労して剥がし、服をかけてやる。
敷布は洗面台に置いた。洗ったところで無駄だが。
「……抜いたら、大惨事、か」
ただちに血は吹き出し、出血の衝撃で死ぬかもしれない。
彼に医療の心得はないが、その程度の記憶はあった。
「そうですとも、大いなる惨事です。やばやばなのです」
聞き覚えのある声に、俯いていた顔を上げた。
眼前に、あの白部屋がいた。
だが入ってきた音も、気配もなかった。
驚きを隠せない彼を尻目に、白部屋は話し始める。
「落ち着いて聞いてください。その方は、ここから出ていただきたくないのです。出してはいけません」
不思議と、一対一ならば言いたいことも言えた。
「だ、からといって、あんな酷いことを……」
白部屋は怒ることもなく、極めて穏便に反論する。
「そうでしょう。そうですよね。ですが、理由があるから、酷いことをするのです。いたします」
「……理由?」
「はい。それは――」
白部屋が語ろうとした瞬間、飾り棚の灯火のガラス製の
白部屋は慌てることなく、灯火を見、寝台を見た。
「……どうやら、語ること許さじ、ですね」
「だ、大丈夫、ですか?」
幸い怪我はなかったが、少しでも動けば肌が切れてしまうだろう。
自身を閉じ込めた相手をも心配する彼の想いに、白部屋は微笑で応えた。
「大丈夫です。なんともありません」
ほっと安堵した彼に、白部屋は言う。
「あなたはこの方を解放した。だから、とりあえず共にいてください。
これはお願いではなく、命令です。命じます」
「……え」
「食事の用意や掃除や洗濯の雑務はこちらがこなしますからね。安心ですね」
「……いや、あの?」
「早速ですが、着替えてはいかがです?あなたに見合う服を用意いたしました。用意があります」
いつの間にか、白部屋の手には、汚れのない服があった。
はい、と手渡され、無理矢理着替えさせられる。
「似合います。似合います」
「……どうも」
拍手で褒められては、それしか返せない。
血まみれの服はどこかへ消えていたが、彼はそこに突っ込まず、別の疑問を口にした。
「あの、騎士たちは……?」
「騎士さまは、帰りの準備をしています。明日になれば、この館には、シロヘヤたんと、あなたと、この方だけになります。三人ぼっちです」
そのようにする意味がさっぱりわからなかった。
白部屋は一見優しいが、本心から信頼できないのだ。まだ騎士の方がましかもしれない。
「……ところで、シロヘヤたんはあなたの名前を考えてみたのですが。みたのです」
「その……おかまいなく」
「黒部屋なんていかがでしょう! どうでしょう? シロヘヤたんとお揃いです。対なのです」
「……え……いやだ」
「……」
「……」
「……ご、ごめなさ」
白部屋は微笑したまま固まっている。
いたたまれなくなり、彼は謝った。
「ですよねー」
「……はい」
「……ではシロヘヤたんはこれにて。あとでお食事をお持ちしますね。持ってきます」
「え、ちょっ」
手を軽く振り、白部屋は幻のごとくかき消えた。
まだ自身のことを聞いていなかったのに。
彼は部屋から出ようと、扉を押したり引いたりしたが、びくともしなかった。
「……どうしよう」
部屋に窓はない。せめて今、朝か夜か知りたかった。
洗面室にも、窓はない。
にも関わらず、不快感はない。空調が整っている証拠だ。
洗面台にほうっておいた血まみれの敷布がない。掃除をするとか言った白部屋が片付けたのだろうか。
つと、黒髪を短く刈り上げた男と目が合った。
男は日焼けをした黄色い肌で、常に仏頂面であったか、眉間の皺がすっかり跡として刻まれている。
暗色の瞳は不安げに揺れ、情けない、平凡な男の顔だ。
いや、それは鏡だった。
彼は鏡に触れる。自分だと認識するのに、驚くほどの時間がかかった。
「……私」
自然と自分をこんな風に呼ぶ。ということは、物静かな人であったのか。
保守的だったり、流されやすい性格からして、かなり頼りない男なのだろう。情けない。
「……うわ、石鹸」
先ほどは無かったものが増えている。
布巾や石鹸などの生活必需品が揃っていた。
彼は部屋に戻り、寝台に腰掛け、男の様子を見る。
男は無表情で彼をじっと見返す。
「あの、お名前は?」
仮にも同じ部屋で暮らすのだから、名ぐらいは知っておかねばならない。
男は答えず――答えられないだけか――彼の側の腕を動かした。鎖が戒めの音をたてる。
その手には、一輪の花があった。
白い花びらの野薔薇だった。
「……これが、名前?」
どうやらここから推測しろとのこと。
彼にはさっぱりわからなかった。ゆえに、適当につけた。白部屋のことを悪く言えないほどに、思いつきの産物であった。
「では、
男は怒らず、むしろ満足げに目を細めた。
なんだか嬉しくなった彼は、白部屋の名も受け入れればよかったかと後悔した。
だがさすがにあの発想は堪え難いものがある。
「すみません、私は名前を思い出せないのです。信じがたいのですが、記憶がどうも……」
記憶喪失なんて、鼻で笑ってしまう話だろう。
彼も、実際ならなければ、ホラ話として一蹴する。
しばし沈黙の中にいるうち、彼はあることに気づいた。
「まさか……その短剣が、声帯を……」
人は声帯が振動しなければ音を出せない。
短剣が、声帯の筋肉を穿っているのだろう。
「なぜこのような……」
やはり、あの白部屋という男は信用すべきではないのかもしれない。
彼は野荊に一言詫びを入れ、他にどこか怪我はないかと探す。
「全て血が止まっている……ん?」
野荊の頭に触れると、わずかに硬い感触。豊かな黒髪を掻き分ければ、角とおぼしき骨が根本から折られた痕があった。
「……人ではないと思いましたが……なんなのですか?」
問うたところで、答えがあるはずもなく。
野荊は深紅の眼で彼を見つめる。
しばし見つめ合い、彼がどうしようもないと途方にくれた瞬間――
「御飯にしましょう。いただきましょう」
「うわあっ」
背後から白部屋が囁いてきた。
あまりに突然の登場に、彼は驚いてしばし動けなかった。
「な、ななななんですかっ」
「御飯にしましょう。食べましょうよ一緒に」
「い、一緒に?」
白部屋の持っている盆には、二人分の食事が乗っている。
ぼすん、と音をたてて寝台に座り、傍らに盆を置く。
「はい。今日は火打ち石が沢山手に入りましたから、色々焼いてみました」
「……い、いただきます」
酷い仕打ちの上拘束されている男の側で、まるで遠足気分で食事をするのも嫌な感じだ。
だが焼きたての芳醇なパンの香りには抗えず、彼はそろそろと手を伸ばす。
「どうですか、口に合いますか?」
やけにきらきらした目で問う白部屋。実際、非常に美味であった。
「はい、美味しいです……」
たったそれだけの事というに、白部屋は手放しで喜んだ。
「初めての料理でしたが、喜んでもらえて嬉しいです。歓喜です」
肉の焼き加減も、芋のスープの味付けも、到底初めてのものとは思えなかった。
白部屋の支離滅裂な言葉は初めてのことではあるまい。
それよりも、まずは自分を知らねばなるまい。
「白部屋さん、あの」
「呼び捨てでどうぞ」
不審者とはなるべく距離を近づけたくなかったが、そうしないとしつこく詰め寄ってきそうだ。彼は渋々、呼び捨てで言い直す。
「白部屋……は、私の事を知っているのですか?信じがたいのですが、どうにも記憶が……」
「はい。知っていますとも」
隠すこともなく、あっさり答える白部屋。彼はしばし硬直した。
「し、知っている?」
「よぅくご存知です。大まかな略歴から、恥ずかしいあ~んなことまで」
嘘くさい、とは言えず。彼は一応、聞いてみることにした。
「……教えてくれますか」
「それはできません。なりません」
あれだけ言っておきながら、きっぱり断る白部屋。
思わずパンを取り落とし、掴みかかりそうになる。
「は、あ? 何故ですか! 嘘なら嘘と――」
「嘘ではありません。シロヘヤたんは貴方の事を、よく存じています。ですが言えません。教えようものならば、この方に怒られてしまいます」
白部屋は野荊を一瞥。彼も釣られて目線を動かした。
「野荊さんが……」
「ノ、イバラ?」
白部屋が首を傾げて聞いた。実のところ、白部屋の食事は全く進んでいない。
「え、ええ。なんと呼べばいいかわからなかったので、勝手ながら、そう呼んでいます」
それを聞いた白部屋は、端整な顔を嫌悪で歪ませ、苦々しげに言葉を吐く。
「名を与えるということは、命を与えるということ――新たに力を得てしまいましたか」
まずいことをしてしまったのだろうか。彼が怖じけづくのを感じ取ったのか、白部屋はいつもの微笑を浮かべる。
「ご心配なく。ここに縛る限り、何も問題はありません」
「……そ、うですか」
それ以上は会話も続かず、ただ黙々と食事をしていた。
「ごちそうさまでした……」
「はい、お粗末さまです」
結局、白部屋は自分の分に全く手をつけなかった。
一緒に食べようと言っておきながら、彼の食事を見守るだけであった。
盆を持ち、帰ろうとする白部屋に、余計とは思いつ、彼は言葉をかける。
「きちんと食べないと、体に毒ですよ」
「えー、シロヘヤたんは大丈夫ですよう。やはりお医者だけあって、心配性ですね」
「……は?」
「あ……」
何を、と言いかけたが、すでに白部屋は消えていた。姿を消す直前、あからさまにまずいという顔をしていた。
「……ええ?」
医者、と言ったか白部屋は。
彼の記憶には、全く取っ掛かりはないし、自覚もない。
「困った……そうだ、野荊さんは、私のことを何か知りませんか?」
答えはない。だが野荊は手を伸ばし、彼の後頭部に触れる。
かと思えば、彼を自分の胸に押し付けた。
「うぶっ」
生きているとは思えないほど冷たい野荊の肌は、あまり心地好いものではない。
背中を力強い腕でがっちり捕らえられ、彼は離れられない。
「あの、何か?」
野荊は彼の頭や頬を撫で、穏やかな眼で見下ろす。
されるがままであった彼だが、ふとある事に気づき、戦慄した。
「……心音、が、ない!?」
いくらなんでも、こればかりは恐ろしい。
思わず起き上がろうとしたが、野荊の腕がそれを許さない。
少し格闘したが、力では全く敵わない。彼は諦め、野荊にされるがままとなった。
「……もう、何がなんだか」
だが本心では全てを受け入れきってしまっているのか、彼は涙ひとつこぼさない。
べたべた触ってくる野荊の手は不快ではなく、むしろ眠気を誘う。
もういっそ、眠ってしまおうか、という時に、邪魔者はやって来るものである。
「身体を清めましょう! きれいにしましょう!」
「し、白部屋……」
ついさっき別れたばかりというに、白部屋は満面の笑みで彼の眠気を吹き飛ばした。
白部屋は無理矢理、野荊の腕を退かし、彼を起こす。
「一緒に入りましょう、そうしましょう」
「はあ!?」
この男だか女だかは、何を言っているのだ。性別がどちらでも問題のある発言だ。
「いいでしょう? よろしいでしょう? 背中を流しますよ」
「よ、よくないっ一人でできます!」
知らぬ者に裸を見られるなど、気持ち悪い。ついでに、白部屋にべったり触られるのは、どこか嫌悪感がある。
「えーと、こういうのは、裸の付き合いとか言うそうですね。大丈夫、シロヘヤたんは男です」
「そういう問題じゃなくて!」
「え? あ、女がよろしいのでしたら、頑張って変えますよ? やはり、おっぱいは大きいのがいいですかー?」
「違うっ!」
「あー……貧相な方ですか……いえ、まあ、いいと思います」
どこまでも話が通じない。彼は少し、苛立っていた。
「そうではなく……」
「はっ、迂闊でした。そうです、大きさではなく、形ですよねー」
「いい加減、胸から離れなさい! そんでもって、不埒な発言を慎みなさい!」
耐えかねた彼が大声で説教をすると、白部屋は硬直し、かと思えば頭を下げた。
「申し訳ございません。以後、気をつけます故」
「え、あ、はい」
先ほどの暴走はどこへやら。白部屋は深く頭を下げたまま動かない。
「あ、の……白部屋?」
「もう怒りは鎮まれましたか?」
恐る恐る、といった感じで聞かれる。彼は慌てて頷き、白部屋に頭をあげるよう言った。
「はあ、久々に本気で怒られましたので驚きました。驚愕です」
「す、すみません……」
「謝る必要はありません。事実、シロヘヤたん、浮き浮きしすぎちゃいました」
至って真剣な顔で自分の非を認める白部屋。
精神年齢が入り乱れたような性格は、彼を惑わせる。
「いえ、いいんです。もう落ち着きましたよね?」
「はい。ですから、一緒にお風呂に入りましょう」
まだその話は続いていたらしい。彼が辟易した時、白部屋が寝台の野荊を見た。
「え? 何ですか? なりませぬ……だいたい、三人も入れません」
野荊は何も声を発してはいない。だが白部屋は、野荊に向かって様々に述べる。
「貴方がたにも、嫉妬というお下劣な感情があるのですね……わかりました」
白部屋は聖印を握り、目を閉じて何事か唱えた。
すると野荊の枷が外れ、鎖が緩められる。解放された男は、ゆるりと起き上がった。
白部屋は至って真面目に珍妙な発言をした。
「この方、シロヘヤたんたちが二人きりで湯浴みをするのが気に入らないようです」
私も気に入らないです、とは言えず。
「仕方がありません。三人で入浴いたしましょう」
「どうしてそうなるんです……?」
「んふふ。お着替え手伝いましょう。手伝います」
「け、けけ結構ですっ!」
衿に伸ばされた白い手から逃れ、彼は冷や冷やしながら服を脱いだ。
狭い湯浴み場でいい年した男二人が騒ぐ様は、おかしな光景だ。
手や足に枷をつけたままの野荊は、その様子を無表情で見ている。
なにやら恥ずかしくなった彼は、なるべく壁の方に寄る。
「さっさと体を洗ってしまいましょう、ねっ」
「そうですね。了解です。ではお背中流しますよー!」
「自分でできますからっ!」
なんとか白部屋から逃れ、血まみれの野荊を連れて湯浴みを始める。
布巾で野荊の汚れを拭う彼を見た白部屋は嘆息し、自分の体を清める。
またひっついてくるのではないかと不安になり、彼は白部屋を一瞥した。
だが不思議なものを見かけ、再び白部屋に顔を向ける。
無表情で鼻唄をかます白部屋のうなじに、聖印の刺青があった。
高位聖職者のうち、さらに特別な司祭が入れるそれを見て、彼は思わず呟いた。
「
「はい、どうされましたか?」
案の定、白部屋は振り向いた。
神子とは、心を殺して神を受け入れ、神託を人に伝える者を指す。
一般では絶対にお目にかかれない、神聖かつ稀少な人間が、何故目前にいるのだろう。
しかも風呂まで一緒になって。
そういえば、と、彼は白部屋自身のことを聞いていないことを思い出した。
果たして答えてくれるだろうか。そして答えの中に、自身の手がかりはあろうか。
意を決し、彼は問い掛ける。
「あの、白部屋は……神子、なのですか」
「はい、そうですよ。そうなのです。誕生と善良のイオスケハ様に仕えます」
イオスケハという名に、全く聞き覚えは無かった。彼は単刀直入に聞くことにした。
「白部屋……貴方は一体、何者です?」
その問いに白部屋は彼の方に体を向け、しばらく逡巡した後、慈悲深い微笑を浮かべた。
黙ってさえいれば実に美しい白部屋は、優しく、優しく述べた。
「私は、あなたをとても大切に思っています。同時に、あなたは私にとって最も大切な人です。或は、神よりも」
やはり口にすることは意味不明で無茶苦茶なものだ。
そして同時に、重い言葉だと彼は感じた。
「私はあなたで、貴方はわたしであったはずなのに……一体どこで間違えたのでしょう」
失礼します、と言い残し、白部屋は先に湯浴み場を出た。
痛みをこらえるような表情に、彼は言葉に詰まった。
一通り体を洗い、着替えて部屋に戻っても、白部屋はいなかった。
書斎に戻ったのだろう。彼は箪笥から野荊の服を見繕うことにした。
「うーん……無いな」
何故か彼の体格に合ったものばかりで、野荊が着れそうにない。
下着をあさりはじめたあたりで、ふと彼は思いたつ。
「……あ」
白部屋が来る前から、衣服は箪笥に仕舞われていた。
長い放置を前提していたのか、防虫のために石鹸が置かれている。
「……わ、たしは……ここで暮らしていた……?」
だが確信はできない。やけに多い服とは裏腹に、似たようなものばかりだ。
おまけにそろって、衿に教会の紋章が刺繍されている。
がちがちの信仰者か、聖職者でない限りは、こんな高価なだけで質素な服は着ない。
彼はあほらしい考えを振り切り、箪笥を閉める。
「すみません野荊さん。どうにも服が無くて……」
心底申し訳なく思い謝罪したとて、野荊は構わぬとばかりに寝台に横たわる。
再び鎖が野荊を締め付け、封じ込む。
さて寝るのならばどうしようかと彼が考えた時、またも不可思議なる力に引っ張られ、野荊のいる寝台に倒れ込み。
「ったた……なんですか、もう」
有無を言わせず、野荊は彼を引き寄せ、頭を撫でる。
不思議と、眠気を誘われ、もうここで寝てしまおうか、と彼は投げやりに思った。
体勢を整えようと、少し体を動かし、癖なのか枕の下に手を入れた。
「……?」
布の間に、固い何かに触れた。枕の下から引き抜いて見れば、白金でできた聖印だった。
ふたつで一柱の神が彫られた印。稀少金属から製造されるそれは、教会の神子と指導者しか持つことが許されない。
その聖印が、なぜこんな所にぞんざいに放られているのか。
ふと、白部屋が持っていた聖印を思い出す。
象牙製は神子より下位の司祭が持つもの。意図がわからず、彼は名前が彫られているであろう、印の裏側を見た。
「……っ、あ」
彼の脳裏で、ぶつりぶつりと、肉の繊維が断ち切られるに似た音がした。
野荊が不愉快そうに白金の聖印を取り上げると、彼はその手を取り、声を荒げた。
「それは彼のものです、返しなさい!」
なんとか聖印を奪い返し、彼は寝台から飛び出す。
起き上がった野荊から逃れるように、後ずさる。
「……どういう、ことですか……タウィスカラ……。何が目的で……封印の間を出る気はなかったはず」
野荊は答えもせず、彼の肩を掴むなり、そっと抱きしめた。
「なっ……離し」
彼がいくら抵抗しようとも、野荊は力を緩めず、だが壊れ物を扱う手つきで彼の頭を撫ぜる。
異様な眠気に抗うため、彼は聖印を強く握り、片割れの名を呼んだ。
「セシル、セシルっ……早く来てくれ……セシル!」
しかし野荊が声なき声を上げた後、彼は気を失い、野荊に体を預ける形となった。
彼の悲鳴を聞き、急いで部屋に入った白部屋は愕然とし、そして憤怒した。
「フロレンツ……!」
ぐったりとしている彼を横抱きにし、野荊は愛しげに顔を寄せる。
白部屋は奥歯を噛み締め、野荊に突進。
手には短剣が握られていた。
野荊は片手を翻し、野薔薇の枝を鋭く生成。槍としたもので白部屋の頭から腹を裂いた。
「……うが、ああっ!」
迎撃され、床を転がる。白部屋は思わず顔を押さえた。傷はそう深くはないが、切られた左目は、完全に見えなくなっていた。
「く、そ……タウィスカラ、私を傷つけたからには、イオスケハ様は容赦なさらないぞ!」
野荊は喉の短剣を抜き、宵闇の奥底から響くような低い声を出した。
「……我は大人しく封じられるというのに、お前たちはまだ不満を言うのかね」
「うる、さい……フロレンツの記憶を消し思考を操って……タウィスカラよ、病と魔術の神よ。愛されないからやり直すなどと、そんな事は愛とは呼ばない」
「……黙れ」
「本質で行動する貴方たちとは違う。人たるフロレンツが、貴方みたいな卑怯者を愛するはずがない!」
「黙れと言っている」
「黙るものか……黙るものですか……返せよ! 返してよ! 私の唯一の家族を返せッ!」
搾り出した声も小さくなっていく。出血により意識が遠のき、白部屋は床に臥したまま動かなくなった。
「う……」
目覚めれば、知らぬ部屋の、知らぬ寝台にて、知らぬ男に添い寝されている。
あまりにわけがわからない状況に、彼は戸惑う。
「……う、ええ?」
低い男の声。おそらくは自分のものだろう。
そも、自分とは何だ?
「あ……うそ」
何も思い出せなかった。名前も、自身が何者かすら。
思わず頭に手をやると、切ったばかりか、ざんばらであり、まだ乾いていない。
さらに混乱し、周囲を見渡す。
「うわっ」
寝台には、枷で繋がれ、鎖で拘束された男が、全裸で横たわっている。
豊かな黒髪の合間から、紅い眼で彼を見つめる。
「……」
しばし見合うが、彼がたじろぎ、少し離れる。
男が手を伸ばし、触れようとするが、鎖がそれを許さない。
眉をひそめた男を哀れんだものか、彼は戸惑いながらも、男の手を取る。
「あの、貴方は……というか、ここはどこですか?」
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