Ruf
死の何が恐ろしいのか。我らは血肉に塗れて生まれるというのに
止まない雪は、どんな痕跡も消してくれる。
「や、やめろ……やめてくれ」
「はぁあ? 馬鹿言うなよ」
許しを請うた喉は、一片の慈悲なくかっさばれた。
「か、ささ、ぎ伯、爵め……」
「俺は伯爵じゃあない。ただの猟師だ」
殺人者は短剣の血を払い、死体を抱えて歩む。その姿は、降雪が掻き消した。
◇
アルヴァ国王妃、フリードリヒは猛烈に悩んでいた。
“忌まれし森”の事件以来、彼の内にいた神は去った。
呪いは解けた。それ自体は喜ばしいことなのだが、新たな問題が浮上した。
「王妃様は、十分に功績を残してらっしゃいます。気に止める者はおりません」
事情を相談された宰相ダイケンが、安心させるように述べる。
「教会には、宗主のみに伝達いたします」
「うー……でもあんなに祭り上げておいて、もう預言できないなんて」
そう、フリードリヒには、預言の力が失われていた。
産後から一年間は、療養という事で謁見は無かったが、もうごまかせない。
フリードリヒは神憑きという特殊性で、妃になれたのだ。預言は強力な外交手段でもあり、それがないとあっては、王妃への反発も出るだろう。
「あ、わたくしが直接、宗主様に……」
教会最高指導者に会ったことはないが、散々教会には世話になっている。
フリードリヒが直接交渉するならばわかってくれるはずだ。
と思いきや、ダイケンは慌てて止める。
「それだけは絶対にお止めください! 陛下のお怒りを買いますし、私も許可を出せません」
温厚なダイケンが、いつにない勢いで制止する。
理由はわからないが、フリードリヒは頷いた。
教会には神の力を扱う神子という存在がいるが、彼らでさえ、預言はできない。
教会よりも歴史のある魔女にも不可能。すなわちフリードリヒは、この世で唯一の預言者だった。
「この事実を存じているのは?」
「陛下と侍女の皆と、ダイケン殿だけです。ばれたら困るかなって、お外にも出てません」
妃の賢明な判断に、宰相は頭を下げた。
神に意識を奪われ、異常なまでに眠っていた頃は、誰もがフリードリヒは大人しく、感情の起伏も低い人だと思っていた。
しかしそれは、ひどい眠気により、表情や感情表現が乏しいだけだった。
本来は素直だが大胆で、好奇心旺盛な明るい性格だ。よく笑い、表情もころころ変わる。
そんな人が長い期間、私室に閉じこもる事は、どれだけ苦痛だったろうか。フリードリヒは慣れているというが、ダイケンは首を横に振る。
「この問題は、早急に解決致します。
王妃様が快適に生活できるよう配慮するのも、王の忠臣の務めなれば」
「感謝します。よかったです、ダイケン殿がいてくれて」
宰相が一礼して退室し、暇になったフリードリヒは、窓から外を見た。
文字の読み書きは、生活に支障ないほどに上達した。
今は王室礼儀や口上、外交のうえで必要な挨拶などを習っている。
「ここは鳥さん来ないなー」
余暇はもっぱら、私室の窓から、廊下と外苑を眺めている。
働く侍女や衛兵らの姿がよく見える。あちらがフリードリヒに気づくことはないが、本人はそれでもよかった。
「兄様みたく、猫でも飼おうかなー」
王妃の余暇を邪魔してはいけないと、侍女らは呼ばない限り、控えてくれている。話し相手が欲しければ、彼女たちを呼べばいい。喜んで会話をしてくれる。
つと、卓に置いた黒耀石の鏡から、カササギが出てきた。
『だから言ったろう。わたしが必要な時が来ると』
「テスカトリポカ様」
戦と混乱を司る神、テスカトリポカだった。
調和や豊穣を司るケツァルコアトルと違い、こちらは危険極まりない存在らしい。
司祭に少し尋ねれば、顔を青ざめさせたこともあった。
しかしテスカトリポカもまた、フリードリヒが生まれた時から共に在った存在。個人的には、ぞんざいにしたくはなかった。
「んと、テスカトリポカ様は、預言はできますか?」
『預言――ああ、仮定演算か。わたしは鏡を通し世界を見ている。できるぞ』
「その、もし契約したら……」
力を貸してくれるだろうか、と言えば、テスカトリポカは不満を漏らした。
『おう平和の君主よ、わたしは争いによる変化をもたらすのだ。
それをたかだか、預言ごときのために契約とは……。むう、久々に戦場に赴きたかったが』
「テスカトリポカ様。わたくしの柔い手で、剣を持てるとお思いですか?」
白く、傷ひとつない手を広げ、笑いながら言えば、テスカトリポカは納得した。
『ふむ、契約は良いが、お前は契約代償を理解しているのか』
「代償? んと、眠たくなる、とかですか」
鵲は首を振った。卓に置いた紅茶の杯に近づき、小さい匙を飲み込む。
『眠気はあやつが、お前の意識を取り込んだからだな。代償は右目だ。もうすぐ見えなくなるぞ』
突然恐ろしい事を言われ、フリードリヒは右目に触れた。
そういえば、契約の際にケツァルコアトルは、右目に口づけた。
『わたしはそうだな……右手をもらおうか』
「う……」
『まあ霊質を喰うのであって“忌まれし森”のように強奪するわけではない。
無論、肉は好きだがな』
しかしこの時、フリードリヒの恐怖心は薄かった。
むしろ預言の代償としては、安いものだと思った。
「そうだ、角が折られたりは、しないのですかー?」
人を傷つけた神は、悉く角を折られる。
契約代償は、その範疇からは外れるのだろうか。
『角を折られたくないから、こんなに懇切丁っ寧に、説明しとるんだが』
「あ、なるほど」
『だからこそ、教える必要がある。
糞蛇は疑いようのない、幸福な預言しかしなかった。
だがわたしは、戦と死、不吉な預言しかしない。お前が周囲から忌み嫌われようと、それは知らぬ』
鵲は嘲笑うかのように、おやつの焼き林檎をついばむ。が、口に合わないらしく吐き出した。
『そしてわたしは気まぐれな性質だ。預言が常に行われるとは限らない。
それを了承するならば、契約を』
フリードリヒはしばし考えた。
確かに戦神は恐ろしい。ケツァルコアトルの代わりになどならないし、してはいけない。
しかし自分はこの国の王妃で、王の持つ外交手札においての最強の一手だ。
その自覚を持つほどに。周囲の期待や尊敬を受けるほどに、フリードリヒは神の預言を渇望した。
「……契約、します」
『ならばよし。右手を出せ』
テスカトリポカは本来の姿を顕現し、フリードリヒの右手を掴んだ。
『契約内容を提示する。わたしはお前に預言と争いを与える。
わたしが死ぬか、お前が死ぬ。もしくは裁定者の介入があった際は契約不履行となる。解除は不可能とす』
「わかりました。この体は神に」
フリードリヒが頭を垂れ、名乗ると戦神は笑った。
鏡の内のテスカトリポカが、一斉にフリードリヒを見る。
『平和の君主。籠から出られぬ身。
わたしは“漆黒による変革”
争い、変化、贄の推進を司る――たとえ大地に喰われても、わたしは肉を捧げることを止めない。風の帰還までは』
テスカトリポカは白い右手を引き、甲に口づけた。
燃え盛る炎が、大勢の人と馬を飲み込む。
あらゆる抵抗は圧倒的な熱に伏され、武器も鎧も捨て逃げるしかない。
しかし、撤退の流れに反するように、一人の男が馬を走らせ、火炎に突入した。
濃紅の軍服の男は、右手に剣を掲げる。剣から伝う炎が腕を燃やすが、構わず突き進む。
◇
フリードリヒは大きく欠伸をかまし、目をこする。
侍女が主人の目元を拭い、中止していた口の洗浄を再開した。
(どうにも、寝足りないなぁ)
異常な眠気に襲われている、というわけではない。単に睡眠が浅かったのだろう。
夢見が悪かったのか。しかして昨晩の夢は、あいにく覚えてはいない。
テスカトリポカに聞いてみるかと、フリードリヒは暢気に考えていた。
「テスカトリポカ様ー」
名を囁いても、戦神はいっこうに顕れない。
催促の意を込めて、黒耀石の鏡を指で弾く。
と、鏡面に数列が浮かび上がる。
ただの数字の列挙にも見えるが、フリードリヒは自然と、それを読み取ることができた。
(やる気がない――)
気まぐれ、と自称するだけのことはある。
フリードリヒは諦めて、侍女に促されるままに着替えを始めた。
「フリードリヒ様、再来週にリウォインの和平特使が来られます。
お迎えと会食に出席するようにと、陛下からの御達しです」
「んあ、はあい」
エリッサが予定を通達する。
ここしばらく公務は無く、むしろ申し訳ない気分になっていた。
久しぶりの仕事に、存在を認められた気分になり、フリードリヒは気を引き締めた。
昼過ぎになり、ダイケンが客人を連れて部屋に来た。
客人の性差を超えた、やたら美しい容貌に、フリードリヒは見とれてしまった。
白髪に白い肌は、アルヴァ北東部に古くから住む、
「フリードリヒ様、こちらは教会審問局局長です。内密に、宗主代理として来られました」
ダイケンに紹介され、白い法衣を来た人物は、一分の隙のない挨拶をしてみせた。
「お初にお目にかかります。偉大なる王妃様。セシル・クレーエと申します。
私ごとき一介の司祭が、神の預言と奇跡の体言者にお目見えができるとは、恐悦至極にございます」
声を聞き、ようやく男だと判明した。
靴に接吻しそうな勢いのセシルを座らせ、話を始めた。
「局長閣下は、フリードリヒ様の預言に関する問題を、打ち消してくださいます」
すなわち、世間的にフリードリヒは預言をし続けていることにしよう、ということだ。
「あ、のぉ……そのことなのですが」
フリードリヒは、預言ができるやもしれないことを伝えた。
確実なものではないが、神は預言を与えるはずと。
それを聞いたセシルは、少し考え、不躾な質問をした。
「私は確かに、王妃様は預言はなさらないと、宗主から聞きました。――なれば、証拠を見せていただきたい」
虚偽とされても仕様のないことだ。
フリードリヒは焦った。教会と国の関係を、悪くするわけにはいかない。
黒耀石の鏡をひっかくと、カササギの鳴き声がした。
『気が変わった。手始めに、この憐れな男を預言してみよう』
テスカトリポカは、紙と筆記具を用意せよと言った。
突然の王妃の行動に、ダイケンは疑問を持つが、セシルは傍観していた。
『わたしの預言は遠回しなそれだ。せいぜい頑張って読み取れ』
鏡に数列が浮かび上がる。それを人の言葉に変換し、フリードリヒは紙に書いていく。
まるで詩のような単語の羅列。
詩と呼ぶには単純で、むしろ暗号に近い。
「……っ!」
しかしフリードリヒは、その内容に耐え切れず、紙を握り潰した。
「王妃様、どうかされましたかっ?」
癇癪など起こしたことのない王妃を、ダイケンはひどく心配した。
フリードリヒは無言で首を振り、こんなものは捨ててしまおうと決心した。
「――お見せください」
許可する間もなく、セシルは王妃から紙を取り上げ、読んだ。
そこには、戦乱の神の名に相応しい、不吉なる言葉があった。
過去はなく
未来はない
恐れなき者よ
身代わりとなりて赴けど
盲いた魔女に命を奪われる
餓えた魔女に肉を奪われる
セシルはうんうんと頷き、結論を出した。
「成る程これは、私の死の預言ですね」
フリードリヒは、やってしまったと痛感した。
人に死を突き付けるなど、絶対にしてはいけないことだ。
ケツァルコアトルとは正反対だ。フリードリヒは安易な契約を、それこそ死ぬほどに後悔した。
しかしセシルは、狼狽もせずに語る。
「確かに私は、来月に宗主の代わりにリウォインに赴く予定です。いやはや、殺されるところでした」
すなわち、これを避ければ、死を回避できるとセシルは言う。
やたら前向きな発言に、フリードリヒは戸惑う。
セシルは尚も王妃を元気づけた。
「歴史書によれば、神憑きの幾人かが、精神に異常をきたして自殺したそうです。
恐らくは、この死の預言を何度も繰り返したせいでしょう」
ケツァルコアトルと契約するはずが、テスカトリポカと契約してしまった者たち。
自殺という単語に、フリードリヒの顔は青ざめる。
ダイケンはセシルに黙るよう言い付け、とにかく王妃を安心させようと言葉を尽くした。
セシルは美しい微笑をたたえ、フリードリヒに感謝を述べた。
「私は王妃様に命を救われました。どうかそれを自覚なさってください」
「でも……」
「無理に預言を行う必要はありません。
神に関する資料が必要ならば、いくらでもお言い付けください。教会は全面的に、王妃様の支援をいたします」
「んと、ありがとうございます……」
いまだへこむフリードリヒに配慮し、セシルは預言の書かれた紙を持ち、退室した。
王妃の部屋の外で、宰相と審問局局長は話し合う。
「おめでとうございます。これで国は安泰ですね」
「皮肉ですか? あの方への愚弄は許しませんよ」
アルヴァの中枢を担う者達は、悉く教会に良い意識を持ってはいない。
それらと交渉をするのも、審問局の役目。セシルはさらに祝福を重ねる。
「あの預言、間違いなく戦を司る神のもの。なればこの国は、軍神の加護を得たも同然です」
「……今回の事は、陛下に全て報告します。貴方の言動を含めて」
宰相の冷徹なる視線を受けても、セシルはせせら笑い、ぎりぎりの悪態をつく。
「かつて神憑きの預言を戦争に利用し、わずか二ヶ月で使い潰した国に言われたくはありません」
ダイケンは思わず、舌打ちをしたくなった。
王家の呪いにより、教会の政治介入を許して以降、アルヴァは侮られ続けている。
だが呪いは打破された。いつまでも、理想主義者どもの言いなりになる気はない。
王妃の預言復活を知らされたエンディミオは、烈火の如く怒り、フリードリヒを罵倒した。
「このッ、大馬鹿者が!!」
「……申し訳、ありません。わたくしの考えの至らぬばかりに」
反論の余地を潰され、フリードリヒはただただ頭を下げた。
嵐が過ぎ去るのを待つように、王の怒りが落ち着くまで、謝罪する他ない。
「私の許可なく、動くような真似は、今後一切許さぬ。そなたは私の命に従えば良い」
「陛下……それは、あんまりです」
神憑きを厳重に保護するための、王の容赦のなさは理解している。
しかし手に入れたわずかな自由を見送ることは、若いフリードリヒには難しかった。
黒い猫のぬいぐるみを強く抱き、フリードリヒは懇願した。
「この命は陛下のものです。ならば、預言も神の力も、陛下に全て捧げます。
ですからどうか、お許しになってください」
「……私に、そなたを使い潰せと。そう申すのか」
黒獅子王は妻の首を掴み、じわりじわりと絞めつけた。
「ぐっ……へぇ、かっ」
「そなたはいつまでも、愚かしいままだ。
神の預言を必要とせねばならぬほどに、我が国は脆くはない」
苦しみ喘ぐフリードリヒの首を解放し、頬を強く叩いた。
胸倉を掴み、再び言い聞かす。拍子に、脆いぬいぐるみの布地が破ける。
「預言の乱用は止めよ。面倒なものを呼び込むだけだ」
返答も聞かず、エンディミオは部屋を去る。
咳込み、唾液を拭いながらも、フリードリヒは何とも思わなかった。
手厳しさばかりが見られがちだが、一応は王妃の身を心配をしているのだ。
『おい、何ともないか。平和の君主』
ぞんざいにではあるが、鵲カササギが声をかけてくる。
フリードリヒはひとつ頷き、呼び鈴を鳴らした。
『命の危機がない限り、勝手に人同士の争いには干渉できない。悪く思うな』
「構いません。陛下は、殺す気はありませんものー」
カササギは首を傾げ、かちかちと鳴いた。
いまだに二人の関係性が、掴めていないらしい。
『気が変わった。預言を』
◇
死と不吉の預言は、少しずつ、だが確かにフリードリヒの精神を蝕んだ。
流行り病や、国境での小競り合いを預言し、それは必ず成就した。
しかしそれら不幸を止める術を、フリードリヒ自信は持たないのだ。
ただ訪れる悲劇を、端から見ていくしかない。
そのもどかしさの、なんと苦しいことか。
混乱を招くとして、預言の記された紙片は、公のものにはされず、内密に保管された。
「王妃様、僭越ながら私が思うに、これらの預言を避ければ、死や災いは逃れられるのでは?」
「……え?」
だが預言の閲覧を許されているセシルは、度々フリードリヒの元を訪れていた。
預言の紙片は全て王室で管理しているが、恐らくセシルは内容を記憶し、宗主に伝えているだろう。
「そうは思いませんか?私は来月、リウォインに行けば確実に死にますが、行かなければ生き延びます」
「え、あ……そうなの?」
逆転の発想だった。傍らの鵲を見ると、まるで死骸のようにひっくり返り、小匙をくわえて遊んでいる。
『知らんわ。勝手に解釈するがよい』
「んと、好きに考えなさい、だそうです」
それを聞いたセシルは、先日成された預言の紙を広げる。
「ご覧ください。
過去なく、未来なく、恐れなき者とは、私を指します。私は教会に生涯を捧げていますからね。
そして、身代わりとなりて赴けど、とは宗主の代わりに行けど、と解釈できます」
「……はあ」
セシルの言葉はどこか独善的ではあるが、あまりに容貌が美しいため、間違いないという錯覚をしてしまいがちになる。
「盲いた魔女とは、ヘルガ女王のことです。彼女は目が悪いと聞いています。
餓えた魔女とは、恐らくリウォイン国境沿いにある、メッシュード共同大墓地の、腐敗の魔女を指すかと」
そこまで聞き、フリードリヒはあれ、と疑問が沸いた。
「魔女って、ヘルガ様だけじゃあ、ないのですかー?」
てっきり、魔女はヘルガただ一人と思い込んでいた。
しかし“忌まれし森”が魔女を犠牲に発生したならば、他にいてもおかしくはないわけで――
「ええ。存在しておりますよ。教会が確認している限りでは、七人です」
隠すことでもないらしく、セシルはあっさりと答えた。
「お、おお……と、いうことは」
ヘルガのようなおっかない人物が、あと六人もいるというのか――フリードリヒは目眩を覚えた。
王妃の不安を察したセシルは、微笑を浮かべて諭した。
「ご安心ください。ヘルガ女王が特別に卑怯で嘘吐きなだけで、他の方は普通ですから」
「そ、うなの?」
セシル曰く、ヘルガの言葉の九割は意味のない嘘だという。
人付き合いに慣れず、なんでも真に受けてしまうフリードリヒは、恰好のカモだった。
「ヘルガ様……ひどいー」
「とはいえ、魔女らが教会を敵視しているのは事実です。どうかお気をつけて」
ヘルガがフリードリヒを忌み嫌うのは、リウォイン王家の威光を守るためだ。
だがそれとは別に、魔女と教会の根は深いのだろう。
「――して王妃様。故に私は、御身に大恩を感じております」
「そんな……んと、お礼ならば、神様に」
「そういった謙虚さも、素晴らしい。どうか自信をお持ちくださいませ。
“忌まれし森”を昇華なさったことを、我らが宗主は大変に感謝しております」
そう思うのならば、ヘルガをはじめとした魔女らに、エンディミオに――そして人生を潰された神憑き達と、角を折られた神に、心から謝辞を伝えるべきだ。
あまりに犠牲が多過ぎた。
エンディミオ達が宗主を嫌うわけを、フリードリヒは少し理解した。
つと、カササギが喚いた。
黒耀石の鏡に、数式が浮かぶ。
嫌気がさしてきたフリードリヒだが、セシルが期待を込めてこちらを見る。
しかもテスカトリポカの様子もおかしい。早くしろとばかりに、鳴いている。
渋々と、フリードリヒは筆を取った。
だがその内容に、二人は首を傾げた。
全く、意図が掴めないのだ。
血を背負う魔王が
革命の旗を手に来る
ただ終を導くために
嘆きの歌は文明を焼き尽くし
あまねく過ちを滅ぼす
跡には悔恨が残る
「魔、王?」
おどろおどろしい、謎めくその肩書き。
一体それが何者を指すのか、それは誰にもわからなかった。
テスカトリポカに聞こうと、カササギの方を見たフリードリヒは、絶句した。
戦神は本来の姿をあらわに、預言を見ていた。
いつもの張り付いた笑みは、無の表情となっている。
「……魔王」
それだけを呟いたテスカトリポカは、鳥に変体し、羽ばたいては虚空に消えた。
◇
謎の預言の後、テスカトリポカは預言をしなくなった。セシルも、教会に戻ったまま音沙汰ない。
だが悩む暇もなく、リウォイン和平特使を迎える日が来てしまった。
侍女らに寝台から引っ張り出され、化粧だ着付けだと忙しい。
この時点でフリードリヒは目が回りそうだったが、エリッサに半ば抱き抱えられるように移動を強要され、本当の意味で目が回る。
和平などと甘ったれたことなど、アルヴァもリウォインも納得はしていない。
いわば、ふたつの国は戦争を望んでいた。
長い因縁は、もはやどちらかが滅ぶまで続く。
だが、今はまだその時ではない。
ヘルガは年をとり、継承者はいない。
今にも侵攻に乗り出しそうなアルヴァを抑えるため、和平特使を、という次第だった。
会議に出る王の代理として、フリードリヒは和平特使を城門で出迎えた。
和平とは程遠い暴虐王が迎えるよりは、リウォイン出身の穏やかな気質の妃が対応する方が、特使の印象も良い。
特使として来たのは、リウォイン外務を取り締まる、ユーマイル公爵だった。
魔女の統べる地においては、数少ない穏健派であり、悪辣なる女王の国が他国と交渉をできるのは、公爵の持つ信用に他ならない。
「ようこそアルヴァへ、公爵閣下」
「これはこれは王妃殿下。御目文字でき、光栄にございます」
ユーマイル公は、その評判に違わず、穏やかに老いた男だった。
なごやかさが服を着たような白髪の公爵が、なぜ悪い魔女に忠誠を誓うのか。それは永遠の謎だ。
つと、公爵はフリードリヒの顔を見て、感心のため息をついた。
「ほんに、よく似ておいでですな……」
何かと問う前に、ユーマイル公は護衛の兵士を呼んだ。
紺の軍服を着た衛兵が、帽子を取る。
その顔を見たフリードリヒは、喜びに表情が綻ぶ。
「お、ひ、さー! 愛しのフリッツー!」
「うぐあ!」
有無を言わさず抱き着く衛兵に、王妃付きの護衛が、険しい顔で取り囲む。
「ま、待ってください。この方は――」
「むふふ。いいよ、自分でやる」
その容貌は王妃によく似通り、護衛らを戸惑わせた。
銀髪に、抜けるような白い肌。悪戯を楽しむ藍の眼。
精悍な顔立ちは、実際は軟弱なフリードリヒとは似ても似つかない。
「んーと、フリードリヒ様の兄にあたります。ローレンツ・ケーフィンと申します。
ユーマイル公の護衛任務に当たっております。皆様、お勤めご苦労様ですー」
しかして物おじせぬ態度と、暢気な口調は、王妃のものと同じだった。
フリードリヒの二人の兄がうち、次兄ローレンツはリウォインの軍に所属している。
微妙な立場にある実家に配慮し、フリードリヒは兄弟とは会えないでいた。
「うにゃうにゃ~。フリッツ、元気してたかー?」
「兄様も、てか、くるしっ」
抱き潰す勢いのローレンツを引き離し、相も変わらず陽気な兄を見る。
かつて軟禁状態にあったフリードリヒに、唯一構っていたのはローレンツだった。
ユーマイル公はその事情を知り、わざわざローレンツを護衛として組み入れた。
外交に、相手方の身内や知己の者を動向させるのは基本である。
とはいえ、微妙な立場のロメンラルだ。王の怒りを買わないかは、不安ではある。
勇敢かつ、優しいユーマイル公に、フリードリヒはすぐさま心を許した。
アルヴァ方の会議は長引くようだ、と又聞き、ローレンツは欠伸を噛み殺す。
卓を挟み、和やかに公爵と会話をする弟。今や大国の王妃。
全く眠気を見せないフリードリヒに、疑問を持たないでもなかったが、まあ色々あったのだろうと割り切った。
「おい“ケーフィン様”よ。どうお近づきになるんだ?」
隣に立つ同僚が嘲る。わざと姓を呼び、せせら笑う。
ローレンツは同僚の方を見ずに、淡々と揶揄を返した。
「悔しけりゃ、身内に神憑きを出してみせろよ」
凄まじい皮肉に、同僚は黙った。
リウォインにおいて神憑きを輩出した家がどうなるかなど、火を見るより明らか。
この程度で黙するならば話し掛けるな、とローレンツは毒づいた。猫に引っ掻かれたほどの痛みもない。
◇
テスカトリポカは痛みに呻き、這いつくばるようにして起き上がった。
『……クソっ』
破壊された機能を探る。三つある疑似人格が、ひとつ失われていた。
テスカトリポカは、無限ともいえる闇を見渡す。
広大な神域の一層には、戦神以外にはただ一人の影があった。
『おう風よ、みすぼらしいわたしを見に来たか』
『なぜわたしがそのような真似を』
白い身体に翠色の蛇を纏わせた男。金の眼はどこか軽蔑したように、テスカトリポカを見ている。
『裁定者はどこか』
『眠りに入りました。こちらから接続することはできません』
テスカトリポカは解せないでいた。
頭部に触れると、右側の角が一本、根本から折られていた。
人を傷つけた者は、悉く角を折られ、力を失う。
断罪の裁量は全て裁定者による。
その真意なぞ、誰にもわからなかった。
蛇神ケツァルコアトルは静かに糾弾した。
『無意義な契約を結び、結果的にあの子を傷つけた。その報いです』
『しかし選んだのは平和の君主だ。望むものは与えられるべきだろう』
ケツァルコアトルは憤慨した。かの愚神は、事態をあまり理解していない。
『魔王の演算結果が出たのですよ。運命の環はあの子を巻き込み、止まることを知りません』
『魔王は必ず生まれる。それは世界の約束だ。
――それともなにか? お前が憑かねば、魔王は生まれなかったか?』
この問答は無意味だ。“忌まれし森”が出現する前より、教会がつくられる前より、そのはるか古からの、原初の決まりごとなのだから。
『“翡翠の雪ぎ”よ、お前らしくもない。わたしたちの行いは間違いではなかった。
後悔でもしているのか? その乱れはなんだ』
テスカトリポカはわざと、相手の怒りを煽る。
しかしてその手には乗らず、ケツァルコアトルはただ伝えた。
『夜の風よ、あなたはこのまま、あの子の傍にいなさい』
『切り離すのではないのか』
『魔王の誕生を人に示唆し、あの子の助けになるのです。もしも魔王と敵対するならば、それに対抗するためにも』
戦神はあからさまに嫌悪した。
そも、魔王が誰かなど、今の時点では解らない。
テスカトリポカが出来るのは、フリードリヒに預言をさせ、人々に魔王の存在を示すことのみ。
まさかこのような事態になるとは。テスカトリポカは面倒そうにため息をついた。
『……風よ、お前はどうする』
また共に行動するのか、と思っていたテスカトリポカに、調和の神は意外な答えを寄越す。
『――わたしは、休止状態に入ります』
『なんだと?』
休止状態は、最低限の機能だけを残し、全ての行動を停止してしまう。完全に他者からの接触を断ち切り、本体と裁定者以外の再起動は許されない。
それすなわち、ケツァルコアトルは人と関わることを止め、神域で眠りつづけるということ。
人を愛し、苦心し続けた善き神の、あまりに意外な決定だった。
『おう風よ、お前を求める者が来た時はどうするのだ』
『その際はわたしの鑓が。
“漆黒による変革”――あの子をお願いします』
その言葉を最後に、蛇神は闇に消えた。