5

 サイーラの王、バスティアンは、相変わらず人当たりのいい笑顔で挨拶をした。
 エンディミオはそれを不服とした態度で受ける。
 ヘルガと協議した結果、一度呼び出して問い質すという論に至った。

 大きな行事でもなければ、三人の王が同時に集まることはない。

「私がお二人の下に馳せ参じたのは言うまでもありません。お二方にご協力したいのです」

 脂肪の詰まった顎を揺らし、バスティアンは快活に笑った。

 サイーラは歴史浅く、領土も狭い。
 しかし列強の王らと相対できるのは、高い工業、化学技術にある。

 いまだ小国や国境での小競り合い、内戦は続いており、サイーラの品質の良い武器や馬車は、高い需要を誇る。
 その凄まじい経済成長と軍需は、アルヴァやリウォインですら無視できないものとなっていた。
 応接間には、三人の王が卓を囲んで座っている。

「書状は読んでいただけましたか?特にヘルガ様」

 エンディミオの無言の牽制をかわし、バスティアンは一人チェスで遊ぶヘルガの方を向く。

「書状は燃やして、ついで間者は鳥の餌にしてやったわ」

「読んで頂けたなら結構。ひとつ、試してみたいことがありまして」

「……金大猪王、お前を贄にして“忌まれし森”を召喚できるか、でしょう?」

 エンディミオは驚きに顔を上げる。てっきり王妃の預言を求めていると思っていたのだ。

「言ってしまうなら、できるわ。本当はアルヴァの王妃さまがいいのだけれど、甘ったれな夫がいるもので」
  
「白鷺王、何度も言ってやるが、我が妃を危険に晒すことは絶対に許さん」

「おほほ、もう言わなくて結構よ。私が何もしなくとも、アルヴァは神憑きを使い潰すでしょうし」

 睨み合う二人を、バスティアンが呑気に諌める。年長者の余裕というものか。

「まあまあ、お二人とも落ち着いて。ヘルガ様、召喚の儀式には時間がかかりますか?」

「場合によりけりね。今すぐ、やりたいのかしら……あん、負けた」

「できれば。こうして三人、集まることは滅多にありませんから」

 応接間には三人以外は誰もいない。
 内密な話ゆえに、衛兵もいないうえ、今ここに三人はいないことになっていた。
 確かに、このような状況はそうそう用意できない。

「待て、バスティアン。貴様は何を望む」

「簡単ですよ。“忌まれし森”を研究したいのです」

 ヘルガはほくそ笑んだ。巨大な力でしかない“忌まれし森”は、物質ではないのだ。活動を停止すれば、蔦と肉しか残らないだろう。
 バスティアンに促され、ヘルガはチェスを片付けた。一体、誰と勝負していたのだろうか。

「椅子と机を退かして頂戴。――そう、危うくなったら、即座にあの化け物は別の場所に飛ばすから。死ぬ覚悟はしなくてよくてよ」

 ヘルガが応接間の壁に立てかけていた、短槍を手にする。
 尖端の刃は黒耀石であり、ヘルガはそれで床を突いた。
  
 そして声なき声で詠唱する。

『我は裁きの刃の子にして母なり。我が求めるは、父にも母にも属さぬ力。来たれ、ムシュフシュ!』

 槍を起点に、白い光が部屋を包む。
 まばゆい光に手をかざすエンディミオに、バスティアンがひそやかに話しかけた。

「……もし、上手く事が運びましたら、見返りに我が国への教会の介入を止めていただきたい」

「やはりそんなものか」

「主要な鉄と銀の鉱山を買い取られました。
教会宗主は……あの男は、本気で全ての戦争を止めるつもりです」

「鉱山など、買い戻せ」

 サイーラは領土が狭い分、地下資源も少ない。殆どの原材料は輸入に頼っている。

「吹っかけられました。学校を増やせば、値下げないでもないと、嘗めた事を言われましたよ」

 バスティアンは苦々しく吐き捨てる。
 サイーラの識字率は異様に低く、民は殆どが武器を造る工場に従事している。
 それらが招く破滅を、エンディミオは知らないことはないが、わざわざ言うことでもない。
 愚かしい王と民の国は、間もなく歴史に屠られるだろう。

「次のあなた方の衝突の際には、陛下に着きますゆえ」

 魔女は呪いを解除したらば、すぐにも戦争を仕掛けてくるだろう。
 しかし、それはエンディミオも望むところであった。
 それまでは、王妃が呪い殺されぬよう、配慮せねばなるまいが――
  
 光の奔流が止むと、応接間は瞬く間に蔦に侵食された。
 自身に向かってくる蔦を、エンディミオは剣を振り抜き、切り落とす。

「お久しぶり“忌まれし森”」

 短槍を抜き、ヘルガは微笑む。
 バスティアンはゆっくりと森に近づき、交渉を始める。

 汚れて傷ついた、我らの腕。
 そして何の皮肉か、喜劇の仮面が装飾されている。
 まさに化け物と呼ぶに相応しい。これは人間には荷が重すぎる、とエンディミオは思った。

「さて、どうもはじめまして」

「にににくに.くに_くをう:つわ-をに/くをを!」

 なんと浅ましいのだろうか。
 犬でさえ、足るを知るというのに。

 “忌まれし森”に圧倒されていたバスティアンだが、すぐに冷静さを取り戻し、とんでもない発言をした。

「ひとつ、遊戯をしましょう。私たちがあなたから腕を切り離したら、腕を返していただきたい。
あなたが私たちのうち誰か一人を殺せば――私の心臓を差し上げましょう」

 しばしの沈黙。ヘルガの笑う声。
 そして、怪物の歓喜の鳴き声!

「いひっ/いひ=いいい.いよよ、喜ん・でうけ*る受〉けけよ←う」

 エンディミオは舌打ちし、剣を構えた。
 分の悪い殺し合いに巻き込まれたことに、今更気づいたのだ。
 向かってくる蔦を切り落としながら、黒獅子王は踏み込んだ。
  



 急速な浮遊感を覚えつ、フリードリヒは目覚めた。

「っ、陛下!」

 ふらつく頭と吐き気を堪えて起き上がる。

 直感で、エンディミオに危険が迫っていると理解した。
 立つには邪魔な大腿部の点滴を、乱暴に抜く。ひどく痛いうえに血が止まらないが、構ってなどいられない。

 案の定、床に転ぶが、四つん這いで進む。

「王妃様っ! 何をしておられるのですか!」

 医師が駆け寄り、フリードリヒの肩を掴む。
 侍女らは珍しく皆、引き払っているらしい。

「……どいて、くだ、さい……陛下が、危ない……んですー」

 制止の手を、弱々しく振り払う。
 医師はそれでも止めるかと思われたが、無表情になり、冷たい声で問い掛けをしてきた。

「そこまでする理由が、あなたにありますか?」

「……え?」

「あなたに暴力を振るう夫を、あなたの父を殺した魔女を、あなたは助けるのか?」

 まるで安寧に誘惑するように、医師は尋ねる。
 しかし、フリードリヒは迷うことなく、きっぱりと言い放った。

「僕、は……僕のしたいよう、に……するだけ、です。たかだか、他人が……口を、挟まない、でくだ、さい」

 苛立たしげに睨むと、医師は立ち上がる。
 そして深く礼をし、手で扉を指し示す。

「選択は成された。この先わたしの介入は無意味だろう」

「お、医者、さ、ま……?」

「行くがいい。人避けをしておいた。お前の行く道を阻む者はいない」
  
 訝しげに思いながらも、フリードリヒは扉を開けた。
 医師の方を振り向くが、彼は幻のように掻き消えていた。
 どころか、衛兵も侍女も、人っ子一人いやしない。

「……ケツァ、ルコア……トル、さま」

 苦しげに呼びかければ、翡翠は先行し、フリードリヒの行くべき道を示してくれた。
 壁を伝い、吐き気に苦しみながらも、フリードリヒは進んだ。ただひたすらに。




 蔦に右腕の肉をえぐられる。しかしかすり傷だと思い直し、剣を握り締める。
 蔦の動作は中々に早いが、それでも達人が槍を穿つ速度には、到底及ばない。
 “忌まれし森"自体は全く動けないらしく、それは幸運といえた。

 たしかにこの地が広大な森で、木々による死角があれば、勝ち目は薄い。
 しかし限定された空間で、おまけに開けた視界。たしかにヘルガの目論み通りだった。
 だがさらなる問題が、エンディミオを襲う。

「……っ」

 背後を見ず、勘だけで体を動かす。
 一瞬遅れて、短槍とヘルガの舌打ちがエンディミオのいた場所を突く。

 さらに嫌な予感がして、避けた動作でさらに床を転がる。
 銃声の後、今まで立っていた床が削れた。

「いやあすみません、手が滑りまして」

 バスティアンが最新鋭の長銃を手に笑っていた。
 三者それぞれが、誰かを殺しにかかっていた。
 もちろんエンディミオも、ヘルガを背中から切り付けたり、バスティアンの頭を蹴り上げたりはした。

 “忌まれし森”が可愛く見えるほど、王たちの悪意は深い。

(これでは、呪い云々より――)

 ヘルガの短槍を避け、足を掛ける。
 転ぶと見せかけた魔女は、短槍を捨て、器用にも床に手をつき、軽やかに転身。着地ついでに槍も拾う。

 埒外があかない。この調子では、体力の問題だ。恐らく、先に死ぬのはバスティアンの可能性が高いが。

 つと、応接間の扉が、がたりと鳴る。
 鍵は内側からかけており、開くことはない。そもそも、この部屋に三人が居ることを知る者は少ない。

 誰か、と声をかける前に、向こうから叫ぶような声がした。

「陛下! 陛下ぁっ!……いる、ので、しょう?」

 息も絶え絶えなその声を、聞き間違うはずもない。
 王妃フリードリヒだった。

「なっ……なぜ出てきた! 謹慎を言い渡したことを忘れたか!」

 扉越しに怒鳴りつける。しかし妃は、全く臆さない。どころか、反論さえしてきた。

「それ、は……あと、で謝罪、いたし、ますー……それ、より……開けて、ください」

「開けてはならないわ、黒獅子王」

 言われずとも、エンディミオは開けるつもりはなかった。
 さすがにこの状況で、軟弱王妃を連れて歩ける自信は無い。

 懇願の声が止んだ。
 戻ったか、とエンディミオが安堵の息をついた時、ふいにヘルガが焦りだす。

『風の流れ、調和の光、全ての心の臓を捧げるために生まれ、自らの火に焼かれて死ぬ者――』

「ちっ、やめろ! 小僧――」

『夢見る父の眷属――“翡翠の雪ぎ”を招致します!』

 あまりに理不尽な力に、エンディミオは扉ごと吹き飛ばされた。数秒遅れ、これは突風だと理解できた。
 応接間の両扉は蝶番ごと外れ、無惨にも床に転がる。

 バスティアンは銃口を下げ、部屋に入るフリードリヒを見守る。
 ヘルガは確信した。今槍を向ければ殺されると。
 この王妃はやるだろう。一切の迷い無く、神を使って。

 フリードリヒの大腿から流血を認めたエンディミオは、妻を止めようとした。
 が、フリードリヒは愛しい人に微笑みかけ、尚も歩んだ。

 そして三人の王を圧倒した、ただ一人の青年は“忌まれし森"の前で座り込む。

「……血が血/いっぱ>い出__てる!るいたい=たそう死/:んじ-ゃう.よう」

「でも、それが……生きて、いる証、です」

 呼吸が乱れる。血の臭気に胃液を吐いたが、それでも続けた。

「聞い、て……ください。あなたに与え……るものが、ひと、つ、あります」

 フリードリヒは少し膨らんだ下腹部に手を当てる。そして慈悲深い笑みを浮かべた。

「僕は……あなた、に会うために、生まれ、て……きたの、かも、しれ、ない」

 思わずそう口走ってしまうほどに、それは偶然だった。
  
「僕のなか、に……もうひとつ、ひとの、体がある……それを、あげます……だ、から、人の子として……生まれ、な、さい」

 その時“忌まれし森”に奔った感情は、親愛か、それとも感謝か。
 もし涙腺があったならば、化け物は滂沱と涙を流したろう。

「できます、よ、ね」

「あああ.!あ_うん>んうん→うん」

 何度も頷き、森は蔦を垂らした。
 王の両腕をフリードリヒの顔に伸ばし、優しく触れる。

 運命か因果か。最大の幸運は、ついにもたらされた。

「……ありがとう」


 “忌まれし森”は消えた。
 否、生まれ変わるのだ。フリードリヒは下腹部に触れ、安堵の息をもらした。

 と、同時に限界だった。目の前が真っ暗になり、眠るように意識が遠退く。


「フリードリヒ!」

 呼びかけたのは誰か、一瞬わからなかった。
 しかし自身を支える力強い腕に、フリードリヒはどきりとした。

「……陛下」

「無事、ではないな。ひやりとさせおって」

 まさかの言葉に、フリードリヒはこれは夢ではないかと疑った。

「陛下……へいか……どうか、許して、ください」

 仕方ないとはいえ、化け物を取り込んでしまったことは確かだ。
 次代が怪物の子など、弁明しようがない。
 首を切られても仕方ないか、と思った矢先、エンディミオはフリードリヒの後頭部を優しく撫でた。

「いや、助かった」

 それだけで充分だった。
 フリードリヒは堰を切ったように泣き出し、エンディミオに縋る。

 が、問題は山積みだ。

「ヘルガ様!」

 バスティアンが焦りの声を上げる。
 密かに近づいた魔女が、槍を王妃に打ち下ろさんとしていた。
 エンディミオが剣を取るが、間に合いそうにない――
  
「ぐっ!」

 苦鳴をあげたのはヘルガだった。
 短槍が床を転がる。女王の左腕を、矢が貫いていた。

「フリードリヒ様がおられないと、血の痕を辿ってみれば、まあ大惨事」

 応接間の入口で弓を下ろしたのは、アルヴァの軍服を着た老齢の女だった。
 人参色の短髪をかきあげ、軍人は剣を抜きながら部屋に入る。

 その姿をよく知るヘルガは、珍しく眉根を寄せ、あからさまに嫌がった。

「暴れ牛エリン……! 生きていたか」

「久しいな白鷺王。私はまだ、お前の首を諦めてはいないぞ」

 エンディミオは王妃の護衛に、エリッサ――暴れ牛エリン――を投入していた。

 エリンは、唯一その剣で白鷺王の首元を掠めた実績を持つ。
 そしてヘルガは、流れ矢に当たりながらも笑って剣を向けてくる暴れ牛を苦手としていた。

「ちっ、暴れ牛がくたばってから出直すか」

「その前に殺すさ、必ず」

 白鷺王は難なく短槍を拾う。痛みを感じていないかのように、血を止めようともしない。

「……ふう、私も客間に戻りますよ」

「ああそうだ、金大猪王。貴様が次の戦争での力添えをすること、覚えておこう」

 エンディミオはわざと、皆に聞こえるよう大声で言い放つ。
 ヘルガは美しい微笑を見せ、冷や汗をかくバスティアンに近づく。恐らく、あれこれと詰問されるだろう。

「エリッサ……かっくいー」

 相変わらず空気の読めないフリードリヒが、侍女を褒める。

「お褒めにあずかり光栄です。それよりフリードリヒ様、そのはしたない格好は何です!」

 寝室にいたため、王妃は軽装どころか、寝巻のままだった。
 さらに大腿に点滴をしていたうえ、下の世話の都合もあって、実は穿いてない。

 今さらそれに気づいたフリードリヒは、耳まで真っ赤にして俯く。まさか見えちゃったりしてないだろうか。一歩間違えれば、ただの露出狂――

「そんなことと思いました。さあ、お部屋に戻りましょう」

 エリッサが敷布をかけ、フリードリヒを横抱きに運んだ。




 寝室に戻るなり、エンディミオの説教が始まった。

「謹慎を破り、あげく危険に身をさらすとは。自身の置かれている地位を考え直せ」

 頬を殴られた妃を、侍女らは陰から見守っていた。
 王妃さまお可哀相、泣いたらどうしましょ、とりあえずお菓子の用意を、と話し合う。

 だが意外にも、フリードリヒは反論した。

「謹、慎を……破ったこと、は……いかよう、にもー、お裁きを……けどぉ、陛下、こそ……わたくし、にぃ相談もー……なしに“忌まれし森"と、接触、して……」

「……それは、だな」

「わたくしにー、期待を、しても……よいか、と、おっしゃった……では、ないですかー。
それ、ともー、ヘルガ様を……信用……なさるの、です、か……?」

 畳かける言葉に、さしものエンディミオも、理不尽に暴力を振るうわけにもいかない。

「……すまなかった」

 ばつが悪そうに謝るエンディミオを見て、フリードリヒは満足げに頷く。

 一方侍女らは、あの暴虐王が謝った!と騒ぎ出した。




「ヘルガ様、やりすぎですよ。“忌まれし森”は昇華されたではありませんか。
百年以上にもわたる悲願が成されたのですよ」

 あからさまに不機嫌な女王を、バスティアンは諌める。手首を貫通する矢を抜いてやりたいが、この魔女は他人に触れられることを嫌がる。

「間者は偽物、そしてお前は王妃が死なないよう手を回しにきたのか」

「ええまあ、此度の神憑き様こそ、うまくいきそうだと主の命でして」

「ならばさっさとあの牛を処分しろ」

「いや~何度もやっているのですが……」

 空気が異様に冷たい。これはまずいなとバスティアンは逃げる算段をつける。

「あのー、ちょっといいかな。おじいちゃんの結界から勝手にムシュフシュを出したのって――」

 つと、柱の影から少年の声がかけられる。衛兵に見つかれば大事だからと、全く姿を現さない。

「もう終わったぞ。“忌まれし森”はケツァルコアトルの契約者によって昇華された」

 ヘルガは目線も合わせず、ぞんざいに言葉を投げた。
 バスティアンだけは、声のほうに向かって深々と頭を下げ、すみませんね~となだめる。

「えっ、えっ、えー! なに勝手なことしてんのー! ていうか聞いてないんだけど!」

「いやたしかに森の賢者様にお伺いを立てるのが筋というものでしたが、なにぶん事態が急でしたもので……」

「僕に伺いなんていらないけど、いつの間に結界に裏口つけてたんだよお、もう」

「気づかない方が悪い」

「ほんとそういうとこ……もういいよ、昇華に問題はないみたいだし……うん、他の神様たちも納得すると思う」

「そんなものに振り回されているから、後手に回る。魔女ならば好き勝手すればいいだろうに」

「あなたのように生きたくはないんだよ。じゃあね」

 声の主も、邪悪な女王を苦手としているようだ。気配すらつゆとかき消え、いずこかへ去ってしまった。







 王宮の執務室では、いつものように仕事が行われていた。

 しかしエンディミオ一人がペンを動かすのみ。
 宰相は所在なげに珈琲をすすり、書類を確認する大臣や文官らは落ち着きのない手つきで仕事をし、時たま書類を落とす。

 つと、慌ただしい足音が聞こえてくる。
 足音の主は間もなく、乱暴に執務室の扉を開けた。伝令だった。

「陛下、朗報です! 無事にご出産なされました!
ああそれから、御子は両の腕を備えております!」

 執務室が沸いた。
 大臣たちは何故か抱き合い喜び、奇跡だと叫ぶ。
 ダイケンが長い息をつく。腕を備えているかよりも、まず無事に生まれるかが懸念だった。

 密かにエンディミオは笑んだ。まさか本当に、呪いを解除するとは。

 喜びもつかの間、もう一人伝令がやって来た。

「た、たたたいへんです!」

「なんだ、腕が取れでもしたか」

 別にそれでも構わないが、と言おうとしたが、伝令の報告は、それ以上の衝撃を与える。

「御子は双子です! それも、男女の!」

 ダイケンが珈琲をぶふおと吹き出し、エンディミオはペンを取り落とした。
 インクや珈琲が書類にかかるが、誰も気にしてなどいられなかった。

 何世代にも渡り、王家は兄弟親戚の類が失われていたのだ。
 王妃は呪いを悉く打ち破り、次の世代への新しい扉を開いた。
 敬謙な信者でもないくせに、大臣や文官らは泣いて祈りはじめた。

「さすがにそれは――」

 都合が良すぎやしないか?とは、この空気では言えなかった。
  


 失われた意識の中、フリードリヒは最後の夢を見た。
 結局、普通に分娩は不可能らしく、医師はいい笑顔で切開しますと宣言した。
 いやいや心の準備が、という間もなく、麻酔をかけられた。


 久しく、フリードリヒは境界にいた。
 誰もいないが、ケツァルコアトルが出産に耐えうるよう、フリードリヒの体を守っていたのは理解していた。

「ケツァルコアトル様」

 呼びかければ、背後から白い腕と翠の蛇が、フリードリヒを抱きしめた。

「……?」

『よく頑張りましたね。わたしの使命を達成していただき、感謝します。
これで、世界は次の段階へ進みます』

 様子がおかしい。ケツァルコアトルは真面目であり、こういった悪戯めいた接触はしない。

『契約は終了。お別れです』

 無理矢理振り向き、フリードリヒは愕然とした。

 ケツァルコアトルの頭部にある三対六本の角、そのうち左二本が無残にも折れていた。

「な、な、なん、で」

『……あなた方に憑いたことにより、傷つけ、人生を狂わせた。その報いです』

「そんな……元は人がしたことなのに、どうしてケツァルコアトル様が報いを受けるの?」

『人を傷つけた場合、たとえどのような理由でも、角を折られて力を失います。
ただし、人がわたしたちを使った場合は、その限りではありません』
  
「でも、だからって……」

『これは最初から決まっていたのです。おぞましき力が人の脅威になると定まったあの時から。――あなたが命を賭すように、わたしも全存在を賭けた。それだけのことです』

 フリードリヒが神をいかように責め立てても、ケツァルコアトルはこの事実は決して明かさなかった。
 知ればフリードリヒに迷いが生じると、神はただ一個の道具として在りつづけた。

「嫌です。本当は、ずっと一緒にいてほしい」

 無二の親友であり、意志を共有する兄弟であり、導いてくれる父である存在。

 ぐずつくフリードリヒを優しく撫で、ケツァルコアトルは言い聞かせる。

『あなたには、愛しい伴侶がいる。大切な家族がいる。支えてくれる人々がいる。そしてあなた自身の意志がある。
人はわたしたちがいなくとも、歌いつづけます』

 大いなる調和の神は、青年の頬に口づける。
 フリードリヒも、親愛の情を持ってそれを返した。

『あなたに受け入れてもらえて嬉しかった。ありがとう』



 目を覚ますと、夜も更けていた。
 いかほど眠ったのか、聞く相手もいない。

「……」

 フリードリヒは呼びかけようとしたが、無駄だと理解し、やめた。
 異様な眠気はもう無い。産後の怠さと、覚めた頭が、ただ虚しい。
 フリードリヒはこの喪失感が埋まるまで、ひたすらに泣いていた。
  






 神憑きではなくなってから数日。
 フリードリヒは術後の経過を見るため、いまだ寝台の住人だった。

 腹を見ると縫い付けた痕があり、ぞっとしたものだ。
 しかしあの医師は、切開手術法そのものを生み出した人物らしく、医療の世界では聖人扱いだと、看護師が言った。

 そして散々世話になった医師本人は、出産までの契約だったようで、別の現場へ去ったとか。

 しかし、フリードリヒは体の痛みよりも深刻な悩みを抱えていた。

「寝れ~ん」

 昼寝しすぎて夜眠れないという、当たり前の事態に戸惑っていた。
 眠れば一日が終わった日常とは違う。
 今は退屈を紛らわす方法を考えねばなるまい。

 侍女が明かりを残してはくれたが、本を読めるほど文字を勉強しておらず、動けるほどに回復もしていない。

 点滴の管が許す範囲で、寝台の上を転がっていると、かちかちと鳴き声。カササギだ。
 そういえば、とフリードリヒは考えた。
 境界でヘルガと対峙した時に見たカササギは何だったのか。神には違いないのだろうが――

 鳴き声は、寝台近くの鏡台の方からだった。
 鏡の側で、カササギが鳴いている。

 いや待て、何かがおかしいと、フリードリヒはゆっくり起き上がる。

 カササギは飛んでいった。それで違和感の正体が判明した。
 鳥は鏡の向こうにいた。実物ではなかった。
  
(まあ神様だし)

 フリードリヒは、ちょっとやそっとでは驚かなくなっていた。感覚が麻痺している。

「なんだつまらん、もう少し驚いてみせろよ」

 聞き慣れない声がした。
 フリードリヒは今度こそ悲鳴を上げた。
 鏡像のフリードリヒが喋り、笑っている。

「な、な、な」

 鏡の中のそれは、ゆっくりと鏡面から抜け出した。
 鏡台に置いている化粧品や装飾品をがしゃがしゃと落とし、床に足をつく。
 何もかもがフリードリヒと同じであったが、鏡であるからか、結婚腕輪をつけている位置が逆であった。

「えっと……かささぎ、さん?」

「そうだ、別に初対面というわけでもない」

 姿が歪む。とたんに、あの医師に変わった。

「お、医者様……て、まさか!」

「察しがいいのは好きだ。
わたしはテスカトリポカ。ケツァルコアトルの使命を阻害し、監視する役割を持つ。まあいわば、調整役だな」

「監視、て……いつから」

「いつからだと?最初からだ」

 テスカトリポカは再び姿を変えた。
 幼い頃から世話をしてくれた、ロメンラルの召使いだった。

「え、あ、うそぉ?」

 もちろん、この召使いはエンディミオに初めて会う時にも一緒にいた。
 あれもこれも、神がしてくれたと考え直すと、恐れ多い。

「わたしは人を介さず、現世に顕現できる。鏡に映った者に成り代われるのだ」

 どうだすごいだろう、と侍女の姿をした神が踏ん反り返る。
  
「んと、テスカトリポカ様。僕に何かご用でしょうか?」

 まさか本当に、自慢だけをしに来たわけではあるまい。
 そう言うと、テスカトリポカはようやく、本来の姿を見せた。

 鍛え抜かれた体躯。黒耀石の鎗と鏡の盾を持ち、その肌は石炭の乾留液を塗ったようにどす黒い。
 左足は鏡の義足に置き換えられ、また顔の右半分は潰れていた。その代わり、肩に装備された鏡が右目を映す。

『単純なことだ』

『お前があまりに気に入った』

『この国は軍事国家だろう?』

『ならば争いを司るわたしと契約するがいい』

 みっつの鏡に映ったテスカトリポカと、本体が一斉に喋り出した。
 “忌まれし森”に勝るとも劣らぬ、化け物と呼ぶに相応しい様相。

 フリードリヒは後ずさるが、テスカトリポカはなおも迫る。
 四白眼の深紅の瞳に、目を離せない。

「いえ、結構です」

 震える声で断った。今ここで契約をすれば、ケツァルコアトルを裏切ってしまう気がしたのだ。
 テスカトリポカは青年から離れ、考えるそぶりを見せる。周囲の鏡が囁き合う。

『気が変わった』

『いずれ、必要とする時が来る』

『それまでわたしが待てるかは、疑問だがな』

『まあいいじゃあないか。これも世界の導き』

 どうやら見逃してくれるものらしい。
 テスカトリポカは鵲に変体し、喧しく鳴きちらして飛び立った。

 とはいえ、諦めたとは到底思えない。
 今後も断り続けなければならないと考え、フリードリヒは目眩を覚えた。
  



「何を寝ぼけている」

 夢を見ていたらしい。寝台から落ちていた。
 エンディミオに抱えられ、フリードリヒは目を覚ました。

「陛下、ど、どうされましたか?」

「様子を見に来ただけだ。これはそなたの物か?」

 エンディミオが床に落ちていた小さな鏡を渡す。
 黒耀石を磨いた鏡であるが、曇っており、何も映さない。

(あれ、夢じゃなかったのか)

 フリードリヒは鏡を受け取り、枕元に置いた。
 二人並んで、寝台に座る。

「陛下、御子が双子というのは、本当ですか? わたくしはまだ、ちゃんと見ていなくて」

「私も信じがたいが、事実だ。しかも男女のな」

 民衆からは、王の子ではないのでは、という声もあるが、それはフリードリヒの知る所ではない。

「お名前、決まりましたかー?」

「ああ、男はルートヴィヒ、女はエバ」

「わー、早くお目見えしたい」

「……そなた、異常なまでの眠気はどうした」

 痛い所を突かれたが、いずれはばれる。
 しかし、神を宿していないと知れれば、フリードリヒの価値は失墜する。

「んと……その」

「まあいい。面倒が減るだけだ」

 王の発言に、ひどく驚く。
 フリードリヒは神があればこそ、の存在なのだ。

「陛下、そのぉ……」

「何を勘違いしているか知らぬが、そなたは教会のものではなく、私の妻で、この国の王妃だ。それに文句を言う者はおるまい」
  
「え、はひっ」

 エンディミオの手が、フリードリヒの頭に伸びる。ただし叩くのではなく、乱暴に撫ぜた。
 ただ気恥ずかしいだけで、痛みは何もない。

「あの、陛下」

「何だ」

「あの時は、好きじゃないと言ったけど、本当は――」

 エンディミオは言わせまいと、容赦なく相手の口を手で塞ぐ。
 嘲笑うかのような笑みを浮かべ、黒獅子王は妃の耳元で囁いた。

「愛している、フリードリヒ。我が妻よ」

「え……あ、あ、うそ」

 フリードリヒは混乱した。かの暴虐王が、愛を囁くとは。
 今まさにこの瞬間が、夢ではないかと不安になるほど。

「嘘かと疑うはこの口か、え?」

「あぅぐ、いひゃいいひゃい、ふみまへん」

 唇が裂けるのではないかというほど、口の端を引っ張る。
 いたぶる事が楽しくて仕方ないらしい。我が儘な王は、満足げに笑う。
 ああ、これがこの人の愛情表現だと、フリードリヒは改めて感じた。

「ぅ……わ、わたくしも、愛しております。エンディミオ様」

 おずおずと、王の右腕に触れる。
 エンディミオは妻の白い顎を掴み、ごく自然にフリードリヒの唇にくちづけた。




 こうして、乱暴な王様と、普通じゃない王妃様は、ふたりの子としあわせに暮らしましたとさ。
 これはひとつの神話として、ながく語られることでしょう。

 めでたし!

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